レイド・オン・チューク・アイランズ
レイド・オン・チューク・アイランズ
航空機で停泊中の艦艇を攻撃する。
これは突飛でもなければ、革新的な発想でもなく、1920~30年代の航空軍備関係者にとっては常識的な発想である。
なぜならば、布張り複葉機で対艦攻撃を行うとしたら、他に方法がないからだ。
そもそも停泊中の艦船への水雷攻撃は、小型の水雷艇や潜水艇で第一次世界大戦やそれ以前の日露戦争の時代から行われていたことであり、泊地への航空攻撃もその延長線上にある発想でしかなかった。
水雷艇や潜水艇が航空機に置き換わっただけのことである。
イギリス海軍の旧態依然とした低速のソードフィッシュ雷撃機が重宝され続けたのは、相手が弱体だったこともあるが、夜間に泊地攻撃を行うのに最適な機材だったからだ。
高速の全金属雷撃機では、夜間低空飛行して泊地に忍び寄るは至難の技だった。速度が増した分、僅かな操縦ミスが海面への激突に直結する。
夜間雷撃に限れば飛行速度が速ければいいというものではなかった。
つまるところ、アーネスト・ジョゼフ・キング中将率いる米海軍第11任務部隊、空母レキシントン、サラトガ、ヨークタウン、エンタープライズ、レンジャーが1939年2月7日にトラック環礁を奇襲することは、十分に予見可能だったと言える。
トラック空襲における日本海軍の損害は以下のとおりである。
撃沈
戦艦 陸奥
駆逐艦 如月
大破(着底)
戦艦 加賀、伊勢、日向、扶桑、山城
空母 赤城、蒼龍
軽巡洋艦 五十鈴
中破
戦艦 土佐
軽巡洋艦 三隈
駆逐艦 若葉
航空機損失 255機
戦死 2,456名 負傷者約4,500名
大損害だった。
連合艦隊の旗艦を務めたこともある戦艦陸奥を始めに主力戦艦6隻が撃沈ないし大破着底して行動不能になった。
最大の被害を被ったのは陸奥で砲撃訓練に備えて弾薬の積み込み作業中だったことから、陸奥の悲劇は凄まじいものとなった。
水平爆撃が命中した直後に甲板に置かれてきた砲弾、弾薬が誘爆を開始し、爆発が艦全体を包み込むように発生。巨大なきのこ雲を残して陸奥は沈んだ。
この爆発ときのこ雲は20km先からでも視認することができたという。
とばっちりを受けたのは傍に停泊していた加賀で、陸奥の爆発に巻き込まれて船体上部構構造物が吹き飛び艦全体が火だるまになった。
扶桑と山城は姉妹仲良く並んで係留中に航空雷撃を受けて沈んだ。
伊勢と日向の被害状況も扶桑型と同じであり、4隻ともに水深が浅い場所で着底したので甲板を波が洗う程度で済んだ。
赤城と蒼龍は最優先攻撃目標となり、逃げる間もなく撃沈された。
なお、連合艦隊旗艦を務めていた加賀には、連合艦隊司令部が乗り込んでおり、加賀と共に艦隊司令部も壊滅し、GF長官以下スタッフが全滅するという異常事態となった。
日本海軍に残された幸運は、長門と飛龍が横須賀にいて無事だったことである。
しかし、幸運はそこまでだった。
帝国海軍がこれほどの大損害を被ったことは、建軍以来一度もなかった。
戊辰戦争以前の幕府海軍の時代に遡ったとしてもなかった。
損害の程度を例えるなら、日本海海戦のバルチック艦隊壊滅に比肩するほどの大敗だったが、日本海海戦では帝国海軍は壊滅させる側であり、壊滅させられる側ではなかった。
これほどまでの大損害が発生した理由は、現実より自らの抱いたイメージを重視した結果と言えた。
即ち、日米が戦わば、それは真正面から互角の兵力を用いた艦隊決戦、という後から考えると不自然までに戯画的なイメージだった。
第一次世界大戦から何を学んだのか首を傾げたくなるような旧態依然の発想である。
だが、それは後々の解釈であり、当時としては第一次世界大戦のような国家総力戦を回避するための有力な方策であった。
大戦で疲弊した欧州諸国のごとき失敗を繰り返さないために、列強国同士の戦いは短期決戦、即時決戦こそ望まれていたのは政治的な、時代的な要求だったといえる。
トラック環礁にはそのために艦隊が集められており、米太平洋艦隊との決戦に備えていた。
或いは、兵力を集中することで抑止力を高めようとしていた。そうすることで、合衆国に不用意な行動や冒険を思いとどまらせようとしていた。
けれども結果は無残なものだった。
一応、空襲を警戒するために早期警戒レーダーがトラック基地に配備されていたが、本土から転進する陸攻隊と奇襲部隊を混同したため、警報器の役割を果たすことができなかった。
緩みといえばそれまでだが、仕方がない面もあった。
何しろほんの数日前に、自国の首相が反戦演説をぶち上げ、戦争回避に全力を尽くすと語ったばかりだった。
これで戦争が起きると思うほうがどうかしていた。
もちろん、それに備えるのが軍隊というものだったが、軍隊といえども人間的な欠陥から逃れる術はないのだった。
帝国海軍の情報機関もまた攻撃の徴候を掴んでいながらそれを見逃していた。
海援隊の調査室に比べると帝国海軍の情報組織は些か予算が不足気味であったが、そうであるがゆえに乏しい予算で効果的な情報収集を行っていた。
無線傍受の巧みさには定評があり、サンディエゴを出港したあと米空母が行方不明になっていることを掴んでいた。
だが、それを重大視せず、定例的な業務日報の中に埋もれさせた。
ちなみに無線傍受以外にも西海岸に潜伏している諜報員から米空母の出港は通報され、どこにも寄港していないことにも気づいていた。
しかし,これも雑多な日報の中に埋もれさせていたことが判明している。
後に帝国議会の特別調査委員会が設置され、その日報を発見して愕然することになる。
この大敗北に学んだ帝国海軍の情報組織は大きく生まれ変わることになるのだが、それはさておき日本中が大混乱に陥った。
海軍が実質的に壊滅したからだ。
無傷の戦艦は僅かに3隻(長門、霧島、比叡)で、しかもそのうちの2隻は帝国海軍で最も古く、最も非力な戦艦だった。
大和型戦艦の就役は緊急予算がついて繰り上げが決定したが、1番艦「大和」の就役はどれだけ急いでも4月末までかかる見込みだった。
また就役したところで、ただちに最高の戦闘力が発揮できるわけではない。
戦艦とは強力であると同時にデリケートな兵器であり、乗員の訓練が未了ではその力を発揮し得ないのだ。
海軍がいない日本列島は丸裸に等しかった。
日露戦争を超える国家存亡の危機だった。
東京では民間機の飛行を米軍機の爆撃と勘違いした市民がパニックを起こして逃げ惑い、警察や消防が出動する騒ぎになるなど、日本全体が騒然とした雰囲気に包まれた。
アメリカ艦隊が沿岸部の都市を空爆するというデマがばらまかれ、市民が自主的内陸部へ疎開するなどパニックは拡大する一方だった。
だが、いつまでもパニックを起こしてばかりもいられなかった。
アメリカ軍は既に行動を起こしていたからだ。
1939年2月9日は、トラックを襲った米空母機動部隊がマーシャル諸島に襲来。
2月12日は殆ど無防備だったタラワ環礁へアメリカ海兵隊が上陸した。
マーシャル諸島の各地には、海軍航空隊の基地があったが、彼らは既に撤退した後だった。
現地の守備隊には撤退命令が出ており、殆どの兵力は戦わずして焼け跡がくすぶるトラック泊地へ後退することになった。
同時にマニラを根拠地とする米アジア艦隊が南支那海で通商破壊戦を開始しており、日本の南方航路は途絶の危機に陥った。
米国の潜水艦が本土近海に出現し、日本商船への通商破壊戦を開始している。
アメリカ軍の攻撃は計画的で水際だっており、周到な戦争準備があるのは明らかだった。
「侵攻作戦パスフィック・ストーム」
それが米太平洋艦隊がまとめた戦争計画だった。
開戦奇襲から始まる極めて電撃的な侵攻作戦であり、半年で戦争を終わらせる短期決戦戦略である。
南京政府がもう幾ばくも保ちそうにないことや、量産された大和型戦艦が大量就役が迫る中、合衆国は国家総力戦のような泥沼を回避するスマートな戦争を目論んでいたのである。
一連の侵攻作戦を計画したのは、タスクフォース11を率いてトラック環礁を奇襲したキング中将だった。
彼は、通常なら3ヶ月かかる作戦計画の立案を僅か2週間でまとめ上げたことで、ホワイトハウスの目に止まった。
そして、自分の組み立てた戦争計画を自ら実践することを大統領に直々に許可され、空母機動部隊を率いて中部太平洋に乗り込んできたのである。
そして、ただの一撃で、帝国海軍を壊滅させた。
「人格以外は全てにおいて非の打ち所がない」
とされるキング中将の手腕は確かなものだった。
軍事的に見れば、合衆国の戦争計画はほぼ完全な成功を収めたと言える。
だが、政治的に見ればこの攻撃は完璧に失敗だった。
衝撃と恐怖は長続きしなかったのである。
奇襲から5日もすると本土への攻撃がないことが明らかになり、東京駅には郊外の都市から通勤電車で運ばれてくる鼠色の列が並ぶようになった。
サラリーマンには仕事があったのである。
学校や工場も平常通りに運行しており、とてつもない規模の戦争が始まろうとしているにも係わらず日本社会は奇妙な落ち着きを取り戻すことになる。
ただし、日本各地にある帝国陸海軍の徴募事務所はさばききれないほどの志願者の行列が並ぶなど、全く変化がないわけではなかった。
時間経過で被害の実態が明らかになっていくと、卑劣な奇襲攻撃を行ったアメリカ人への非難が高まったが、同じぐらいに手もなく奇襲攻撃を許して
「想定外」
という無責任な発言を繰り返す帝国海軍や政府にも非難が集まった。
焦った政府は連日閣議を開催し、信じられない速度で帝国議会は各種法案を審議、可決していった。24時間態勢で各省庁は書類を作成し、稟議書に判子の雨を降らせた。
戦時国債が速やかに発行され、全量を特別立法に基づき日銀が買い取り、戦争遂行に必要な資金を政府・軍部・産業界に供給した。
これほどまでに自国政府が迅速に行動したことに、日本人自身が驚くほどの早さだった。
ルーズベルト大統領は、衝撃と畏怖によって日本人の戦意を挫くことで、短期間で戦争を終わると考えていたが、見当違いもいいところだった。
大部分の日本人は、自分たちが負けているとは全く考えていなかった。
もしも、知日家で西郷隆盛の友人でもあった叔父のセオドア・ルーズベルト(第26代アメリカ合衆国大統領)が生きていれば、
「おい、やめろ馬鹿」
と叫んだかもしれないが、すでにセオドアは故人だった。
ルーズベルト大統領の対日認識は奇妙なほど甘いものであり、奇襲攻撃後にさえ外交交渉が可能だとさえ考えていた。
戦争の早期集結と平和の回復を謳ったルーズベルトの親書は駐日大使ジョセフ・グルーの手で坂本首相の元に届けられ、即日、返書が「おまる」に入った状態で届けられた。
坂本が書き送った返書は宣戦布告なき卑劣な奇襲攻撃を痛烈にこき下ろし、アメリカの建国時のドタバタから西部開拓によるインディアンの虐殺、今も続く黒人差別などのアメリカの歴史、価値観を現在に至るまで否定し、罵倒する内容だった。
最後にただ一言、
「この全ての犠牲に憐れみを、私達の未来の行く先に光を」
と記されていた。
正式な宣戦布告は帝国議会の全会一致の議決を経て、1939年2月9日を以って法的に大日本帝国はアメリカ合衆国との戦争状態へ突入している。
なお、同盟国のイギリスは中立を宣言した。
日英同盟は3度に渡る改定を経て自動参戦条項を除く改正が行われていた。これは先の大戦のような多国間大規模戦争を回避するための措置だった。
だが、イギリスが日本頼りの中立国であることは大きな意味があった。
イギリスの商船を使うことで安全に資源輸入を継続できるからだ。
中立国商船への攻撃は日米共に厳禁だった。
例え、その商船が運ぶ石炭と鉄鉱石で日本海軍の軍艦が造られるということが分かっていても、米潜水艦は手出しできないのだった。
合衆国にとって二正面作戦は悪夢であり、イギリスとの戦争は望むところではなかった。
もちろん戦時の割増料金であり、軍需物資を運ぶことは不可だったが、イギリス商船団が使えることは日本の戦争遂行にとって大きなプラス要素だった。
対して合衆国はイギリス商船から荷役を拒否され、経済運営に混乱をきたすことになった。
本国に習って英連邦諸国や欧州の親英諸国も荷役や傭船契約を解除しており、合衆国の全海運事業が合衆国商船隊にのしかかることになった。
これは少なくない負担であり、1,200万tを誇る合衆国商船隊であっても容易い事業ではなかった。
その上、彼らには眼下の脅威が迫っていた。
1939年2月27日、西海岸サンフランシスコ沖合34kmで、米国商船リトル・フォレスト号が帝国海軍の潜水艦伊8号によって撃沈された。
これが太平洋戦争における米国商船の喪失第一号だった。
以後、西海岸では潜水艦による米国商船への攻撃が激増することになる。
帝国海軍潜水艦部隊はその総力を挙げて米国西海岸の沿岸航路を攻撃した。
アメリカ商船は夜間に照明をつけて堂々と単独航行していたから、沈めてくれと言っているようなものだった。
アメリカ軍の対潜戦闘能力は開戦時点ではお粗末なものであったから、伊号潜水艦は縦横無尽の活躍を見せた。
米海軍が対策を打ち出すまでに、西海岸では毎月平均50万tのアメリカ商船が撃沈されたのである。
1939年3月から7月の間に述べ250万tが失われ、アメリカ経済の海上交通はパニック状態に陥った。
すぐに商船単独の夜間航行は厳禁とされたが、護衛をつけても被害は減らなかった。
1939年時点では駆逐艦に装備可能な対水上レーダーはアメリカ軍には存在せず、夜間に浮上航行する日本軍潜水艦を発見するのは至難の技だった。
潜水艦は浮上していても喫水線が低いため、目視での発見が困難なのである。
水中聴音器もあったが、これもまた浮上襲撃する日本潜水艦には無力だった。水中聴音器は浮上航行する潜水艦を探知できなかったからだ。
船団を待ち伏せする伊号潜水艦は、船団のど真ん中で浮上すると雷撃で護衛の駆逐艦を狩り、船団を丸裸にすると浮上砲撃で商船を攻撃し大戦果を挙げた。
浮上砲撃は対水上レーダーも対潜哨戒機も飛ばない1939年の夜の海なら有効な攻撃手段だった。
護衛の駆逐艦は多くて1、2隻であり、数が少なすぎた。
アメリカ海軍は慌てて第一次世界大戦中の平甲板型駆逐艦を現役復帰させようとしたが、保管状態からの復帰して、動けるようになるのに最短で3ヶ月かかった。
また、復帰したとしても性能劣悪で、返り討ちに遭うことがしばしばだった。
日本海軍の潜水艦はトランジスタを使用した小型高性能なマイクロ波水上レーダーを装備しており、暗闇の中手探り状態で接近してくる米駆逐艦を狙い撃ちした。
あまりにも損害が酷いため、開戦から3ヶ月後には西海岸全域で米国商船の夜間航行が禁止された。
これで被害は減ったが、それは海上交通の半分を投げ捨てる行為であり、あくまでも窮余の策だった。
夜の海から星条旗を追い出し、調子の乗った伊号潜水艦の中には浮上して14サンチ砲で西海岸沿岸を砲撃するものまで現れた。
エルウッド製油所砲撃作戦は都合3回も実施され、最終的にガソリンタンクに飛び込んだ14サンチ砲弾によって大火災が生じ、製油所が機能停止に追い込まれる事態となった。
サンフランシスコ郊外の遊園地に飛んだ流れ弾が観覧車に直撃し、台座から外れた観覧車が坂道を転がって民家を押しつぶす大惨事が発生した。
10,000t級のカーゴシップが運ぶ物資は、重編成の大陸横断鉄道20編成分に匹敵した。西海岸の沿岸航路が機能しないということは、太平洋正面の海軍作戦もまた機能しなくなることを意味している。
こうした潜水艦作戦を指揮したのは、戦死した吉田善吾海軍大将に代わり、新たにGF長官に就任した土方一郎海軍大将だった。
土方海軍大将は、GF長官就任までは少将であり、戦時の抜擢人事による大将昇進とGF長官就任であった。
これは坂本首相の強い意向が働いた結果である。
帝国海軍は当初、新任のGF長官にこれまでの慣例どおり卒業年次のハンモックナンバー順の人事を行おうとしていた。
それが海軍官衙の理だからだ。
だが、非常時であることや、坂本首相が海軍時代に海軍の人事慣例に苦しめられたこともあって、戦時の臨時昇進制度を設けさせ、卒業年次やハンモックナンバーに寄らない抜擢人事が可能な体制に改めさせた。
帝国海軍は人事に首相が口出することに反発したが、トラック奇襲直後という帝国海軍最悪の日々にあっては、首相の権力に逆らうことなどできようはずもなかった。
坂本首相は人選にあたって能力を第一とし、それ意外の要素は排除するように指示した。
「多少、人格に問題があっても構わない」
とまで発言したとされる。
では土方長官が人格破綻者だったかといえばそうではなかった。
むしろ、極めて誠実かつ穏当な人格の持ち主で、責任感と実務能力が高いレベルと一致している稀有な人材といえた。
しかしこれまで海軍要職への就任を阻まれてきた不遇の人物だった。
理由は彼の祖父が、「国父」大久保利通を暗殺した土方歳三だったからだ。
藩閥政治は既に過去のものとはいえ、土方の海軍顕職への就任は要らぬ問題を引き起こしかねない海軍人事の爆弾だった。
その為、長い間、母方の姓である「大神」を名乗っていたほどだった。
・・・というのが近年までの定説だったが、2,000年代の資料研究から、それ以外にも色々問題があったことが判明している。
土方には女性問題があった。
最大で13股かけていた時期があったことが判明している。
土方長官は海援隊に出向していた時期に複数の女性隊士と関係しており、上官の女性隊士とも不倫関係があった。
第一次世界大戦中ヨーロッパに出征した際にも、現地で複数の女性と同時に付き合っており、そのうちの一人を連れて帰り日本で結婚式を挙げた。
なお、土方夫人がフランスで夫と知り合ったのは11歳の時で、サーカス団で暮らすフランス人とベトナム人のハーフだった。
父と母を早くに亡くし、天涯孤独の身でありながら、サーカス団で健気に働いてた少女を引き取ったといえば美談に聞こえるかもしれない。
だが、報告書を読んだ坂本首相は、
「誰が源氏物語をもってこいと言った?」
と呆れ果てたという。
ただし土方長官はつきあった女性は必ず幸せにするという奇跡の男だった。
また、女性からだけではなく、男性からも好かれており、年次が上の一癖も二癖もある歴戦の海軍士官達からさえ、
「土方なら仕方がない」
としてGF長官就任を祝福されている。
人物の好悪が激しい山本五十六海軍次官でさえ、彼を熱心に支持したほどだった。
土方GF長官は海援隊への出向や欧州大戦への派遣を通じて潜水艦作戦に通暁しており、長官就任と同時に潜水艦作戦を全面的に刷新した。
弱い者じめとして商船攻撃を渋る伊号潜水艦の艦長達を説得し、西海岸への通商破壊戦に投入したのは慧眼だったと言えるだろう。
土方GF長官は海援隊と緊密に連携し、海上護衛の強化にも乗り出しており、本土近海航路へ侵入した米潜水艦を返り討ちにしている。
米潜は信管の欠陥から発射する魚雷の大半が不発だった上に、海援隊や帝国海軍の対潜部隊が強化されるとほぼ完敗と言っていい敗北を喫することになる。
日本海軍潜水艦部隊の奮闘により後方連絡線を脅かされた米軍の侵攻速度は急速に鈍ることになった。
渡洋侵攻には船舶が必要不可欠だが、通商破壊でそれを一時的に大量喪失したアメリカ軍は侵攻船団を編成するのに1ヶ月も要することになった。
アメリカ軍がマーシャル諸島で足踏みしている間に、日本海軍は最低限の戦力再編成を終えると南方航路を遮断する厄介な棘を抜きにかかった。
帝国海軍は残存戦力を結集し、フィリピンへと侵攻した。