超人と鉄人の後についていくだけの簡単なお仕事です。
超人と鉄人の後についていくだけの簡単なお仕事です。
1861年の春、生田兼光は佐賀藩主鍋島直正から知行地500石を賜った。
藩主直正はロマンシング海軍少佐が考案した佐賀藩の新式ライフル銃(以後、ロマ佐賀ライフル)の開発成功を激賞し、厚くこれに報いたといえる。
先祖代々無石、無役の生田家としては望外の出世であると言えよう。
同じく、兼光と終生を共にする木原倫太郎も500石を賜り、二人は異例の出世を遂げた。
しかし、二人はこれに不満だったとされている。
少し考えれみれば分かることだが、ロマ佐賀ライフルの販売で得られる利益は500石の知行地ごときで贖えるものではないからである。
イギリスから輸入したスナイドル銃が1丁36両のところをロマ佐賀ライフルであれば、3分の1の12両で済んだ。
その高性能ゆえにロマ佐賀ライフルを巡って、
「ころしてでもうばいとる」
といった血なまぐさい殺人事件さえ起きたほどである。
海防強化に焦る幕府はもちろん、各藩がロマ佐賀ライフルに飛びついたことは言うまでもない。
薩摩藩や長州藩、土佐藩など戊辰戦争を戦った藩は多かれ少なかれロマ佐賀ライフルを手にしていたのである。
となれば、佐賀藩の直営工場は発注、予約で5年、10年先まで仕事が舞い込むゴールドラッシュのごとき様相を呈しており、佐賀藩に転がりこんだ利益は莫大なものとなった。
だが、二人に与えられた知行地は僅かに500石である。
これは譜代家臣の半分にすぎない。
その譜代家臣が佐賀藩のどれほどの利益を齎したかといえば、二人の足元にも及ばないのである。
鍋島直正は幕末四賢侯に数えられる名君であったが、藩内政治を完全に無視することはできず、実力主義といってもこれが限界であった。
むしろ、直正の感覚ではこれでも破格の待遇という感覚だっただろう。
当時の常識的ではそれは間違いではないが、時代を大きく先取りしていた二人はこの頃から明確に独自路線を模索するようになる。
即ち、脱藩である。
もちろん、そんなことはすれば知行地は全てフイとなるどころか死罪である。
だが、翌年の2月に脱藩した二人はそのことを惜しむ素振りも、死罪に対する恐れもなかったという。
二人と共に脱藩した江藤新平はこの時の様子を、
「遠乗りに出かけるがごとき闊達さ」
と後に表現している。
ちなみに江藤新平は二人の先輩にあたるのだが、江藤自身もこの二人をどう扱ったらいいのか分からず苦慮していたようである。
江藤はその後、京都で長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)などと接触したが2ヶ月ほどで帰郷している。
通常は死罪となるところだが、その才覚を惜しまれ死罪は免れ蟄居処分となった。
その後、江藤は大政奉還まで蟄居状態で過ごすことになる。
帰郷せず、京都で活動を続けた兼光と江藤はその後の人生で大きく明暗を分けることになるが、それはずっと後の話である。
ちなみに、佐賀藩は佐賀藩で二人の脱藩で大騒ぎとなっていた。
なにしろ生きてるドル箱、金の卵を産む鶏が、
「旅に出ます。探さないでください」
などと書き置きを残して、いきなりいなくなったのである。
藩主直正は直ちに二人を連れ戻すように命令し、手配書を配ったほどである。ただし、絶対に殺すなと厳命している。手配書に二度書きするほど念入りのものであった。
もちろん、知行地500石は没収であった。
知行地没収は二人の栄達を喜んでいた生田家、木原家を相当に落胆させたことはいくまでもなく、二人を勘当としている。
勘当は覚悟の上だったようで、あっさりと二人はそれぞれの姓を捨てている。
佐賀藩の追手を巻くという意味もあったが、二人は以後様々な偽名を使うようになる。
特に、長期に渡って京都で活動した兼光の偽名は数多く、上遠野光平、西生維新、豪屋大介、藤子富士雄などと名乗っている。
最終的に母方の実家の姓に戻し、御坊兼光を名乗ることになった。
現代に生きる我々にとっては、この名乗りの方が耳に慣れていると言えるだろう。
日本最大コンツェルン御坊財閥の初代総帥、御坊兼光の誕生である。
ちなみに木原倫太郎もまた母方の姓に戻したことで、岡辺姓を名乗ることになり、東洋のエジソン岡辺倫太郎の誕生となる。
話を1862年の京都に戻すが、上京した二人は江藤新平と別れた後、勝海舟の元に身を寄せていた。
勝海舟について多くの説明は不要だろう。
あの勝海舟である。
この時期、勝は京都を拠点に神戸海軍操練所の設立に向けて奔走していた。
勝は海軍奉行に就任し、持論である公議政体論(大名による議会政治)実現に向けて精力的に活動しており、まさに時の人だったと言える。
だが、二人を迎えいれた時の勝は、少しも偉ぶったところがなく、快活で、気さくな態度だったことが、二人を感激させたという。
またこの時、勝の元に身を寄せていたのが坂本龍馬であった。
兼光と龍馬の再会は8年ぶりのことだったが、二人は再会を非常に喜んだという。
以後、二人は勝の元で神戸海軍操練所の設立や、設立以後は海軍教練を受けるなど、親交を深めていき、行動を共にすることになる。
京都での龍馬と兼光の活動は、勝が政局に敗れ、神戸海軍操練所が閉鎖されるまで続いた。
維新の志士として活動していたこの時期について兼光は後に、
「超人(勝海舟)と鉄人(坂本龍馬)の後ろについていくだけの簡単な仕事」
と述懐して、多くを語らなかった。
辛かったようである。
記録魔の兼光の残した日記も、この時期の活動記録は多忙を極めていたこともあって不正確さを増している。
しかし、確実に確認がとれる範囲内でも、5回も暗殺の危機に遭遇している。
当時、京都は攘夷論者、開国論者、佐幕派、倒幕派などが入り乱れ、そこに雄藩の思惑や幕府の権力闘争、朝廷や公家衆の煽動も絡んで混沌とした状況であった。
もちろん、治安は極度に悪化しており、暗殺や襲撃など日常茶飯事である。
朝、目覚めると庭先に知らない人間の手足や首が転がっていたり、鴨川に幕府役人の死体が捨てられていたり、明らかに拷問された跡の残る脱藩浪人の死体が木に吊るされていたりと、血風吹きすさぶ京都であった。
京都の治安回復のため、幕府は京都守護職を設置して多数の戦力を配置して軍事的制圧を試みている。
その戦力の一つが、かの有名な(或いは悪名高い)新撰組である。
1864年7月8日におきた池田屋事件が有名だろう。
もちろん、兼光も指名手配の身分であり、新撰組の追撃を度々受けている。
さらに開国論者の勝の手先として、攘夷論者から目の敵にされており、自分自身も攘夷論を
「小児病の類」
と公言して憚らなかったことから敵は多かった。
ちなみに兼光と共に脱藩した倫太郎はあまりにも過酷な京都暮らしに完全に打ちのめされてしまい途中で佐賀へ帰郷している。
脱藩は死罪であったが、ロマ佐賀ライフルの開発者を死罪にするほど佐賀藩は愚かではなく、労役刑(事実上の無罪放免、職場復帰)となっている。
一方、京都に残った兼光だが、北辰一刀流免許皆伝であった龍馬と異なり、剣の腕前は並以下の腕前でしかなかったため、護身には専ら拳銃を用いている。
自身が開発した佐賀式ピストールを、これまた自作したホルスターに吊っており、常に4丁ないし、6丁は携帯していたようである。
再装填する暇を惜しんで、拳銃を使い捨てに連続射撃して難を逃れたり、逆に襲撃者を返り討ちにしたことがわかっている。
また、アメリカ製の水平二連式ショットガンを入手した時は、銃身を短く切ったソードオフ・ショットガンに改造して懐に忍ばせていたようである。
兼光の銃の腕前は確かなもので、後に渡米した際に早撃ちや二丁拳銃、曲芸射撃を披露して銃文化の強いアメリカ人を驚かせている。
21世紀に入って、幕末の志士や新撰組隊士を主人公にしたアクションゲーム「幕末BASARA」が発売された際に、兼光が拳銃使いとして参戦しているのはこのためである。
ちなみに「幕末BASARA」において兼光の3ゲージ必殺技は、マントの裏にくくりつけた100丁あまりのピストルを一斉射撃するフルバレットショットである。
話が逸れたが、開国論者の兼光は攘夷論者が多い長州藩士からは距離を置いていた。同時に佐幕派であった薩摩や会津藩士とも距離を置いている。
佐幕、討幕のどちらにも与しない冷静な態度をとっていた。
兼光にとって、佐幕や討幕は国内の権力闘争に過ぎず、重要なのは開国して海外から最新技術を取り入れ、産業を興して豊かな日本を作ることであった。
幕府や藩といった枠組みには無関心を貫いており、一貫して日本という国全体を考えて行動して点では、幕府の海軍を超えた日本の海軍を作ろうとしていた勝海舟や、日本の夜明けを目指していた坂本龍馬と考えが近い。
後の歴史家は、日本における近代軍隊、民主国民国家、資本主義経済体制の源流にこの3人がいたことを記すことになる。
もしも、このまま全てが上首尾に運んでいれば、それは理想的な展開だったかもしれない。
江戸幕府は崩壊せず、戊辰戦争も起きず、徳川将軍家の元に日ノ本は再結集し、大名会議の元で緩やかな連邦制国家への道を歩んでいたかもしれない。
しかし禁門の変が発生、続く第一次長州征討で、幕府は自身の権力拡大路線へと舵を切り、勝海舟の公議政体論は実現不可能となった。
多数の脱藩浪人を匿っていた勝は、蟄居を余儀なくされる。
神戸海軍操練所は閉鎖となり、龍馬と兼光は身の危険が迫ったため、薩摩藩の支援を受け長崎へ脱出することになった。
時に1865年のことである。
薩摩藩は海軍操練所で鍛えられた坂本龍馬等の航海技術を重視していた。
既に薩英戦争で欧米列強の力を思い知らされていた薩摩藩は攘夷が不可能であることに悟ると同時に、国家防衛に海軍が必要不可欠である認識を持つにいたっていた。
さらにその海軍を養うためには産業を興して、通商を活発にして外貨を稼ぐしかなく、その最初の一歩として外洋航海術を身に着けた龍馬達を抱え込んでおく必要があった。
薩摩藩の支援を受けた龍馬達が長崎の亀山に日本初の株式会社亀山社中を設立したのが、1865年5月のことである。
ここで兼光は、経済人、企業家としての才覚を開花させ、組織の設立から運営、株式の発行などをほとんど一人でこなして周囲をあっと言わせたという。
社長は坂本龍馬その人であったが、その下で組織を取り仕切り、次々に取引や利益を得る仕組みを考えたのは兼光であった。
また、会計制度においては日本の伝統的な大福帳を廃し、欧米式の複式簿記を日本で初めて導入したのも、亀山社中だった。
この簿記を完全に使いこなすことができたのは兼光一人だけだったという。
社長の龍馬も、
「一体何処で覚えたんだ?」
いぶかしんだが、
「大原で・・・」
と、兼光は言葉少なく答えたのみだったという。
大原というのが何を意味するのかは現在に至るまで不明である。おそらく地名であると思われるが、人名の可能性も捨てきれない。
一つ確実に言い切れることは、資格取得の専門学校ではないことである。
この時、兼光は倫太郎と再会し、改良を加えられ、完成度を高めたロマ佐賀ライフル2号を入手した。
ロマ佐賀ライフル2号の改良点は弾丸で、紙薬莢から金属薬莢へ進化していた。
湿度の高い日本では紙薬莢では火薬が傷んで射撃不能になることが多く、薬莢の金属化で飛躍的に完成度が高まったといえる。
また、火薬の圧力を逃さず使えるため、射撃精度も向上していた。
この銃の存在が、明治維新の原動力となる薩長同盟の呼び水となる。
薩摩藩と長州藩は、幕末において雄藩として国政を左右するほどの力を持つに至ったが、薩摩藩は、公武合体の立場から幕府の開国路線を支持しつつ幕政改革を求めたのに対し、長州藩は尊王攘夷派が権力を得てから反幕的姿勢を強めるなど、両者は相いれない立場にあった。
薩長関係は、その後、禁門の変をへて完全に破綻し、戦火を交えた敵同士となっていた。
幕府による第二次長州征伐が迫る中、生き残りを図る長州は武器入手に奔走しており、そこへ龍馬は亀山社中を介した長州・佐賀・薩摩の三角貿易を提案する。
薩摩藩が佐賀藩からロマ佐賀ライフルを購入し、そのライフルを長州藩に転売するのである。対価として長州藩から薩摩藩へは米が輸出された。
長州は生き残りに必要な武器を手に入れ、薩摩は不足する米を得た。佐賀藩は武器の大量発注で金を手に入れ、坂本達は仲介手数料でボロ儲けであった。
1866年3月、薩摩の西郷隆盛・長州の木戸孝允を代表とする薩長同盟の締結される。
その後、四方から長州藩に攻め入った幕府は、ロマ佐賀ライフル2号を手にした長州軍の前に敗退を余儀なくされる。
何しろ、幕府軍が長州に攻め入ったのは6月であった。
梅雨の季節である。
ただでさえ行軍が難しい時期を選んだ侵攻作戦であり、増水した川やぬかるんだ地面など防衛側には有利な条件が揃っていた。この戦いで活躍した奇兵隊の手には、雨降りの日でも問題なく発射できるロマ佐賀ライフル2号が握られていた。
幕府軍もロマ佐賀ライフルは持っていたが、それは紙薬莢の1号銃であり、湿気で射撃不能になることがしばしばだった。
石州、芸州、大島、小倉の四方から一斉に攻め入った幕府軍は全ての戦線で敗退。
さらに将軍徳川家茂が急遽、病死したことから士気崩壊にいたり、朝廷に停戦の勅令を出してもらってやっと撤退する有様だった。
これで武家政権における正当性の源である幕府の軍事力は完全に否定され、江戸幕府の権威は回復不能の失墜となった。
この状況下において、龍馬と兼光は再び京都に舞い戻っていた。
幕府の第二次長州征伐の失敗から、薩摩藩は佐幕から武力討幕へ急速に転換しつつあり、薩長同盟の深化と討幕の勅令を得る朝廷工作を進めていた。
亀山社中としては武器売買で一儲けのチャンスだが、ここで龍馬は薩摩藩から距離を置いて、独自路線を採った。
龍馬は故郷の土佐藩に戻り、亀山社中も海援隊と名を変えることになる。
海援隊はもともとは土佐藩の外郭団体であった。
組織の後ろ盾を討幕に傾く薩摩から佐幕派の土佐に変更して、龍馬がやろうとしていたのは、幕府の穏健な解体と新政府への移行であった。
所謂、無血革命論である。
龍馬が献策したとされる大政奉還は実際のところは以前からあったものだが、それを改めて実施して、幕府を解体(大政奉還)。その上で、雄藩連合による諸侯会議(上院)と平民からなる会議(下院)を整備し、民主国民国家への道を拓くものだった。
明治政府の基本政策となった船中八策もこの時初めて登場する。
実現すれば、この上なく理想的な展開であるが、その困難さは当初から予見されていた。
例えば幕府を解体しても、徳川400万石の大領がある限り、新たに発足する新政府の主導権は徳川の手の内にあるからだ。
幕府軍を撃退して意気上がる長州藩がおとなしくその新体制に参加するとは到底考えられなかった。
朝廷内の討幕勢力も第二次長州征伐の幕府敗退を受けて勢いを増しており、岩倉具視を中心に、討幕の勅令の準備を進めていた。
だが同時に、欧米列強の帝国主義的な侵略の危機に晒される日本において、権力闘争のために内戦を行うなど馬鹿げているのは明らかであり、龍馬の無血革命論にも多くの支持や同調者が集まったのは確かである。
龍馬の活動は実り、1867年10月14日に徳川慶喜は二条城で諸藩重臣に大政奉還を諮問するに至る。
これで幕府は解体され、武力倒幕論は大義名分を失うことなった。
徳川慶喜による政治的なウルトラCであったと言える。
或いは構想実現に奔走した龍馬の勝利であった。
1867年12月10日に坂本龍馬と中岡慎太郎、御坊兼光の3人が、さしたる護衛もなく京都河原町近江屋井口新助邸にいたのは、大政奉還実現に意気上がり、勝利の油断があったことは否定できないだろう。
これは危険極まりないことだった。
この時京都は極度に治安が悪化しており、暗殺・襲撃は日常茶飯事であった。
急進的な倒幕論者にとって、龍馬が許しがたい裏切り者と映っていたのは想像に難くない。
龍馬と共に無血革命工作に奔走していた兼光は、最低でも警備がしっかりしている京都土佐藩邸に入るべきだと主張していた。
だが、龍馬は不偏不党の立場から藩邸外の近江屋に活動拠点を置いていた。
この時、兼光は密かに近江屋に武器弾薬を運び込み、我が身に代えてでも龍馬を死守すべく、覚悟を固めていたとされている。
兼光は海援隊内部でもアレはどうかと言われるほど龍馬を心酔する者の一人であり、龍馬の存在は絶対であった。
もしも坂本教なるものが存在すれば、兼光は間違いなく教祖に収まっていたほどの信心深く、ファンクラブがあれば、名誉会長であっただろう。
そして、その信仰心じみた兼光の働きが、龍馬の命を救うことになる。
所謂、近江屋事件。坂本龍馬暗殺未遂事件である。
京都河原町近江屋井口新助邸に潜伏していた龍馬達を襲撃した刺客は3人であった。
部屋に突入した最初の一人は、至近距離から兼光の所持してた水平二連式のソードオフ・ショットガンをまともに浴びて即死。
続く2人目の刺客もまた、ショットガンを投げ捨て佐賀式ピストールを連射する兼光の前に倒れることになる。
だが、3人目が吶喊してきたとき、兼光は弾丸を撃ち尽くしていた。
そこで兼光は龍馬を守るために躊躇なく盾となって立ち塞がった。
兼光は腹を斬られ重傷を負ったが、態勢を立て直した中岡慎太郎が3人目の刺客を仕留め、龍馬は辛くも死地を脱することになる。
その後、3人は京都土佐藩邸に逃げ込んだ。
兼光は一時、心停止状態になるもの辛くも蘇生(この時、岡辺倫太郎が日本で初めて人工呼吸と心臓マッサージを実施したとされる)した。
なお、この3人の刺客の死体は回収され身元調査が行われたが、背後のつながりが分かるものは何一つ所持しておらず、どこの誰とも素性の知れぬものたちであった。
だが兼光の反撃を受けた際に3人目の襲撃者が、薩摩示現流の特徴的な猿声を発して突貫してきたことから、黒幕は薩摩藩というのが定説である。
武力討幕へ向けて蠢動していた薩摩藩にとって、無血革命を目指す坂本龍馬は目障りな存在となりつつあった。
薩摩藩の企みは失敗に終ったが、龍馬が安全確保のために土佐藩邸に逼塞を余儀なくされる内に、朝廷内では武力倒幕派の巻き返しがあり、遂に討幕派による武力クーデターが勃発。
1868年1月3日、王政復古の大号令が発せられることになる。
龍馬や土佐藩主山内容堂は新政府内の三職会議内で巻き返しを図り、徳川慶喜の巧みな政治工作で新政府は一度は瓦解寸前まで追い詰められた。
しかし、薩摩藩の暗躍により幕府強硬派が暴発。時局は鳥羽・伏見の戦いへと雪崩込んでいった。
ここで幕府軍は、薩長側が掲げた錦の御旗に動揺し大敗したばかりでなく「朝敵」としての汚名を受ける事になる。
これまで纏まりのなかった薩長土肥などの諸勢力は、この勝利で最早あとには引けなくなり、一気に戊辰戦争へと雪崩込んでいった。
鳥羽・伏見の戦いは、龍馬にとって無血革命論の完全な破綻を意味していた。
この時の龍馬の様子を兼光は後に、こう筆写している。
『鴨川の土手に腰をおろして坂本さんは、燃える下鳥羽の町を見ていた。唇は堅く結ばれ、炎を写す瞳は、坂本さんの心を映していた。激烈な怒り。薩長か、或いは己の非力に対する。私は密かに恐れ戦いていた。龍が怒っているのだ』
以後、龍馬は薩長、そして新政府に参加した土佐藩とは完全に手切れとなる。
京都にとどまることは不可能となったので、龍馬達は大阪湾から船にのって江戸へ脱出した。
ここで海援隊は二つに割れることになった。
新政府側に近い後藤象二郎や岩崎弥太郎といったグループで、京都や土佐に残った彼らは海援隊の遺産を用いて後に三菱財閥を作り上げることになる。
龍馬と共に江戸に向かった人物の代表格が、中岡慎太郎、御坊兼光、岡辺倫太郎、陸奥宗光、中江兆民となる。
さらにこの船には珍客が乗っていた。
新選組の隊長、近藤勇以下、残党55名である。
龍馬達と同じく大阪から船で脱出しようとしてた榎本武揚から船倉に空きがあるなら頼むと押しつけられたらしい。
新選組は龍馬にとって仇敵であった。
しかし、龍馬は快く彼らを迎え入れ、船内で治療を施している。
隊長の近藤勇は何か感じる入るところがあったのか、その後、残った隊士と共に行動を共にすることになる。
江戸に到着した龍馬は恩師の勝海舟と面会して善後策を協議することになった。
この時、勝は慶喜の助命を最低条件として、江戸城無血開城を構想していることを伝え、慶喜の同意も得ていることを龍馬に話した。もしも、交渉が決裂した場合は徹底抗戦し、市中に新政府軍を引き込んだ上で江戸の町に放火し逆襲する計画だった。
勝はその時は、海援隊の船で江戸市民の脱出を龍馬に頼むつもりだったようである。
新政府は徳川追討の兵を挙げ、東海道を進撃しており、親藩尾張藩は早々と新政府に恭順するなど、幕府軍はもはや総崩れであった。
この期に及んで、徹底抗戦となれば諸外国の介入を招くだけであり、戦闘長期化は勝の望むところではなかった。
これに対して龍馬は
「将軍一人を助けんがために、江戸町民100万の命を賭けるなど狂気の沙汰」
と返答して勝の構想を一蹴している。
逆に龍馬から提案したのは、慶喜の海外亡命であった。
「慶喜の助命が問題であるなら、さっさと海外に亡命すれば戦う理由はなくなる。幕府内部で徹底抗戦を唱える者たちも、拠り所を失って抗戦を諦めるだろう。わしは世界の海援隊をやる。争いの種を全部、外の世界へ連れて行く」
というのが龍馬の主張であり、勝はこれを受け入れて慶喜に提案した。
慶喜は龍馬の提案に興味を覚えたのか、龍馬を召し出して直接、諮問することになった。
この時、龍馬は丁髷を落とした散切り頭で、羽織袴姿でもなければ、帯刀すらしておらず、まるで市中の与太者のような格好で江戸城に登城して、周囲を驚愕させた。
兼光も龍馬と共に登城したが、ポマードで頭髪を固め、欧米人のようなスーツ姿だったため非常に目立ったという。
破天荒な龍馬とその仲間達に圧倒された慶喜は自分自身が戦争の火種になる危険性を理解し、ほとぼりが冷めるまで海外に落ち延びることに同意した。
慶喜は逃げのびることにかなり難色を示したが、
「逃げるは恥だが、役に立つ」
と勝に強く進言され、東照大権現の伊賀越を引き合いに出されると最終的には折れたという。
また、併せて徹底抗戦を唱える強硬派を亡命に同道させることにした。
ちなみに徹底抗戦を唱える強硬派の首魁は小栗上野介忠順といい、幕府政権下で辣腕を発揮した当代随一の官吏であった。
明治政府の殖産興業政策のほとんどは小栗の政策を下敷きにしたものだったほどである。
この他、慶喜と共に海外亡命することになった幕臣たちの中には明治維新後の経済界で活躍する渋沢栄一がいた。
また、親類の渋沢成一郎や天野八郎、大塚霍之丞は「彰義隊」を編成し、海外亡命する慶喜の身辺警護役を引き受けることになる。
新選組の近藤勇や土方歳三、沖田総司も海外亡命を選んだ。新選組は池田屋事件など維新の志士を弾圧した過去から長州藩に恨まれており、国内に居場所がないという事情もあった。
榎本武揚率いる幕府軍艦6隻、海援隊2隻の合計8隻、総勢2,000名の亡命艦隊が江戸を立ったのは、1868年3月1日のことであった。
幕府を後援していたフランスが亡命受け入れを表明し、8隻の艦隊は進路を西にとり、地球の反対側にあるヨーロッパへの長い航海を開始する。
後始末を任された勝は愚痴をこぼしながらも東進してきた新政府軍の西郷隆盛と交渉を行い既に慶喜が国外逃亡しており不在である旨を伝えた。
新政府軍も慶喜の海外亡命は掴んでおり、ここに至って戦う意義を失った両名は早々に交渉をまとめて江戸城無血開城となる。
以後、新政府軍が江戸城を接収して、順次関東へ駐屯することになるが、大きな混乱は起きなかった。
幕府の徹底抗戦派から中核人材が流出して組織を維持できなくなっていためである。
一時期、上野近辺に旧幕府軍の士卒が集まり不穏な情勢となったが、勝の説得により解散となって不発に終わっている。
これを上野の不戦という。
もしも渋沢成一郎や天野八郎、大塚霍之丞といった血気盛んで才覚のある人物が残っていたら、それを中核に不平不満を持つものが膨れ上がり、大規模な戦闘になりかねなかった。
しかし、彼らは慶喜と共に亡命先のフランスに向かう船の上の人であり、この一件は何ら関わりない話であった。
また、新政府軍を構成する薩長土肥から恨みを買っていた小栗上野介のような人物が、江戸に残っていたら復讐の対象とされかねず、日本は優れた人材を無為に失っていただろう。
江戸城無血開城で戊辰戦争は一つの峠を越えることになった。
慶喜の海外亡命は、日本に残った旧幕府勢力を著しく弱体化させることになる。
鳥羽・伏見の戦いの戦いでは、大阪城に陣取った慶喜が夜間、幕府軍艦で江戸に敵前逃亡したことで幕府軍は士気崩壊に至ったが、それと同じことがもう一度起きたのである。
新政府軍は東北に足を踏み入れた時、東北の各藩は降伏やむ無しとして戦わずして、恭順の道を選んでいる。
最強硬派の会津藩でさえ、臥薪嘗胆と称して無血開城となった。
藩主の松平容保は慶喜と同じく海外亡命の道を選んで、家臣を失望させたため、誰もがバカバカしくなってしまい戦いの機運が盛り上がらなかったのである。
もちろん、旧幕府の勢力が蝦夷地、函館に集まり臨時政府を作るようなことも起きなかった。
慶喜が海外亡命を選ばなかった場合、戊辰戦争はもっと長引いただろうと言われている。
最悪の場合、フランスやイギリスといった欧米列強の介入を招いて、植民地に転落するきっかけとも成りかねず、迅速な内戦の決着は新政府による統治を円滑なものとした。
もちろん、国富や人材の損失が最小限にとどまったことは言うまでもなく、明治政府は幸先良いスタートを切ることができたといってもよいだろう。
内乱勃発を阻止しようと奔走し、それに失敗した坂本龍馬だったが、その乱を最小限に留めることには成功したと言える。
以後、龍馬は活動の場を国外に移し、世界の海援隊としての活躍を本格化させていった。
龍馬が再び日ノ本の土を踏むのは、6年後のことである。