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大洋の帝国  作者: 甲殻類
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サイパン島に上陸してみたが攻勢限界かもしれない。



 サイパン島に上陸してみたが攻勢限界かもしれない。


 第二次マリアナ沖海戦以後、サイパン島の戦いは大きく日本有利に傾いた。

 マリアナ諸島の各地に上陸した米軍は制空権、制海権の喪失で補給を絶たれており、日本軍の逆上陸部隊によって日に日に包囲網が狭まっていった。

 攻防の焦点となったのは、サイパン島の航空基地だった。

 日本軍は飛行場を奪還すると機械力を投入し、あらゆる妨害を排除しては直ぐさま滑走路を修復して、基地航空部隊を進出させた。

 彼らに残された空母(空母という言葉はこの場合不適切であり航空護衛艦が正しい)は、「ひよう」ただ1隻のみであり、そのひようも艦載機を消耗しつくしていたから、他に方法がなかったとも言える。

 最初にサイパン島飛行場に再展開した日本軍航空部隊は九六式艦戦改12機、九九式艦爆12機という軽空母1隻分の航空部隊だった。

 日本軍は硫黄島からフェリー飛行を行うことで急速に戦力を拡大し、サイパン島航空隊は7月末までには各種作戦機120機まで増強した。

 この中には九六式中型陸上攻撃機のような長距離攻撃機も含んでいた。

 結果、昼間に星条旗を掲げた船舶がサイパン島に接近することはほぼ不可能となった。

 昼間の海上輸送は、激しい対艦攻撃を浴びることになり、輸送に適した商船の類が接近することは全くの自殺的といえた。

 そのために夜間に限ってトラック環礁からドラム缶や水密コンテナを満載した駆逐艦(ワシントン急行)が来ていたが、帝国海軍は強力な歓迎委員会を組織していた。

 対水上レーダー装備の帝国海軍の駆逐艦や巡洋艦は、常に先手を打ち、正確な砲雷撃で燃料や弾薬などの軍需物資を甲板に並べた米駆逐艦を撃破していった。

 米駆逐艦は物資を積むために魚雷を下ろしていたことから、戦闘はしばしば一方的なものとなった。

 1週間に1度は夜戦が発生し、名のある戦いだけでもパガン島沖海戦、サイパン島沖雷撃戦、テニアン島沖夜戦、ロタ島沖海戦がある。

 サイパン島雷撃戦においては、駆逐艦「夕立」が単艦で物資揚陸中の米駆逐艦4隻に突撃し、これを一方的に殲滅するという快挙を果たしている。

 この時、夕立は対水上レーダーと酸素魚雷を組み合わせた夜間長距離隠密雷撃という戦術をとり、無警戒だった米駆逐隊を先制雷撃で半数を沈め、残りを砲撃で仕留めた。

 これだけでも特筆すべき戦果だったが、翌々週に生起したロタ島沖海戦においても夕立は再び単艦で重巡洋艦を含む米艦隊への襲撃を行った。

 その際に不確実ながら巡洋艦1隻、駆逐艦2隻を沈めている。

 不確実というのは、夕立の戦果は目視監視されたものではなく、レーダーの反応のみで確認された戦果であるためである。

 夕立から発射された九三式酸素魚雷を浴びた米重巡洋艦ポートランドは、ほぼ轟沈近い状況で沈んだ。

 そうであるがゆえに目視での戦果確認ができなかった。

 それよりも小さい駆逐艦など、酸素魚雷を浴びたらひとたまりもなかった。

 夕立に備え付けのPPIスコープの上で確認できるのは、急に米艦艇の反応を示す輝点が消えてしまったことだけだった。

 そのため、


「大戦果・・・っぽい?」


 という噂のみが広がった。

 駆逐艦夕立が、「マリアナ沖の悪夢」などという仰々しいタイトルで紹介されるようになるのは、日米の交戦記録を突き合わせて戦果の確認が取れるようになった戦後のことである。

 話が逸れたが、レーダーの有無が水上戦闘において死活的な意味を持つことを日米海軍は血を以って学んでいった。

 しかし、流れる血の量は常に米軍の方が大きかった。

 米海軍が血反吐を吐いて揚陸した物資も、日が昇ると発進するサイパン島航空隊の激しい空爆に晒されて爆発炎上するのが常だった。

 サイパン島の米軍は医薬品や食料の不足から疫病が蔓延し、戦闘可能な兵員は半数を切る惨状を示していた。

 7月末になると兵士の逃亡が相次ぎ、組織的な戦闘力を維持できなくなっていた。

 もはや作戦失敗は明らかであったが、この期に及んでも米軍は攻勢作戦を継続しようとしていた。

 対日戦争を始めるにあたって、ホワイトハウスの立てた最も楽観的な予測では7月4日のアメリカ独立記念日までに勝利で戦争は終わるというものだった。

 最も困難な予測でもクリスマスまでしか戦争をしないつもりだった。

 強力な大和型戦艦が出揃う前に、開戦奇襲で帝国海軍を壊滅させ、日本本土に押し寄せて短期決戦で戦争を終わらせるのが合衆国の戦争計画だった。

 それ以上の長期戦は、合衆国であっても望むところではなかった。

 国家総力戦のような戦いは遠いヨーロッパの国々が行うなら大歓迎だったが、自分が当事者となって行うものではなかった。

 ましてや泥沼の長期戦など、来年に大統領選挙を控えるルーズベルト大統領にとっては論外であった。

 日本も戦前の対米戦争計画は相手の海軍力を早期に撃破して講和するという短期決戦戦略であり、両者は似たような考えを持っていたこと分かる。

 だが、トラック奇襲で海軍力が壊滅した帝国海軍は、短期決戦戦略を放棄せざるえなくなっていた。

 トラック奇襲後に日本政府・軍部が纏めた戦争戦略は、硫黄島、サイパン島、パラオ島を結んだラインを絶対国防圏として長期持久を図り、米軍に耐え難い損害を強いて厭戦世論を煽って講和の機運を待つというものだった。

 米軍も日本軍の戦略の転換には気づいていたが、そうであるがゆえに残存する日本海軍の主力を誘い出した上で、一撃で殲滅する艦隊決戦に固執した。

 日本海軍の残存艦隊を全滅させれば、戦争は終わるのである。

 それは間違いではないが、問題は相手にその気がない場合、どうするかということだった。

 1939年8月5日に生起したマリアナ沖航空戦は、艦隊決戦に固執する米太平洋艦隊と長期戦のために決戦思想を捨てた連合艦隊の対照的な戦いとなった。

 サイパン島沖に増援船団を共に現れた第14任務部隊の陣容は次のとおりである。


 第14任務部隊 ウィリアム・ハルゼー中将 

 旗艦 サウスカロライナ


 戦艦 サウスカロライナ

 空母 エンタープライズ、サラトガ

 重巡洋艦 3隻

 駆逐艦 11隻


 低速戦艦部隊は燃料不足から出撃を見合わせており高速戦艦1隻と空母2隻を中心とする高速機動部隊のみの出撃だった。

 指揮は負傷して後送されたキング提督に代ってウィリアム・ハルゼー中将がとっていた。

 キング提督は、ハルゼー提督を突撃馬鹿扱いしていたが、ハルゼー提督は機動部隊指揮官としてはよほどキング提督よりも有能だったとされている。

 だが、ハルゼー提督が機動部隊指揮官の椅子を手に入れた時、既にアメリカ海軍の機動部隊は見る影もなく衰えていた。

 出撃した空母は、開戦時の半分以下であり、航空隊も消耗に次ぐ消耗で、プロフェッショナルは少なくなっていた。

 さらに作戦当初から米軍内部には陸海軍の不協和音が発生しており、盤石の体制からは程遠いものがあった。

 アメリカ陸海軍が対立したのは、米海軍の作戦目標が日本海軍機動部隊を誘い出して撃滅することにあったのに対して、米陸軍はサイパン島攻略が目的となっていたところだった。

 サイパン島攻略のために十分な艦砲、航空支援が必要であるが、米海軍はその提供を拒否していた。

 機動部隊の艦載機は全て艦隊決戦のために存在しており、高速戦艦も対地攻撃に差し向ける余裕はないというのが米海軍の言い分だった。

 米海軍にとってサイパン島の攻略はついでの話であり、目的は艦隊決戦にあった。

 対して、補給が途絶したサイパン島の惨状をかなり正確に把握していた米陸軍は、サイパン島の友軍救援と島の占領を目的としていた。

 このような目的の分裂と不一致は作戦開始前にすり合わせが行われるべきことであり、米陸海軍の殺し合いに近い大激論の末に一定の妥協をみた。

 米海軍は最終的に地上戦支援のため空母艦載機を使用することに同意した。

 ただし、日本艦隊が現れた場合は、空母は地上支援ではなく艦隊決戦のために使うものとされた。その判断は海軍に一任されるので、これまでの経緯からすると航空支援はないものと考えるのが妥当であった。

 航空支援なしの地上戦など考えられないというのが米陸軍の立場であり、米陸軍と海軍の関係は極めて険悪なものとなった。

 そして、米陸軍の予想は悪い意味で裏切られることになる。

 日本海軍機動部隊は彼らの前に現れることはなかったのである。

 代わりに、米空母機動部隊の相手をしたのは、サイパン島の基地航空部隊だった。

 レーダーで早期警戒を実施していたサイパン島の海軍航空部隊には、もはや奇襲は通用しなくなっており、航空戦は真正面からの潰し合いになった。

 サラトガとエンタープライズ併せて200機近い艦載機を運用できた米空母機動部隊だったが、相手は決して沈むこと無い陸上航空基地だった。

 滑走路を爆撃してもブルドーザーで短時間に修復されて効果がない上に、空母に積んである燃料や爆弾は数回の全力攻撃で枯渇してしまう程度の量しかなかった。

 サイパン島に展開した戦闘機部隊は多くても50機程度だったが、早期警戒レーダーで米攻撃隊の接近を知ると緊急発進して迂回上昇し、常に有利な位置から攻撃をしかける一撃離脱戦法に徹していた。

 攻撃機は空中退避するか、掩体壕に隠されておりどれだけ爆撃しても地上で撃破するのは不可能だった。

 基地周辺は対空砲火で固められており、米軍機は撃墜に至らなくとも損傷多数で着艦後に廃棄処分される機が続出した。

 結果として、およそ200機で始まった米機動部隊の航空戦は、初日で3割近い機材を消耗するという大敗となった。

 さらに夜間には、もはやお家芸になりつつある九六式中攻の夜間雷撃が空母サラトガに突き刺さり、サラトガは中破して戦線を離脱することになる。

 残る空母エンタープライズの差し出した傘の元で、揚陸作業が行われたがサイパン島航空隊の妨害にあって損害続出であった。

 無防備な上陸用舟艇や揚陸された物資が、戦闘機の機銃掃射で炎上し、揚陸作業のために停船中の貨物船が急降下爆撃を受けて撃沈された。さらに硫黄島から飛来した4発重爆による絨毯爆撃で揚陸した物資は灰になった。

 兵員の損失も酷いものだったが、重装備の大半が揚陸できずに海没するか砂浜で瓦礫の山と成り果てた。

 それでも最終的に兵員の7割が上陸できたのだから、エンタープライズ艦載機の防空戦闘は決して無意味ではなかったといえる。

 だが、島に上陸した米兵にとっては、ここからが本当の地獄といえた。

 濡れ鼠で上陸した米兵を出迎えたのは、枯れ木のようにやせ細った友軍兵士だった。

 変わり果てた同胞の姿を見て多くの兵士が、


「俺たちが来たからもう大丈夫だ」


 と励まし、食料を分け与えたが、そんな彼らも一週間もすると枯れ木のような姿で食料を求めてジャングルを彷徨うことになった。

 重器材や砲弾を揚陸できなかった米軍は歩兵主体の飛行場奪回作戦を発動した。

 飛行場を奪還できない場合、補給の途絶から1ヶ月以内に食糧不足で全滅の危機があったから、奪回作戦の発動は急がれた。

 作戦名はローリング・サンダー

 名前こそ勇ましいが、米軍の内情は極めて苦しいものだった。

 砲弾のストックが薄く、重装備もなく、しかも制空権もない状態での攻勢作戦である。

 そのため苦肉の策として夜襲が選択された。これまで夜戦を意図的に避けていた米陸軍がそれを選ぶことになったのは、交戦距離が伸びる昼間に攻撃をしかけても日本軍の火力に太刀打ちできそうにないからだった。

 この作戦は、これまでの米軍の行動パターンを大きく外れるものだったから奇襲となった。

 守りを固めていた日本軍は、そうであるがゆえに行動が固定化しており、想定外の夜襲に慌てふためき、次々と防衛線を突破された。

 この時がもっとも米軍が飛行場奪回に近づいた瞬間であり、それ以降の戦いは陣地に取り付くことさえできなかったことから、戦局の転換点と認識されている。

 日本軍はパニックからミスを連発しており、もう少し手順が間違っていたらどうなっていたか分からなかった。

 しかし、最後は食料をたらふく食べて気力も体力も充実している日本軍歩兵が戦場を制した。

 食料不足に陥っていた米軍の歩兵は、


「ここであと一握りのパンさえあれば・・・」


 というところで、スタミナ切れを起こしてジャングルへと退場を余儀なくされたのである。

 結果、飛行場奪還作戦は失敗に終わった。

 日本艦隊の誘出撃滅も失敗なら、増援の揚陸も散々な結果に終わり、サラトガは中破して戦線から離脱。艦載機は消耗し尽くし、空母機動部隊が行動不能になるという大惨事だった。

 なお、米海軍が待ち望んでいた日本海軍の機動部隊が現れたのは、エンタープライズが戦力の枯渇で離脱した後だった。

 日本艦隊は大攻の絨毯爆撃が撃ち漏らした砂浜の揚陸物資を艦載機で丁寧に虱潰しにして、艦載機をそのまま消耗したサイパン島航空基地に預けて離脱した。

 一連の戦闘を分析した帝国海軍は、


「防衛戦に徹するなら空母は不要。基地航空隊と駆逐艦と潜水艦があればなんとかなる」


 という結論を導きだしている。

 それと同時に、


「整備された航空基地への空母で攻撃をしかけるのは危険で、圧倒的な戦力で挑むか、奇襲でないかぎり、返り討ちに遭う」


 と考えるようになった。

 米海軍もほぼ同様の結論に至るのだが、気づくのが少し遅かった。

 サイパン島やグアム等、マリアナ諸島の各地に、およそ30,000名の米兵が敵制空権下に孤立するという致命的な戦略状況が現出していた。

 所謂、8月危機の始まりである。

 この危機の恐るべき点は、この期に及んでもなお、米軍の最高指導レベル、つまりホワイトハウスは日本の海軍戦力の撃滅により戦争の早期集結が可能と考えていたことである。

 最高意思決定段階においては、しばしば現実なるものは存在しないが、


「クリスマスまでに戦争は終わり、兵士は家庭で聖夜を迎えることができる」


 と、ラジオ演説していたルーズベルト大統領の状況認識はもはや犯罪的だった。

 ただし、彼一人にその責任を帰するのは公平さを欠くとも言える。

 少なくとも彼の周辺にいたスタッフが的確な報告を上げて、危機的な状況を正しく伝えていれば、このようなことにはなっていなかったからだ。

 三選を狙っていたルーズベルトがその報告を正しく理解するかどうかはまた別の問題であるし、全面撤退という思い切った措置が取れたかどうかは疑問であるが。

 確実に言えることは、最小の損害で状況を仕切り直すとしたら1939年7月末時点でのマリアナ諸島からの全面撤退こそが最善手だったということだけである。

 サイパン島沖航空戦後、機動部隊が行動不能になった米海軍は、あの手この手でサイパン島への物資輸送を試みた。

 日本海軍がワシントンエキスプレスと称した駆逐艦による輸送作戦は、大損害を出しながらも継続したが艦隊型駆逐艦の大量損失を招いた。

 駆逐艦そのものは大量建造されて損失分の穴埋めがなされたが、それを操る水兵の質的低下は回復不能だった。

 大戦後半になるほど、米海軍の行動には精彩を欠くことになるが、その原因はマリアナでの無理な輸送作戦によるものとされることが多い。

 米海軍は駆逐艦での輸送が困難になると潜水艦まで投入して物資輸送を試みたが、これも大量にばらまかれた機雷によって次々と潜水艦を失うだけの結果に終わった。

 航空機による空輸も試みられたが、制空権のないところに護衛なしで輸送機を送り込むなど、無謀以外の何者でもなかった。

 そのため防御力の高い4発重爆(B-17)が大量に投入されたが、航続距離的にぎりぎりの場所であるため補給物資を積むため、防御機銃を下ろしておりバタバタと撃墜される結果に終わっている。

 米軍の輸送作戦に対する努力はもはやあらゆる無謀を肯定するものとなっていたが、それが極まったのが1939年8月27日だった。

 米海軍の新鋭戦艦ノースカロライナ及びサウスカロライナは、夜間にサイパン島飛行場への艦砲射撃を実施。これを一時的に使用不能にしたのである。

 戦艦を飛行場砲撃のために夜間、敵地に突入させるなど、前代未聞の作戦だった。

 これは帝国海軍の迎撃部隊の心理的な隙を突くことになり、損害なしで成功を収めた。

 砲撃でサイパン島飛行場は沈黙を余儀なくされ、久しぶりに貨物船を使った正統派な大規模な昼間輸送作戦が成功したのである。

 ただし、硫黄島から飛来した九六式大攻の絨毯爆撃で揚陸した物資の3割が焼失することになり、続く米軍の反撃もまた砲弾の不足から失敗に終わっている。

 水上艦による艦砲射撃は8月30日にも行われ、重巡洋艦ノーザンプトンとヒューストンが砲撃を行っている。

 ただし、この砲撃は日本の迎撃艦隊が接近していた事から短時間で終了し、飛行場を機能停止に追いやることができなかった。

 そのため米輸送船団はサイパン島航空隊の空襲で引き返すことになり、輸送作戦は失敗に終わった。

 そこで改めて戦艦による夜間砲撃が行われることになった。

 その後に補給船団を突入させた上で、陸軍が総攻撃を行って飛行場を奪還する段取りだった。

 もちろん、日本軍もやられっぱなしではなく、砲撃阻止のために貴重な戦艦を投入することを決定し、戦艦大和と土佐が出撃することになった。

 土佐はトラック奇襲で受けた損傷の修復が終わったばかりであり、大和は訓練の途上だった。

 特に新兵器のマイクロ波射撃管制電探は据え付け工事を終えたばかりで作動試験をこれから行うといったドタバタ具合である。

 1939年8月時点で、帝国海軍の稼動状態にある戦艦はこの2隻のみであり、宝石よりも貴重な戦力といえた。

 この決定は異論があるものであったが、土方GF長官の裁定により実現した。

 貴重な戦艦を、しかも最大最強の決戦兵器である大和をこのような任務に投入することには参謀たちから反論が続出したが、

 

「俺が正義だ!」


 と土方長官が一喝した場を収めたという真偽不明の逸話がある。

 実際のところ、米海軍の新鋭戦艦が沈む覚悟で突入してきた来た場合、それを強引に阻止しようと考えたのなら駆逐艦や巡洋艦では不十分であった。

 太平洋戦争における2回目の戦艦同士の砲撃戦は、1939年9月11日の第3次マリアナ沖海戦において発生した。

 この戦闘は、大和の電探射撃によって一方的に戦艦ノースカロライナを先制攻撃して始まった。

 砲戦距離は32,000mである。

 大和からの砲撃で漸く日本戦艦の接近に気がついた米艦隊が一斉に星弾を打上げて、反撃が始まったが、ノースカロライナ及びサウスカロライナは対地攻撃用の榴弾を装填していたので最初の砲撃は全く無効だった。それどころか、全て遠弾でかすりもしなかった。

 夜間において光学照準で2万m以遠で砲撃を行うなど、全く不可能だったからだ。

 電探射撃という圧倒的なアドバンテージを得ていた大和と土佐だったが、自慢の電探射撃は最初の1斉射だけで終わりだった。

 自らの砲撃の爆風でアンテナが吹き飛び、レーダーが使用不能になったからだ。

 大和の先制砲撃の後、長く沈黙してしまうのはこのためである。

 状況は後続の土佐も同じで、新型のマイクロ波レーダーはアンテナの取り付け工作に欠陥があり、主砲が発生させる衝撃波に耐えられなかった。

 主砲斉射と同時にレーダーがブラックアウトとしたので大和の電探室は軽くパニックを起こしたという記録が残っている。

 だが、戦いは続いており、高速戦艦同士の砲撃戦は20年前のジェットランド海戦が田舎の草野球に思えるハイテンポで進行中だった。

 電探射撃が不可能となった大和と土佐は距離をつめて光学照準に切り替え砲撃を開始したが、この間にノースカロライナとサウスカロライナは徹甲弾を装填しており、戦いは互角の条件となっていた。

 なお、両者の砲戦距離は大和の先制砲撃から僅か20分で10,000mを切っており、日米戦艦はほぼノーガードで殴り合うという異常事態となった。

 これは米海軍側が、公開情報によって大和のスペックを知悉しており、その18インチ防御を破るためには接近するしかないということを知っていたことが大きかった。

 大和と殴り合ったノースカロライナは、米海軍最新鋭戦艦らしい高い発射速度で16インチ砲弾を次々と命中させ、大和のバイタルパートを撃ち抜いた。

 最終的な砲戦距離は5,000m付近であったから、大和の重装甲は無効だった。

 対して大和の砲撃は第8斉射まで命中弾を得られなかった。これは単純な練度不足と機器の故障が原因と考えられている。

 大和には爆沈した陸奥の生き残りが多く乗り込んでいたが、大和の全能力を発揮させるには未だに訓練時間が不足していた。また、洗い出しが済んでいない機械的な故障が次々と露見し、第3砲塔に至っては水圧が抜けて旋回不能になる体たらくだった。

 新鋭戦艦の不調に比べて土佐は堅調でベテランらしい戦いぶりを示した。

 サウスカロライナと撃ち合いになった土佐は20年近く艦齢が離れているにも係わらず敵の新鋭艦を追い詰めていた。

 最終的な命中弾数は土佐の方が多く、テクニカルな射撃でサウスカロライナを大破させている。土佐にも相応の命中弾はあったが、海戦終了時も全砲塔が使用可能な状態だった。

 数次に渡る大改装を経て土佐は一線級の攻防性能を維持していたのである。


「マジェスティックトゥエルブの力、侮どっちゃいかんぜよ」


 と、とあるソーシャルゲームで擬人化された戦艦土佐が誇らしげに語るシーンが出て来るのも納得できる。

 これは余談だが、同ゲーム内の土佐のビジュアルやキャラクター性は明らかに土佐の英雄である坂本龍馬を意識しており、特に眉と目元が龍馬のそれに酷似している。

 サウスカロライナが大破するとノースカロライナは不利を悟って撤退を図ったが、駆逐艦「長波」が放った酸素魚雷が命中して行き足が鈍ったところで大和と土佐の集中砲撃を受けて轟沈している。

 夜間砲撃を阻止された米軍の輸送船団は空襲を警戒して撤退し、海戦は日本の戦術的、戦略的な勝利に終わった。

 これ以後、サイパン島の戦いは急速に終焉に向かうことになる。

 9月以後のサイパン島の戦いはもはや危機ではなく、ただの絶望であった。

 期待の新鋭戦艦2隻が一夜にして失われたことで、ホワイトハウスもようやく危機的な状況を認識し、戦略の転換が図られた。

 9月1日にはナチス・ドイツがポーランドに侵攻して欧州大戦が始まったが、ワシントンにおいてそれが議論されることは少なく、サイパン島から如何にして飢餓状態の兵士を救出するかがメインテーマだった。

 ヨーロッパの大動乱そっちのけで準備された撤退作戦が実行に移されたのは、10月14日のことである。

 この撤退作戦は空母エンタープライズを半ば囮にするという大胆なもので、空襲を警戒した日本軍の封鎖部隊が離脱した隙をついて、サイパン島に取り付いた駆逐艦によって米軍は辛くも脱出に成功することになる。

 日本軍は米軍が撤退するとは夢にも思っておらずさらなる増援が現れたとして、守りを固めていたため米軍の撤退に気がついたときには後の祭りだった。

 だが、撤退に成功したのはサイパン島のみでテニアン島やグアム島では大隊規模の降伏が発生している。

 テニアンやグアムの部隊は捨て石にされたのである。

 最終的にマリアナ諸島各地から脱出に成功した米軍兵士の数はおよそ1万人に上ったが、投入兵力3万の内、2万人が戦死、戦病死或いは降伏して捕虜になるという大惨事であった。

 戦艦ノースカロライナ、サウスカロライナ、空母レキシントン、レンジャーを筆頭に戦闘艦艇57隻、徴用商船120万tが失われ、トラック奇襲の黒字は完全に消し飛んでいた。

 この大敗の責任をとる形で、米太平洋艦隊司令長官のジェームズ・リチャードソン大将が更迭された。

 米軍は、トラック環礁に何とか踏みとどまったが、サイパン島からの爆撃と潜水艦による封鎖で孤立化が進み、星条旗を立てているという意味しかない場所となっていった。

 以後、太平洋の戦いは膠着状態に陥り、日米双方が相手の後方への攻撃を重視して、潜水艦による通商破壊戦を拡大していくことになる。

 インディペンデンス・デイにも戦争は終わらなかったし、クリスマスになっても戦争は終わらなかった。

 それどころか、ヨーロッパの戦火はますます燃え上がり、誰もが拡大する戦火を止める方法を見失っていたのである。






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