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大洋の帝国  作者: 甲殻類
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どくそせん



 どくそせん



 1941年6月22日、ドイツ軍の160個師団総兵力350万が4,000kmにも及ぶソ連国境を一斉に突破。

 運命の独ソ戦が始まった。

 ドイツ空軍の航空撃滅戦で始まったバルバロッサ作戦はほぼ完璧な奇襲を成功させ、開戦から48時間でソビエト空軍機およそ5,000機が地上撃破された。

 この大戦果をゲーリング国家元帥は容易に信じられず、部下に何度も確認させたという。

 この損害が事実であるのなら、ドイツ空軍にとって東部前線の戦いはもはや終わったも同然だったからだ。

 ソビエト空軍は壊滅したのである。

 事実、ほぼ絶対的な制空権を手中に収めたドイツ軍は快進撃を続け、4週間足らずでドイツ軍は国境から700kmの前進に成功し、ソビエト軍はほぼ総崩れとなった。

 これほどまでに一方的に戦いになったのは、ソビエト軍の準備不足が大きかった。

 スターリンはドイツ軍の戦争準備には気づいていたが、それは独ソ同盟締結のレートを釣り上げるためのブラフだと考えていた。

 ヒトラーとスターリンはヨーロッパの双璧を成す独裁者としてどこかシンパシーを感じているところがあった。

 これを各国の外交関係者は、


「残酷なラブロマンス」


 と称したが、そうであるが故にヒトラーの裏切りはスターリンとって想定外だった。

 また、そうした感情的な理由以外にも、スターリンはヒトラーと対決したくない理由があった。

 自国軍があまりにも弱すぎるからだ。

 1939年11月のフィンランド侵攻、冬戦争における赤軍の大苦戦を見るとおり、ソビエト軍はスターリンによる大粛清によってガタガタの状況だった。

 経験豊富で有能な赤軍将校ほどスターリンに危険視され、赤いナポレオンとまで称されたミハイル・トゥハチェフスキー元帥まで銃殺される始末だった。

 その後も軍組織に対するスターリン或いは、スターリンに過度に忖度した秘密警察による虐待は続き、有為な人材を無為に失う愚行を繰り返していた。

 赤軍将校の45%が死亡したスターリンの大粛清は冬戦争の大敗によって小康状態となったものの独ソ戦のその日まで続いており赤軍将校の多くが強制収容所でドイツ軍の奇襲攻撃を知ったほどであった。

 スターリンは独自に戦争準備を進めていたが、装備の数はともかく、それを扱う将兵がスターリン信奉者である以外は何ら能力のない無能ばかりでは到底、英仏を一蹴したドイツ軍には太刀打ちできるものではない。

 それが分かっていたからこそ、スターリンはヒトラーとの同盟強化を熱望していた。

 独ソ同盟が完成すれば、その輪に合衆国も参加し、米独ソによって世界を分割統治する計画だったと考えられている。

 スターリンはロシア人の悲願である不凍港を得ることを悲願としており、満州や朝鮮半島侵攻は既定路線だった。

 そのために米ソの連携(というよりは、合衆国海軍は日本海軍を殲滅すること)が必要であり、その時に備えて背後の安全を固めておきたかった。

 スターリンはドイツが戦争遂行する資源をもっぱらソ連に頼っている事実を掴んでおり、そであるがゆえに石油などの各種鉱物資源を供給していれば、ヒトラーを手懐けられると考えていた。

 実際に、奇襲攻撃開始のその日まで独ソ国境を西へ向かう資源輸送列車が多数、運行されていたぐらいである。特に多かったのは石油輸送列車であった。

 だが、ヒトラーは国家経済を維持するために必要な各種資源をスターリンの手に委ねるつもりはさらさらなく、スターリンの隙を突くことに何の躊躇もなかった。

 片思いの代償は大きく、ドイツ軍の奇襲でソビエト軍は壊滅的な打撃を受けた。

 ソ連、或いはスターリンの存亡の危機であった。

 だが、そんな話は日本にとってはどうでもいいことだった。

 重要なのは、ソビエト軍が満州になだれ込んでくる可能性が完全消滅し、戦略的なフリーハンドを得たことである。

 特にこれまで満州に貼り付けを余儀なくされていた地上戦力が自由に動かせることは大きかった。

 1941年6月時点において、満州に貼り付けられていた日本陸軍の地上戦力は総兵力100万、45個師団。航空機3,000機、戦車、自走砲5,500両、火砲16,000門(迫撃砲含む)に達していた。

 ちなみに、同時期の本土やフィリピン、マリアナ諸島、パラオや北千島といった最前線に配置されていた兵力は、合計しても20万に達しない。

 いかに帝国陸軍がソ連を、或いはロシアを恐れていたかが分かるだろう。

 ちなみにこれ以外にも歩兵主体の満洲国軍72万と日本から供与兵器で機械化を推進中の韓国陸軍50万が満州と朝鮮半島にいた。

 スターリンがヒトラーと危険な同盟を指向するには十分な兵力といえる。

 帝国陸軍の恐怖はスターリンの鏡写しのようなものだった。

 ちなみに上述の戦力は、帝国陸軍のものであり、海軍戦力はカウントされていない。

 もちろん日本第3の軍である海援隊も除いた数値である。

 独ソ戦勃発が一大センセーションとして、世界を駆け巡った後、各国の軍事関係者が日本軍の動向に注目したのは当然の成り行きといえた。

 そのための海上戦力も整いつつあった。

 トラック奇襲で連合艦隊が壊滅した後、帝国海軍は戦時緊急建艦計画を立て、各地の造船所をフル稼働させて艦艇の建造に邁進していた。

 開戦から28ヶ月を経て、その全てではないものの多くの大型艦艇、主力艦が就役し、艦隊に加わっていた。

 特に母艦航空戦力は海軍の新たなる主力として重視され、翔鶴型空母1番艦「翔鶴」、2番艦「瑞鶴」には大きな期待がかけられた。

 翔鶴型空母は、飛龍型の拡大発展させたもので、赤城型から続く日本式空母の一つの完成形だった。艦載機数は100機に達しており、これは日本型空母としては最大最強である。

 基準排水量は27,000tに達し、大和型で実用化された蒸気タービンとディーゼルエンジンの複合動力推進を採用。大型の油圧カタパルトや新型の着艦制動装置が装備された。

 もちろん、飛行甲板は難燃化処理され、タービンロケット機の運用も可能だった。

 ただし飛行甲板の装甲化は見送られた。

 そのため250kg爆弾一発で無力化される危険性はそれまでの空母と変わらず、帝国海軍は翔鶴型の建造を2隻で切り上げ、同盟国のイギリス海軍との技術交換で得たイスラトリアス級装甲空母の技術を参考にした33,000t級の大鳳型空母建造に向かった。

 大鳳型1番艦「大鳳」、2番艦「神鳳」の就役は、1942年の予定である。

 それまでの間、帝国海軍唯一の装甲空母として君臨したのが空母「加賀」である。

 1941年5月11日、トラック奇襲で大破した加賀は空母改装が完了し、空母「加賀」として再就役した。

 加賀は空母化の際に徹底的に手が入っており、装甲空母として復帰した。

 参考となったのは大鳳型と同じくイギリス海軍の空母イスラトリアス級で、同級と同様に飛行甲板の前後2基エレベータ間に設けられた格納庫を装甲ボックス化し、その天蓋を飛行甲板にそのまま利用したもので、1,500tにおよぶ重構造だった。

 500kg爆弾の直撃に耐えるとされているが、耐えるのは格納庫直上のみであり飛行甲板の前後はトラス式の軽構造となっており、爆撃には耐えられない。

 二層の格納庫を備え70機を運用可能だったが、格納庫の天井が低く新型機は運用不能など、イラストリア級が抱えていた発展性の無さもそのまま承継していた。ただし、それが問題となったのは戦後のことであり、零戦や九九式艦爆、九七式艦攻を運用するなら十分だった。

 空母加賀の就役は帝国海軍の回復の象徴であり、就役時のセレモニーには戦時下でありながら可能なかぎり一般市民の参加や報道陣による取材が許可された。

 戦艦時代の加賀は、土佐と共に連合艦隊旗艦を交代で務めたことから知名度の高い船であり、その復活は歓呼の声で迎えられた。

 一部の海軍関係者は戦艦時代の威容を失った空母加賀に落胆を示したが、一般市民や新聞報道は好意的だった。

 その日の横須賀新報の社説は、


「加賀が帰ってきた。どんな姿になっていても、私達が加賀を見紛うことはない」


 と述べ、岸壁で吹奏された「加賀岬」についても言及している。

 トラック奇襲で損傷した扶桑、山城、伊勢、日向もまた加賀の就役の後、空母として再就役している。

 ただし、陸奥の爆沈に巻き込まれた加賀と異なり、上部構造物の損壊が軽度だった扶桑型や伊勢型は加賀のような装甲空母化は見送られた。

 飛行甲板はこれまでと同じ非装甲式の軽量トラス構造であったが、格納庫側面を解放式にしていることが新しかった。

 これは工作を容易にして、短期間に空母へ改装するための措置だった。

 ただし、防御上の利点は大きく、格納庫甲板が戦艦時代の上甲板であり、14インチ砲弾を弾く強固な装甲があった。例え格納庫内に1,000ポンド爆弾が突入しても格納庫甲板は貫通不能であり、爆風は解放された側面から逃げるので船としての生存性は極めて高くなる。

 同様の構造は米海軍の空母に既に採用されており、空母エンタープライズなどは不気味なほど高い生存性を誇っていた。

 エンタープライズはサラトガ共に開戦以来、幾度も損傷と戦線復帰を繰り返しており、そのタフネスぶりは、敵である帝国海軍からも畏怖と尊敬を集めるほどだった。

 半世紀後のネット空間においてさえ、


「あれは攻略不可能キャラじゃないか?」


 と揶揄されるほどの異能生存ぶりを誇り、太平洋戦争を生き抜くことになる。

 話がやや逸れたが、扶桑型、伊勢型は開放型格納庫の他に、帝国海軍の空母として初めてサイドエレベーターを採用した船でもある。

 こちらも使い勝手の良さから、以後の建造された帝国海軍の空母には標準装備となった。

 大型の油圧カタパルトや新型着艦装置も加賀と同様に装備され、タービンロケット機の運用も可能だった。

 扶桑型や伊勢型は戦艦時代は25ノットが限界だったが、主砲の撤去によってようやく機関増設が叶い、加賀型と同様に28ノットを発揮した。

 加賀、扶桑、伊勢、日向、山城の順番でほぼ毎月1隻ずつ空母が増勢し、月刊空母については戦時急造空母の雲龍型に引き継がれた。

 雲龍型は元は海援隊が建造する予定だった商船構造の簡易空母であり、装甲は皆無だが船体は翔鶴型に匹敵する大型艦だった。

 雲龍型はじゅんようの発展型で、設計にイギリス海軍が協力しているためか、日本空母よりもイギリス海軍の空母に似たデザインだった。

 雲龍は水面から傾斜した艦首まで航空機格納庫がせりあがるエンクローズド・バウと呼ばれる形状をアークロイヤルから受け継いでいた。

 雲龍型のエレベーターとカタパルトは各2基である。機関はオールディーゼル推進で最高25ノットだった。

 27,000tの翔鶴型に匹敵する大型艦だが、基準排水量は13,500tであり、これは装甲が皆無であることが大きく、弾薬庫や燃料タンクにさえ装甲がなかった。

 そのため間接防御や応急修理に力点が置かれており、装甲皆無の割には生存性が高かった。

 艦載機は48機で船体規模の割に少ないのは、格納庫が単層式であるためである。

 そのため格納庫を2層式にすることが検討されたが、天井が低くなりすぎるため中止された。これは英断であった。

 二層式格納庫であるため、天井が低く大型化した艦載機の運用ができない翔鶴型や大鳳型が比較的早期に退役を余儀なくされたのに対して、雲龍型は60年台半ばまで運用が続くことになったのである。

 この他に水上機母艦として建造中だった瑞穂や完成済の千代田、千歳も空母化改装を受けて艦隊に加わっている。

 この他に空母化改装の候補として艦隊型給油艦や潜水艦母艦もリストアップされたが、トラック奇襲後の潜水艦作戦の拡大で沙汰止みとなっている。

 艦隊型給油艦についても空母機動部隊に随伴できる高速補給艦の必要性が認識され、空母化は検討にとどまっていた。

 1941年6月時点の帝国海軍の大型艦艇は以下のとおりである。


BB(戦艦):6隻

大和型:大和 武蔵 信濃 甲斐 駿河

加賀型:土佐

*全ての艦が対空砲火を増備しており、長10サンチ高角砲や37mm機銃といった新世代の防空兵器で固めている。

*大和型6番艦「相模」は1941年10月就役予定。

*大和型7番艦「越後」、8番艦「尾張」はそれぞれ1942年3月に就役予定。


CV(航空母艦):6隻

赤城型:赤城

加賀型:加賀

飛龍型:飛龍 蒼龍

翔鶴型:翔鶴 瑞鶴

CVL(軽空母):3隻

瑞穂型:瑞穂

千歳型:千歳 千代田

安土型:安土、伏見、清須、江戸、平戸、犬山、熊本、松本

*扶桑型2隻、1941年6、7月就役予定

*伊勢型2隻、1941年8、9月就役予定

*雲龍型は1~12番艦まで建造中。1番艦「雲龍」の就役は1941年10月予定

*鳳翔型は練習用として除籍している。

*安土型は海援隊のトキ型航空護衛艦を採用したもの。城塞の名前をつけられている。対潜掃討部隊や後方支援、上陸支援に使用される。


 対するアメリカ海軍もまた開戦後に着工した大型艦艇を続々と就役させており、戦力の増強が著しかった。

 開戦前に着工していたアイオワ級戦艦は4隻が就役し、2隻が既に進水していた。

 さらに大和型の対抗艦であるモンタナ級戦艦5隻が建造中で、1943年中に全艦が出揃う計画だった。

 大和型を完全に打倒すべく、「100,000tの狂気」超重戦艦ユナイテッド・ステーツ、コンステレーション、コンスティチューションも1941年に起工され、1945年に就役予定だった。

 トラック奇襲で多数の戦艦を航空攻撃で沈めたアメリカ海軍だったが、未だに戦艦を海軍戦備の中心と位置づけており、正面から大和型を打倒することを最重要課題としていた。

 空母戦力も増強が続き、空母ホーネットが艦隊に加わり、開戦後に起工したエセックス級空母も4隻も完成し、建艦競争で日本海軍を圧倒する勢いだった。

 アメリカ海軍太平洋艦隊の主要な戦力は以下のとおりである。


 BB(戦艦) 14隻

 アイオワ級:アイオワ、ミズーリ、ニュージャージー、ウィンシスコン

 ワシントン級:ワシントン

 テネシー級:テネシー、カリフォルニア

 ニューメキシコ級:ニューメキシコ、ミシシッピ、アイダホ

 ペンシルベニア級:ペンシルベニア、アリゾナ

 ネバダ級:ネバダ、オクラホマ

 *アイオワ級5番艦ケンタッキー、6番艦イリノイは1942年8、10月就役予定

 *大和対抗艦であるモンタナ級は5隻建造中、就役は1943年から

 *ユナイテッド・ステーツ級(105,000t級/20インチ砲)は1945年に就役予定


 CV(空母) 7隻

 サラトガ級:サラトガ

 ヨークタウン級:エンタープライズ

 改ヨークタウン級:ホーネット

 エセックス級:エセックス、レキシントンⅡ、ヨークタウンⅡ、イントレピッド

 CVL(軽空母):6隻

 インディペンデンス級:インディペンデンス、プリンストン、ベロー・ウッド、

            カウスペンス、モンテレー、ラングレー


 開戦後に起工した空母が多数就役し始めており、隔月刊のペースでエセックス級と月刊でインディペンデンス級空母が増えていく計算だった。

 帝国海軍は雲龍型を月刊ペースで建造していたが、基準排水量13,500tというのはインディペンデンス級軽空母とほぼ同等(劣るという評価もある)であり、大型正規空母の量産化など望むべくもなかった。

 安土級(トキ級航空護衛艦)もまた月刊ペースだったが、米国はこれを週刊のペースで建造しており、生産力の差は歴然としていた。

 マリアナ沖や北太平洋で消耗した空母機動部隊は完全に復活したどころか、今後ますます戦力を増強させていくのである。

 小型艦艇の生産数についても同様であり、ほぼ毎日フレッチャー級駆逐艦が就役していた。

 帝国海軍においてこれに相当するのは甲型(陽炎型、夕雲型)となるが、高価な甲型の大量配備は不可能であるため、性能面で妥協した丁型駆逐艦(松型)の整備を行っていた。

 丁型駆逐艦は必要最低限の能力をもつ艦隊型駆逐艦であり、取得可能性の高さから日本の生産力でも毎日1隻ペースで建造が可能で、合計300隻以上が建造されることになったが、攻防性能ではフレッチャー級に劣るものだった。

 電子戦装備や航空技術などの技術的な優位は大きなものがあったが、日米が数的に均衡状態にあるのは1941年中のみで、1942年以降は数的劣勢が拡大していき、1943年には完全に突き放され、1944年には絶望的なまでに拡大する見込みだった。

 日本政府首脳部は日米の生産力差を痛感しており、戦いの主導権を握らないかぎり、米国の生産力の前に日英同盟は窒息させられると考えていた。

 特に米独防共協定成立は、日英政府に非常の決断をさせることになる。

 




 アメリカ合衆国の外交方針が、明確に独伊枢軸へ傾いたのは1940年9月以降のことだった。

 北太平洋での戦いが散々な失敗に終わった後のことである。

 それ以前からも、敵の敵は味方という古来からの戦争原理に従って、敵(日本)の味方であるイギリスと敵対するドイツと合衆国は友好関係を結んでいた。

 特に日英の海軍力で両大洋から包囲されていた合衆国は、ロイヤル・ネイヴィーを牽制できるだけの海軍力をドイツが持つことを臨んでおり、太平洋戦争以前からドイツの海軍拡張に様々な便宜を図っていた。

 残念なことにそれが結実する前に戦争が始まってしまったことから、ドイツ海軍は消極的な役割しか果たせていない。

 それでも、取引のレートを釣り上げることしか考えていないスターリン・ソビエトよりもよほどヒトラー・ドイツは合衆国にとって話が分かる相手だった。

 ソビエトは、北太平洋の戦いで米軍が敗れるとアメリカが秘密裏にすすめていた対日参戦交渉を引き伸ばしにかかり、冬の訪れと共に米ソ交渉は暗礁に乗り上げることになった。

 冬眠に入った熊のように動かなくなったソビエト外交に苛立った米国は、北アフリカでのドイツ・アフリカ軍団の活躍に目を奪われることになる。

 砂漠の狐、エルヴィン・ロンメル率いるドイツ・アフリカ軍団は芸術的な機動戦でMSFを翻弄し、ルフトヴァッフェはクレタ島の戦いで海援隊の護衛艦隊に大打撃を与えた。

 自国の軍隊が苦杯を舐め続けているときに、それを舐めさせた日本軍を叩きに叩いていたドイツ軍とロンメルの活躍は、アメリカ人の心を掴むことになる。

 北アフリカには悪名高いドイツの一般親衛隊も展開しておらず、ロンメルは捕虜を人道的に取扱っており、その騎士道精神もまた合衆国のロンメル人気に一役買った。

 実際、ロンメルと相対する北アフリカのイギリス軍や海援隊のMSFもロンメルの存在は別格と考えており、その精神性と天才的な采配には尊敬の念を抱いていた。


「ロンメルを使って、日本軍を叩くことはできないか?」


 とルーズベルト大統領が漏らした呟きは、すぐにベルリンに届いた。

 何しろ、第3期を迎えたルーズベルト政権は、陸軍長官にチャールズ・リンドバーグを迎えていたからだ。

 リンドバーグの陸軍長官就任は日英の鋭い警戒を呼ぶことになった。

 何しろ、リンドバーグははっきり言ってしまうと思想的には完全にナチだったからだ。

 リンドバーグは強烈な反ユダヤ論者であり、戦前からナチス・ドイツと強いコネクションを持っていた。アメリカ版ナチスともいうべき銀シャツ党やKKK団とも関わりがあった。

 また、リンドバーグは秘密を保てない人物でもあり、大統領のつぶやきはリンドバーグの友人を通じてベルリンにも届いた。

 ルーズベルトの呟きに、ヒトラーは狂喜乱舞したという。

 米ソ交渉が暗礁に乗り上げる中、米独交渉は著しく進展し、1941年3月1日には米独防共協定が締結されることになる。

 この協定により、ドイツは中立法の適用対象外となった上に、レンドリース法の適用対象国に選定された。

 レンドリース法はドイツと同盟を組んだイタリアやハンガリーといった枢軸諸国にも適用され、膨大な武器弾薬や工業資源、軍需物資をツケで無制限に合衆国から輸入できる法的根拠が整えられた。

 レンドリース法は満州に攻め込んだソ連を想定していたものだったが、それがドイツに変わっただけのことだった。

 3月27日には最初の対独武器売却計画が米議会に通知され、賛成多数で承認を得た。

 この動きにイギリスのイーデン外務大臣が駐英米大使を深夜に呼び出し猛抗議を行った。

 イギリス首相のチャーチルはウィットに富む皮肉やジョークを得意としたが、この時ばかりは恐ろしく直接的な表現で米国に警告した。


「あまり我々の忍耐力を試そうとしないほうがいい」


 だが、イギリスの抗議は織り込み済みだった。

 英米関係は既に冷え切っていた。敵の敵は味方の理屈で、日本と手を組んだ嘗ての宗主国に対して、アメリカ世論は侮蔑の目を向けるようになっていた。

 さらにヨーロッパでドイツを相手に孤独な戦いを続けるイギリスに、抗議以上のことができないことは明らかだったから、イギリスの猛抗議は見透かされていた。

 英米関係の破綻、米英開戦は既に追い詰められているイギリスにとって東西挟撃という悪夢でしかなかった。

 最初の対独武器輸送船団がドイツ占領下のノルウェー、ナルヴィクについたのは4月15日のことである。

 この船団はアメリカ海軍大西洋艦隊の駆逐艦に守られていた。

 船団は北大西洋でイギリス海軍の戦艦フッドに追尾されたが、フッドは行儀よく距離をとって威圧するのみで、攻撃することはなかった。

 イギリス海軍が絶対に手出しできない米国船籍の輸送船は、ルフトヴァッフェの援護を受けながらノルウェー沿岸を南下して、ドイツのヴィルヘルムスハーフェンへ入港した。

 この船団には、ヒトラー総統が出迎えに現れ、盛大な歓迎式典が開催された。

 最近、精神状態が思わしくなく、大衆の前で演説することが少なくなっていたヒトラーだったが、この時は発奮して長時間に渡る弁舌を奮った。


「ドイツは勝つ。我々には新大陸の友人がついているからだ。もう何も怖くない!」


 ドイツに売却された兵器のリストは長大なもので、小火器や航空機や戦車といった正面装備から兵士の被服や医療品、モルヒネといった麻酔物質。膨大な量の大型トラックや工作機械や鉄道貨車、蒸気機関車。ドイツでは慢性的に不足する航空機用ハイオクタンガソリンがドイツの手に渡った。

 60隻の輸送船団が運ぶ物資の量は膨大であり、その恩恵はドイツ以外の枢軸国に及んだ。

 イタリアも対日交戦国であり、ドイツ以上に武器弾薬が不足していたから、イタリア軍は大量の武器を合衆国から供与された。

 ドイツがソビエトに攻め込んだ1941年6月には、地中海をファスケスとイタリア王国国章を描いたB-25やP-40が飛んでいた。

 日英の輸送船団にとって運動性の高く爆弾搭載量の多いB-25は難敵だった。

 タービンロケットの零戦でも、低空で低速の状態で飛んでいる時はP-40は危険な相手であり、米国の武器で武装したイタリア空軍に日英は苦闘することになる。

 レンドリースによる援助は、武器のような直接的なものの他に工作機械や食料といった間接的なものも含まれており、特に食料援助は地味だが大きな効果があった。

 1941年6月以後、ドイツ軍は対ソ戦で膨大な死傷者を出すが、その補充が可能だったのは、レンドリースで食料が入ってくるため、食糧生産を縮小して農村から限界を超えて農業労働者を徴兵できたことが大きい。

 工作機械の輸入は兵器の生産拡大に貢献したことは言うまでもないことであるし、工作機械生産に要するコストを兵器生産に集中できる効果があった。

 蒸気機関車(1,600両以上)やフォード・トラック(30万台以上)の輸入はドイツの戦時経済を大きく変えることになり、有形無形の変化を戦場に齎した。

 1943年以後、戦場に現れるドイツ軍の新型重戦車の製造元はヘンシェル社であったが、ヘンシェル社は蒸気機関車のメーカーでもあった。

 米国製の輸入機関車が入ったぶんだけで、ヘンシェル社の生産力を重戦車の製造に振り込むけることが可能となり、日英はドイツ製重戦車の大量配備という悪夢に直面することになる。

 トラックは自動車化された重輸送部隊を編成することに使われ、ドイツ軍機甲師団の機動力を著しく高めるものだった。

 話を1941年6月に戻すが、ロシアの大地を疾駆するドイツ軍装甲師団を相手に、ソビエト軍は次々と撃破された。

 ドイツ軍の装甲師団には明らかにドイツ製ではない戦車が混じっており、37mm砲搭載のM3軽戦車や75mm砲を車体に直接載せたM3中戦車が目撃されていた。

 これらの戦車はT-34やKV-1に対してはあまり有効ではなかったが、同時期の自国製のⅢ号戦車やⅣ号戦車も同じぐらい有効ではなかったので特に問題とはされなかった。

 同時期のドイツ軍装甲師団は、かなりの数のチェコ製戦車で武装されており、M3軽戦車やM3中戦車はそれらに比べればずっとマシだった。

 本来、レンドリースによる兵器供与は、アメリカ合衆国の防衛に資することを目的としており、対日戦に用いられなければならなかった。

 だが、そのことを合衆国は特に問題にしなかった。

 共産主義の総本山であるソビエトが日本ともども消えてなくなら、それに越したことはないからだ。

 もとより、アメリカは共産主義者を同じ人間と認めていないお国柄であった。

 ルーズベルト政権下で経済政策を担ったニューディーラーには多数のソビエトのシンパがいいてアメリカの外交政策を左右していたが、親独傾向が強まった第3期政権下では急速に力を失っており、政権内から駆逐されつつあった。

 東部戦線でソビエト軍は敗北と撤退を繰り返していたこともその流れを後押しした。

 ヒトラーが語ったように、


「ソ連は腐った建物のようなものだ。ドアを一蹴りすれば崩壊する」

 

 と思われていたのだ。

 そして、実際にそれを実証するかのように1941年9月26日にキエフが陥落する。

 キエフの戦いはソビエト軍にとってもドイツ軍にとっても先例のない規模の敗北、或いは勝利だった。

 ソビエト軍最大の野戦軍、ソビエト南西方面軍には76万の将兵と野戦重砲、迫撃砲約4,000門、戦車100両、航空機167機が配属されていた。

 このうち70万人が捕虜になるか死傷して、ソビエト軍の編成表から失われた。

 彼らはスターリンの死守命令の犠牲になったのである。

 1941年9月までにソビエトは広大なヨーロッパロシアの領土を失った。戦死、負傷、捕虜になったソビエト軍将兵は600万人を超えている。航空機の損失は20,000機に達しており、再起不能だと思われた。

 ドイツ軍は2倍のソビエト軍を打ち破ったのである。

 このような空前絶後の勝利を見たヒトラーは戦争がクリスマスまでに勝利で終わると考えるようになっていた。

 そして、それはホワイトハウスも同様だった。

 もちろんホワイトハウスはすぐに終わるはずの戦争が既に3度目のクリスマスを迎えようとしていることに気づかないフリをしている。

 対して、日本政府や軍部は独ソ戦の行方について、別の解釈をしていた。

 何しろ自分たちこそ、アメリカがとっくの昔に勝利で終わるはずだった戦争を未だに戦い抜いているからだ。

 帝国陸軍はソビエト・シベリア軍団を違法な航空偵察を繰り返すことでかなり正確に把握しており、ソビエト軍にはまだシベリア軍団という強力な予備兵力が残っている知っていた。

 スターリンが対日戦のために用意していたシベリア軍団には最新鋭のT-34やKV-1を含む精鋭部隊であり、夏の間に最大規模の演習を行うなどたっぷりと訓練を積んでいた。

 皮肉なことにスターリンの極東支配という野心が最後の最後でソビエト軍を崩壊の瀬戸際から救うことになったのである。

 1941年9月30日、ドイツ軍はモスクワを攻略し、ソビエトの国家体制を打倒すべく、大攻勢を開始した

 運命のタイフーン攻勢である。

 これまでの戦いでソビエト軍は壊滅的な打撃を受けており、ドイツ軍の行く手を遮るものはないはずだった。

 しかし、現実には極東から転用されたシベリア軍団が守りを固めており、中央軍集団は猛烈な抵抗にあって進撃は遅々として進まなくなった。

 また、ドイツ軍は補給線が伸びってきた。

 特に軍用輸送の要である鉄道は、ロシア広軌からヨーロッパ標準軌への改軌作業が遅れに遅れており、脆弱な鉄道工兵部隊やドイツ帝国鉄道の要員がパルチザンの襲撃にあって大損害を被っていた。

 前線部隊が必要とする物資はポーランドの各駅に野ざらしにされており、時折届く列車をドイツ軍同士で強奪しあうといった有様だった。

 ドイツ軍の頼みの綱はトラック輸送であるが、これも秋の長雨によって道が泥濘と化したため動けなくなっていた。

 そして、例年にない早い冬の訪れによって、ドイツ軍の攻勢は一旦止まることになる。

 さらなる攻勢継続か、冬営か、ドイツ軍は苦しい決断を迫られた。

 ヒトラーは慎重策を支持していたが、前線部隊は攻勢継続を求めていた。

 装甲部隊を指揮する韋駄天ハインツこと、ハインツ・グデーリアン上級大将は、


「既にクレムリンの尖塔が見えるところまで来ているのに、ここで引き下がることなど考えられない」


 として、攻勢継続を強硬に申し入れていた。

 ドイツ軍にとって冬の訪れは不利の要素ばかりではなく、大地が凍りつくことによって、泥濘と化した道路が通行可能になっていた。

 この時、東部戦線のドイツ軍は20個の完全に自動車化された重輸送部隊を持っていた。

 この内の半数がドイツ製か、西欧で鹵獲されたフランス製やイギリス製のトラックで構成されていた。

 その他は輸入されたアメリカ製のトラックで構成されており、要するにドイツ軍の後方輸送の半分はフォードトラックで支えられている状況だった。

 気温低下で道路が凍ったことで、トラック輸送が復活しており、ドイツ軍の補給は万全からは程遠いが、秋よりはマシになっていた。

 1941年11月までに北大西洋を往復する輸送船団によって大量のレンドリース物資がドイツに届けられており、それが前線にまで達しようとしていた。

 レンドリースで届いた合衆国製の上質なガソリンと機械油が装甲部隊に供給されるようになり、ガソリンを米国製に入れ替えるだけでマイバッハエンジンの吹き上がりがそれまでとは全く別ものとなった。

 通常の歩兵師団比べれば遥かに優遇されていたとはいえ、ドイツ軍の装甲部隊に供給されていたのは、フランスや低地諸国で鹵獲された燃料か、ドイツ国内で石炭から人造された低オクタン価の燃料だった。

 ドイツ戦車のエンジンはカタログスペックよりも遥かに低い出力しかでておらず、その原因は粗悪な燃料によるものだった。

 燃料関係技術については、合衆国は世界の先端を走っており、特にハイオクタンガソリンの大量生産に関しては世界一だった。

 技術的には大日本帝国も同等だったが、生産量については国内に有力な油田をもたないため、合衆国には敵わなかった。

 制空権に関しても、レンドリースによるガソリンと機材の供給がルフトヴァッフェの下支えをしており、ハーケンクロイツを描いたP-40やP-39がモスクワ上空を飛行していた。

 特にP-39は低空での運動性の高さから、メッサーシュミットからの乗り換えを希望するパイロットが続出し、ヒンメルシュランゲは東部前線最優秀戦闘機の名を恣にしていた。

 

「今なら、やれる」


 とドイツ軍の前線指揮官達が考えたのも当然だった。

 そして、彼らの強硬な主張に折れる形で、ヒトラーは攻勢継続を承認することになる。

 ただしこれは大きな賭けであり、失敗した場合は東部戦線のドイツ軍部隊は回復不能なダメージを受ける可能性があった。

 ドイツ軍は守りの固い西側から侵攻を諦め、比較的手薄な東方からモスクワに迫り、これを孤立させるために最後の燃料と弾薬をかき集めて装甲師団を送りだした。

 ソビエト軍には、レンドリースのような外国からの支援はなかった。

 1941年10月には、最初の援ソ船団がイギリスからムルマンスクに向け出港していたが、モスクワ攻防戦には間に合っていない。

 日本との交渉は酷く困難が伴っており、日本政府が対ソ援助を決定したのは1942年2月になってからである。

 日本人は1940年夏にスターリンが何をしようとしていたか正確に把握しており、例えそれが戦略的に正しいとしても、ソ連になにかを恵んでやることには大きな政治的な葛藤がともなった。

 ドイツ軍装甲部隊とソビエト軍最後の予備戦力は、モスクワ南方の工業都市トゥーラで激突し、大規模な戦車戦が勃発した。

 この戦いで、ソビエト軍は多数のT-34中戦車やKV-1重戦車を繰り出したが、ドイツ軍には長砲身75mm砲装備のⅣ号戦車やⅢ号突撃砲があり、ソビエト軍の技術的な優位性は失われていた。

 これらの長砲身75mm砲搭載戦車は対仏戦の末期に出現した日本製重戦車に対抗するための存在だったが、T-34を相手する場合でも有効だった。

 さらにドイツ軍には、切り札として強力な独立重駆逐戦車大隊をこの戦いに投じた。

 レンドリースされたM3中戦車の車体に10.5カノン砲を搭載したM3a型10.5cm対戦車自走砲は、九九式重戦車を正面から撃破できる装甲戦闘車両を求めたヒトラーの要求で完成した戦時急造兵器だった。

 だが、その火力は名前のない重戦車ネームレスを1941年11月時点で正面から撃破できるだけのものがあった。

 大口径砲搭載のため装甲は皆無だったが平原の戦いであるロシアの大地においては、超遠距離からの狙撃が可能なこの種の自走対戦車砲は極めて有効な兵器だった。

 戦車戦の勝利とレンドリース機材による制空権の確保により、遂にモスクワへの道が開かれることになる。

 ソビエト軍の予備戦力は枯渇し、雪煙をあげて突進するドイツ軍装甲部隊を止める術は完全に失われた。

 それでもまだロジーナの勝利を信じて武器を手にとって戦うものは多かった。

 そんな抵抗者達の心を完全にへし折ったのは、ドイツの軍靴ではなく、スターリンによるモスクワ焦土化指令だった。

 トゥーラ戦車戦が自軍の敗北で終わったことを知ったスターリンは、モスクワに防衛都市宣言を出し、政府を東方のクイブィシェフに疎開させた。

 スターリンはモスクワ防衛の総司令官にジューコフ大将を任命し、死守命令を出した。

 これは事実上、死刑宣告でありモスクワが防衛できる可能性はすでに失われていた。

 モスクワの官庁街では焼却処分しきれなかった書類をNKVDがダイナマイトで吹き飛ばすなど、大慌てで疎開と政府施設の退去が進められたが、ドイツ軍の進撃の方が早かった。

 そして、この急進撃に驚いたNKVDが、スターリンの残した秘密指令を早々と実行に移してしまうことになる。

 スターリンは軍部にはモスクワ死守を命令していたが、同時にNKVDにはそれが不可能な場合はモスクワを完全に焦土化するように命令していた。

 そして、その本質が権力者に媚びる卑劣漢の集まりに過ぎなかったNKVDは、ドイツ軍の接近を知ると簡単にパニックをおこした。

 恐慌状態の彼らはとにかくスターリンの命令に忠実であるために、ジューコフ大将が悲壮な決意を固めて徹底抗戦を始めようとした矢先に、押してはならないボタンを押してしまった。

 クレムリンや官庁街やNKVDに仕掛けられた大量の爆薬が起爆し、巨大なきのこ雲と共に熱衝撃波が撒き散らされ、市街地各所でも誘爆が発生。手のつけられない大火災を巻き起こした。

 この大火災は都市防災機能の麻痺により1週間も燃え続け、3万人の市民が犠牲となった。

 この早すぎる自爆によって政府から見捨てられたと考えた兵士たちは士気喪失をおこして防衛組織が崩壊。ジューコフ大将に至ってはNKVDの自爆に巻き込まれて既に戦死していた。

 投了である。

 1941年12月7日、半壊したクレムリンの尖塔にハーケンクロイツの旗が掲げられた。

 社会主義の聖都に、国家社会主義の手が届いた瞬間だった。





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