嘘つきA君と壊れた世界
嘘つきA君と壊れた世界
日米開戦後、世界はまるで壊れたしまったかのように不安定さを増していった。
ヨーロッパにおいては、日米開戦後の1939年3月には武力恫喝でドイツがチェコスロヴァキアを解体し、併合した。
前年のズデーデン危機の折、戦争回避に尽力したイギリス首相のチェンバレンやフランス首相ダラディエを人々は褒め称え、パリにはチェンバレン通りが作られたがその喜びは1年も保たなかったことになる。
東欧有数の工業地帯であるチェコを手に入れたヒトラーは、その工業力をドイツの軍需生産に組み込んで、より一層強大化した。
自国のⅢ号戦車に匹敵するチェコ製の戦車(LT-35やLT-38)はチェコを手に入れたことに匹敵する価値があったとされる。
実際、1939年中に編成されたドイツ軍の装甲師団の半数以上はこのチェコ製戦車で武装されており、これがなければ開戦に踏み切ることは不可能だった。
なお、日米開戦とその後の経過についてはヒトラーは殆ど無関心を貫いている。
マリアナ沖で激突した日米の艦隊決戦についても、
「そんな地の果てのことなど知ったことか!」
と言い放っている。
ヒトラーは病的に日本人を嫌っており、話題にすることすら拒否していた。
逆にトラック奇襲を成功させたアメリカ合衆国は賞賛し、西欧文明の守護者とまで持ち上げている。
ヒトラーの日本人嫌いは常軌を逸しており、実際に被害妄想という正式な医師の診断書が存在していることが判明している。
ヒトラーが被害妄想を抱くきっかけとなったのは第一次大戦前にウィーンで生活していた青年時代に海援隊のリクルーターと接触し、入隊を勧められたことである。
海援隊のリクルーターはヒトラーの絵を購入した上で、美術デザイナーの職を提示した。
画業に行き詰まっていたヒトラーはこの話に飛びつき契約書まで交わしたが、一晩経って冷静に考えると提示された条件があまりにも良すぎたため疑心暗鬼が生じた。
さらに勤務地が日本ということで遠すぎるとして結局、契約を破棄することになった。
その後もリクルーターは何度かヒトラーを勧誘したが、ヒトラーは全てこれを断っている。最後の方はあまりのしつこさにヒトラーの方が喧嘩腰で食ってかかり、リクルーターはいつのまにか来なくなった。
そして、しばらくしてヒトラーの下宿が全焼するという事件が起きた。
火事の原因は不明で放火の可能性が高かった。幸運にもビアホールで酔いつぶれていたヒトラーは難を逃れたが、そうでなければ死んでいただろう。
これが被害妄想発症の直接的な原因であると現在は考えられている。
同時期、ヒトラーは家族宛に、
「誰かに監視されている。尾行されているように感じる」
という典型的な被害妄想の症状を訴える手紙を書き送っている。
下宿先の全焼後、ヒトラーは自動車のひき逃げ事故にあったり、ウィーン駅のプラットホームから転落する事故にあったり、新しい下宿先が再び火事で燃え落ちたが、いずれも事件性は認められておらず、単なる不運だった。
だが、被害妄想の症状を悪化させたヒトラーは亡命と称してドイツのバイエルンに移った。
そこでもヒトラーは自分の才能を妬んだ海援隊が送り込んだ暗殺者の尾行されているという妄想をエスカレートさせ、住居を転々とし、一時期はホームレス同然の生活をおくった。
「海援隊が私の命を狙っている!」
とホームレス・ヒトラーは警察に訴えたが、もちろんまともに相手にされなかった。
それどころか浮浪者として逮捕された。
ヒトラーは逮捕に抵抗して暴れ錯乱状態になったので精神鑑定のためバイエルンの精神病院に送られている。
そこで重度の被害妄想と診断され、措置入院となった。
そのままヒトラーが精神病院に収用されていれば、その後の世界の歴史は大きく違ったものになっていただろう。
だが、第一次世界大戦が勃発し、兵員不足に陥ったバイエルン王国は精神病患者であってもいないよりはマシとして、ヒトラーを精神病院から解き放ってしまった。
そして精神病患者は幾度かの運命の流転を経て、ドイツの独裁者として君臨することになるのである。
ヒトラーは海援隊(日本)が自分の命を狙っていると堅く信じており、権力を掌握した後にもそれは全く変わっていなかった。
「日本人とユダヤ人は起源を同一とする劣等人種」
とまで発言し、ドイツから悪しき血を一掃するとまで言い放った。
ヒトラーは独裁的な権力を掌握すると嘗ての報復に日本企業を経済的侵略者であるとしてドイツ市場から締め出した。
さらに在ドイツの日本人の財産を没収し、国外追放するなど日本人弾圧政策を進めた。
同時期、反日感情をこじらせていたアメリカ合衆国と外交歩調が合うのは当然の成り行きといえた。
世界大恐慌以前、ワイマール・ドイツにはアメリカ資本が大量投下されていたので基本的な下地はすでに出来上がっていたと言っても過言ではなかった
合衆国側は経済のブロック化を進める英仏とも関係が冷却化しており、驚異的な経済再生を遂げているドイツとその指導者に熱い視線を送っていたから、米独関係は1930年代後半においてアメリカ外交の基軸となった。
また、米独関係の進展は安全保障上の利点があった。
ドイツがイギリス海軍を牽制できる程度の海軍力を持つことは、日英同盟で東西から包囲されている合衆国にとって安全保障上、好ましいことだった。
Uボートやその他ドイツ海軍艦艇の艦内インターコムの製造を受注したのが米国企業のITTであったのはその為である。
また、その傘下企業がフォッケウルフ社の株式を購入している。
もちろん国防企業のフォッケウルフ社の株式が上場されているわけないので、ナチス党(特にゲーリング)・軍部の承認を経た事実上の合衆国からドイツへの資金提供だった。
その見返りにドイツから追放された日本企業から没収した資産が破格の安値でアメリカ企業へと売却されている。
ちなみに、この資金で開発されたのがMe109に代わる主力戦闘機Fw190である。
Fw190のエンジンとなったBMW801の開発には、米国のGE社が関わっており、GEからターボ過給技術が提供されFw190A-10型として結実している。
A-10はスーパーフォッケウルフとしてグリフォンエンジン搭載型スピットファイアと互角の機動性、高空性能を発揮してイギリス空軍を脅かした。
空母グラーフ・ツェッペリンの設計にはアメリカ海軍が協力しており、空母レキシントンの設計図や航空艤装が提供されている。
戦艦ビスマルク建造にも、アメリカ海軍から戦艦ワシントンの設計図が提供され、建造中のノースカロライナをドイツ海軍高官が見学できるように便宜を図るなど米独海軍の協力関係は緊密なものだった。
ビスマルクに16インチ連装砲を装備できたのは、アメリカ海軍の協力がなければ技術的に不可能だったと言われている。
米独関係に対するイギリスの焦慮は深かった。
ドイツのチェコ併合で、ミュンヘン会談は破綻し、ヒトラーの領土拡大要求を止めるには軍事力を以ってするしかなく、ドイツとの戦争がありえると考えるようになった。
その時、イギリスを超える経済力を持つにいたった大日本帝国の助力は必要不可欠である。
アメリカ合衆国もまた先の大戦と同様に味方に引き込んでおく必要があった。
恐ろしく自国本位な考えで、日米の和解を斡旋しようとしたイギリスだったが、その試みはうまくいかなかった。
奇襲で大損害を受けた日本は世論が沸騰しており、日本から和を乞う状況ではなかった。
世論が沸騰しているのは合衆国も同じで、あと少しで勝利で戦争が終わると考えていたからイギリスの政治工作は効果がなかった。
イギリスは戦争長期化で漁夫の利を狙っていたので開戦初期の外交は、むしろ戦争を煽る方向だったことが痛かった。
因果応報とも言える。
ヒトラーのチェコ併合がもう少し早ければ、イギリスは東海岸に艦隊を送ってでも日米の戦いを止めただろう。
日米の和解が成立するとしたら、どちらかの海軍力が致命的な打撃を受けるか、千日手で戦線が膠着したときだった。
1939年4月時点では、そのどちらからも程遠い状況だった。
サイパン島に上陸したアメリカ軍は、日本軍守備隊と寸土の土地を奪い合う戦いを続けており、どちらも一歩も引く気はなかった。
サイパン島攻防戦は島のすべてを血に染めて続いていた。
1939年4月13日、サイパン島に上陸した米第1海兵師団を出迎えたのは日本軍の熾烈な水際防御だった。
海岸線にそって作られた簡易トーチカから発射される37mm速射砲や25mm対空機銃の水平射撃で上陸用舟艇は次々と撃破された。
1939年時点では水陸両用の装甲機材を持っていなかった海兵隊はトーチカ攻略に銃剣と手榴弾を以ってするしかなく破滅的な勢いで死傷者を増やした。
サイパン島はその地形から上陸できる箇所が島の西側の海浜に限られており、上陸地点を予想するのは簡単だったことが、米海兵隊にとって悲劇だった。
日本軍はマーシャル諸島やトラック環礁から撤退する際に武器弾薬を持ったままサイパン島に後退しており、僅かな猶予時間の間に島を要塞に作り変えていた。
椰子の丸太を組んで、砕いたサンゴで補強した簡易トーチカは、しばしば駆逐艦の5インチ砲弾を跳ね返した。
日本軍は反撃の切り札に九五式軽戦車装備の戦車1個大隊を上陸海岸に突入させ、対戦車火器を持たない海兵隊員を蹂躙した。
最終的に海兵隊は、
「オレの頭の上にクソを垂れろ!」
という後に映画で有名になるセリフを味方の戦艦に言い放ち、自分達ごと艦砲射撃で日本軽戦車を撃破した。
それで橋頭堡は確保されたが、第1海兵師団はほぼ壊滅し、サイパン島の戦いは膠着状態に陥ることになる。
テニアン、グアム島の戦いも似たような状況だった。
アメリカ軍は直ちにトラックに控えてた予備戦力の第1歩兵師団を投入したが、そこで時間切れが訪れた。
航空支援を担っていたエンタープライズとサラトガは航空魚雷で腹をえぐられており、隔壁からの浸水が増えて危険になったため、第1歩兵師団の揚陸が終わると撤退した。
無傷のレンジャーも弾薬補給のために一度、トラックまで撤退している。
米軍の航空支援は失われたが、既に水際で壊滅状態に落っていたサイパン島守備隊に抵抗の力は残されておらず、ズルズルと後退してサイパン島飛行場を喪失した。
だが、日本軍にも有利な点があった。
無傷で残った軽空母龍驤と硫黄島の基地航空部隊がいたことである。
撃沈された龍翔の艦載機を着艦させて甲板が埋まったため戦闘不能になった龍驤だったが硫黄島に艦載機を下ろすと米空母の撤退を確認して、サイパン島沖に再進出してゲリラ的反撃を行った。
この攻撃で艦砲射撃を行っていた米巡洋艦1隻が大破し、駆逐艦複数が損傷した。
さらに硫黄島から飛来した大攻が水平爆撃でグアム、サイパン島飛行場を爆砕して使用不能にした。
これらの攻撃によって、サイパン島守備隊はかろうじて体制を建て直すことに成功する。
ただし、守備隊そのものは壊滅状態であり、反撃には増援と補給が必要だった。
龍驤のゲリラ攻撃を知った米軍は1隻しか残っていない無傷の空母レンジャーをすぐさま出撃させたが、龍驤は逃走した後だった。
レンジャーの艦載機によって米軍は制空権を回復したが、硫黄島から飛来する長距離爆撃機の攻撃圏内に長くとどまることはできず、龍驤の逃走を確認するとレンジャーも撤収するしかなかった。
結果、マリアナ諸島に制空権の空白地帯が生まれた。
昼間は、日米の長距離爆撃機(九六式大攻、B-17)が飛び回り、島に近づく船を攻撃、妨害したがその支配は流動的で、決定的なものではなかった。
夜間にあっては、その支配はさらに弱いものだった。
両軍は制空権を抑えて、相手を上回る規模の増援と補給を送り込んだものが、この戦いの勝者になることをすぐに理解した。
特に合衆国にとって重要なことは、この島を餌に日本海軍をおびき寄せて殲滅することで戦争を終わらせることができることだった。
帝国海軍の唯一の稼働空母となった龍驤は再編成のため横須賀に戻り、海援隊の航空護衛艦じゅんよう、ひようがフィリピン戦から帰還し、第3艦隊に加わった。
帝国海軍の全稼働空母はこの3隻しかなく、正規空母の赤城、蒼龍、飛龍はドックで修理に修理に入っていた。
赤城の修理に至っては200日を要することになり、
「長風呂で食っちゃ寝している大食い」
という不名誉な仇名を貰うことになった。
赤城の名誉のために述べるならば、破損箇所修復と同時に赤城には大規模な近代化改装を施すための工事が行われていたので、ドック入りの期間が長くなったという事情がある。
とはいえ、10,000t級の軽空母3隻が戦争の帰趨を握るというのは、世界第3位の海軍大国らしからぬ話であった。
なお、一番就役が早い空母翔鶴、瑞鶴にしても就役するのは1940年末である。
他の空母については開戦後に建造が開始したものばかりで、戦時量産型空母の就役は早くても1941年半ばからだった。
トラック奇襲と太平洋戦争勃発を受け、帝国海軍は八八艦隊計画を全面的に改定した◯急計画を策定していた。
◯急計画の骨子は、海軍戦備の中心を航空機と空母に定め、戦時量産に適した中小艦艇を大量生産、大量配備するものだった。
空母増勢のため、建造中、或いは建造しようとしていた大和型戦艦9番艦以後はすべて建造中止となった。
大和型戦艦9番艦(改大和型)は基準排水量75,000tの重高速戦艦で、大和型の船体をストレッチして機関を増設して30ノット発揮可能な高速戦艦とした上で、新開発の18インチ50口径砲(長砲身46サンチ砲)を三連装3基搭載するものだった。
改大和用の長砲身46サンチ砲はすでに完成しており、就役済の大和、武蔵や艤装工事中の信濃、甲斐には適用されなかったが、船体工事中の5、6、7、8番艦(後の駿河、相模、越後、尾張)には改造が施され、長砲身46サンチ砲を搭載して完成した。
なお、5~8番艦についても建造中止、空母化が検討されたが、厳密な費用対効果の計算により、戦艦として完成されることになった。
これはトラック奇襲で損傷した戦艦加賀、伊勢、日向、扶桑、山城の全艦が空母化改装を施されることを受けてたもので、旧式戦艦を修復するよりも空母化して航空戦力を強化し、新鋭戦艦を配備して水上打撃戦力を維持する計画だった。
対してアメリカ海軍は大和型に対抗するため、トラック奇襲後にモンタナ級戦艦6隻を起工しており、保守的な対応に終始している。
一見、無駄な行為に思えるが、アメリカ海軍が保有する新世代戦艦はノースカロライナ級2隻と建造中のアイオワ級6隻を除けば全て条約時代の低速艦であり、水上砲戦になったら大和型に対抗することは不可能だったので一定の合理性のある措置といえた。
話が逸れたが、◯急計画の目玉は雲龍型航空母艦の大量建造であった。
雲龍型は船としての寿命を3年に切り詰め、艦隊型空母として最低限の機能を保たせつつ24ヶ月で建造可能な商船構造の中型空母(14,000t級)だった。艦載機数は過積載すれば55機(通常48機)である。
雲龍型は36隻の大量建造が認められた。
それぐらいは沈むだろうというのが帝国海軍の予想だった。
雲龍型は海援隊が航空護衛艦じゅんようの後継艦に考えていた船であり、その基礎設計にはイギリス海軍が協力していた。
そのため外見はイラストリアス級航空母艦に似ており、雲龍の設計図を流用してイギリス海軍が建造したのがコロッサス級軽空母となる。
建造に時間がかかる船舶に対して量産性に優れる航空機は、日米が共に大増産を開始しており戦力が急拡大した。
1939年中に日本が生産した航空機は10,000機に達した。
対するアメリカは8,000機にとどまっている。
なお、同時期のドイツ・イギリスの生産数が年産8,000機であったから、日本の航空機生産拡大は頭一つ抜けていたといえる。
合衆国も列強国としては十分に及第点だが、ポテンシャルからすると不満足な結果に終わったといえる。これは長期戦か短期決戦か、合衆国政府の方針が明確でなかった点が大きかった。
合衆国の航空機生産が20,000機を超えるのは1941年に入ってからである。
その時点で、日本は年産30,000機を達成しており、日米の航空機生産が逆転するのは1942年に入ってからだった。
日本の航空機生産の拡大が合衆国に先じたのは、政府が明確に長期戦の覚悟を固めて行政指導を行ったことや、蒋介石への援助やフランス、オランダへの航空機輸出もあって、量産態勢が整っていたことが大きかった。
なお、1939年の日米生産機の半数以上は練習機であったから、正面の航空戦力の増加は微増にとどまっている。
長期戦を戦うためには大量のパイロットが必要であり、パイロットを大量養成するには大量の練習機と航空燃料が必要だった。
航空燃料の調達が容易な明治油田の傍に多数の練習航空隊が開設され、1939年中だけで8,000人パイロットが養成された。
同盟国とはいえ、外国である満州国に大量の練習航空隊を開設できたのは、満州国から強い政治的な要請があったことが大きい。
1939年5月に勃発したノモンハン事件は満州国を震撼させた。
満ソの国境紛争は1938年時点で年間100件を超えており、ソビエト極東軍の軍事的な圧力は巨大なものとなっていた。
日米開戦後は対米戦でかかりになった日本の足元を見透かしソ連の挑発はさらに激化した。
帝国陸軍が近衛師団などの精鋭部隊をフィリピン戦に投入すると日本軍不在と考えたソ連軍は満ソ国境を越境して測量するなど挑発を強めていった。
これに対応する兵力が、帝国陸軍には不足していた。
1939年当時、帝国陸軍は13個師団しかなかった。
帝国陸軍はヨーロッパ情勢の不穏化やソ連南下という脅威を訴え、軍備拡張にやっきになっていたが、政府の動きは鈍かった。
機械化予算だけは認められたが、これは鉄鋼価格を維持するという経済政策によるもので、師団の増設は認められなかった。
大陸軍国のソビエト連邦という危険な隣人がいても、日露戦争時代と同じ陸軍軍備でいられるのは島国という地理と満州国や大韓帝国という緩衝地帯の存在が大きかった。
1919年に日本の保護国から自立した大韓帝国は1930年代に入ると一定レベルの経済発展を遂げ、相応の軍事力を備えるようになっていた。
韓国陸軍は完全編成の歩兵師団8個、非充足状態の歩兵師団8個を基幹として、戦時35師団まで増設可能な体制を整えており、陸軍軍備なら帝国陸軍を上回っていた。
帝国海軍があるかぎり基本的に海軍が不要な韓国は、陸軍に全予算をつぎ込めるが故の大陸軍だった。
韓国陸軍の拡充には帝国陸軍も全面協力しており、実質的に韓国陸軍は第二の帝国陸軍といって差し支えなかった。
また、満州国も独立以後、急速に軍備を拡張しており、平時25個師団、戦時50個師団を目標に陸軍力を養っていた。
満州国総統の石原莞爾は元帝国陸軍中将であり、古巣から軍備拡大のための様々な援助を引き出して活用していた。
つまり満州国陸軍は第3の帝国陸軍なのだった。
とにかく歩兵だけは沢山いる昔の帝国陸軍=満州国軍に、多少の近代装備を追加した韓国陸軍、そして完全機械化を果たした元祖帝国陸軍というのが1930年代後半の日満韓陸軍軍備であった。
満韓の陸上兵力は、ソビエト軍に対抗するには決して十分なものとは言えないが、時間稼ぎなら十分にこなせる兵力と言えた。
帝国陸軍は、満州国や韓国が時間を稼いでいる間に動員を行う時間的な余裕があり、平時に大陸軍を抱えておく必要性がなかったのである。
話を1939年に戻すと我慢の限界に達した満州国軍が越境したソ連軍を攻撃し、1939年5月11日に大規模な武力衝突に至ったのがノモンハン事件の概要である。
この戦いで、満州国軍は大敗した。
いくら工業化が進んでいるとはいえ、独立間もない満州国軍が勝てる相手ではなかった。
ノモンハン事件の勃発は日本政府を震撼させた。
米ソ挟撃の悪夢である。
ソ連の南下に備えるため、フィリピン戦が終わると第7師団や近衛師団は即座に内地へ送還された上に、陸軍航空隊の南方展開も中止となった。
帝国陸軍の主敵はソビエトであり、陸軍はフィリピン戦後、太平洋から戦力を引き上げてしまい対米戦は殆ど海軍と海援隊で戦う羽目になった。
サイパン島の戦いに大規模な地上戦力が必要ないのが幸いだった。
帝国海軍は高速水上機母艦「千代田」「千歳」に海援隊4個大隊を乗せ、護衛に重巡洋艦1個戦隊と2個駆逐隊の護衛をつけてサイパン島に送り出した。
間接護衛には、航空護衛艦じゅんよう、ひようが就いた。
1939年5月5日、千代田と千歳はサイパン島に接近。じゅんようとひようの艦載機の援護のもとで揚陸作業を開始した。
付近に米空母は存在せず、トラック環礁から飛来したB-17の水平爆撃のみが脅威だったが、じゅんようとひようの戦闘機によって撃退され揚陸作業は比較的順調に進んだ。
だが、夜間に逆上陸阻止のため米巡洋艦部隊が襲来。
これがサイパン島沖夜戦となる。
この戦いは米重巡洋艦4隻(旗艦シカゴ)、軽巡1、駆逐艦6隻からなる遊撃部隊が空襲を避けて夜戦に訴えた戦いである。
海戦は、単艦で警戒中の駆逐艦「綾波」が対水上レーダーで接近する米艦隊を発見。味方の静止を無視して単艦で突撃を開始したことで始まった。
綾波は特型と呼ばれるやや古い駆逐艦だったが、そのような船にも帝国海軍は対水上レーダーを装備していた。
トランジスタを使用して小型化、省電力化が進んだ日本製の電子機器ならば、発電能力が低い旧型艦にも装備可能だった。
ただし、日本軍といえどもレーダーのみで射撃管制が可能なレベルには達しておらず、綾波の攻撃もレーダーで概略位置を掴んだ上での光学照準による射撃だった。
米艦隊は対水上レーダーを持っていなかったので綾波の接近には気づいておらず、先制攻撃は完全な奇襲となった。
綾波の放った12.7サンチ砲弾が連続して先頭艦の米重巡シカゴに命中。さらに9本の酸素魚雷が次々に殺到した。
単艦の綾波を相手にパニックを起こして盲撃ち状態となった米艦隊に駆けつけた重巡妙高、那智、足柄、 羽黒が襲いかかり、滅多打ちにした。
冷静さを保っていた米駆逐隊は牽制のために魚雷を一斉発射し、回避運動を強いられた日本艦隊が追撃を断念して戦いは終わったが、戦闘終了までに米重巡3隻が沈んだ。
なお、日本艦隊の損失艦は0で、単艦突撃を行った綾波さえ小破の損害で生き残った。
「マリアナ沖の鬼神」
として綾波が内地の新聞一面に飾ったのも、この戦いによるものである。
戦術的には日本軍の完勝した戦いだった。
トラック奇襲や米軍のサイパン島上陸を許してから消沈していた帝国海軍は、この戦いで自信を取り戻し、積極的に水上戦闘を挑むようになった。
特に伝統的に重視していた夜戦で勝てたことは大きかった。
だが、揚陸作戦そのものは、米空母の接近を受けて途中で中止されており、不十分な量の物資しか揚陸できず、戦略的には不満足な結果と終わった。
以後、マリアナ諸島の戦いは夜戦の連続となっていた。
昼間はお互いに空襲を警戒して、島に接近することが困難だったからだ。
そこで日米双方は巡洋艦や駆逐艦を使って夜間に輸送を試みた。
米軍の最前線基地となったトラック環礁とマリアナ諸島を往復する輸送部隊を帝国海軍はワシントン・エキスプレス(ワシントン急行)と呼んで、最優先攻撃目標とした。
米海軍もまた、帝国海軍の巡洋艦や駆逐艦による輸送作戦を東京急行と呼んで、最優先攻撃目標に指定している。
ドラム缶や水密コンテナを満載した日米の駆逐艦隊の夜戦は、多くの場合、日本駆逐艦が対水上レーダーによる索敵で先手を打って有利な態勢から攻撃した。
たまに不用意な攻撃を仕掛けて返り討ちに遭うこともあったが、日米駆逐艦のキルレシオは1対3.3であり、レーダーを使用した夜戦で帝国海軍は圧勝した。
ただし、帝国海軍は輸送作戦よりも水上戦闘を優先することがしばしばで、輸送作戦の成功率そのものは米海軍と同程度にとどまっていた。
結果として、陸の戦いは膠着状態に陥った。
両軍ともに陸軍部隊に十分な弾薬、食料を送ることができなかったためである。
また、日本軍の増援として送り込まれた海援隊の地上戦部隊は練度が低く、武器弾薬どころか食料さえ不足していた米陸軍第1歩兵師団に返り討ちにあっていた。
アメリカ陸軍最古参の第1歩兵師団は精鋭が揃っており、軽装備の海援隊では相手にならなかったのである。
海援隊が地上戦部隊を編成し、世界各地で戦っていた時代は過去の話であり、近年は植民地警備や後方支援が主任務だったことから、大規模な地上戦のノウハウが失われていたことが大きかった。
あまりにも不甲斐ない海援隊の戦いぶりを見た帝国陸軍の参謀は、
「まるでカカシですな」
というコメントを残している。
この失敗を受けて海援隊は本格的な地上戦部隊を編成することになるのだが、彼らが活躍するのはもう少し先の話である。
とはいえ、サイパンやグアムの飛行場に脅威を与え、使用不能にする程度の仕事は可能だった。
それ以上は無理だったが。
海援隊の能力に限界を感じた日本軍は、陸軍部隊の追加投入を決意し、虎の子の陸軍第2師団を動員した。
これ輸送するため大規模な逆上陸船団を編成され、第3艦隊が護衛につく大規模な輸送作戦が展開された。
大規模な逆上陸船団の編成は当然、米軍の察知するところになる。
彼らが日本海軍殲滅の好機を逃すはずがなく、損傷修理の終わった米空母ヨークタウン、レンジャーを中心とした米空母機動部隊との決戦は不可避の情勢だった。