サイパン島までのワンマイル
サイパン島までのワンマイル
マリアナ諸島を巡る2度目の決戦は1939年6月14日に始まった。
28隻の各種貨物船や貨客船に乗り込んだ逆上陸部隊の陸軍第2師団(12,000名)と彼らの3ヶ月分の軍需物資を積み込んだ輸送船団を守る海援隊と帝国海軍の合同部隊は硫黄島からの航空援護を受けながら南下。
船団を守るのは、海援隊の航空護衛艦じゅんよう、ひよう、帝国海軍の軽空母龍驤からなる第3艦隊だった。
編成は以下のとおりである。
第3艦隊 小沢治三郎中将
旗艦 長門
戦艦 霧島、比叡、長門
空母 龍驤、じゅんよう、ひよう
重巡洋艦 白根、鞍馬、蔵王、乗鞍
軽巡洋艦 利根、筑摩、能代、矢矧
駆逐艦 甲型16隻
船団直掩
中型護衛艦 きそ、きたかみ、おおい
小型護衛艦 えとろふ型4隻、むつき型6隻
対して、逆上陸阻止と日本艦隊の撃滅がかかった米太平洋艦隊はレンジャーとヨークタウンに修理中で動けないエンタープライズとサラトガの航空隊を積み込み、トラック環礁から出撃させた。
編成は以下のとおりである。
第13任務部隊 アーネスト・キング中将
旗艦 ノースカロライナ
戦艦 ノースカロライナ、コロラド、メリーランド、ウェストバージニア
空母 レンジャー、ヨークタウン
重巡洋艦 ミネアポリス、ニューオーリンズ、アストリア、チェスター
軽巡 ブルックリン、フェニックス、ナッシュビル
駆逐艦 16隻
軽空母3対正規空母2という世界第3位と第1位の海軍大国らしからぬ戦いであった。
圧倒的な優勢を誇る米太平洋艦隊の主力戦艦部隊は半数以上が未参加だった。
伊号潜水艦の通商破壊で前線への補給線が細っている現状では燃費が悪い戦艦を大量に連れ回すことは不可能だった。
長大な航続距離を持つ伊号潜水艦は西海岸まで進出し、開戦から毎月50~70万tの商船を沈めており、狩りの季節を謳歌していた。
航空戦力及び砲火力において米艦隊は日本艦隊の2倍を超えており、艦隊を率いるキング提督は今度こそ日本海軍に止めを刺せると息巻いていた。
ただし、航空母艦の数の少なさがウィークポイントだった。
ヨークタウンとレンジャーの2つのカゴに卵を詰めた米艦隊と龍驤、じゅんよう、ひようの3つのカゴに卵を詰めた日本艦隊は、分散配置という点では日本海軍が有利といえる。
日本海軍は数の有利を最大化するため、各空母1隻ずつ30km以上離して3群に分かれて行動させており、分散配置を徹底してた。
空母を集中配置してまとめて撃破された先のマリアナ沖海戦の戦訓をよく反映していた。
つまり、
「肉を切らせて、骨を断つ」
を地で行く戦術であり、龍驤、じゅんよう、ひようのどれか1隻が沈んでも、ただちの報復攻撃ができる態勢だった。
そして、運命は龍驤を生贄に選んだ。
1939年6月14日、トラック環礁から発進したB-17が戦艦霧島、比叡と共に南下中の軽空母龍驤を発見。
B-17は直ちに位置を通報し、空母レンジャー、ヨークタウンから攻撃隊が発艦した。
戦爆雷合計88機の攻撃隊に襲われた龍驤を守る霧島、比叡の対空砲火は凄まじいものだった。
先のマリアナ沖海戦で対空火力の不十分を痛感した日本海軍は、霧島、比叡に単装25mm機銃をそれぞれ96丁も追加していた。
軽量の単装機銃は追従性が高く、工事も簡単なので手っ取り早く対空砲を増強するには一番の方法だった。
ただし、射程距離が短い25mm機銃はあまり効果的とはいえなかった。
命中精度は射手の技量頼りだったので、見た目は派手だが、戦果はそれほどでもないことが海戦後に判明した。
25mm機銃では射程距離が短すぎて、僚艦に弾幕の傘をさすことができなかった。
逆に最も効果的だった対空火器は25mm機銃をボアアップする形で国産開発した九八式37ミリ高角機銃だった。
開発元は、河城重工と如月電子であった。
類似品にスウェーデンのボフォース40mm機関砲がある。砲の性能は九八式37mm機銃とさして変わりないが、射撃管制装置の性能が段違いだった。
如月電子が開発したトランジスタを使用する電探射撃管制装置は、最初期のコンピューティング化されたレーダー射撃完成システムであり、「当たらないことが当たり前」の対空射撃を「当たることが当たり前」にした画期的なものだった。
37mm機銃は射程距離が長く、龍驤の上空に弾幕を張り巡らせることができたから、効果的に急降下爆撃を阻止、妨害することができたのである。
この戦訓はすぐに反映され、37mm機銃と電探射撃管制装置は日本海軍の主力対空火器として大量配備が決定している。
だが、この時の龍驤を救うには数が少なすぎた。
龍驤に命中した1,000ポンド爆弾は5発であり、あらゆる全ての手をつくしても彼女を救う術はなく、爆炎を巻き上げて龍驤はマリアナの海に沈んでいった。
だが、その報復は迅速に実施され、ロ号潜水艦の通報で位置が判明した米空母レンジャーに、じゅんよう、ひようの艦載機が殺到した。
高速の九九式艦爆は護衛なしの単独攻撃で、米戦闘機の迎撃を振り切ってレンジャーの飛行甲板に500kg爆弾3発を叩きつけ総員退艦に追い込んだ。
じゅんようの艦橋では、レンジャー大破の報告が入り、
「ヒャッハー!!!」
と喝采を叫んだが、喜びは長く続かなかった。
レンジャーを沈められ怒り狂ったヨークタウンから発進した攻撃隊が、じゅんように殺到して1000ポンド爆弾3発を命中させた。
商船構造のじゅんようにとってこれは致命的で、ガソリンタンクに火がまわりあっという間に沈んでいった。
だが、第3艦隊最後の空母となったひようから発進した九七式艦攻が自爆攻撃を含む強襲雷撃によってヨークタウンを大破させた。
ついに小沢艦隊は米空母機動部隊の全ての空母を沈黙させたのである。
だが、海戦は終わらなかった。
航空機の傘を失ったにも係わらず米艦隊はそのまま速力をあげて船団に突進を続けていた。 キング中将は軽空母の継戦能力の低さを見透かしており、船団への攻撃を企図すれば、日本艦隊は迎撃に動かざるえないだろうと考えていた。
実際に、ひようは爆弾と魚雷を使い尽くしており、対艦攻撃力を喪失していた。
さらに日没が近づいており飛行機が飛べる時間が終わろうとしていた。
航空阻止が不可能である以上、戦いは水上艦同士への戦いへとシフトすることになる。
水上打撃戦力は日本海軍が大きく不利だった。
数の不利も去ることながら、性能面でも大きく日本が劣っていた。
霧島と比叡は近代化改装を受けていたものの日本最古の戦艦であり、元は巡洋戦艦という防御に難のある船だった。
対するノースカロライナは就役したばかりの新鋭艦であり、基準排水量40,000tに達する完全なポスト・ジェットランド世代の重装甲高速戦艦だった。
コロラド、メリーランド、ウェストバージニアもまた米国流の重防御戦艦であり、低速ながら16インチ砲3連装9門の火力は世界最高水準を保っていた。
正面から対抗できる戦艦は長門ぐらいで、大和型でも数的不利の場合は危険な相手だった。
そのため第3艦隊は当初から戦闘回避を図っていた。
これは臆病ではなく、当然の戦術的選択であった。
勇気と無謀は違う。
だが、低速の上陸船団が夜明け前には捕捉されてしまうことが明らかとなった。
この時、第3艦隊旗艦の長門では撤退か、抗戦かで参謀同士の激論が繰り広げられた。
議論の大勢は撤退に傾いた。
船団を解散してバラバラに逃げれば、かなりの犠牲が出るが全滅は免れるし、第3艦隊も生き延びることができるからだ。
仮に船団が全滅したとしても、最後の主力艦隊を守ることが優先されるべきだと帝国海軍の参謀将校達は考えた。
決まりかけた議論を覆したのは、海援隊から送られてきたとある連絡将校の一言だった。
「彼らを見捨てるんですか?」
たった一言で、その場の空気は凍りついた。
それは逃げたい人々が最も言われたくない言葉だった。
「海援隊は逃げませんよ。私達は、海援隊は明治の御世から商船を守るために戦ってきました。ただの一度も、身を守る術のない商船を見捨てて、逃げるような卑怯な真似をしたことはありませぬ。逃げたければ、あなた方だけ逃げたらよろしい。私は自分の船に帰らせてもらう」
永遠の、或いは一瞬の沈黙を破ったのは、艦隊司令長官の小沢治三郎中将だった。
「決まりだな」
第3艦隊は旗艦長門を先頭に反転。追撃する米戦艦部隊の前に立ち塞がった。
それこそ、キング提督の狙いであり、彼はこの機を逃さず、日本海軍最後の主力艦隊を撃滅して、この戦争を終わらせるつもりだった。
反転してくる日本艦隊を発見した時、キング提督は
「今夜でやつらの戦争を終わらせてやる」
と笑みを浮かべて必勝の意気込みを述べている。
全てにおいて劣る日本艦隊の優位はレーダーが使えることであり、追撃の米艦隊を先に発見するとその頭を抑えるように回頭した。
砲戦開始は30,000m付近からで、日米艦隊は距離をおいて同航戦に入った。
船団が離脱するために時間稼ぎが日本艦隊の目的であり、マトモな砲撃戦などする気はさらさらなかった。
30ノットの快速で走れる霧島、比叡に面白いように米艦隊は翻弄された。長門でさえ、25ノットの全速で走れば、米戦艦より5ノットの優位があった。
戦うと決めたが、まともに戦うとは誰も言っていない。
米戦艦部隊はその逆だった。
夜間長距離砲戦により、いつまで経っても命中弾が得られないことに苛立った米艦隊は損害を省みない突撃を敢行し、徐々に砲戦距離が詰まっていた。
古いがゆえにベテランが多く乗り込んでいた霧島と比叡は次々と命中弾を得たが、米戦艦部隊はその重装甲で14インチ砲弾を弾き返しながら突進してきた。
ノースカロライナのA砲塔に命中した霧島の砲弾が跳ね返される様子が当時の記録写真にはっきりと残っている。
逃げる上陸船団を守るために後退することを許されない長門、霧島、比叡は格上の米戦艦と真正面から撃ち合うことになった。
結果、霧島は機関を撃ち抜かれ大破炎上、比叡は4番砲塔を撃ち抜かれて爆沈した。
霧島、比叡と撃ち合ったコロラド、メリーランドは上部構造物を多数の14インチ砲弾によって引き裂かれていたが、砲塔や機関などのバイタルパートは健全な状態を保っていた。
命中弾数は霧島、比叡の方が多かったが、命中しても防御装甲を撃ちぬけなければ意味がなかった。
最後の楯となって奮戦した長門だったが、20年も世代が違うノースカロライナと同格のウェスヴァージアの容赦ない攻撃により、徐々に追い詰められていった。
最終段階において20発以上の米国製16インチ砲弾が長門に命中したが、その地獄の中からでも長門は反撃し、三斉射でウェストヴァージニアを大破させるという戦果を挙げた。
だが、それが限界だった。
長門の全ての砲塔は沈黙させられ、手の施しようのない大火災に巻かれて西太平洋に沈んでいった。
長門全乗員二千余名のうち、救助されたのは僅か121名だった。もちろん、その中に艦隊司令長官は含まれていない。
長門が沈んだことでターゲットを変更した米戦艦の巨弾が巡洋艦戦隊にも降り注ぎ始めた。
それでもなお、日本艦隊は突撃を繰り返し、水上打撃力皆無のえとろふ護衛艦すら戦闘に参加して、米艦隊を食い止めようした。
しかしながら、えとろふ護衛艦はほぼ瞬殺に近い形で全滅することになり、艦隊全滅はもはや時間の問題となった。
だが、そこで時間切れが訪れた。
第3艦隊が待ち望んでやまなかった夜明けがやってきたのである。
夜明けの赤々とした空に、硫黄島から発進した陸上攻撃機の大編隊が現れた。
長大な航続距離をもつ陸上攻撃機とはいえ、ほぼ限界進出距離に近い長距離攻撃だったが、ヴェテランが揃っていた彼らはそれをやり遂げた。結局、帰投中に燃料切れで攻撃隊の7割が失われるという大惨事になったが、それでも彼らはやり遂げたのである。
米戦艦への雷撃こそ、彼らの存在意義だったからだ。
ノースカロライナ、コロラド、メリーランドには戦闘機の傘がなく、日本戦艦との砲撃戦で対空火器の類が全損しており、回避運動以外何もできない状態だった。
「訓練標的よりも当てやすかった」
などと生還した陸攻のパイロットが述べるほど容易く、コロラド、メリーランドには多数の航空魚雷と水平爆撃が突き刺さり、2隻は長門の後を追った。もとより大破状態のウェストバージニアなどは航空魚雷1本にも耐えられなかった。
ノースカロライナにも250kg爆弾の雨が降ったが、重装甲によって生き延びて戦場を離脱することに成功している。
ノースカロライナの撤退を以って、第二次マリアナ沖海戦は終了と見なされてる。
帝国海軍はこの戦いで軽空母2隻、戦艦3隻、巡洋艦3隻、駆逐艦3隻、護衛艦4隻を失っている。
対する米海軍もまた、正規空母1隻、戦艦3隻、巡洋艦2隻、駆逐艦4隻を失うというブラッディな結果に終わった。
戦術的には引き分けだったが、戦略的には日本の勝利といえた。
上陸船団が全く無傷だったからだ。
第3艦隊の残存艦艇に守られた上陸船団は、6月16日、ついにサイパン島への逆上陸を成功させた。
上陸作業妨害のためトラック環礁からB-17爆撃機が飛来したが、高射砲とひようの戦闘機によって爆撃は阻止された。
1個師団の兵員と潤沢な武器弾薬、食料を揚陸した日本軍は、1939年6月23日、総攻撃を開始した。
そして、1939年7月3日、遂に日本軍はサイパン島飛行場の奪還に成功する。
飛行場は砲爆撃によって完全破壊されていたが、海援隊の機械化建設部隊が米軍の妨害に悩まされながらも僅か1週間で修復した。
以後、サイパン島飛行場には続々と海軍航空隊が進出し、マリアナ諸島の制空権は日本の手へと落ちた。
島内の米軍は粘り強い抵抗を示していたが、制空権の喪失で彼らはそれまで以上に補給に苦しむことになった。
ようやくサイパン島の戦いに見通しをつけた日本軍だったが、投入してる地上戦力は全軍の10分の1以下であった。
陸軍の主力は満州から離れられなかった。
なぜならば陸軍はノモンハン事件の収拾にかかりきりになっていたからだ。
満州国とソビエト連邦の国境紛争は、日本軍の増援を得て拡大の一途を辿っていた。
日本政府は事件の不拡大方針を貫いていたが、独立国である満州国にそれを強要する方策はなかった。
満州国総統石原莞爾は強気の姿勢を崩しておらず、日本軍の増援が到着したことで対ソ全面戦争に突入しかねないほど態度を硬化させていた。
太平洋戦争に隠れてあまり日の当たることのないノモンハン事件だが、実態としては満ソ戦争ともいうべき大規模戦争であった。
21世紀現在、満州国の歴史教科書にはこの戦いを満ソ戦争と表記している。
ロシアの教科書でも同様であり、事件にとどめているのは日本だけだった。
6個師団も増援を送っておいて事件にとどめているのは戦争になってしまうとイギリスが日英同盟にしたがって参戦義務が生じるという政治的事情があったからである。
石原総統はそれを狙っていた節があり、日米戦争にソ連とイギリスをリンクさせ、ノモンハン事件を世界規模の戦争に拡大しようと画策していたという説がある。
なお、戦闘そのものは痛み分けに近い内容だった。
第二次ノモンハン事件(8月事件)は日ソ両軍はお互いが機械化部隊を繰り出して大規模な戦車戦と砲撃戦、航空戦の応酬となった。
75mm野砲装備の九七式中戦車改(新砲塔チハ)はT-26やBT-7相手なら火力に勝っており有利に戦車戦を進めることができた。
だが、途中からソ連軍は新型重戦車が現れると新砲塔チハの優位は消し込んだ。
同時期、ソビエト軍は新型重戦車の試作競争を進めており、日本軍の75mm野砲搭載戦車に既存の戦車が苦戦していたことから、試作車両が実地試験を兼ねて送り出された。
この試作車両はSMK、T-100,KV-1であり、SMKとT-100はソビエト軍最後の多砲塔戦車だった。
ただし、この2両は重量過大であり、見た目のインパクトほど強力ではなかった。
真の脅威は単砲塔のKV-1重戦車であり、KV-1は日本軍の速射砲(37mm)や新砲塔チハの75mm砲弾を悠々と弾き返した。
「ソビエト軍の新型戦車は化物か」
と対戦した西竹一少佐(当時)を驚愕させたと言われている。
なお、西少佐は中国語読みするとシャー少佐となるが、それともかくとしてソビエト軍の試作重戦車は日本軍の集中攻撃にも係わらず悠々と前進を続けて日本軍砲兵を蹂躙するなど大暴れだった。
これを撃破したのは、海援隊の満鉄警備部が持ち込んだ名前のない戦車だった。
名前のない戦車は海援隊傘下の河城重工が独自に開発した輸出用戦車であり、同一設計で重戦車、中戦車、軽戦車タイプを作り、部品を可能なかぎり共通化することで安価に、顧客のニーズに合わせた多数のバリエーションを展開するというものだった。
満鉄警備部は満鉄の鉄道警察の一部門だったが、相手が無法無頼を信条とする満州馬賊であるため重武装化しており、戦車隊を有するほどになっていた。
正式には満州鉄道警備部特殊装甲車大隊であり、その実態は1個戦車大隊だった。
満鉄部内では、警察戦車隊などと称されていた。
その任務は満鉄にちょっかいをかける馬賊を戦車砲で吹き飛ばすことであったが、この時の相手はソ連軍だった。
彼らは自社製の重戦車型の名前の無い戦車を装備していた。僅か1個小隊4両ではあったが、その威力は圧倒的だった。
ソ連軍のいかなる戦車砲も、名前のない重戦車の45度傾斜した100mmの前面装甲を貫通できなかった。
反対にソ連の如何なる戦車であっても、100mm45口径砲で撃破できないものはなかった。
500馬力の水冷ガソリンエンジンは45tの車体にはアンダーパワーだったが、機動力は重戦車としては十分なものであり、走行装置の性能の高さから路上なら45km/h程度の機動力が出た。
名前のない戦車の高性能ぶりに驚いた帝国陸軍は、すぐにこの戦車に九九式重戦車という制式名称を与えて自国の軍備に組み込んだ。
しかし、九七式中戦車”チハ”のような独特の略称がつくことがなかった。
これは自軍が一切、開発に関与していない九九式重戦車を外様扱いしていたことによる。
ちなみに、ソビエト軍は日本軍の新型重戦車の登場に驚き、役に立たなかった多砲塔戦車の開発に見切りをつけ、KV-1戦車をさらに重装甲にするという改良を施した。通常形式ですら重すぎたKV-1を重装甲化するというは無理があり、重量過大で故障が多発している。
日本軍は日本軍で、KV-1重戦車の群れという悪夢にうなされて、莫大なコストをつぎ込んで九九式重戦車を1万両も製造している。
話が逸れたが、戦車同士の対決や航空空戦、砲兵同士の戦いは殆ど日ソ互角だった。
お互い最寄りの鉄道駅から遠く離れた僻地の戦いであったから、補給を維持するには大量のトラックが必要だったが、日ソ両軍ともにトラックについては全く不足していなかった。
相対的に鉄道駅から前線が遠いソ連軍の方が先に砲弾備蓄が尽きかけるなど、得意の火力戦でももう少しで押し切られそうなるほどだった。
だが、日本政府は事件の早期終結を急いでいた。
これ以上、石原莞爾の個人的な戦争に付き合っていられなかったとも言える。
日本政府は満州派遣軍から石原信奉者を異動させ、さらに満州国を外してソビエトと直接交渉して満ソ国境線を確定させた。
この国境線確定交渉は満州国側に不利なものだったから満州国(というよりは石原総統)は単独での戦争継続も辞さないと反発した。
だが、
「もう一度よく考えられた方がいい」
と、坂本首相から冷たくあしらわれると振り上げた拳を下ろすしかなくなった。
日本政府が石原総統の反発覚悟で事件終結を急いだのにはわけがあった
1939年8月23日、ドイツとソ連の間に独ソ不可侵条約が結ばれたのである。
不倶戴天の敵同士であるヒトラーとスターリンが手を組んだことは、全世界のセンセーションを巻き起こした。
独ソ不可侵条約はヒトラーの外交勝利だった。
ドイツは東の安全を確保し、8日後の1939年9月1日にポーランドへ侵攻した。
欧州大戦の始まりである。
ポーランド戦は実質的に2週間で決着した。
ドイツ軍はポーランド軍に対して圧倒的な数的優位を得ていた。特に航空戦力は全く比較ならなかった。
ポーランド空軍は日本からの新鋭機輸入に賭けていたが、日米開戦で果たすことができず、僅かにフランス製戦闘機を導入しただけで開戦を迎えてしまった。
そのフランス製戦闘機も、フランスが日本から購入した九七式戦闘機という代替品があるから玉突き式に押し出された旧式機でしかなかった。
それでもポーランド空軍は分散配置を徹底することで、非力ながらもドイツ空軍の攻撃を妨害し、地上軍を援護した。
伝説の存在となっていたポーランド騎兵は騎兵突撃を幾度か成功させて、ドイツ軍を敗走させるなど死力の限りを尽くして戦っている。
けれども同年9月17日にはソビエト軍が突如ポーランド国境を突破。東西から挟撃されたポーランド軍は総崩れとなった。
独ソによって分割占領されたポーランドは降伏せず、ハンガリー経由でイギリス・フランスへ逃れてその後も亡命政府、亡命軍として戦闘を継続することになる。
イギリス・フランスはポーランド防衛条約に基づき9月3日にドイツに宣戦布告したがポーランドが崩壊しても何もしなかった。
ポーランドが防衛に成功するとしたら、それはイギリス・フランス軍が即座にドイツの西部国境に侵攻した場合のみだった。
だが、フランス軍は独仏国境のジークフリート要塞線の前に立ちすくむばかりで何もしなかった。
ポーランドは見捨てられたのである。
人々はこれをまやかし戦争と呼んだ。
ドイツ軍も、イギリス軍もフランス軍も西部戦線では奇妙なまでに静寂と平穏を保った。
両軍の爆撃機は爆弾の代わりに紙束の伝単(プロパガンダ紙)をお互いの都市に投下するなど、本当に戦争が起きているか首をかしげるような戦いだった。
だが、実際のところは両軍ともに想定外の戦争勃発に大慌てで”本当”の戦争準備をしている真っ最中だった。
ドイツのヒトラー総統は、ポーランド問題の解決に軍事力を使用したが、それが英仏と戦争になるとは考えていなかった。
特にイギリスがポーランド防衛のために即座に宣戦布告してきたことは想定外だった。
ヒトラーは日米が些細な事故を理由に戦争を始めた愚かさをイギリスは承知しており、この程度の”些細”な軍事力の行使でイギリスがドイツとの全面戦争に突入するわけがないと考えていたのである。
イギリスはイギリスで、日米の些細な事故を理由に戦争を始めた愚かさをドイツは承知しており、”些細”な軍事力の行使でも全面戦争になりえる危険性をドイツが認識していると考えていたので、認識の不一致は甚だしいものがあった。
故に全面戦争が始まった時、ドイツもイギリスも慌てふためくことになった。
特にドイツ軍の動揺は激しいものがあった。
1939年時点で、ドイツ軍の如何なる戦争計画にもイギリスとの戦争を想定した用意は存在しなかった。
ドイツ軍の保有する爆撃機を見ればそれは一目瞭然で、ドイツ国境からイギリス本土を爆撃可能な機材は一つもなかった。
イギリスとは戦争をしないという前提でドイツ空軍はつくられており、その活動範囲はポーランドや東欧での戦いを想定していた。
どのみち、ドイツの航空機産業ではイギリスを攻撃可能な長距離爆撃機を大量生産することは不可能だったから、この選択はある意味正しいといえる。
ドイツ陸軍にしても主力の三号戦車は未だに数が揃わず、6個しかない装甲師団の大半はチェコ製の戦車で武装している有様だった。
海軍に至っては勇者のように倒れて祖国への忠誠を示すしかない程度に貧弱で、通商破壊戦に活路を見出すしかない状態だった。だが、そのための潜水艦すら不足している有様だった。
まともな戦争準備もないままにドイツは戦争に突入してしまったと言える。
しかし、長期戦になればイギリスの海上封鎖で干上がるドイツは前に進むしかないのだった。
対するイギリス・フランスもまた早すぎる戦争に驚いていた。
そして、東欧の大国であるポーランドが呆気なく崩壊したことでパニックに陥った。
パニック状態の英仏はポーランド戦について情報収集を急ぎ、綿密に検討を行った。
そして、ドイツ軍が高い機動戦能力を持っていることを知り愕然とした。
自国の装備を見た時、その機動戦術に対抗不能だと気がついたのである。
早急に対策を打たなければ自国も危ういと悟った英仏軍は降雪で戦争が止まる冬の間に戦争準備に狂奔することになった。
特に砲兵火力の増強が急がれた。
ドイツ軍相手に機動戦で勝負を挑んでも勝てないからだ。
先の大戦同様に火力と塹壕でドイツ軍の機動戦術を封殺すれば、英仏は海上封鎖と消耗戦で再建まもないドイツ軍を押し切ることができるはずだった。
ドイツも、イギリスもフランスも突然始まった戦争になんとか対応しようとしていた。
なお、このような動きに日米は殆ど関与するところはなかった。
日本は欧州の戦争については中立を宣言していた。
日英同盟は二国以上から宣戦布告がないかぎり参戦の義務は生じなかった。
また、何かしたくでもできないのが現状だった。
アメリカと戦争をしながらドイツと戦うのは不可能である。その点についてはイギリスも承知しており、太平洋と欧州で相互中立を容認する外交協定を締結している。
アメリカもまたヨーロッパの戦争には中立宣言を出している。
先の大戦において、ドイツの前に立ちふさがった日米が潰し合いをしている間に、ヨーロッパの戦争を片付けるべく、ドイツ軍は雪解けと同時に行動を開始することになる。
ドイツ軍、西方電撃戦の始まりである。