エレベーターアクション
エレベーターアクション
1939年3月14日 帝国海軍第3艦隊はルソン島リンガエン湾へと侵攻した。
第3艦隊の編成は以下のとおりである。
戦艦 霧島、比叡
空母 飛龍、龍驤、龍翔
重巡洋艦 白根、鞍馬、蔵王、乗鞍
軽巡洋艦 利根、筑摩
駆逐艦 甲型12隻
第3艦隊は、連合艦隊における偵察艦隊の位置づけであり、高速の空母や戦艦、巡洋艦が多数集められていた。
トラック奇襲で主力の第1、2艦隊が壊滅した今となっては第3艦隊が実質的な連合艦隊主力だった。
旗艦は霧島に置かれた。第3艦隊を率いるのは小沢治三郎中将である。
小沢中将は帝国海軍航空派の重鎮だったからこの人事は当然のことであった。
艦隊の侵攻に先立って、台湾から発進した基地航空部隊が空爆を行っており、フィリピン各地にある米軍基地に爆弾の雨を降らせていた。
基地航空隊の主力は九六式大型攻撃機と九六式中型攻撃機である。
九六式艦戦改は航続距離の問題で台湾からフィリピンまで往復できないため、空爆に先立って空母搭載機による制空が必要不可欠であった。
アメリカ軍の主力戦闘機はP-36とB-18で、自慢の空の要塞は1機もなかった。
海軍航空隊は既にどちらも中華内戦で対戦した経験があり、性能でも数でも敵ではないと考えていた。
帝国海軍の敵は時間だった。
一日も早くフィリピンを攻略して南方航路を解放しなければ、経済が保たないのである。
1939年3月時点で、大日本帝国が必要とする民需用石油は年間3,000万tだった。
これは軍需を除いた数値であり、戦時の消費を考えれば、4,500万tは最低限必要だと見積もられていた。
満州にある明治油田の年間産油量が3,000万tで、樺太油田が年産500万tであったから、1,000万tは不足している計算である。
特にガソリンの不足が大きな問題だった。
明治油田は油質が重く、艦艇燃料に使う重油ならともかく、軽質分であるナフサやガソリンの収穫量が少なかった。
ガソリンで動く産業用トラックは近代物流の基礎であり、軍用としては航空戦力の血液であるから、何があっても石油輸入を維持しなければならなかった。
石油の輸入元はイギリス勢力圏で、最大手はイランだった。
近場の大油田には蘭印のパレンバンもあるが、オランダは合衆国との関係悪化を恐れて対日輸出を自粛していた。
貿易の制限はカナダやオーストラリアも同じで、合衆国に近い中立国からの輸入は殆ど途絶えてしまっている。
カナダやオーストラリアは英連邦構成国だったが、最近落ち目の宗主国よりも合衆国に睨まれることを恐れていた。
直接、国境を接するカナダはともかくとして、海を隔てたオーストラリアが合衆国寄りなのは、白豪主義のためだった。
日本海軍が壊滅して下心が出たらしく、彼らはソロモン諸島やビスマルク諸島などの日本の国連委任統治領にギラついた視線を送っていた。
ただし、宗主国が怖いので具体的に何かするわけではなかったが。
このような状況で、日本の資源輸入はインドやアフリカ、中東のイギリス植民地に頼らざるえず、南方航路を再開するにはフィリピン侵攻は不可避だった。
マーシャル諸島へ侵攻したアメリカ軍を基地航空部隊と潜水艦艦隊が足止めしている間にフィリピンを電撃的に攻略しなければ、戦時経済の自壊が待っていた。
そのため、リンガエン湾上陸作戦には、最精鋭部隊が集められていた。
宮城防衛の精兵が集まる近衛師団と北海道防衛の要である第7師団。さらに上陸戦に特化した広島第5師団が集められた。
近衛師団の投入には多くの異論があったが、急な開戦で直ぐに動ける装備、人員が充実した部隊となると近衛師団しかなかった。
北海道の第7師団もまた対ソ戦部隊として即応状態が維持されている精鋭である。
帝国陸軍は第7師団を戦略予備と位置づけており、1ヶ月でフィリピンを攻略し、ただちに北海道をへ戻すことを投入の条件としたほどの虎の子であった。
広島第5師団は敵前上陸に特化した殴り込み部隊で、帝国陸軍がウラジオストク上陸のために育ててきた精鋭部隊である。上陸戦特化のため多数の上陸用舟艇を装備しており、島嶼戦への備えも十分だった。
これらの師団はすべて機械化されており、歩兵はジャパニーズ・キャリアと呼ばれる英国陸軍のユニバーサル・キャリアによく似た装軌式汎用輸送車で移動する機械化歩兵師団だった。
これを空から支援するのは第5航空師団(作戦機212機)と帝国海軍航空隊の台南空や第1航空艦隊(作戦機609機)と第3艦隊の空母搭載機であった。
作戦機総数は1,000機に達しており、これは開戦時に帝国陸海軍が保有していた航空戦力の半数にあたる。
同時期のアメリカ陸海軍航空隊も保有作戦機数は2,600機前後であったから、日米の航空戦力はほぼ同等だったと言える。
ちなみに同時期にドイツ空軍の作戦機数はおよそ5,000機であった。ソ連空軍に至っては10,000機を超えている。
如何に日米が平和を愛する国家であったかが分かる数字である。
その後の日米航空部隊の拡張を考えると、1939年の戦いは平時の延長線上にあった。
このような戦いでは物量よりも、作戦指揮者の巧緻が戦いの趨勢を決めた。
作戦の不味さを物量で補うような戦い方は不可能だからだ。
個々の兵士も平時の間に十分な訓練を受けた精鋭揃いで、兵士と将帥が一体となったテクニカルな戦い方ができる時期でもある。
在フィリピンの米軍機は400機であったから、防衛に徹するなら十分な戦力と言えた。
ただし、フィリピン軍は警察に毛が生えたような規模でしかなく、現役復帰したダグラス・マッカーサー大将が全知全能を尽くしたとしても、せいぜいテロ止まりだった。
しかも相手はインペリアル・ガーズである。
どう考えても無理だった。
開戦があと2,3年後なら少しは粘ることもできたかもしれないが、1939年時点のフィリピン軍も在フィリピン米軍も全く日本軍精鋭部隊には歯が立たなかった。
マニラが無防備都市宣言したのは上陸から10日後のことである。
ただし、フィリピン軍とアメリカ軍はバターン半島とコレヒドール要塞に立てこもって持久戦の構えを見せており、航空部隊も分散配置によって簡単には撃滅できず、日本軍は航空戦力をフィリピンに拘束された。
アメリカ軍の目論見どおりと言えた。
事前の作戦計画でフィリピンは日本軍の侵攻を受けた場合、マニラを放棄してコレヒドール要塞に立て籠もって時間稼ぎを行うことになっていた。
その間に、太平洋艦隊が日本海軍を殲滅し、本土を海上封鎖して日本の戦時経済を破綻させ勝利する。
その為に、少しでも早くアメリカ軍は日本本土に歩を進めなければならなかった。
トラック環礁へ米軍が上陸したのは、日本軍のフィリピン侵攻と同じ3月14日のことだった。
上陸作戦の先鋒に立った海兵隊員が見たのは、
「白い砂浜と青い海、サンゴ礁と・・・」
物言わぬおびただしい数の地雷だった。
日本軍はトラック環礁を放棄しており、海兵隊員はブービートラップと地雷で埋め尽くされた無人の島々を占領した。
アメリカ軍は機雷で掃海艇4隻と貨物船3隻、駆逐艦1隻が沈められ、多数の兵士が手足を吹き飛ばれて後送された。
地雷以外にも、航空機用爆弾や艦艇の砲弾を使用した仕掛け爆弾や時限爆弾が島中に埋められており、開戦から1ヶ月しか経っていないのに日本軍の嫌がらせには磨きがかかっていた。
アメリカ軍はトラック環礁を隈なく調査したが何の発見もなかった。
最大の発見は水底に沈んだ戦艦陸奥だが、船体の損傷が激しく浮揚回収は不可能だった。
あわよくば大破着底した戦艦を鹵獲できないか期待していた米軍だったが、陸奥以外の船は回収されるか水中で爆破されており、何も得られなかった。
陸上設備についても同様である。
マッチ一本何も残っていなかった。
全く無かったわけではないが、大抵はワナ線に接続されており、不用意に持ち上げたりすると地中の仕掛け爆弾が炸裂して天国に転属することになった。
日本軍の嫌がらせは徹底しており、トラック上陸の夜から、さっそくハラスメント爆撃を開始して兵士たちの睡眠を奪った。
また、泊地内の艦艇に回避運動を強いることで無駄な燃料を消費させるという意図もあった。例え、夜間水平高高度爆撃など絶対に命中しないとわかっていても、爆弾が降ってくるなら回避運動をしなければならなかった。
ここまで徹底していると日本軍の戦略意図は明瞭だった。
フィリピン攻略と戦力回復のための時間稼ぎである。
そして、それは半ば以上成功していた。
トラック環礁を占領した時点で、アメリカ軍の最戦前は西海岸から10,000kmも離れており、兵站線は伸び切っていた。
西海岸では伊号潜水艦が暴れまわっており、補給は細る一方だった。
世界最大の商船隊を誇る合衆国といえども、遠隔地に展開した大艦隊へ継続的に補給を行うのは困難なのである。少なくとも1939年の段階においては。
イギリスや英連邦構成国の商船は中立を標榜して、合衆国の荷を運ぶことを拒絶しており、傭船契約を次々に破棄していたから船不足に拍車がかかっていた。
信じられないことだが、武器弾薬も不足気味だった。
アメリカの戦時生産は2年後に信じられないほど拡大を見せるが、現時点では平時レベルにとどまっていたからだ。
各企業は軍需生産への協力には否定的だった。
各企業はこの戦争が短期間に終わると考えていたから、軍需生産への協力して民需のシェアを失うのは愚行だと考えていたのである。
合衆国の産業界が本格的に軍需生産に協力するようになるのは1年も先の話だった。
ホワイトハウスはこの戦争は半年で終わると考えていたから、ある意味規定路線だったと言える。
合衆国と言えども、第一次世界大戦型の国家総力戦は望むところではなかった。遠いヨーロッパで他国がそれをするなら大歓迎だが、自国がそれをするのは勘弁だった。
戦争の大規模化や長期化によって戦死者が増えれば政権を揺るがすことにもなりかねない。
来年(1940年)はアメリカ大統領選挙の年だった。
初代大統領ジョージ・ワシントン以来、慣例により大統領は二選までとなっており、ルーズベルトが三選を成功させるにはよほど例外的な成果が必要だった。
残存する日本艦隊を撃滅すれば、それは叶うのだ。
また、イギリスは非公式にだが日米の講和斡旋を打診しており、日本海軍が壊滅した時点で、講和が成立する目処が立っていた。
合衆国が短期決戦にこだわるのは当然の戦略だったと言える。
大日本帝国はその真逆だった。
短期決戦には勝ち目がなく、長期戦を戦う覚悟を決めて、如何なる消耗を甘んじて受け入れる覚悟とそれに対応できる態勢を開戦初日から構築しようとしていた。
できるだけ戦争を長期化させ、優勢なアメリカ軍の矛先を躱し、相手に耐え難い損害を強いて、イギリスの仲介のもと有利な条件で講和するのが日本の基本戦略だった。
だが、それには時間が必要で1939年3月時点では残った僅かな兵力で対応するしかなかった。
通商破壊や各種破壊工作、後退戦略はその一環だった。
イギリス政府にもその旨は伝達されており、イギリスが講和斡旋をアメリカに伝えたのものその文脈での話だった。
イギリスとしてはどちらに転んでも悪くない話だった。
短期決戦でアメリカが勝利するなら、講和を仲介して日本に恩を売ることができる。
長期戦となれば、日米共倒れが狙えた。
イギリスはヨーロッパの大陸国同士を食い合わせて漁夫の利を得ることで勢力を拡大してきた歴史がある。
第一次世界大戦では世界帝国の義務として戦争当事国となってしまったが、太平洋の戦いで久しぶりの漁夫の利が狙えることが分かってほくそ笑みが止まらなかった。
久しぶりに美味いスコッチが飲めそうである。
イギリス政府の高官達はドイツが最近、何か妙な動きを見せていることは気になっていたが、さほど大きな問題にならないと考えていた。
日本とアメリカが半ば事故のような形で大戦争を始めたことを見れば、軽はずみな行動がどのような結果を招くかは明らかであり、賢者なら自重するはずだった。
もちろんイギリスの意図は日米ともに察知しており、戦争長期化を避けたいアメリカ軍は戦争早期終結のため一気に動きだした。
フィリピン戦が終わって日本軍の基地航空部隊が太平洋正面に戻ってくる前に、日本艦隊を誘き出して殲滅するため、アメリカ軍はマリアナ諸島へと侵攻した。
アメリカ軍はトラック泊地の破壊された滑走路を地雷やブービートラップに苦労しながら修復すると太平洋に初展開したB-17爆撃機がサイパン島を航空偵察した。
サイパン島初空襲は1939年3月28日のことである。
この空襲が米軍侵攻の前触れであることは明らかであり、連合艦隊は先が見えたフィリピン戦から第3艦隊を引き上げ、内地に戻す決定を下した。
戦艦長門、さらに工事中の戦艦大和を第3艦隊に加えて迎撃艦隊が編成された。
この時、連合艦隊司令部は陸にあがることが決まった。
陸の上から艦隊を指揮することには反発も大きかったが、GF司令部を置くためだけに貴重な戦力を拘束することなど許される状況ではなかった。
既に戦域は本土近海から西海岸まで太平洋全域に広がっており、陸の通信設備が充実した司令部から全体指揮をとった方が効果的だったこともある。
工事未了の大和を投入することには多くの異論、反論があったが、
「今使わなくて、いつ使う?」
という土方長官の強い意思で出撃となった。
逆に練習用空母の鳳翔は温存された。
未完成の世界最大最強の戦艦よりも練習用空母の方が遥かに貴重だったのである。
「戦いはまだまだ続く」
と土方長官は述べ、決戦とは言いつつも第3艦隊の小沢中将には可能な限り戦力を温存するように指示を出している。
出撃した第3艦隊の戦力は以下のとおりである。
第3艦隊 小沢治三郎中将
旗艦 大和
戦艦 大和、長門、霧島、比叡
空母 飛龍、龍翔、龍驤
重巡洋艦 高雄、愛宕、鳥海、摩耶、白根、鞍馬、蔵王、乗鞍
軽巡洋艦 最上、三隈、鈴谷、熊野
駆逐艦 甲型24隻
フィリピン戦に巡洋艦や駆逐艦を割く必要があったが、ほぼ全力出撃だった。
工事未了の状態で出撃した大和の乗員は爆沈した陸奥の生き残りが多く、彼らは復讐に燃え、非常に士気が高かった。
トラック奇襲攻撃時、多くの船では乗員が半舷上陸しており、船が沈んでも乗員が生き残ってる割合が高かった。
船は新しく作れるが、腕の立つ水兵を育てるには年単位の時間がかかるたため、トラック奇襲で船を失った乗員が暇になることはなかった。
帝国海軍は潜水艦の偵察や無線傍受で、マーシャル諸島のクェゼリン環礁に、米太平洋艦隊の主力が集結中であることを掴んでおり、徐々に決戦の機運が盛り上がっていた。
1939年4月3日、キング艦隊を先鋒に米太平洋艦隊がクェゼリン環礁を出撃。
米太平洋艦隊の出撃は監視の伊号潜水艦によって直ぐさま通報され、横須賀と呉から第3艦隊が出撃して運命のマリアナ沖海戦に集う役者が揃った。
クェゼリン環礁から発進した米太平洋艦隊は2群に分かれていた。
第11任務部隊 アーネスト・キング中将
旗艦 エンタープライズ
空母 レキシントン、サラトガ、ヨークタウン、エンタープライズ、レンジャー
重巡洋艦 ミネアポリス、ニューオーリンズ、アストリア、チェスター、ポートランド
駆逐艦 12隻
第12任務部隊 ジェームズ・リチャードソン大将
旗艦 ワシントン
戦艦 ワシントン、コロラド、メリーランド、ウェストバージニア、テネシー
カリフォルニア、ペンシルベニア、アリゾナ、ネバダ、オクラホマ
重巡洋艦 ノーザンプトン 、 ペンサコラ 、 ヴィンセンス、シカゴ、ソルトレイクシティ
軽巡洋艦 セントルイス、ヘレナ、フェニックス、ホノルル、ナッシュビル
駆逐艦 22隻
役者が集う舞台も、急造品ながらも相応の規模のものが用意された。
サイパン島、グアム島にはマーシャル諸島やトラック環礁から後退した日本軍や海援隊が結集して守りを固めていた。内地からも増援も届いていた。
グアム島は米領で米海兵隊が僅かながら展開していたが既に降伏しており、マリアナ沖海戦時まで持ち堪えられなかった。
陸上戦力は、マリアナ諸島全体でおよそ1個師団。ただし、半数以上は警備任務の海援隊だったから、軽装備で火力に欠けていた。
サイパン島防衛の主力は陸軍第13師団で、この師団は南洋委任統治領全体を防衛する島嶼戦部隊だった。
航空戦力はおよそ150機が用意された。
ただし、3分の2は陸軍機だった。
フィリピン戦に戦力を拘束されており余力がない海軍航空隊に代ってマリアナ諸島に展開したのは陸軍航空隊の精鋭第1飛行師団の戦闘機部隊で、彼らは帝都防空部隊のために編成された精鋭部隊だった。
ただし、洋上航法がほぼ不可能というハンデがあり、陸海軍協定によって洋上作戦には使用しないという条件付での戦力展開だった。
首都防空専用の虎の子を航法ミスで無為に失うわけにはいかないからだ。
マリアナ諸島への展開もフェリー飛行を避けて、海援隊の航空護衛艦を使用して船舶輸送しており、VIP待遇だった。
海軍機はおよそ50機で、半数が中攻と大攻で占められており、あとは水上機と飛行艇だった。戦闘機はいなかった、というよりも用意できなかった。
水上機はトラックで大破した戦艦から引き上げたものまで含んでおり、使える機材は全てかき集めていた。
マリアナ諸島防衛の最高指揮官は武部鷹雄海軍中将が選ばれた。
海軍航空の重鎮で、大陸では援蒋兵団の航空部隊の指揮をとった経験もあり、基地航空部隊の指揮者としては日本最高の人材だった。
第3艦隊の小沢治三郎中将とは同期であり、二人は緊密な意思疎通と連携を取り合いマリアナ沖海戦を迎えた。
1939年4月7日、キング中将率いるタスクフォース11がサイパン島を空襲。
運命のマリアナ沖海戦が始まった。
全世界が太平洋を挟んだ2大国の戦いを固唾を呑んで見守る中、サイパン島の陸軍第1飛行師団は、米艦載機部隊に大打撃を与えることに成功する。
勝因は早期警戒用のレーダーと航空管制にあった。
マリアナ諸島各地の早期警戒レーダーはおよそ200km先の目標まで探知可能で、米軍の空襲は奇襲にならなかった。
また、防空指揮所から航空管制を受けた各飛行隊は米戦闘機部隊を回避して、攻撃機のみに的を絞った迎撃戦闘を行うことができた。
沿海州から飛来するソビエト軍爆撃機から帝都を守るために編成された第1飛行師団は、日本海沿岸に設置されたレーダー基地から航空管制を受けるのを当然の常識と認識していた。
海軍には同種のシステマティックな防空システムが存在せず、艦隊防空はパイロットの裁量に任せられていたから、陸軍航空隊の戦い方はある種のカルチャーショックだった。
マリアナ沖海戦後、海軍は陸軍の防空システムを艦隊に移植し、空母や戦艦の艦内に航空管制センターを設けることになるが、それは少し先の話である。
また個々の機材を見ても、米軍の劣勢は明らかだった。
米海軍の主力戦闘機F2Aは中国大陸の戦いで九七式戦闘機に大敗していた機材だった。
マリアナ沖海戦には出力を1,200馬力まで引き上げた改良型エンジン(カッパード106B)に換装した九七式戦闘機改が投入されており、F2Aとの性能差はますます広がっていた。
母艦に帰投した攻撃隊を見て、キング提督は今までにない厳しい表情を浮かべたという。
出撃した168機の第一次攻撃隊のうち5%が撃墜され、修理不能と判断されて破棄された機体を含めると1割の損害と言えた。
対空砲火も手ぐすね引いて攻撃隊を待ち構えており、この戦いがトラック奇襲のようにはいかないことをアメリカ軍は思い知らされることになる。
続く米軍の第二次攻撃隊もまた大損害を受けて、航空基地無力化は達成されることなく終わった。あたら多くの機材を失って得たものは殆ど何もなかった。
その上、サイパン島から発進した水上機によって、キング艦隊はその所在を知られてしまうことになる。
米空母の位置を通報したのは、帝国海軍自慢の九七式大型飛行艇だった。
大艇はただちに発見電を打つと退避したが、戦闘機に囲まれ撃墜されている。
基地航空隊の空襲を想定してタスクフォース11はマリアナ諸島から離れる進路をとったが、その日のうちに空襲は来なかった。
だが、夜間になると再び大型機の接触を受け、位置を通報されてしまうことになる。
夜間であるため戦闘機を飛ばすこともできず、対空砲火もまた射程距離外だった。
大艇につづいてキング艦隊を発見したのは九六式大攻だった。
爆弾の代わりに増槽を抱いた大攻なら一晩中飛び続けられる上に乗員が多いので夜間偵察にも打ってつけだった。
夜間航空偵察の成功を受けて、武部提督は夜間雷撃による反撃を決意する。
攻撃に向かったのは虎の子の九六式中攻隊18機だった。
3機が照明弾を抱いており、雷装は15機だけだった。
偵察の大攻は誘導用の電波を発振しており、攻撃隊が迷子になることはなかった。
夜間爆撃を警戒していたキング艦隊は艦隊上空に侵入した照明隊に猛烈な対空砲火を浴びせたが、1機が照明弾投下に成功。その灯りを頼りに15機の中攻が米空母に殺到した。
陸攻隊は対空砲火で半数を失ったが、空母サラトガに魚雷1本を命中させた。
この攻撃でサラトガは速力が24ノットまで低下し、衝撃で歪んだガソリンタンクから燃料が漏れるという危険な状態になったため夜の間に後退した。
サイパン島航空隊は寡兵でありながら、米空母機動部隊の20%を無力化したのである。
だが、この攻撃によりサイパン島の海軍航空隊は消耗しつくしてしまった。
そのため、翌日以後の戦いでは、陸軍航空隊の戦闘機部隊が防空戦闘を行うのみとなる。
小沢中将率いる第3艦隊のマリアナ到着は4月10日だった。
キング艦隊と小沢艦隊の激突は、お互いの艦載機による偵察で始まった。
偵察力は日本艦隊はサイパン島の基地航空隊の援護がある分、数的には有利であり、先に米空母3隻を発見することに成功する。
基地航空隊を率いる武部提督は残存戦力を攻撃ではなく偵察に投入し、艦隊戦を有利に進められるよるに補佐した。
小沢艦隊は即座に第一次攻撃隊58機を発進させ、続けて第二次攻撃隊を発進させた。
キング艦隊もまた30分の遅れで、偵察のSBD艦爆が小沢艦隊を発見。ただちに攻撃隊を発進させている。
日本軍の第一次攻撃隊は護衛戦闘機16機に守られた九九式艦爆8機、九六式艦爆12機、九七式艦攻12機だった。
護衛の九六式艦上戦闘機改もまた九七式戦闘機改と同じくエンジン換装(1,050馬力→1,200馬力)を受けており、高度5,000mで時速550kmの最高速度を叩き出していた。
これは同時期のスピットファイアに近い値であり、艦上戦闘機は陸上戦闘機に性能で劣るというそれまでの常識を覆すものだった。
故に数的劣勢でありながら、彼らは攻撃隊を守り抜くことに成功した。
また、米艦隊には早期警戒のためのレーダーが存在せず、効果的な防空戦闘できなかった。目視による防空監視ではインターセプトに限界があった。
さらに2個小隊の九九式艦爆がこの戦いで大きな役割を果たした。
九九式艦上爆撃機は日米開戦を受けて急ぎ制式化された新型機で、九六式艦上戦闘機改が装備するカッパード106B(離床1,200馬力)を装備する高速艦上爆撃機だった。爆弾倉に500kg爆弾まで搭載可能で、爆装していても500km/h以上の高速発揮が可能な戦闘機よりも速い爆撃機といえた。
小沢艦隊に配備されていたのは12機のみで、増加試作機を無理やり実戦投入していた。
それだけの価値があると思われたのだ。
彼らの任務は敵の戦闘機を振り切って、米空母に先制攻撃を実施することである。
後にイギリス海軍にも採用され、コメット艦上爆撃機の名前で使用された。
コメットの日本語訳は彗星である。
F2Aでは緩降下して加速した九九式艦爆を追尾できず、艦爆隊は戦闘機の迎撃を振り切って爆撃に成功した。
500kg爆弾の直撃を受けた空母レキシントン、ヨークタウンは火だるまとなり、エンタープライズもまた魚雷1本を被弾した。
続く第二次攻撃隊38機は、煙を吹き上げるレキシントンに集中攻撃を行ってこれを撃沈した。
ヨークタウンとエンタープライズは速力低下で艦隊から落伍していたことから逆に助かった。スコールの下に隠れており、難を逃れたのである。
ヨークタウンは飛行甲板が破壊されており作戦不能だったため護衛つきで撤退した。
ただし、小沢艦隊も無傷では済まなかった。
F2A戦闘機の献身的な護衛戦闘により、TBD雷撃機が飛龍と龍翔への攻撃に成功したのである。
レーダーで早期警戒を実施していた小沢艦隊は高度3,000m付近で接近する戦爆連合に気を取られ、低空飛行する雷撃機への警戒がおろそかになっていた。
低空飛行すればレーダーの探知を逃れられることは日本軍も気づいていたが、低速のTBD雷撃機は海面を這うように飛んでおり、目視で接近に気づくまでノーマークだった。
また、TBD雷撃機隊の練度は非常に高かった。
トラック奇襲で日本戦艦部隊を壊滅させた米空母雷撃隊は攻撃を成功させるために訓練に訓練を重ねた腕利き集団で、
「アレを手本にしろ!」
と攻撃を受けたときに小沢提督が叫んだレベルに達していた。
また、この時の日本軍の対空戦闘はとても褒められたものではなかった。
対空砲火は乏しく、迎撃の戦闘機も少なすぎた。
しかも脆弱な空母を一箇所にまとめて配置するという誤りを犯していた。
戦艦や巡洋艦なら集中配置が基本であり、緊密な戦隊を組んで行動するものだったが数百kmも行動半径をもつ航空機を武器とする空母を戦艦のように並べて行動させる必要はなかった。
結果として狭い範囲に脆弱な空母が群れているという状況を作り出し、そこへ米軍機が殺到するという大惨事となった。
航空先進国日本であっても、失敗してみないと分からないことは多かったといえる。
空母を雷撃され怒り狂った戦闘機部隊の追撃を受けて、TBD雷撃機隊は壊滅状態したが飛龍、龍翔は各2本ずつ航空魚雷が命中。
飛龍は1,000tの浸水が発生し、速力が20ノットまで低下した。
龍翔は違法建築じみた設計が災いして転覆して失われた。
軽空母龍驤は無傷だったが、龍翔に下りられなくなった艦載機を受け入れたため、甲板にまであふれかえることになり、戦闘不能だった。
戦闘継続か、それとも撤退か、艦隊司令部では意見が分裂した。
飛龍は速力が低下していたが、航空機の運用は可能であり、第3次攻撃隊の編成が始まっていた。
龍驤も甲板から飛行機を海に捨てる作業を行っており、甲板さえ空ければ戦闘可能だった。
残る米空母はレンジャー、エンタープライズだと判明していた。
ただし、サラトガの所在が不明だった。
サラトガは陸上攻撃機の夜間雷撃で損傷して後退していたのだが、小沢艦隊はそのことを掴んでいなかった。
見つからないもう1隻の空母から、いつ奇襲を受けるかわからない状況であり、速力低下した飛龍が攻撃を回避できる保障はなかった。
良くて相打ちに持ち込めるかどうかだった。
そして、空母同士の戦いが相打ちでも、米海軍にはまだ無傷の戦艦が残る。
第3艦隊が有する戦艦は霧島、比叡、長門、そして未完成の大和で、2倍以上の戦力を相手にして勝てると思うほど、帝国海軍は自信過剰ではなかった。特に霧島、比叡は一番古く非力な戦艦で、最大最強の大和は未だに未完であり、艦内で工事が続いていた。
意見が分裂した小沢艦隊の行動を決定したのは、横須賀の連合艦隊司令部から届いた撤退命令だった。
抵抗する参謀もいたが、
「帰ろう。生きていれば、また来ることもできる」
と小沢提督が説得して撤退が決まった。
ちなみに撤退を議論していたのは米艦隊も同じであり、レキシントンを喪失し、レンジャーと損傷したエンタープライズで戦闘継続するのか激論が続いていた。
最終的にサラトガを無理やり戦線復帰させ、作戦を継続することになったが、飛龍が撤退せず戦闘を継続していたらどうなっていたか分からなかった。
傷ついたタスクフォース11に追撃戦を行う余力はなく、サイパン島攻略が優先された。
苦闘の末にサイパン島の航空基地を無力化したアメリカ軍が上陸作戦を開始するのは、1939年4月13日のことだった。
同じ日に近衛師団をすり潰す形で実施された帝国陸軍の損害を省みない猛攻によってコレヒドール要塞が陥落し、フィリピン戦が終結した。