北太平洋ですが、何か?
北太平洋ですが、何か?
1940年7月1日 日本の遣英船団が英国本土を目指してきたとき、米太平洋艦隊の主力部隊が北太平洋を西へ進んでいた。
空母エンタープライズを含む戦艦4隻を中心とする艦隊は、徹底した無線封鎖と情報欺瞞によって日本軍のマークを外れて活動していた。
一応、日本軍は情報は掴んでいたのだが、米空母機動部隊が同時期に実施してたヒット&ラン方式の散発的な空襲だと誤判断していた。
そのため、千島列島の各地には警報が出ており、各地で空襲に備えた準備が行われていた。
普通に考えれば、それで十分な対応だった。
だが、同月3日に千島列島の北端にある占守島に米軍部隊が上陸した。
これは全くの奇襲攻撃だった。
警報は発せられていたが、空爆による一撃離脱を想定しており、いきなり上陸してくるとは考えていなかったのだ。
そして、日本軍は手もなく米軍の上陸を許してしまっていた。
米軍の主攻はマリアナ諸島だと考えており、南の守りを固めていたので北端の守りは全く手薄だった。
一応、日米開戦後に千島列島は北の最前線として臨時要塞化が決定されており、工事も進んでいたのだがマリアナ防衛が最優先でその進捗状況は芳しいものではなかった。
なにしろ、千島列島は夏でも最高気温は15度程度でしかなく、冬は極寒で連日の吹雪という土地である。
ほぼ1年中に渡って濃霧におおわれるため日照不足により赴任した兵士が精神を病むことさえある過酷な土地であった。
そんなどうしようもないところに米軍が攻めてくるはずがないと考えていたのである。
それでも歩兵5個大隊及び戦車1個連隊(旧砲塔チハ72両)が展開するなど、地上戦の備えはできていた。
ただし、航空戦力は弱体で、占守島のとなりに位置する幌筵島に滑走路1本の飛行場があり、そこに九七式戦闘機8機が言い訳のように存在するばかりだった。
早期警戒用のレーダーは配備されていたが、濃霧により虚探知を連発するため、あまり信用されていなかった。
故に、エンタープライズから発艦した41機の攻撃隊は完全な奇襲に成功し、上陸作戦における最も重要な要素、制空権の完全な奪取に成功した。
幌筵島の滑走路は戦艦カルフォルニア、テネシー、ネヴァダの砲撃によって完全破壊され、北千島の制空権は米軍の手に落ちたのである。
ただし、全てが上首尾というわけにはいかなかった。
占守島守備隊は、
「上陸作戦に対する機甲反撃のお手本」
と後に称されるようにことに巧みな反撃に成功させた。
戦車第11連隊は、空爆が始まると直ちに上陸予想地点へと前進し、米第2海兵師団が上陸を開始すると橋頭堡への突入に成功した。
最終的に戦車第11連隊の反撃は、2回に渡って米軍の上陸を阻止することに成功し、幌筵島砲撃を終えた米戦艦3隻の艦砲射撃によって潰えることになった。
この時、戦車第11連隊の主力であった九七式中戦車”チハ”は旧式化した短砲身57mm砲装備のものだった。南方戦線では既に75mm砲に換装した新砲塔チハや九九式重戦車の配備が進んでいたが重要度の低い北千島にはなかった。
それでも、まともな戦車も対戦車火器も持っていない上陸直後の米軍に対して、チハは無敵の存在だった。
重装備揚陸前に橋頭堡へ戦車が突入してきた場合、対戦火力を持たない歩兵にできることは、対戦車地雷や爆薬を抱いての肉弾攻撃しかなかった。
それでもどうにもならなかったので、座礁覚悟で沿岸に接近した米駆逐艦ファーストスノウが5インチ砲でチハを直射し、反撃の57mm砲弾の釣瓶撃ちを受けて小破している。
ファーストスノウの甲板はチハの攻撃で地獄と化し、唯一残った40mm対空機関砲は砲撃を続けるために死亡した水兵の死体を積み上げて土嚢の代わりにしたほどだった。
後に米軍は歩兵携帯用の対戦車擲弾発射器を配備することで、歩兵にも対戦車攻撃手段を与えることに成功するが、1940年7月にはまだ影も形もないものだった。
なお、米海兵隊はこの戦いの後、極度に日本戦車を恐怖するようになり、
「チハタンコワイ!」
と魘されるものも現れるほどのトラウマになった。
だが、それでも第1ラウンドは米軍の勝利とするほかない状況であった。
日本軍は占守島の大部分は米軍が占領するところになり、飛行場のある幌筵島も危うい状況となった。
逆に言えば、この方面で日本軍は不意を突かれるほどに気を抜いていたといえる。
実際のところ、北千島のようなどうしもないところで戦争をやる予定など、日本軍には全くなかった。
北千島は年中濃霧で覆われた海域であり、まともに戦争ができるのは夏の間だけだった。
海象も荒々しく艦隊の展開も容易ではなく、前述のとおり濃霧のため大部隊を集結させれば、同士討ちの危険さえある戦争には向いていない場所なのである。
そんなところに大艦隊を送り込んでくる米軍の意図を計りかね、連合艦隊司令部は首をひねったとされる。
その疑問に答えたのは帝国陸軍だった。
陸軍は満州国境地帯で、ソビエト軍が演習と称して大部隊を集結させつつあることを掴んだのである。
この情報収集に活躍したのが、最新鋭の百式司令部偵察機だった。
戦略情報収集のため開発されたこの機体は、最新の航空技術を惜しみなく投じた高高度高速偵察機である。
河城重工の新型エンジン・カッパード106Cは、高高度飛行のため1段3速式過給器を備え、百式司偵を高度8,000mで時速777kmの速度で引っ張ることが可能だった。
空気抵抗を極限まで減らすために曲面を多用したコクピットは温室と呼ばれ、有害抵抗を生み出すラジエターを排除するため主翼には表面蒸気冷却という特殊なエンジン冷却機構が備えられた。
表面蒸気冷却は速度実験機やレーサー機などの特殊用途に使用されるもので、被弾に弱く構造が複雑になることから実用機に用いられたのは百式司令部偵察機のみである。
戦略偵察機が特殊用途機でないとするならば、という但し書きがつくが。
1940年時点で百式司偵よりも高速の実用戦闘機(一部の速度実験機は除く)は存在せず、大口径高射砲のみが撃墜可能(ほとんど無理)とされる最新鋭偵察機だった。
百式司偵の写真偵察により、シベリア鉄道の運行状況やソビエト・シベリア軍団の集結状況は筒抜けだったのである。
東京の大本営では、この情報に基づき、米軍の北千島侵攻を米ソの共謀、ソビエトの対日侵攻作戦の前触れであると判断して恐怖に戦いた。
米ソ挟撃という悪夢である。
米軍の北千島侵攻は、海路による米ソ連絡線の確立が目的であると断定された。
これを受けて、内地にいた空母赤城、飛龍、蒼龍を基幹とする第3艦隊は直ちに出撃した。
赤城、蒼龍、飛龍の3隻が揃って出撃するのは、開戦以来初めてのことだった。
特に赤城と蒼龍は、トラック奇襲で大破して以来、初めての大規模作戦への参加である。
両空母共に、損傷修理と並行して対空火力の増強や新型レーダーの搭載、新型着艦制動装置への換装を行っており、赤城は8インチ砲を下ろして高角砲や機銃を増備していた。
赤城の改装は徹底したものであり、撤去した8インチ砲の弾薬庫を改装して、大量のオペレーターを配置した防空戦闘管制室を設置するなどしていた。
この改装で増えた重量を補償するため、赤城にはバルジが設置されている。
そのため、
「太ましくなった」
「むっちりした」
「力士にでもなるつもりか?」
などという不名誉な会話が交わされたとされている。
再建された空母機動部隊を指揮するのは、角田覚治中将だった。
1940年7月時点の第3艦隊の主要な戦力は以下である。
指揮官 角田覚治中将
旗艦 赤城
空母 赤城、蒼龍、飛龍
戦艦 大和 武蔵、土佐
軽巡洋艦 8隻
駆逐艦 甲型16隻、乙型(秋月型)4隻
日本海軍はトラック奇襲の痛手から立ち直りつつあった。
大和型戦艦2番艦「武蔵」が就役し、3番艦「信濃」、4番艦「甲斐」の完成も間近だった。
小型艦に関しても対空火力の高い秋月型防空駆逐艦が艦隊に加わっていた。
しかし、角田艦隊の行動は遅きに失するものであり、艦隊が北方海域に展開した時には、既に米空母も輸送船団も影も形もなかった。
機動部隊展開の前に基地航空部隊により空爆が始まっていたが、濃霧により空爆の効果は限定的なものだった。
角田艦隊も、濃霧によって航空作戦を阻まれており、撤退までの間に遭難や着艦事故で装備機の5%を失うなど、散々な結果に終わっている。
酷い時には、基地航空部隊の陸攻が濃霧の下にいた角田艦隊を米機動部隊と誤認してもう少しで同士討ちするところだった。
なお、誤爆しかけた陸攻は敵味方識別装置を搭載していない旧型機だったため、この事件をきっかけに日本軍の航空機や水上艦艇に敵味方識別装置を緊急配備することになっている。
角田艦隊は北千島の制海権を奪還したが、角田艦隊の留守を突いて空母サラトガ、ワスプを基幹とした別動の艦隊がパラオ諸島を奇襲したため長居することはできなかった。
時間は帝国海軍を復活させたが、それは米軍も同様であり、米太平洋艦隊にはエンタープライズ、サラトガ、ワスプの3空母がいた。
角田艦隊が奇襲に対応するため南下すると、それを見計らったのように米艦隊が現れ、北千島の制海権を再奪取している。
サイパン島の戦いは、米軍にとって散々な結果に終わったが、彼らは未だに高い士気と作戦能力を維持しており、些かも戦いの主導権を手放す気がないのは明らかだった。
かくして、短くも熱い北方海域の戦いが始まることになった。
この戦いの特徴はやはり”霧”であった。
霧が出ている間は、飛行機は飛べなかった。
空爆はもちろんのこと、航法能力の低い単発単座機の飛行は遭難の危険が大きかった。
帝国海軍の航空部隊の陸上攻撃機なら問題なかったが、目標上空に霧が立ち込めていることが頻発した。
同士討ちであわやということになった日本軍は、各航空部隊に目視で爆撃目標を確認できない場合は攻撃を中止するように指示を出しており、航空作戦の効率は著しく低下した。
もちろん、航空作戦が上手くいかないのは米軍も同様である。
そのため水上艦同士の昼間戦闘が頻発することになった。
そして、それこそが米軍の狙いだった。
航空作戦が著しく制限され、制空権なしの昼間でも水上艦が活動できるのが北太平洋であり、制空権喪失と夜戦でコテンパンにされたマリアナの戦いの苦い経験を反映していた。
トラック奇襲の後遺症に苦しむ帝国海軍に対して、戦艦の数的な優勢を確保している米太平洋艦隊が攻勢にでることができる唯一の戦場だったともいえる。
北太平洋の緒戦は奇襲に成功した米軍の優勢に進んだ。
1940年7月14日には、占守島守備隊が幌筵島へ舟艇機動で撤退し、占守島は米軍の手に落ちた。
合衆国政府はことの他、この戦果を大きく喧伝した。
日本の固有の領土を占領したことは大きな政治的な得点だったからである。
既に米軍はマーシャル諸島やトラック環礁など、日本の国連委任統治領を占領していたが、それは植民地であって日本本国ではなかった。
故に日本固有の領土である占守島の占領は、快挙である大きく喧伝された。
日本が国土と定める場所にアメリカの手が届いたことは、直ぐに終わるはずの戦争がいつまでたっても終わらないことに苛立ち始めていた米国世論を鎮静させる効果があった。
ちなみに、ほとんどのアメリカ人は占守島がどこにあるかわからず、北海道を占領したと考えていた。
まさか、388キロ平方メートルの小さな島を落としただけと思っていなかったし、報道もそれを大きく取り上げなかった。
だが、その小さな島の占領が米ソの秘密交渉を大きく前進させたことも確かだった。
ソ連を対日戦に引き込みたい合衆国政府は、米軍の優勢をスターリンに見せつける必要があり、北太平洋の戦いはソ連の目にも届きやすい戦場だった。
ワシントンとモスクワの間を頻繁に外交官が行き来していることは日本やイギリスの情報網でも掴んでいた。
ドイツ外相のリッペントロップ外相がモスクワで、ソ連の対日参戦を促していたことが後に明らかになっている。
ヒトラー・ドイツは英国本土航空戦の真っ最中だったが、東欧やロシアに領土的な野心があり、ソビエトの対日参戦は好都合だった。
ヒトラーはスターリンが対日戦を始めたら、その無防備な背中を殴る気満々であった。
もちろん、スターリンはヒトラーの危険性には気づいており、米独と同時に日英とも交渉を行っていた。
英国首相のチャーチルが後に述べたとおり、
「もしヒトラーが地獄に侵攻することになれば、私は下院において悪魔に多少なりとも好意的な発言をするようになるだろう」
として、日英はスターリンとも手が組めると考えていた。
坂本首相はより直接的で、
「もし にほんの みかたになれば せかいの はんぶんを すたーりん にやろう」
などと述べている。
1940年のソビエトは第二次世界大戦のキャスティングボードを握っており、どちらに転ぶか予断を許さないものだった。
そして、スターリンはそれによって最大の利益を得ようと画策しており、注意深く北太平洋の日米決戦の行方を観察していた。
故に占守島の失陥は大きな日本の戦略的な失態だった。
当時の日本政府や軍事関係者には占守島の固守し、守備隊は玉砕すべきだったという意見さえあったほどである。
だが、日本軍の実戦部隊を実質的に代表していた連合艦隊の土方長官は占守島からの撤退と幌筵島への緊急輸送作戦を立案、実行した。
北千島唯一の飛行場がある幌筵島は、米軍の包囲下にあって頑強な抵抗を示しており、幌筵飛行場はまだ日本の手に内にあった。
占守島と異なり、幌筵島守備隊は水際での迎撃ではなく、内陸での陣地戦で長期持久体制を選択していた。
これは幌筵島には飛行場があったことが大きい。
水際の迎撃で早期に戦力を消耗した占守島には飛行場がなく、守るべきものがなかったために(強いていうなら島そのもの)、徹底的な固守とその論理的な帰結として水際での戦いを選ぶ他なかったと言える。
幌筵島守備隊も水際迎撃の構えがないわけではなかったが、飛行場防衛のために内陸に主力をおいており、早期の戦力消耗は回避された。
濃霧の立ち込める北太平洋の戦いにおいて、幌筵島の飛行場と航空部隊の存在は限定的なものだったが、制空権の確保は至上命題だった。
そのため、連合艦隊は水上艦の増援を大泊の第5艦隊へ送り込み、幌筵島への増援を緊急輸送した。
増援や各種弾薬、重装備を満載した輸送船6隻は大泊を出港し、第5艦隊の護衛のもとで幌筵島島を目指して北上した。
この時出撃した第5艦隊の戦力は以下のとおりである。
指揮官 木村昌福中将
旗艦 妙高
重巡戦艦 妙高、羽黒、那智、足柄
軽巡洋艦 多摩
駆逐艦 甲型8隻
というもので、指揮官は木村昌福中将だった。
行く手には、戦艦カルフォルニア、テネシー、ネヴァダを中心に、重巡4隻、駆逐艦16隻が待ち構えていた。
木村艦隊は輸送船を確実に送り届けるために、大胆な陽動を行った。
木村提督は輸送船に駆逐艦4隻の護衛をつけると艦隊を分離して、幌筵島を囲む米艦隊を挑発し、これを北へと誘いだした。
北千島沖海戦の始まりである。
昼間に戦艦3隻を含む艦隊に、巡洋艦主体の艦隊が行っていい作戦ではなかった。
この時、米艦隊を率いていたのは、フランク・J・フレッチャー提督だったが、
「これほどの戦力を相手に挑むとは、愚かなのか・・・それとも」
と日本艦隊の動きを不安視した発言を残している。
そして、その不安は的中することになる。
濃霧に覆われた北千島周辺海域において、水上レーダーを装備する日本艦隊は、天候に係わらず正確な砲撃と艦隊運動が可能であるのに対して、未だに水上レーダーを持たない米艦隊はさんざんに翻弄されることになる。
それでも風向き次第では霧が晴れることもあり、米戦艦の巨砲が旗艦妙高を狙うことがあった。
だが、巧みな操艦によって砲撃は空振りに終わり、米戦艦は300発以上も14インチ砲弾を発射したが、艦隊に大きな被害はなかった。
最終的に日米が共に駆逐艦3隻を失う形で海戦は終わったが双方が投入した兵力を考えれば、日本の勝利と言えた。
何よりも決定的だったのは、米艦隊が島から離れた隙に増援船団が揚陸作業を完了させ、増援と大量の補給物資を幌筵島に送り届けたことだった。
これによって米軍に圧されていた幌筵島守備隊は息を吹き返し、飛行場も機能を回復させることになる。
戦術的にも、戦略的にも日本軍の勝利と言えるだろう。
修復され機能を取り戻した幌筵島飛行場に、日本軍航空部隊が展開したのは1940年7月28日だった。
12機の九九式艦爆が展開して、対地攻撃と幌筵島周辺の米艦艇への攻撃が始まった。
ただし、天候不良と米軍の艦砲射撃によって僅か一週間で機材の半数を失っており、戦局が楽になったわけではなかった。
それでも濃霧と砲撃の合間を縫って出撃を繰り返す幌筵飛行隊の存在は、徐々に北千島のパワーバランスを日本に傾けていくことになる。
幌筵飛行場の機能回復を受けて米太平洋艦隊は空母エンタープライズ、サラトガ、ワスプによる間接護衛の元で、大規模な増援船団を幌筵島に差し向けることになる。
これに呼応して日本海軍も空母赤城、蒼龍、飛龍を中心とする艦隊投入を決意。
日米空母機動部隊決戦となる北太平洋海戦が始まった。
1940年8月11日のことである。
両軍共に久しぶりの空母機動部隊同士の戦いにいきりたったが、この戦いもまた濃霧により双方の航空戦は空振りに終わった。
1週間近くも濃霧が垂れ込め、発艦すら不可能だった。
そのため双方が空母の護衛から水上艦を抽出して、差し向けることになる。
そして、この海戦は第二次世界大戦における最も混乱した水上戦闘として記録されることになった。
帝国海軍は自慢の水上レーダーによって、米海軍の水上艦隊をほぼ殲滅するほどの戦果を挙げた。
戦艦3隻、巡洋艦4隻以上、駆逐艦に至っては20隻は沈めたと考えられた。
対する味方の損害は0であった。
何しろ、レーダーに映ったゴーストを艦隊全力で砲撃していたのだから、反撃などあるはずもなかった。
ちなみに米軍も似たようなミスを犯しており、霧の中から聞こえる砲声に驚いて岩礁を敵艦隊を見間違えて100発近い魚雷を一斉発射している。
お互いが大部隊を投入したこの海戦は情報の錯綜が凄まじく、霧の中で目視できない範囲で艦隊が散らばって戦った結果として、最後まで何がなんだかわからないままに進行した。
実際、海戦の全貌がおよそ明らかになったのは、日米双方の記録を突き合わせて戦史研究が行われるようになった1960年代のことである。
それでも細部に至っては現在も不明のままである。
どれほど混乱した海戦だったかといえば、帝国海軍の駆逐艦五月雨が濃霧の中で艦隊から落伍し、米海軍の駆逐艦部隊と遭遇。日米共に相手を敵だとは考えず、五月雨はそのまま米艦隊と合流、行動を共にして誰も疑問に思わなかったほどである。
なお、五月雨はしばらくして自艦が米艦隊のほぼど真ん中にいる気が付き、濃霧にまぎれて離脱して九死に一生を得ている。
大部隊を投入した戦いにも係わらず、この海戦で沈んだ船はなく、日米双方が戦果を誤認し、勝利宣言をすることになった。
戦術的には引き分けと言えた。
ただし、戦略的には米軍の勝利といえる戦いであり、この混乱を突いて米軍の増援船団が幌筵島に到着、物資の揚陸に成功し、陸の戦いは再び米軍有利に傾いた。
日本海軍は輸送船団阻止に失敗したのである。
圧力を強めた米軍の攻勢によって、幌筵飛行場周辺まで戦場となり、飛行場は事実上機能停止にまで追い詰められている。
幌筵島守備隊の通報によって、連合艦隊は増援阻止に失敗したことを悟り、海戦内容を検証した結果、上述の大錯誤に気がつくことになる。
水上部隊を指揮していた栗田健男中将は、誤報を連発した責任を問われて更迭された。
誤報以外にも栗田提督の消極的な艦隊指揮に土方GF長官が不満を抱いていたということも大きかったとされる。
なお、米海軍は輸送作戦に成功したため、上述の錯誤には気づかないままだった。
それどころか、日本艦隊に大打撃を与えたと判断して戦況を楽観することになる。
幌筵島の地上戦は粘り強く日本軍が抵抗し戦況は一進一退であったが、米軍はこの戦いに決着をつけるべく、水上艦による大規模な艦砲射撃を行った。
結果として、飛行場、幌筵島守備隊の本部があった柏原も陥落、守備隊は北端にまで追い詰められることになった。
1940年8月22日のことであった。
この時が、北千島の戦いで米軍の優勢が最大化した瞬間だった。
同時に満州国境の向こうでソビエト・シベリア軍団の大規模演習が始まっていた。
ソ連が対日参戦に最も近づいた日でもあり、帝国陸軍と日本政府が防衛のために対ソ先制攻撃が行うべきか否かで、徹夜の大激論が行われた日もであった。
議論の結果は、
「例え、海軍の戦艦を全て沈めてでも、幌筵に増援を送ります。送ってみせます!」
という土方GF長官の強い決意表明によって、海軍の反撃を見守ることで落ち着いた。
そして、それはあっけないほど簡単に成功を収めた。
艦砲射撃を行って弾薬を激しく消耗した米艦隊は封鎖を解いて前進基地のアッツ島まで後退していたのである。
先の海戦で日本艦隊は壊滅したので、それで問題ないとされたのである。
だが、実際には日本艦隊は無傷のままであり、これは致命的な判断ミスだった。
更迭された栗田中将に代って、戦艦大和、武蔵を始めとする水上打撃部隊を与えられた木村提督は、24隻の輸送船に便乗した日本陸軍の切り札である第7師団を無事、幌筵島まで輸送することに成功する。
この輸送作戦において連合艦隊は、
「この作戦に失敗はありない。作戦は成功するまで続行される。大和、武蔵が沈んでも完遂さなければならない」
という悲壮な覚悟を以って臨んでいたが、艦隊は一弾も使用することなく作戦を終えた。
何しろ、米艦隊は引き上げたあとだったからだ。
「土方長官は幸運すぎる」
「いや、この場合は木村提督が幸運すぎるんじゃないか?」
などという会話が東京の大本営で交わされたという。
帝国海軍は、幌筵島周辺の制海権を奪還し、幌筵島の米軍は孤立することになった。
帝国陸軍第7師団は戦車2個連隊を含む戦車師団であり、対ソ戦戦備の要だったから第7師団の投入はぎりぎりの決断だった。
その戦力は圧倒的であり、75mm砲装備の新砲塔チハを定数装備した日本軍戦車部隊は幌筵島の米軍を容易く粉砕してみせた。
柏原は奪還され、飛行場は再び日本軍の手に戻った。
日本軍の逆上陸を受けて、自分たちの判断ミスに気がついた米海軍は、アッツ島で補給を済ませたフレッチャー艦隊を護衛につけて増援船団を送り込むことになった。
これが第3次北太平洋海戦(1940年8月30日)となる。
この戦いは、天候に恵まれたことから空母機動部隊決戦となった。
空母エンタープライズ、サラトガ、ワスプを中心とするフレッチャー艦隊と空母赤城、飛龍、蒼龍を要する角田艦隊にとっては3度目の正直ともいうべき戦いだった。
米機動部隊は、これまでの戦いで日本軍機に太刀打ちできなかったF2Aに代って、新型のF4Fを受領しており、士気が上がっていた。
艦上爆撃機も新型のSBDで固められており、雷撃機は旧式化したTBDだったが再建された機動部隊としては申し分ない状態だったといえる。
だが、角田艦隊も新鋭機を受領しており、日米の技術格差は空の戦いでも明らかになろうとしていた。
第三次北太平洋海戦は、フレッチャー艦隊が先に角田艦隊を発見して始まった。
索敵爆撃のSBDが飛龍を発見し、急降下爆撃を敢行。命中しなかったものの、先制攻撃のチャンスを掴んだのである。
直ちにエンタープライズ、サラトガ、ワスプから艦載機が飛び立ち、飛龍に殺到した。
この時、角田艦隊の他の空母は米軍には発見されていなかった。
これまでの戦訓から帝国海軍は空母の分散配置を徹底していたためである。
飛龍の護衛には、直掩の軽巡利根、筑摩と他に甲型駆逐艦4隻が輪形陣を築いており、長10サンチ高角砲、37mm3連装機銃、おびただしい数の25mm単装機銃が空を睨んでいた。
このミニ機動部隊を率いていたのは山口多聞少将だった。
どちらかといえば闘志で部下を率いていくタイプの山口提督だったが、決して猪武者ではなく攻撃のチャンスが巡ってくるまで守りを固めて敵を迎え撃つ判断を下している。
飛龍に殺到する米攻撃機は80機を超えていたが、山口提督には勝算があった。
飛龍の甲板には、零式艦上戦闘機16機がエンジンを温めていたのである。
この防空戦闘がアメリカ軍の恐怖のどん底に突き落とすゼロ・ファイターの初陣だった。
また、同時にタービンロケットエンジン搭載型戦闘機の初の実戦任務となる。
タービンロケットの轟音を響かせ、カタパルト射出される零戦隊に向かって山口提督は、
「今度は勝ったかなぁ」
などとやや場違いな意味深な言葉を残している。
タービンロケットエンジン、つまり軸流式圧縮機にて空気を圧縮し、ケロシンを噴射して爆発させ、その反動で推進力を得る動力装置は、戦前から熱心に研究開発が進めていた次世代パワープラントだった。
欧米ではジェットエンジンと称されるものである。
その創始は大正時代に遡り、最初のタービンロケット機関を発明したのは岡辺倫太郎だった。
ただし、これはプロパンガスを熱と二酸化炭素に変換するしか意味のないものであり、動力源には全く使用不能だった。
当時の日本の製造技術や金属材料では、それが限界だったのである。
ただし、粗悪な燃料でも動くタービンロケット機関は、その支配領域に優良な石油資源を持たない帝国陸海軍にとって魅力的なものだった。
満州の明治油田は油質が重く、ガソリンの大量生産には向いていないことから、航空機のタービンロケット化は急務だと考えられた。
どのぐらい帝国陸海軍がタービンロケットにいれこんでいたかといえば、1940年代初頭には既に水上艦、戦車、航空機の動力を全てタービンロケット化しようと画策していたほどだった。
ただし、水上艦のタービンロケット化が達成されるのは1950年代で、戦車に至っては60年代の終わりに漸く達成された。
また、高高度飛行用のデバイスとしてタービンロケット機関は有望視された。
第一次世界大戦末期に投入された同盟、連合国の大型爆撃機は高度3,000m以上で飛ぶようになっており、将来の戦略爆撃機は対空砲や戦闘機の迎撃を回避するために高度8,000m以上で飛ぶことが確実視されていた。
故に、高高度でも出力が落ちない(逆に空気抵抗が少ないため有利となる)タービンロケットエンジンはその有用性を強く認識されるようになった。
倫太郎の研究は河城重工の発動機製作部門に引き継がれ、徐々に機構の洗練が進み、材料工学の発展にともなって高出力化を果たした。
そして、最初の実用戦闘機が開発された。
零式艦上戦闘機21型である。
機体の開発は三菱航空機が担当した。エンジンは河城重工製の推力880kgのNTR-004Bとなった。
零戦はこれを機首に1基備えており、機体中央下面から噴出した。水冷レシプロ戦闘機のエンジン部分にそのままタービンロケットを搭載した形である。
極初期の単発TR機関搭載戦闘機に採用された形式で、機体設計はほぼレシプロエンジン機を踏襲したものだった。
もちろん、主翼は直線テーパー翼であり、超音速飛行など夢のまた夢である。
だが、高度8,000mで400ノットを発揮した零戦は、航空機のタービンロケット時代を切り開いたエポックメイキングであった。
米攻撃隊はタービンロケットの轟音と共に突撃するプロペラのない戦闘機にバラバラに崩され、大打撃を被った。
F4Fは時速100kmも高速で飛行する零戦に全く追尾できず、零戦隊はF4Fを無視して攻撃機のみを選択攻撃可能だった。
戦闘に参加した16機の零戦の戦果はSBD12機、TBD18機、F4F3機撃破ないし撃墜で、被撃墜0という輝かしいものだった。
攻撃された米軍はプロペラのない超高速戦闘機に襲われたことに大きなショックを受けた。
特に新型のF4Fが手も足も出なかったことも大問題だった。
米海軍航空部隊の恐怖は深刻なものであり、
「積乱雲とゼロから逃げても良い」
という通達が公式に出されるほどだった。
米軍に深刻なゼロ・ショックを齎した零戦だが、無敵のスーパーウェポンというわけではなく、初期型には様々な問題を抱えていた。
非力なエンジンを補うために機体は限界まで小型・軽量化されており、6G以上で旋回すると機体が空中分解するほど脆かった。
高速発揮のために高翼面荷重設計となっており、艦上戦闘機にも係わらず低速飛行性能が劣悪で、着艦事故が多発している。よって、軽空母での運用は不可能であり最低でも雲龍型以上が絶対必須であった。
発艦についても当時の常識であった滑走発艦は不可能であり、油圧カタパルトがなければ発艦できない。
赤城の改装工事が長引き、バルジを追加するほど船体重量が増えたのも、タービンロケット対応工事に原因の一端がある。
エンジンの信頼性は劣悪であり10時間の運転でオーバーホールが必要だった。高燃費で実用上の航続距離は300km程度しかなかった。
エンジンの信頼性の低さから飛行そのものが命がけであり、急激なスロットル操作を行うとエンジンがフレームアウトするか高熱で溶けた。エンジンが非力なために上昇能力や加速性も悪く、低速でレシプロ戦闘機と遭遇した場合、まず生き残れなかった。
零戦の欠陥はエンジンに起因するものが大半であり、極初期のタービンロケットエンジンの悪いところを全て体現していたが、海軍航空隊は成功と判断し、改良を重ねて10,000機が生産した。
なお、エンジンは散々な評価だが、武装は絶賛されており、九六式艦戦が装備していた20mmモーターカノンを翼内に4門装備していた。
モーターカノンはエンジンにマウント形式の機関砲であり、本来は翼内には装備不可だったが航空機設計技術の発展により、翼内装備を実現していた。
イギリス空軍もモータカノン用のイスパノ20mm機関砲をスピットファイアの翼内機関砲として装備しており、大威力のモーターカノンは殆どの米軍機は一撃で撃墜することができた。
話を1940年8月30日の北太平洋に戻すと、飛龍が空襲を受けている間に別動の赤城、蒼龍からはエンタープライズ、サラトガ、ワスプへの報復が突き刺さり、500kg爆弾を6発被弾したワスプが大破炎上して自沈。さらにエンタープライズ、サラトガも中破して撤退した。
角田艦隊の損害は飛龍が小破、軽巡筑摩が大破したに留まった。
その後も好天が続いたため、角田艦隊は追撃戦に移行。
全速で逃走するエンタープライズ、サラトガの捕捉には失敗したが、低速の増援船団は逃げることができず、空襲で12隻の増援船団が全滅するという悲劇的な結末に終わった。
角田艦隊は逃げる米空母を追い求めてさらに追撃を続けたが、空母赤城が米潜水艦の雷撃を受けて大破したことから追撃を断念した。
大破して横須賀のドックに戻ったが赤城に対して、
「また来たよ・・・あの船」
「次はいつまでいるつもりなんだ?」
等という工員の会話が囁かれたとされる。
北太平洋の戦いはこの海戦後、終息に向かう事になった。
マリアナの戦いで制空海権を喪失した島嶼戦がただの悲惨でしかないことを骨身に染みていた米軍は占守島、幌筵島からの撤退を決意。駆逐艦を使って撤退した。
この撤退作戦は日本軍に察知されるところになり、甚大な損害を被ったものの上陸戦力の7割を脱出させることに成功している。
米軍は敗れたが、同じ失敗を繰り返さなかった。
海戦の結果を受けて、スターリンは交渉の引き伸ばしを図った。
日本軍の戦闘能力は高い水準で維持されており、現段階の対日参戦は割に合わないと判断したのである。
ホワイトハウスは様々な経済、軍事援助をちらつかせてスターリンにモーションをかけたが、スターリンは乗せられなかった。
シベリアでの大規模演習は演習のみで終わり、帝国陸軍を震え上がらせたが、それ以外の実害は生じなかった。
やがて、シベリアに厳しい冬が訪れるとソビエトの対日参戦は遠のいたと判断されるようになる。
辛くも日本は虎口を脱したと言える。
だが、戦いはそれでも終わらなかった。




