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大洋の帝国  作者: 甲殻類
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北アフリカの片隅で



北アフリカの片隅で


 バトルオブブリテンが峠を過ぎたころ、エジプト国境を東に進む軍勢があった。

 イタリア領リビアからイギリス領エジプトに進むイタリア軍10万である。

 これはロドルフォ・グラツィアーニ元帥率いるエジプト遠征軍で、リビアからエジプトに砂漠を殆ど徒歩で侵攻するという精神と肉体の限界に挑戦する大計画だった。

 ちなみに兵士はイタリア軍なのだから、イタリア人である。

 イタリア人が常にパスタとワインと女色にふけっているばかりではないが、イタリア軍は強さに定評のある軍隊とはいえなかった。

 砂漠を数百キロも歩いて移動してなんともない軍隊は少ないが、イタリア軍向けでないことは確かだった。

 それでもリビア・エジプト国境から100km進んだシディ・バラニを占領するまでは前進することができたのだから、グラツィアーニ元帥の手腕は大したものと言えるだろう。

 ひょっとすると1799年(エジプトから逃げ帰った年)のナポレオンでさえ、彼のことを褒めてくれるかもしれなかった。

 だが、それが彼らの限界だった。

 街道も整備されていなければ、水もない、電気もない礫砂漠の真ん中で、イタリア軍は立ち往生してしまった。

 乏しいイタリアの工業力を総動員し、民生用トラックや乗用車をかき集めて補給に投入していたが、補給システムそのものが燃料と水を消費するので、揚陸拠点のトブルクから離れれば離れるほど、補給は苦しくなった。

 次の大きな港湾はアレキサンドリアだったが、そこまでに進むための物資を集積しなけば一歩も前に進めないのである。

 その物資や新たな増援も、ベニート・ムッソリーニ統領が新たにギリシャ侵攻(1940年10月28日)を始めたことで永久に届かなくなった。

 ちなみにイタリア軍がギリシャ侵攻に用意した戦車(豆タンクだが)は1,000両に達しており、これがグラツィアーニ元帥の手元にあったのなら、北アフリカの戦いはもっと別の様相を呈していただろう。

 あるいは、ひょっとすると、イタリア軍単独でスエズを拝むことができたかもしれない。

 後の戦史研究では、1940年10月こそ枢軸陣営が北アフリカを制圧する最初で最後のチャンスだったと分析している。

 だがそれも、気まぐれな独裁者の思いつきによって永遠に流れ去ってしまった。

 後に坂本首相は回顧録の中で、


「私が1940年10月に恐れていたのはイタリア軍のスエズ占領だった。もし、そうなっていたら日英の海上交通は希望岬を回らねばならず、その防衛コストは維持不可能なレベルに増大したに違いない。だが、不思議なことに彼らは砂漠のど真ん中で何故か止まってしまった。理由は分からなかったが、これはチャンスだった」


 と述べている。

 まさか水と食べ物がなくなって立ち往生しているとは分かるはずもなかった。

 グラツィアーニ元帥は真面目な人物であったので、できることから始めるとして街道の整備と井戸を掘って水源の確保に努めたが、まさに焼け石に水であった。

 もはや何のためにそこにいるか、目的すら定かではなくなった1940年12月に、イギリス軍の反攻作戦が始まった。

 作戦名はコンパス。

 機械化された日英同盟軍による機動戦だった。

 前線拠点であるシディ・バラニは瞬く前に包囲され、4個師団が壊滅。後方のバルディアにいた残存部隊も退路を防がれ、激戦の末降伏した。

 イタリア軍エジプト遠征軍は壊滅し、同盟軍は1941年2月までにリビア・キレナイカ地方を制圧し、重要拠点トブルクまで占領した。

 3倍以上のイタリア軍を一方的に撃破したコンパス作戦の勝利は、陸の戦いで大敗しダンケルクから逃げ帰ったイギリス陸軍にとって久しぶりの快勝であり、失いかけていた自信を取り戻すことになった。

 イギリス政府は国民の士気を鼓舞するために、殊更大きくこの戦勝を取り上げた。

 ラジオ放送では連日、この勝利をニュース放送し、新聞の号外が配られた。

 その一面にはデカデカくTOYOTAのロゴマーク付のトラックが並んで写っており、現在でもネットアーカイブスで確認することができる。

 イギリス軍の兵站を支えたのは日本製のトラック、日本の自動車産業だった。

 北アフリカにおける戦いにおいて死活的に重要なのはトラックである。

 なぜなら物資の輸送に馬匹が使えないからだ。

 特に馬は大量に水を飲むために使用できなかった。

 トラックにも冷却水は必要だが、馬ほどは必要なかったので水に乏しい北アフリカで戦うにはどうしてもトラックが必要なのである。

 TOYOTAのトラックは、高い信頼性で砂漠の戦いに貢献した。

 北アフリカの戦いにおけるTOYOTAトラックの存在感は大きく、


「TOYOTA・WAR」


 という異名をとったほどであり、現在でも全世界で売れ続けるTOYOTAブランドの確立に大きく貢献した。

 もちろん、如何に信頼のTOYOTAであっても砂漠で使うのなら、砂塵からエンジンを守る防塵フィルターが必要である。そこでイギリス軍の補給担当者がフィルターの製造元を確認したところ日本のメーカーであることが判明したという笑い話がある。

 それほどに、イギリス軍は日本の工業力に様々なものを依存していた。

 ダンケルク撤退で大量の重装備を失ったイギリス軍が機械化部隊を再建できたのは日本の自動車産業に負うところが大きい。

 トヨタや日産、ホンダは日米開戦後、売れなくなった乗用車をトラックや軍用車両、航空機に転換し、フル稼働させていた。

 愛知県にあるトヨタの挙母工場は年産800万台の生産能力があり、乗用車のラインを使って三菱の零戦を作っていた。

 およそ10,000機が生産された零戦のうち、9,000機がトヨタ製である。

 航空機メーカーの三菱の10倍以上の零戦を自動車メーカーのトヨタが作っているのは一見すると奇妙な話のようにおもわれるが、平時に大量需要が存在しない航空機メーカーの生産能力が低いのは当然の話である。

 平時に大量の乗用車を生産するトヨタの生産技術は卓抜しており、三菱の心配や不安を他所にあっという間に量産ラインを作って、2ヶ月足らずで月産500機を達成している。

 あまりの生産力に海軍の受領が間に合わなくなったほどである。

 フェリー飛行を担当するパイロットが過労で倒れ、工場付近の国道や休耕田、児童公園、小学校に完成済みの機体があふれた逸話がある。

 トヨタは零戦以外にも陸上攻撃機や艦上爆撃機のような東海地方に本社を置く航空機メーカーの製品をOEM生産した。

 ホンダも同様である。

 ただし、ホンダはトヨタよりも航空機のOEM生産にのめり込んでいた。

 技術のホンダというプライドにかけて航空分野への挑戦はむしろ必定であった。

 ホンダは飛行機好きの社長が各航空機メーカーからあぶれた人材を集めて独自の航空機開発を行うほどであった。

 なお、ホンダは海援隊系ということもあって、三菱とは相性が悪く、中島飛行機の機体をライセンス生産している。

 そのため海軍機はトヨタが、陸軍機はホンダというイメージが定着した。

 日産は航空機生産には関与せず、陸戦兵器の増産を行った。

 日産はOEM生産で培った技術で独自に装甲戦闘車両の生産の乗り出すが、それは戦後のことである。

 上陸用舟艇を大量生産したダイハツや練習機を生産したいすゞと、魚雷艇や潜水艇を作っていたヤマハなども有名だろう。

 それらの各メーカーが生産した発動機を開発したのは海援隊傘下の河城重工である。

 河城重工自身も発動機の大量生産を手がけており、技術取得名目にイギリス製のマーリンエンジンのライセンス生産してる。

 なお、河城重工で生産した輸入マーリンエンジンをイギリス空軍は国産品と区別するためカッパード・マーリンと呼んだ。

 マーリンエンジンのライセンス生産は他に川崎や中島飛行機でも行われているが、何故か全てカッパード・マリーンと呼ばれている。

 なぜかというと、既にタービンロケットエンジンを実用化していた河城重工にとってマーリンエンジンのライセンス生産は退屈な仕事だったため、独自の改良施した改造マーリンを作ったのである。

 河城重工の改造マーリンは100オクタンガソリンの使用を前提にインタークーラー付一段三速式過給器を搭載したものである。

 ロールス・ロイス社はほぼ同一性能の二段二速式過給器を開発したが、二段式に比べると一段三速式過給器は高度な熱処理を要する分、小型軽量に仕上がっていた。

 しかも、カッパードマーリンは過給器の制御に電子回路を組み込み、気圧計と連動したトクルコンバーター式にしていた。

 全自動で最適な過給圧を保つこのシステムはパイロットの負担を大幅に軽減する画期的なハイテク兵器だった。

 そのため、イギリス空軍は頻繁な過給圧の操作が必要ない爆撃機にオリジナルマーリンを供給し、スピットファイアに優先してカッパードマーリンエンジンを供給した。

 このエンジンを搭載した究極のレシプロ戦闘機として名高いのが一式戦「隼」となる。

 そして、隼は帝国陸軍が最後に制式採用したレシプロ戦闘機となった。

 開発元の中島飛行機は広大な自社工場を持ち、この戦闘機を1万機も自社生産した。

 戦後にこの工場は完全な不良債権となり、中島飛行機は政府の支援を受けて乗用車のライセンス生産に乗り出すことになる。

 これが後のスバル自動車であり、やはり大量生産は自動車産業に限るのである。

 そして、それはアメリカ合衆国も同じだった。

 フォード、クライスラー、GMといった各自動車メーカーは戦争特需に沸き返り、開戦から2年もすると大量の兵器を各工場から吐き出していった。

 日米開戦直前まで20%を超えていた失業率は、1940年12月時点で0となり完全雇用を達成した。

 巨大な戦争特需によりアメリカ経済は完全に息を吹き返し、株価も賃金も右肩上がりだった。

 であるからこそ、1940年12月の大統領選挙はルーズベルト大統領の勝利に終わったといえる。

 マリアナの敗北も、北千島の敗退も、好調な経済の前では大きな問題とはならなかった。

 何しろ、アメリカ人の大半がサイパン島や北千島がどこにあるか知らなかったからだ。

 サイパン島で海兵隊が人肉を食うまで追い詰められたというのも噂話程度にしか考えていなかった。

 アメリカ政府は国民の士気を下げないために悲惨なサイパン島の実態を矮小化して発表しており、人肉食も日本のスパイが流したプロパガンダだと触れ回っていたのである。

 北千島の戦いも同様だった。

 戦争で最初に死ぬのは真実とされるが、まさにそれを地でいく状況だった。

 虚偽をうすうす感づいていた人々も最終的にアメリカが勝ってこの戦争が終わるという結論に変更がないと考えていた。

 アメリカの経済力は第2位の日本の3倍もあったから、最終的な勝利は疑いの余地もない。

 一番心配だったイギリスの参戦は遠のき、太平洋に集中できる環境が整った今こそ反撃のチャンスだった。

 そして何より日本という有色人種国家に負けることなど、社会支配層である東部のホワイト・アングロサクソン・プロテスタント達のプライドの許すところではなかった。

 彼らは日本に勝てるなら、ヒトラーともスターリンとも手を組めると考えるほどだった。

 結果、ルーズベルトは戦時という特殊状況という追い風をうけて異例の三選を成し遂げた。

 ルーズベルト大統領の三選に日英は深く落胆した。

 共和党候補のウェンデル・L・ウィルキーは日米停戦を選挙公約に掲げていたから、共和党の勝利に賭けていたのである。

 ヒトラー総統はルーズベルト大統領の勝利に喜び祝電を送っている。

 ムッソリーニ統領も同様だった。

 北アフリカで壊滅的な敗北を被ったムッソリーニは、イギリス軍と共に砂漠を征く海援隊という日本の傭兵部隊をアメリカ軍が叩いてくれることを願っていた。

 ヒトラーも同様である。

 特にヒトラーは北アフリカでなんとか、海援隊を叩くことができないかと考えていた。

 海援隊の欧州遠征を知るとヒトラーは激しく動揺し、


「死だ。死が起きている。死のレーテ川が見える」


 などと錯乱して、ボディーガードの数をそれまでの3倍に増やしている。

 ヒトラーの被害妄想を著しく悪化させたのは、北アフリカに展開した海援隊第1師団だった。

 海援隊第1師団はコンパス作戦に参加し、イタリア軍を敗走させるとトブルクを占領した。

 これまで海援隊が編成した地上戦部隊は最大でも旅団規模だった。

 それも第一次世界大戦の時のことで、以後は大きくても大隊規模で済まされてきた。

 植民地警備ならそれで十分だったからである。

 だが、第二次世界大戦において対独戦全般を日本政府から委託された海援隊は、本格的な地上戦部隊とそれを統括する組織を編成した。

 その組織理念は極めて先鋭的で、


「国家に帰属しない軍隊による経済活動としての戦争」


 というものだった。

 これが国境なき軍隊(MSF)の始まりである。

 海援隊傘下の一企業として、経済活動として戦争を請け負うMSFは第二次世界大戦中に生まれ、陸海空軍を持つ国家に帰属しない独立した軍事機構となった。

 MSF第1師団の師団長は女性だったことは広く知られている。


「もしも、彼女が男性だったのなら、世界の歴史はずいぶんと変わったものになっていただろう。ひょっとしたら冷戦はなかったかもしれない」


 とさえ言われるほどの才覚だった。

 栄えあるMSF 第1師団長、水無瀬秋子中将は当初はフリーランスの傭兵と活動していたが大戦勃発の前に海援隊にスカウトされた。

 フリーランス時代から既に、


「ミナセ・アークデーモン」

 

 などという異名があったことで知られる。

 その後、太平洋戦争の緒戦においてサイパン島で大隊を率いて米軍と戦った。

 大隊長でありながら、単独で敵地に潜入して情報収集や破壊工作を行うなど、彼女と彼女の率いた部隊は特殊部隊的なノウハウを持つ蓄えており、戦後に編成された数々の特殊部隊の原型ともいえる。

 そのため、特殊部隊の母と呼ばれることもある。

 その後、対独戦の勃発より編成されたMSFにおいて中心的な役割を果たした。

 大隊長時代からその超人的な能力は知られており、如何に困難な任務であっても、


「了承」


 と一秒以内に応答し、100%完全な成功を収めてきたという伝説がある。

 MSF第1師団の兵員は4割が日本人で、残りは中国人やロシア人、ドイツ人やイギリス人、ポーランド人など雑多な編成であった。編成地の関係で中東系やユダヤ人が多く、後のイスラエル国防軍の名将モーシェ・ダヤンも参加していた。

 ダヤンは後に水無瀬中将のことを、


「ザ・ボス」


 と呼んで深く尊敬していたことで知られている。

 装備は帝国陸軍に準じていたが、重砲兵の類は持ち合わせていなかった。代わりに大量の迫撃砲を持ち込んでいたのが特徴である。

 迫撃砲部隊の目玉は150mm重迫撃砲で、軽榴弾砲の並の長射程と15榴以上の破壊力を誇る大口径迫撃砲だった。

 他国のまともな軍隊なら榴弾砲か、より軽量な迫撃砲を選ぶところだが、重砲の割当が正規軍優先のためだったことから海援隊が編み出した小さな怪物だった。

 小さいといっても重量は標準的な中口径迫撃砲の3倍もあり、分解しても人力輸送は不可能だった。海援隊はこれをハーフトラックで牽引して運用していた。

 帝国海軍はこれに目をつけ対潜弾の前方投射兵器”対潜迫撃砲”として採用している。

 トブルク占領後、イギリス軍の大半がドイツ軍のギリシャ侵攻に呼応してギリシャへ転戦したことから、北アフリカの戦いは小康状態となった。

 MSF第1師団が、上役のイギリス中東軍から命じられたのは既に確保したトブルク・キレナイカの防衛だった。

 水無瀬中将は速やかに進撃し、北アフリカ全域を確保すべきと考えていた。

 リビア西部の拠点トリポリの防御は脆弱だったから進撃すれば直ぐに攻め落とせただろう。

 だが、トリポリまでの兵站線が保たないと英軍中東軍司令官アーチボルド・ウェーヴェル大将は考えていた。

 水無瀬中将は多少無理をしてもトリポリに突入すれば物資は鹵獲できると反論したが、


「ナポレオン時代じゃないんだ」


 とウェーヴェル大将から一蹴された。

 イタリア軍の逃げっぷりからして当面、反撃はないだろうとウェーヴェル大将は考えており、追撃戦は中止された。

 ウェーヴェル大将との会議を不首尾で終えた水無瀬中将は、


「彼は、イタリア軍を弱い軍隊と考えている。だが、弱い軍隊というものは存在しない。弱い指揮官がいるだけ」


 として防衛体制の再構築を指示している。

 水無瀬中将の懸念するとおり、戦線の停滞は嵐の前の静けさだった。

 1941年2月12日の昼、エルヴィン・ロンメル少将は北アフリカ・リビアのトリポリ空港に降り立った。

 砂漠の狐、ロンメル率いるドイツ・アフリカ軍団(DAK)伝説の始まりである。

 なお、ロンメルの、ドイツ軍の北アフリカ派遣は、ドイツ軍内でも異論のあるものだった。

 何しろ彼らは民族の興廃を賭けた乾坤一擲の大作戦の準備中であり、北アフリカのようなドイツにとって副次的な戦線に兵力を割く余裕はなかったのである。

 だが、ヒトラーの強い意向には逆らえなかった。


「北アフリカを失うことは軍事的には我慢できる。だが、あのカイエンタイとかいう軍隊なのか企業なのかよくわからない組織が、存在することが私には我慢できないのだ」


 などとヒトラーは述べて、貴重な1個装甲師団を北アフリカに送ってしまった。

 どう考えても私怨です。本当にありがとうございました。

 ただし、ヒトラーは被害妄想に囚われながらも、最低限度の理性は維持しており、ロンメルにはイタリア軍への支援とトリポリ防衛に徹するように指示を出している。

 ドイツにとって北アフリカとはそういう戦場であり、端的に言ってしまえばムッソリーニの尻拭いをするために存在していると言ってもよかった。

 だが、ロンメル中将は、それらを一切無視して独断先行した。

 北アフリカに着任するや否や、ロンメルは日英同盟軍の防衛体制の不備を見抜き、主力である第15装甲師団の到着を待たず、僅か1個旅団程度の戦力で攻勢を開始した。

 名目は威力偵察だった。

 本来なら更迭確定コースだが、ロンメルには勝算があった。

 ロンメルにはヒトラーとの個人的なコネがあり、多少の無茶をしても即座にクビにはならないだろうという読みがあった。

 そして、とにかく勝ってしまえば、何も問題ないのである。

 この戦いで同盟軍はDAKに一蹴され壊滅的な打撃を受けた。

 特にMSFの負けっぷりは凄まじかった。

 元植民地警備部隊に全盛期のドイツ機甲部隊が襲いかかったのである。相手は旅団規模だったが、全く相手にならなかった。

 MSF第1師団は、1個大隊の九九式重戦車を装備していたが駄目だった。

 北フランスの浜辺で驚異的な奮戦を見せた九九式重戦車だったが、ドイツ軍は対策を講じていた。

 ロンメルは撤退すると見せかけて戦車部隊のみを突出させ、地雷原と88mm高射砲によるキルゾーンに誘い込んでこれを全滅させた。

 地雷原に踏み込んで身動きがとれなくなった戦車部隊は悲鳴をあげて助けを求めたが、後続の歩兵部隊はイタリア軍歩兵に捕捉されてしまい間に合わなかった。

 これまで一方的にイタリア軍を蹴散らしてきた海援隊はイタリア軍を


「ヘタリア」


 と呼んで蔑む傾向にあったが、それは完全に誤りだった。

 ロンメルの独断専行に巻き込まれた形のイタリア軍だったが優勢を確保すると手強く、


「ノリと勢いがあると強い」


 と再認識されている。

 また、ドイツ軍は新型のⅣ号戦車を戦場に持ち込んでおり、九九式重戦車でも側面から攻撃を受けた場合は危険だった。

 この新型Ⅳ号戦車は所謂、長砲身(43口径)75mm砲を装備していた。

 長砲身75mmは北フランスで遭遇した九九式重戦車に驚いたヒトラーが、実戦配備を急がせた兵器の一つである。

 その経緯から、


「総統砲」


 と前線の兵士から呼ばれていた。

 ドイツ陸軍は既存の補給体制を混乱させるとして長砲身75mm砲の配備に難色を示したが、北アフリカの戦いでこの砲を装備した新型Ⅳ号戦車が九九式重戦車を撃破したので、メンツ丸つぶれだった。

 この攻撃は側面からのもので、正面装甲は貫通していない。

 しかし、重装甲の九九式重戦車に悩まされたドイツ軍にとって、九九式重戦車を食えることは感動的なものであったらしく、新聞に記事が掲載されるほどであった。

 切り札の重戦車大隊が壊滅するとMSF第1師団は総崩れになった。

 如何に水無瀬中将の能力が卓抜したものであっても個々の兵士の質は全く不足していた。水無瀬中将が単独で、20台ほど独軍戦車をスクラップするほどの活躍を見せても、個人的な武勇で戦況を覆すことはできなかった。

 敗北の惨状を見たイギリス軍のある陸軍将校は、


「だめだ・・・実力の差がはっきりしすぎている。これじゃあ、甲子園優勝チームにバットももったことがない茶道部かなにかが挑戦するようなもの・・・みじめすぎる」


 と語ったほどの敗北であった。

 ただし、最低限の役割とトブルクの防衛には成功した。

 敗因は1個師団としてまともに連携した戦闘ができなかったとされる。

 大隊規模の戦闘が最大だった海援隊の地上戦部隊にとって、師団規模の戦力を投入した戦いはこれが初めてであった。

 殆どの兵士が新兵であり、将校も促成教育を受けた予備将校である。

 また、兵員の4割を占める日本人兵士の大半は指揮語の英語が理解できなかった。

 これでは勝てる要素を見つける方が難しい。

 だが、この戦いからMSFが学んだものは多く、DAKとロンメルを育ての親としてMSFは発展していくことになる。

 海援隊にとって厄災はさらに続き、シチリア島に展開したドイツ空軍によって地中海航路の輸送船団は大きな損害を受けるようになった。

 地中海の全ての連合国将兵にとって金切り声をあげて急降下してくるドイツ軍の急降下爆撃機は恐怖の代名詞だった。

 その恐怖は1941年5月のクレタ島の戦いで頂点に達し、イギリス地中海艦隊の空母フォーミダブルが損傷、軽巡洋艦や駆逐艦を多数失うことになった。

 海援隊も大損害を受けている。

 クレタ島にはタービンロケットの零戦が配備されておらず、海援隊の航空護衛艦では船体規模からタービンロケット機の運用が不可能だった。

 そのため、Me109F型のような新鋭機の配備が進んだドイツ空軍相手に、九六式艦戦改二では性能面の優位性は失われていた。

 クレタ島防衛戦に参加した航空護衛艦「ひよう」は、スツーカの500kg爆弾を受けて大破、炎上して放棄された。

 商船構造の「ひよう」はもとより防御に難がある船であったが、米軍を相手に勇戦敢闘してきた「ひよう」を失ったことは海援隊とって痛恨事だった。

 だが、「ひよう」の艦載機は、海援隊北アフリカ艦隊の航空護衛艦ベアルンに着艦し、戦闘を継続してる。

 元仏海軍空母のベアルンは、フランス海軍の意地を見せつけるかようにドイツ空軍の空襲下で作戦を継続し、イギリス海軍の空母が損傷して後退した後も水上艦部隊に航空援護を提供し続けた。

 大型装甲護衛艦ダンケルク及びストラスブールは降下したドイツ軍相手に艦砲射撃を実施し、これに壊滅的な打撃を与えることに成功している。

 その後もドイツ空軍の航空攻勢は続いたが、同盟軍の献身は無駄ではなく、損害にたまりかねたヒトラーが作戦中止を決断。空挺降下でクレタ島を占領しようとしたドイツ軍の野心的な計画は失敗に終わった。

 クレタ島が同盟軍の手元に残ったのは大きな意義があった。

 同地にイギリス空軍のボマーコマンドを展開させれば、ルーマニアのプロエステ油田まで爆撃可能であり、ドイツ空軍はプロエステ油田防衛のために多数の航空戦力を拘束されることになった。

 クレタ島の同盟軍航空部隊は安全地帯であるべきの東欧に突き刺さった喉の小骨であった。

 同時期、もう一つ枢軸軍の喉に刺さった骨が北アフリカのトブルクだった。

 MSF第1師団が立てこもったトブルクはキレナイカ地方の重要な港湾都市であり、戦略上の要衝である。

 ロンメル率いるDAKは港湾都市のベンガジを陥落させていたが、トブルクが落ちない限り補給線が延伸できずエジプトへの侵攻は不可能だった。

 そこで数次にわたって攻城戦が行われたが、トブルクの守りを崩せなかった。

 砂漠の機動戦とことなり、火力と歩兵の数がものを言う要塞攻略はそのどちらも欠けているDAKにとって最も苦手とするところだった。

 トブルクのあちこちに配置されたMSFの150mm迫撃砲はその独特の発射音から貧者のスツーカーと呼ばれ、DAKに大きな損害を強いていた。

 また、機動九〇式野砲による対戦車砲陣地がトブルクの四方を固めており、ドイツ軍のⅢ号戦車やⅣ号戦車を寄せ付けなかった。

 機動九〇式野砲は新砲塔チハの主砲にも転用された高初速野砲であり、水平射撃すれば対戦車砲としても使用可能だった。

 徹甲弾を使えば1,000mの距離で70mmの装甲を貫通し、Ⅳ号戦車を正面から撃破可能だった。

 MSFはソビエトから亡命してきたとある砲兵中尉の提案により、これでソビエト式の対戦車砲陣地を作りドイツ軍に対抗した。

 ちなみに同戦法は障害物がない砂漠の戦いでは陣地を作っても容易に側面に回り込まれて無力化されてしまうので通常は無意味である。

 しかし、機動の余地のないトブルク包囲戦であれば関係なかった。

 イギリス軍はトブルク救援のために、5月にブレビティ作戦、6月にバトルアクス作戦を行ったがどちらもDAKの巧みな機動戦の前に敗退した。

 ドイツ流の芸術的な機動戦を見て、MSFはロンメルを恐れ、崇拝した。

 これがDAKの絶頂期だった。

 機動戦では対抗不能と考えたがイギリス軍は火力戦に訴えるため戦線を後退させ、兵力の蓄積に入った。

 ドイツ軍もトブルクへの無理攻めを中止し、対抗して防衛陣地(地雷原)を作り始めたがその速度は遅々としたものだった。

 なぜならば、北アフリカ戦線はドイツとって副次的な戦線に過ぎなかったからだ。

 1941年6月、ドイツ軍はその総力を挙げて独ソ国境へなだれ込んだ。

 運命の独ソ戦の始まりである。




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