けものはいてものけものはない。だが、A君。てめーは駄目だ。
けものはいてものけものはない。だが、A君。てめーは駄目だ。
1939年10月以後、太平洋の戦いは奇妙な静寂に包まれた。
マリアナの戦いで消耗し尽くしたアメリカ軍は戦線を後退させて戦力回復を図り、日本軍は元より守勢防御態勢であったから、戦いは成立しなくなった。
太平洋は海軍の戦争であり、両者が艦隊保全に入ってしまうと動きがなくなるのである。
泊地で逼塞する主力艦隊に反して活発に活動しているのは、日本海軍の潜水艦部隊と対抗するアメリカ海軍の対潜部隊だった。
開戦直後に西海岸沿岸を荒らし回った日本海軍潜水艦部隊は狩りの季節を謳歌していた。
虐殺に近いレベルで大損害を受けた米商船隊は船団を組んで行動するようになり、船団には必ず護衛駆逐艦がつけるようになっていたが、焼け石に水だった。
米海軍の護衛艦は対水上レーダーを持っていないので夜間の潜水艦水上襲撃は未だに有効だったからだ。
日本海軍の伊号潜水艦は高速水上航行が可能であり、船団の進路前方にやすやすと回り込んで、船団のど真ん中に浮上して魚雷を乱射して大戦果を上げていた。
しばしば備砲の14サンチ砲で護衛の駆逐艦と撃ち合うことさえ(しかも勝利する)あり、
「お前のような潜水艦がいてたまるか!」
などと米海軍から揶揄されるような状況が発生していた。
米海軍がこのような屈辱劇な敗北を喫することになったのは、レーダーの有無が大きかった。
米軍の護衛駆逐艦に搭載可能な対水上レーダーが現れるのは1941年6月まで待たなくてならず、配備されたそのレーダーも決して満足いく性能のものではなかった。
米軍が装備した真空管を使ったレーダーは大きく重く、しかも消費電力が過大だった。
トランジスタで小型化された日本製レーダーは漁船にさえ搭載可能であり、日米の電子産業の実力差が現れた形だった。
帝国海軍の潜水艦には、1941年4月から魚雷に電子回路を組み込んで複雑なパターン制御を可能とした面制圧魚雷や誘導魚雷が現れるため、アメリカ海軍の護衛駆逐艦は最後の最後まで苦闘を強いられることになる。
伊号潜水艦と米海軍の護衛駆逐艦のキルレシオは概ね1対3である。
水上艦相手には有利に戦いを進めた帝国海軍の潜水艦だったが、対潜哨戒機の相手は困難だった。
米海軍は水上艦による護衛が返り討ちに遭うことがしばしばだったため、潜水艦では反撃の手段がない航空機による空からの対潜制圧を拡大していくことになる。
空から高速で接近する対潜哨戒機には帝国海軍自慢の誘導魚雷も無効であった。
航続距離の長いB-17やカタリナ飛行艇は対潜哨戒に威力を発揮し、伊号潜水艦が昼間に浮上航行するのは危険になった。
幸いにも米軍機には対水上レーダーが装備されていないので、夜間は浮上航行可能だった。
また、伊号潜水艦には対空レーダーが装備されており、接近する航空機があれば潜水してやり過ごすことができた。
また、米軍の航空対潜哨戒には大穴が空いており、パナマからメキシコ沿岸にかけては航空空白地帯であった。
そこで伊号潜水艦は南下してメキシコ沖を狩場にするようになった。
米海軍はこのエアポケットを埋めるため、護衛空母という新兵器を投入することになる。
護衛空母ロング・アイランドは日本の伊号潜水艦に煮え湯を呑まされ続けた米海軍が航空機による潜水艦制圧のために建造した貨物船改装の戦時急造空母だった。
1番艦が就役したのは1940年2月で、訓練もそこそこに護衛駆逐艦と共にメキシコ沖で活動を開始。
そして、浮上航行中の伊号潜水艦を1隻撃沈するという戦果を挙げている。
だが、夜間に航空機を運用することはできず、伊号第168潜水艦の夜間雷撃で2ヶ月後の1940年5月7日にメキシコ沖で沈められた。
ただし、ロング・アイランドの運用成績は優秀で、以後大量建造される護衛空母の魁となるものだった。
ロング・アイランドの運用結果を受けて建造されたボーグ級空母は50隻以上が完成し、週刊空母という仇名を頂戴するほどの大量建造が行われた。
米海軍をしてそのような徹底した対策を行わしめたのは、伊号潜水艦の挙げた戦果があまりにも巨大だったからだ。
1939年を通じて毎月平均して50万tのアメリカ商船が撃沈されている。
ただし、同年のアメリカの商船建造量はおよそ500万tであったから、沈めた数と同じ数が新たに建造されていた計算となる。
開戦時にアメリカ商船隊がおよそ1,200万tであったから、伊号潜水艦はその半数を沈めた計算となる。
作った船を片っ端から撃沈されたに等しい損害であり、アメリカの海運関係者の顔面を蒼白にさせるには十分な成果と言えたが、逆にいえば沈めた数だけで新しい船を作られたことで日本海軍関係者を卒倒させるには十分だった。
アメリカ軍の商船建造量をかなり正確に掴んでいた帝国海軍は、目標を上方修正し1940年に月平均70万tの商船撃沈を目標とするようになった。
この数値は年間合計840万tという冗談のような数値であり、現場の潜水艦艦長達は達成不可能だと考えていた。
実際に達成不可能だった。
1940年中の撃沈トン数は前年から減少して350万tにとどまっている。米海軍の対策が進んだことや、伊号潜水艦の活動範囲から米国商船が激減したことが原因である。
同年のアメリカ造船業界が送り出した商船は800万tであったから、1940年になって漸くアメリカ商船隊の保有船舶は大幅プラスとなった。
出血よりも多い血液を造血すれば失血死を免れることが実証されたのである。
ただし、そのようなことができるのはアメリカ合衆国だけだった。
1939年に日本造船業界は300万tの商船を作り、1940年には450万tも建造している。
日本商船隊はアメリカに次ぐ1,000万tであったから、1940年になると僅かだが日本商船隊はアメリカ合衆国を上回ることになった。
それに対する損失は1939年中に80万t、翌年1940年中に100万tだった。
損失は拡大傾向にあったが、造船量が遥かに上回っており、アメリカ商船隊の被ったような大量出血は免れている。
これには海援隊の対潜部隊の著しい拡充があった。
これは米海軍にとって不本意なことであった。
マリアナの戦い後、米海軍には人事も変更があり、マリアナでの敗戦を受けて米太平洋艦隊司令長官はジェームズ・リチャードソン大将から、チェスター・ニミッツ海軍大将へと変わっていた。
ニミッツ提督の専門は潜水艦であった。
如何に米軍が対日潜水艦作戦を重視していたかが分かる人事である。
だが、ニミッツ長官は本業の潜水艦作戦では大きな戦果を残せていない。
彼が太平洋艦隊を引き継いだときには、サイパン島への無理のある潜水艦での補給作戦で米潜水艦艦隊は半減するほどの損失を被っていたからだ。
戦時生産の第1陣が届いていたが新造艦は何れも練度が不足しており、海援隊の対潜部隊には太刀打ちできなかかった。
海援隊の護衛艦は対水上レーダーやアクティブソナーを標準装備していた。
さらに対潜哨戒機は潜水艦が発する磁気を探知する装置まで搭載しており、例え潜水した状態でもあっても潜水艦を探知可能だった。
海援隊の護衛艦隊は帝国海軍と異なり、自社や同業者の商船を海賊などから護衛することを生業としており、それは創設以来いささかの変化もなかった。
潜水艦や航空機といった新たな脅威が現れてたが、その対策を戦間期も営々と積み上げてきた実績があり、海援隊は1940年時点で世界でもっとも優れた対潜海軍といえた。
そうした対策の中で最も優れた発明品が、潜水艦が使用する短波無線を探知する装置であり、同じものがイギリス海軍に採用されHF/DFの名称で使用された。
潜水艦は集団戦術に適しており、複数の潜水艦による同時襲撃を行うものだが、この無線方向探知機を使用すれば、仲間を呼び寄せるために無線を発信した瞬間に潜水艦は位置を特定されてしまうのである。
対水上レーダー、アクティブソナー、HF/DFは三種の神器として、広く海援隊の護衛艦や帝国海軍の駆逐艦に搭載され、イギリス海軍もその恩恵に預かることができた。
太平洋戦争における伊号潜水艦の活躍を見たイギリス海軍は、
「ひょっとして、私の対潜能力低すぎ・・・?」
と考えるようになっていた。
先の大戦でドイツ帝国海軍のUボートの辛酸を舐めさせられた大英帝国であったが、戦間期は予算不足から潜水艦対策はおざなりにされる傾向があった。
戦艦や空母といった正面装備に予算が偏っていたのは帝国海軍だけではなく、日英米に共通したある種の悪癖といえた。
英海軍にとって幸運なことは、おそらく対潜作戦においては世界最強となっていた海援隊が同盟者であり、合衆国海軍という直近に大失敗をやらかした前例があったことだろう。
要するにカンニングだった。
1939年9月までに大慌てでイギリス海軍は対潜作戦と装備に見直しを行った。
結果、それはぎりぎりで間に合うことになる。
日本から軍需物資とのバーター貿易で入手した最新鋭の対潜兵器の威力は1940年4月のノルウェーの戦いで立証され、作戦に参加したドイツ海軍のUボート部隊は大打撃を被った。
制空権を確立したドイツ軍が最終的にノルウェーを制したものの、優勢なイギリス海軍とまともにぶつかったドイツ海軍は壊滅状態となった。
戦艦シャルンホルストとグナイゼナウは幸運にも空母グローリアスに接近し、復讐する機会に恵まれたが日本製レーダーを搭載したグローリアスはドイツ戦艦の迫撃に気がついて離脱に成功している。
シャルンホルストとグナイゼナウはこの失敗で完全に運から見放され、後日、日本製レーダーを装備した戦艦ウォースパイトに捕捉され、大破してドイツの港に逃げ帰った。
Uボート部隊もまた、レーダー装備のイギリス駆逐艦やウェリトン爆撃機に追い回され、その活動は極めて低調となった。
大西洋における戦いは、緒戦からイギリス優位となったのである。
だが、陸の戦いで大敗しては意味がなかった。
1940年5月1日、ドイツ軍はオランダ・ベルギーといった低地諸国へ侵攻した。
ベルギーやオランダは中立宣言をしていたが、これは全く無視された。
前大戦では中立が守られたオランダさえ蹂躙された。
ドイツに向かうイギリス軍重爆撃機が最短経路としてオランダ上空を通過することを考えれば、オランダの中立を守られる可能性は0%だった。
ドイツ本土防空のためにはオランダにレーダー基地や航空機基地を建設するしかないし、イギリス空軍は中立国だからといって爆撃機を迂回させたりはしない。
オランダが生き延びるには、全土を要塞化して領空侵犯するイギリス軍爆撃機やドイツ軍戦闘機を即座に迎撃できるだけの航空兵力を持つしかないが、斜陽の植民地帝国であるオランダにはそんなものどこにもなかった。
ドイツ軍の動きからシュリーフェン・プラン・ツヴァイの発動と捉えた英仏連合軍はベルギーへ向かって軍を進めた。
だが、これは罠だった。
ドイツ軍の本命は仏独国境地帯に広がるアンデルヌの森で、フランス軍が通過不能地帯としてた深い森を抜けて、ドイツ軍装甲師団が連合国軍の背後を疾走した。
後方連絡線を遮断された・・・と考えた英仏軍主力はパニックが広がり軍組織が崩壊し、自滅に近いかたちで敗れた。
実際にはドイツ軍の装甲師団は歩兵を伴っておらず、包囲網は完璧なものではなかった。
それどころか優勢な歩兵戦力で反撃を受けた場合、ドイツ軍の戦車部隊はハリネズミの陣といった円陣防御で生き延びるのが精一杯の状態へと陥った。
だが、そうした個々の戦いの優勢を全体の優勢に結びつける能力と気概に英仏軍は欠けていた。
フランス軍の軍総司令官兼参謀総長モーリス・ガムラン大将は梅毒と治療薬の副作用で脳の機能が低下しており、軍の指揮ができる状態ではなかった。
そんな人物をなぜ総司令官に据えたのかといえば、政治という他なかった。
ナポレオン一世のクーデタ以後、フランス政界は常に軍のクーデタに脅かされてきた。
ナポレオン三世の第2帝政もまたクーデタによるもので、その後も度々国家改造を掲げる軍のクーデタ危機が起きている。
フランスの政治家は軍を信用しなくなっていたのである。
そして、軍の無害化を試みた。軍司令官に無能者を据えることでそれに成功している。
実は第一次世界大戦時も、フランスは似たような状態で戦争に突入していた。
このときはジョルジュ・クレマンソーのような大政治家が首相であったから何とかなったが、1940年5月のフランスにクレマンソーはいなかった。
北フランスの海岸、ダンケルクに追い詰められた英仏軍は脱出作戦”ダイナモ”にて奇跡的に成功させ、6月4日までに約33万の兵力がイギリス本土へ撤退した。
なお、フランス軍は徹底するイギリス軍をドイツ軍の迫撃から守るため殿を引き受けており、頑強に抵抗した。
その奮戦は、決して彼らが弱い軍隊ではなく、欧州列強相応の戦力を持った軍隊であることを示したが、トップが腐っていてはどうしようもなかった。
また、フランス軍虎の子の日本製重戦車が温存されていたことも大きかった。
日本の河城重工が製造した九九式重戦車は、開戦までに僅かに1個大隊分しかフランス軍に引き渡されていなかったが、この1個重戦車大隊は北フランスの浜辺で弾薬を使い尽くして降伏するまでにドイツ軍1個装甲師団の進撃を完全にストップさせた。
傾斜した100mmの前面装甲と100mm45口径戦車砲を兼ね備えた名前のない重戦車は、同時期にドイツ軍がもつ如何なる戦車よりも強力だった。
ドイツ軍は88mm高射砲まで投入して九九式重戦車を攻撃したが、それさえも遠距離では前面装甲を破ることができず、不意打ちで側面を攻撃した場合のみ有効だった。
九九式重戦車が、ドイツに与えたショックは極めて大きかった。
ヒトラー総統がその最大の被害者であり、
「日本人が我々よりも優れた戦車を持つことなど認められない!」
として、既存の戦車開発計画の全面的な見直しを指示している。
所謂、名前のない重戦車・ショックである。
病的に日本人を嫌っていた、しかも海援隊には神経症的な嫌悪感を抱いていたヒトラー総統は、海援隊の河城重工が開発した戦車が、ドイツに如何なる戦車よりも強力だと知ると発狂寸前になったとされてる。
鹵獲された九九式重戦車がドイツ軍の戦車設計に与えた影響は極めて大きく、Ⅴ号戦車パンターやⅥ号重戦車ティーガーを生み出すことになった。
話がやや逸れたが、軍主力を失ったフランス軍は壊滅状態となり、残った戦力でドイツ軍に抵抗することは不可能だった。
防衛戦力を引き抜かれて弱体化したマジノ線も突破され、フランス軍は全面的崩壊へといたり、6月13日はパリ占領。そして、21日にはドイツに講和を申し込んだ。
第一次世界大戦で、最後の最後まで粘り強く戦い抜いて勝利を掴んだフランス軍のあっけない敗北と降伏は、全世界に衝撃を齎した。
西欧の大国であるフランスがたった1ヶ月で負けたのである。
ドイツはノルウェー・デンマークを占領下においており、漁夫の利を狙ったイタリアの参戦。東欧各国も雪崩うってドイツとの同盟に傾いていった。
結果、ほぼヨーロッパ大陸の全てがドイツ勢力下に入ったも同然の状態となる。
ヨーロッパで孤立したイギリスは、ウィンストン・チャーチルを首相に据え、徹底抗戦の姿勢を崩さなかったが、人々の顔には不安の影がつきまとった。
本当にイギリスは勝てるのか?
その疑問に答えられるものはいなかった。
チャーチルさえもが、
「我々はこの救出が勝利を示すものではないということに注意しなくてはならない。撤退しても戦争には勝てない」
と、スピーチするとおりの状況だった。ダンケルクの奇跡は何とかイギリスが生き延びる権利を得たというものであり、情勢は以前として流動的であった。
特にダンケルクの浜辺で大量の武器弾薬を放棄して撤退したイギリス軍は補充に苦しんでおり、戦い続けるには外国から兵器輸入が必要不可欠だった。
その上で、大日本帝国の去就が問われた。
1902年以来、イギリスの友邦であった日本は、1940年6月時点で唯一、イギリスを助けることができる勢力であった。
アメリカ合衆国は駄目だった。
太平洋戦争で日本に肩入れしていたイギリスは、アメリカ世論から敵視されており、ダンケルク撤退後の兵器輸入交渉も中立法を楯に全て断られてしまった。
それどころか、日本という共通の敵を持つ米独は友好関係にあった。
イギリス人の多くが、チャーチル首相さえもが、既にアメリカと戦争状態にある日本は曖昧な態度でイギリスからの援助要請を断ると考えた。
アメリカと戦いながら、地球の反対側にあるイギリスを助けにいくなど不可能だからだ。
だが、大方の予想は全て裏切られることになる。
坂本首相は、
「日英は永遠の友人であり、イギリスの敗北は日本の敗北である」
と国会演説で述べ、帝国議会の賛成多数を得て対独宣戦布告決議案は承認された。
日本の正式な対独宣戦布告は6月28日になされた。
フランスの対独講和の1週間後のことだった。
日本は同盟国を決して見捨てないと世界に向けて高らかに宣言したのである。
この対独宣戦布告について、帝国陸海軍は基本的には反対だった。
陸軍はソビエトと向き合っており、海軍はアメリカと戦っていた。どちらも兵力に余裕はなく、その上でドイツと戦うなど全く無謀だと訴えていた。
軍部の強い反対に対して坂本首相は、
「では君たちの使う武器を作る鉄をこれからどうするのか?」
と反論して軍部の反対意見を黙らせた。
日本の戦争遂行に必要な資源は全てイギリス勢力圏から得たものだった。鉄以外にも航空機を作るアルミニウムの原材料であるボーキサイトやエネルギー資源である石炭、石油、工業塩は日本列島では算出しなかった。
アメリカと戦う資源を全面的にイギリスに依存している以上、日本の対独宣戦布告は不可避だった。
とはいえ、即座にイギリスへ送れる兵力は殆どなかった。
帝国陸軍はソビエト軍の南下を極度に警戒しており、一切の兵力抽出を拒否していた。少なくともシベリアに冬が来るまでは動けなかった。
帝国海軍も同様であった。太平洋戦争は膠着状態に陥っており、戦力の均衡状態を保つ必要があった。
イギリスを助けられる戦力を持っていたのは、第3の軍である海援隊のみだった。
そして、その海援隊はやる気満々だった。
何しろロンドンに本店を置く海援隊はその浮沈をイギリスと共にしてるからだ。海援隊幹部にもイギリス人は数多い。
むしろ、行かない理由を探す方が困難だった。
この時の海援隊のトップは、堀悌吉総帥だった。
元は帝国海軍少将だった堀総帥は海援隊に出向した際にスカウトされ、御坊財閥系の造船所経営を経て組織者としての才覚を表し、海援隊トップに上り詰めていた。
1940年7月7日、民族も人種も宗教も肌の色も異なる世界各国から集った海援隊幹部を前に、堀総帥はこう宣言した。
「本日を以って、海援隊は日本政府からイギリス救援業務及び対独戦争業務を受注した。これより、我々はオペレーション・フレンドシップを開始する」
これを以って海援隊の欧州戦争の始まりとするのが一般的である。
オペレーション・フレンドシップ(日本語訳:友達作戦)は海援隊の欧州展開作戦である。
海援隊の保有する船舶をかき集めて編成された40隻の輸送船団に、武器弾薬やその他イギリスが戦い続けるのに必要なあらゆる物資を満載し、日本から地球の反対側にある英国本土へ送る大作戦だった。
地球を半周する大航海と熾烈な枢軸国軍の妨害に備え、十全な戦力が用意された。
この作戦に投入された護衛艦隊の戦力は以下のとおりである。
遣欧艦隊 指揮官 サー・ロヨーズ・タッキー中将
旗艦 中型護衛艦 サーバル
航空護衛艦 ひよう、トキ
中型護衛艦 サーバル、かしま、かしい、きそ
小型護衛艦 えとろふ型6隻、ユーチャリス型6隻
輸送船団を守る戦力には、日米開戦後に就役した新鋭艦が割当られた。
航空護衛艦トキはその1隻で、じゅんよう型の後継艦だった。
じゅんよう型の後継艦としては元々はうんりゅう型が計画されていたが、そちらは帝国海軍に取られてしまったことや、より簡便で取得性の高い小型空母が多数必要だった。
そこで戦時標準船の大型タンカーを改装する形で建造されたがトキ型航空護衛艦である。
開発経緯は、米海軍のボーグ級護衛空母と同じであり、両者の性能は似通っていた。
中型護衛艦は帝国海軍の最上型巡洋艦で、9,500tの船体に6インチ砲3連装3基を備えるバランスのよい軽巡洋艦だった。
最上型も戦時量産のための生産簡略化が行われており、日米開戦後に就役した船は直線や箱型を多用した外観を持つためほぼ別の船となっていた。そのため、海援隊に就役した最上型は別クラスとしてサーバル型中型護衛艦として扱われることがある。
トキ型航空護衛艦やサーバルといったそれまでの護衛艦の命名規則を外れた船は、何れも日米開戦後に就役した船で、海援隊の大変化を反映したものだった。
つまるところ、1940年半ばすぎると海援隊はその構成人員の半数、6割が日本人以外となっていたのである。
これは当然のことで、帝国陸海軍が大規模な徴兵で日本人労働者を大量に連れて行ってしまうため、必然的に海援隊の組織拡大は日本人以外を雇用する形で進行した。
一番多いのは中国人だったが、英連邦構成国からも雇用していた。欧州大戦が勃発して大量の難民が発生すると難民からの就業者も出ており、特にユダヤ人が多かった。
遣欧艦隊の司令長官、サー・ロヨーズ・タッキー中将はサーの称号を持つ歴としたイギリス人であり、日本人っぽい響きだが間違いなく英名である。
後年になって、海援隊を黄色い武装親衛隊と呼ぶようになったのは、ドイツの武装親衛隊が大量の外国人を採用していたことを擬したものである。
そんな彼らにとって和名の武器や兵装は馴染みにくいという難点があった。
そこで長年に渡って帝国海軍の命名規則に準じていた海援隊は規則を改正し、社内公用語である英語を艦名に適用することした。
また、そうすることで艦名の不足を補おうとしていた。
何しろユーチャリス型小型護衛艦は、派生型を含めると431隻の大量建造が行われたのだから、ストックは多いにこしたことはない。
艦名表記を止めて番号表記にするというアイデアもあったが、それは現場からの反対によって却下された。
「それでは士気が維持できない」
というまことに人間的な、それでいて至極もっともな理由があった。
その上で小型護衛艦には草木名が、中型以上の護衛艦には動物名が、航空護衛艦には鳥類の名前が与えられることになった。
ただし、和名も並行使用されており、完全に英名に切り替わったわけではない。
同一の艦型でも帝国海軍と海援隊で全くクラス名が異なるのはこのためで、帝国海軍の松型駆逐艦が海援隊ではオーク型小型護衛艦となり、海援隊のユーチャリス型小型護衛艦が帝国海軍では、撫子型対潜駆逐艦として採用された。
また、一時期、艦の乗員が希望するのであれば、命名規則の外れた艦名もつけることができる自由があった。
ただし、濫用する者がでたためすぐに中止された。
「ニャルラトホテプ」のような個人的な趣味嗜好に走ったり、「マヘルシャラルハシバズ」のようなやたら長ったらしく複雑な艦名が頻出するようになったからである。
話は逸れたが、船団は鳴り物入りで、それでいて情報欺瞞のために密やか日本各地の港から分散して出港し、洋上で合流して南シナ海を南下した。
その途中で、護衛の船が海援隊だけというのは政治的にまずいということになり、帝国海軍からも護衛の船がでることになり、駆逐艦「高波」、「桐」、「時雨」、「若葉」という特に対潜戦闘で高い成績を挙げた船が護衛部隊に加わった。
急な呼び出しだったことから特に部隊名もなかったそれは、彼ら独自の論理と軍事的な合理性、美意識を反映して、特別編成対潜戦隊”台風”と名付けられた。
船団は途中、独伊海軍及び空軍の激しい妨害に遭うことが想定された。
だが、この船団が最初に遭遇した敵は枢軸国の空海軍ではなく、アメリカ海軍の潜水艦だった。
南シナ海に展開した米潜水艦の雷撃を受け、フレンズに最初の犠牲者が出た。
犠牲になったのは3,000tの貨客船こばやし丸で、米潜水艦ホエールの発射した魚雷が命中。30分後には船首を海面に突き立てるようにして沈んでいった。
こばやし丸には帰国する多数のイギリス人が乗船しており、145名が犠牲となった。
この攻撃はトップニュース扱いで報道され、イギリス世論の対米感情を著しく悪化させた。
所謂、こばやし丸事件である。
アメリカ政府は攻撃の事実を認めたが、攻撃対象は日本商船であり攻撃に法的な瑕疵はなかったと弁明した。
しかし、米軍の攻撃で死傷者が出たことで、英米関係に深刻な亀裂が走った。
船団はその後、香港やシンガポールで待機していたイギリス商船と合流して、マラッカ海峡を通過しインド洋に入った。
インド洋は米潜水艦や枢軸潜水艦といった敵性勢力もない平和の海だった。
ただし、サイクロンのような自然災害は別で、船団は大時化の中を進む羽目になった。
インド洋の各港では本国に帰国できず待機していた英国商船が加わり、64隻という大船団となって紅海へ至り、スエズ運河を通過して地中海に入った。
ここからは戦闘海域であり、アレキサンドリアから出撃したイギリス海軍地中海艦隊が護衛についた。
護衛についたのは戦艦ウォースパイトとマレーヤ、空母イーグル、軽巡洋艦3隻、駆逐艦12隻の大部隊だった。
イタリア海軍に出撃の徴候はなかったが、シチリア島にイタリア空軍が集結しており、危険な状態だった。
1940年7月20日、シチリア沖にて船団は遂にイタリア空軍の大規模攻撃を受けた。
サヴォイア・マルケッティ SM.79の34機が護衛戦闘機を引き連れて船団に殺到した。
ひよう、トキ、イーグルの戦闘機部隊は水上艦部隊と共にイタリア空軍の雷撃機を迎えうち、多数を撃墜したが船団も無傷とはいかず、商船5隻が失われた。
イタリア空軍の五月雨式の攻撃は日没まで続き、イタリア空軍が決して弱い軍隊ではないことを同盟軍に知らしめた。
なお、この戦いで同盟、枢軸両軍の目を引いたのが中型護衛艦きそだった。
きそは元帝国海軍の5,500t級軽巡洋艦を海援隊が買い取ったものだが、主砲や魚雷発射管を下ろしており水上戦闘能力は低かった。
そのため第二次マリアナ沖海戦では、米水上艦隊との砲撃戦で一方的に撃ち負けて中破させられている。
きそは修復のついでに、防空艦として徹底的な改装が施されていた。
破損した14サンチ単装砲の代わりに、きそは対空兵装として九八式10サンチ連装高角砲3基6門と九九式37mm3連装機銃4基12門を備えていた。
10サンチ連装高角砲は65口径という長砲身高初速を砲を採用することで、射撃速度と命中精度向上させた帝国海軍自慢の新鋭高射砲だった。しかも連装砲1基ずつレーダー兼射撃算定機を備えており独立して正確な対空射撃が可能となっていた。
時限信管を使用した射撃であっても、1機敵機を撃墜するのに要する砲弾は500~600発前後となっており、同時期のイギリス海軍の高射砲の7~8倍の命中率を誇った。
37mm機銃は3連装2基6門ごとにレーダー兼照準算定機を備えており、きその対空砲は最大で5目標を独立して同時攻撃可能となっていた。
これ以外に単装の25mm機銃16門を備えていたら、
「まるでハリネズミのようだ」
とイギリス海軍の士官が感嘆したのも当然のことだった。
きそはイタリア空軍の雷撃機が接近するたびに活火山のような対空砲火を放ち、雷撃機をよせつけなかった。
その強力な対空砲火の洗礼を浴びたイタリア空軍のパイロットたちは畏怖を込めて、
「フジヤマボルケーノ」
と言い表し、この船に不用意に接近することを禁止した。
イタリア海軍は水上艦を出さなかったことから空軍の影に隠れがちだが、潜水艦艦隊を出動させており、新鋭の潜水艦「ルイージ・トレッリ」が英国客船「フリアエ」を雷撃している。
だが、この魚雷は海援隊航空隊の九九式艦爆の自爆攻撃で破壊され、事なきを得た。
魚雷接近を空中から発見した九九式艦爆のパイロットと母艦と交信記録が残されており、
「あっちは千人、こちらは二人、なんてことはありません。皆さんによろしく。さよなら!」
と発信した後、九九式艦爆は海面に激突し魚雷を破壊した。
なお、フリアエには帰国を望む婦女子を含む多数の英国人が乗り込んでおり、魚雷が命中した場合、大惨事になっていた可能性が高かった。
その後も五月雨式の空襲や魚雷艇の夜襲など、船団の危機は続いた。
船団が最も緊張したのは、1940年7月22日に水平線に多数のマスト、しかも大型艦のそれを視認した時だった。
この時、船団の前に現れたのは、ヴィシー・フランス海軍の戦艦ダンケルク、ストラトスブール、プロヴァンス、ブルターニュを基幹とした艦隊で、彼らは北アフリカのメルセルケビールに駐留していた。
英戦艦ウォースパイト、マレーヤが即座に対応し、仏戦艦4隻と並走する形となった。
主砲口径こそ同盟軍が勝っているが、砲数ではヴィシー艦隊が勝っており、戦闘になったら不利は免れなかった。
だが、その心配は全くの杞憂だった。
仏戦艦のマストには、高々と海援隊旗が掲げられ、
「ワレ海援隊北アフリカ艦隊、オクレテスマヌ」
という通信が入ったからだ。
ヴィシー・フランス艦隊の同盟軍参加という鬼手を実現したのは、海援隊ロンドン本店総支配人、周恩来の政治手腕によるところが大きい。
周恩来は、フランスのパリで料理店を経営し、それなりの成功を収めた後、料理店が海援隊に買収されたことで入社し、その才覚を現してロンドン本店の総支配人に上り詰めていた。
海援隊の慣例では、ロンドン本店総支配人を務めたものが次期海援隊総帥になることになっており、未来の海援隊総帥を約束されていた。
イギリス政府、特にチャーチル首相は北アフリカの仏艦隊の存在に神経を尖らせており、一時期は軍事的に打倒する計画を持っていたが、周恩来の説得に応じて攻撃を保留していた。
この間に周恩来は自ら北アフリカに飛び、仏海軍第1艦隊司令長官ジャンスール中将と交渉を重ねて仏艦隊を海援隊参加を実現したのである。
元々、海援隊の始まりはナポレオン三世時代のフランス・パリからであり、その最初の業務は北アフリカ、仏領アルジェリア県での傭兵業だった。
パリからロンドンに本店が移っても、北アフリカでの治安維持活動という業務はフランス政府から継続して委託されていた。
仏海軍が駐留するメルセルケビールの基地を警備していたのも海援隊であり、北アフリカのフランス植民地は海援隊にとって勝手知ったる土地だった。
そこから政治的な寝技を駆使して、仏艦隊を転ばせるのは困難なことではなかった。
船団には、北アフリカ各地から新たなフランス艦隊が加わり、一部は南フランスのトゥーロン港からも駆逐艦等が”自主的”に脱走してきた。
その中には未完成の高速戦艦リシュリューやジャンバール、空母ベアルンなどの有力艦艇の姿があり、フランス海軍の殆どの艦艇がヴィシー・フランスを見限って海援隊に参加することになった。
ヴィシー政権は、なんとか艦隊の集団脱走を食い止めようとしたが、周恩来の方が一枚上手だった。
艦隊の集団脱走に激怒したヒトラーはヴィシー・フランスの完全占領を指示している。
これに反発したフランス軍の一部が、ドイツ軍との戦闘を再開した。
ただし、この抵抗は殆どが無意味で多くの部隊が短時間で降伏しており、フランス全土がドイツ軍に占領されることになった。
なお、ヴィシー政府そのものはその後も継続したが、フランス国民からの支持はほぼ完全に失墜した。
話が逸れたが、フランス艦隊を輸送船団に加えた同盟国艦隊は、無事にジブラルタ海峡を通過して大西洋に入った。
ここからはUボートが潜む危険海域だったが、太平洋で散々米潜水艦と戦ってきた海援隊にとってUボートはむしろ甘い相手だった。
夜間水上襲撃を主戦法にしているUボートは、対水上レーダー装備の護衛艦の敵ではなく、不用意に浮上して接近したUボートは護衛艦の砲撃で撃沈されている。
Uボートによる損害は0で、船団攻撃に成功した潜水艦は米国潜水艦のみとなったから、アメリカ合衆国への悪印象はいっそう強いものとなった。
船団がイギリスのプリマスに入港したのは、1940年7月28日のことである。
既にバトル・オブ・ブリテンは始まっており、入港した船団もドイツ空軍による爆撃の洗礼を浴びている。
だが、その激しい空襲下にあっても、出迎えにはチャーチル首相が現れた。
ヨーロッパで孤立して単独でドイツと戦うイギリスにとって、はるばる地球の反対側にある極東から救援に来た海援隊はかかげないのないフレンズであった。
海援隊とイギリス軍はこの戦いで固い信頼関係を結ぶことになる。
それまでイギリス軍は、海援隊を「戦争の犬」として下に見る向きがあったが、この戦いの後にはそうした偏見はほぼ完全に払拭されることになった。
船団護衛における海援隊の勇敢な行動が、イギリス軍の尊敬を勝ち取ったのである。
さらに日本が同盟国を決して見捨てないという強い政治的なメッセージを発することにもなり、イギリス国民の崩れかけていた世論を立て直すことにも繋がった。
なお、ヒトラーは日英の交歓を知ると日本に対する敵愾心を露わにし、ドイツ占領下にいた日本人を強制収容所へ送るように命じた。
所謂、日本人根絶指令である。
これはドイツ軍と戦って捕虜になった日本人兵士全てに適用されることになった。
フランスには脱出が間に合わなかった在留邦人128名がいて、ドイツ占領下のパリで軟禁状態だったが、彼らはダッハウ強制収容所へ送られた。
日本人を毛嫌いしていたヒトラーは彼らを特別に残酷な方法で処刑するように命じており、全員が収容所で命を落としたことが判明している。
アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトは、この輸送船団の成功には特にコメントしなかった。
だが、日本がドイツと戦争を始めたことについて内心はほくそ笑んでいていた。
思わしくない太平洋戦争を逆転する目が見えてきたからである。
イギリスが追い詰められたことで日英による両大洋からの挟撃はありえなくなり、全戦力を太平洋に投入できる態勢となった。
この時期、アメリカ合衆国はドイツとソビエトに接近し、交渉を持っていたことがわかっている。
満州や朝鮮半島、日本の北半分を割譲するという条件でソビエトの対日参戦を誘っていたことが後の情報公開で明らかとなっている。
スターリンは慎重な姿勢を崩さなかったが、対日戦争計画の策定は行っていた。
モンゴルの国境紛争の借りを返すチャンスだったからだ。
だが、ヒトラー・ドイツと国境を接していたことから、スターリンは極めて慎重だった。
逆にヒトラーも合衆国のアプローチに鋭く反応した。
大嫌いな日本人の戦艦を6隻も撃沈したトラック奇襲から、ヒトラーは親米感情をいっそう高めていた。
ドイツは無制限潜水艦作戦を宣言していたが、合衆国船舶は例外としていた。
伊号潜水艦によって太平洋から追われた米国商船は大西洋を根城としており、イギリス海軍の海上封鎖宣言を無視してドイツの港に入港して荷降ろしを行っていた。
20世紀の大陸封鎖令といえるイギリスの海上封鎖は全く骨抜きにされたのである。
ヨーロッパで孤立して戦うイギリスに合衆国商船を攻撃する余力はなく、星条旗を掲げたタンカーがドイツの港に入っていくのを見送るしかなかった。
いつの間にか合衆国の新聞やラジオ放送からドイツの侵略戦争を非難する声は消えて、ドイツは共産主義の防波堤であるというドイツにとって都合のいい発表ばかりが増えていった。
合衆国のドイツ大使館とアメリカ合衆国国務省との間で人の行き来が増えていることをイギリスのMI6が掴み、本国への報告と日本の同業者へ警告が飛んだ。
米独同盟という悪夢に、日英政府の首脳陣は震撼した。




