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大洋の帝国  作者: 甲殻類
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蒋介石と香辛料



蒋介石と香辛料


 1920年代は中国にとって動乱の時代である。

 1916年に中華帝国皇帝袁世凱が死亡すると、各地に軍閥が割拠する戦国時代さながらの有様となった。

 なぜこのような群雄割拠が成り立ったかといえば、清朝時代の中央官僚が軒並み追放されてしまったからだ。

 理由は彼らが異民族だった。ただ、それだけである。

 辛亥革命には漢族復興運動という側面があり、満州族の官僚はその犠牲となった。

 国家レベルの行政能力を持った人々が追放され、その後釜に座ったのは経験ゼロの革命戦士である。

 これで上手くいくなら、それは奇跡だろう。

 後に、アフリカや東南アジアなどの欧米植民地が独立した際にも、白人の行政官を追放した後、現地人の素人が国の舵取りを誤って内戦勃発というパターンが繰り返されている。

 中原が自滅的な騒乱に陥っていくのに対して、満州王国は順調な発展を見せた。

 満州王国が比較的短期間で国家としての体裁を整えられたのは、清朝の官僚に負うところが大きかった。

 追放された清朝の中央官僚を拾い集め、日本の軍事力とアメリカのドルで固めて民族自決の原則でデコレーションしたのが満州王国と言える。

 袁世凱の死後、軍閥が割拠する中で辛亥革命の中心人物「孫文」は次第にソビエト連邦への傾斜を強めていた。

 辛亥革命のモデルとなったのは明治維新だったが、満州王国の分離独立で日米に幻滅した孫文はロシア革命に新たな革命のモデルを求めたのである。

 孫文とソビエトの蜜月は、1923年1月26日には孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表されたことで極まった。

 モスクワ中山大学で建設され、中国共産党とソビエト共産党が中国革命の闘志の養成を始め、1924年1月20日には国民党と中国共産党との第一次国共合作が成立する。

 アメリカ合衆国は、日露戦争後から深く中国と関わっていたので、こうした孫文の変節はすぐに伝わり、猛烈な拒絶反応を示した。


「宗教は阿片」


 と罵り、無神論を標榜する共産主義にキリスト教徒の多いアメリカの支配者階層(WASP)は嫌悪感しかなかった。

 袁世凱に騙されたアメリカ人は孫文にも裏切られたと感じ、総じてその失意は深かった。

 満州王国の分離独立のようなあからさまな侵略謀議をやっておいて、孫文の離反を何故予想できないのかは不明である。

 以後、第一次国共合作が上海クーデタ(1927年4月12日)で崩壊するまでの期間、中国各地のアメリカ資本や日本資本に対する反帝国主義運動(テロ、ゼネスト、ハンスト)が中国全土で吹き荒れ、軍閥同士の抗争も加わって、騒然とした情勢が続いた。

 これに対して合衆国の対中政策は実質的に無力であり、無定見だった。

 誰と交渉したらいいのか分からなかったのである。

 合衆国が交渉可能な中国人を見つけるのは、上海クーデタを待たなくてはならなかった。

 さて、上海クーデタである。

 上海クーデタとは、国民党右派を率いる蒋介石による左派、共産党の弾圧事件だった。

 国民党内の左派勢力及び中国共産党は、北伐を勝ち進める北伐軍総司令官の蒋介石の権力増大を恐れ、政府内の主導権を握るため蒋介石の排除を画策していた。

 だが、蒋介石の方が一枚上手であり、1927年4月12日に清党と称して、左派グループへの先制攻撃を行った。

 この攻撃により左派勢力と中国共産党は壊滅状態となった。

 共産党員による工場爆破テロや労働者の蜂起に悩まされていた列強国は、両手を挙げて蒋介石を支持することになる。

 日本もまた蒋介石を支持して資金援助を行った。

 だが、合衆国は蒋介石を信用しなかった。

 軍人政治家の袁世凱に騙されたことがある合衆国は軍服をきた蒋介石に懐疑的だった。

 それはある意味正解で、蒋介石は国民党内で独裁的な権力を確立していった。

 はっきりいえば、蒋介石はファシストだった。

 合衆国が交渉可能と考えた中国人は汪兆銘だった。

 汪兆銘は蒋介石に並ぶ孫文の側近で、上海クーデタ以後は武漢で共産党弾圧を主導しており、反共という条件はクリアされた。

 アメリカから多額の資金援助を受けた汪兆銘は、蒋介石と合流した後、国民政府総裁に就任した。

 軍服姿の蒋介石よりも、背広姿の汪兆銘はアメリカ世論からも受けがよく、漸く話が分かる中国人が現れたとして、アメリカ政府は汪兆銘の総裁就任を歓迎した。

 以後、中原にパートナーを得た合衆国政府は国民政府で支援で固まり、それを梃子にアメリカ企業の中原進出が本格化する。

 「Eastern Project」で満州に築かれたアメリカ資本の工場がフル稼働して、中国市場に米国製品を流し込んでいった。

 他方、蒋介石は軍事指導者として軍閥掃討に従事し、軍権を掌握した。

 アメリカの資金で日本に発注された大量の武器を受取り、兵器取引を通じて蒋介石は日本軍との関わりを深めていった。

 蒋介石は日本に留学し、日本陸軍にも勤務していた経験がある知日家であったので日本政府や軍部も蒋介石に肩入れするのはある意味、自然な成り行きだった。

 日本政府は合衆国が汪兆銘に傾斜していることに気づいていたが、それが問題だとは考えていなかった。

 政治家として汪兆銘の手腕は一流のものであったし、軍部を掌握した蒋との関係は悪くなかったからだ。

 外国との交渉や民生は政治家の汪兆銘が担当し、軍閥の討伐と共産党弾圧は軍人の蒋介石が担当するという役割分担は有効に機能した。

 軍人気質の蒋介石は必ずしも交渉事を得手としておらず、気に入らないことがあると席を立って帰ってしまう悪癖があったから、蒋介石には如才ない汪兆銘が必要だった。

 軍部を掌握した蒋介石に対して、外国からの援助金という財布の紐を握った汪兆銘は権力の均衡を保っていた。

 何よりも二人は孫文の弟子で、お互いを尊敬しあっており、同じ目的を共有する同志という意識があった。

 二人は、日米がそれぞれを中国の代表と見なしていたことに気づいていたが、それも些細な問題だった。1920年代は日米蜜月の時代だったからだ。

 だが、ボタンの掛け違いが後々に大きな悲劇を呼びこむことになった。

 一応の安定を得た国民政府は北伐を完遂させ、蒋介石率いる北伐軍は張学良軍を打ち破って1928年6月8日、北京に入城した。

 張学良は国民政府への忠誠を誓い、満州を除いて中華統一は達成された。

 以後、国民政府は中国共産党殲滅へと舵を切ることになる。

 アメリカは国民政府のパトロンとして、中原への進出に成功して中国市場の門戸を開いた。

 日本は日本で、合弁企業を通じて利益の分前を確保し、兵器ビジネスでも潤った。

 他の列強、特にイギリスは日米の蜜月と国民政府の躍進を苦々しく見ていたが、自分の権益が侵されない限りは黙っていた。

 欧州各国には先の大戦の膨大な戦時債務の返済があり、債権国であるアメリカや日本との関係をご破産にするわけにはいかないのである。

 これが世界大恐慌と満州事変の直前までの状況だった。

 1931年の満州事変を経て、中国の歴史は新たな段階に入った。

 石原の成功に刺激された蒋介石は自らも中華民国の総統たらんとした。

 蒋介石は1934年7月、中国共産党との長きに渡る戦いに決着をつけるべく、瑞金への総攻撃を開始する。

 中華ソビエト共和国の首都瑞金は同年8月末までに日米からの支援を受けた国民党軍の精鋭部隊の重包囲下で陥落。中華ソビエト共和国は崩壊した。

 共産党軍は包囲網からの脱出を図ったが失敗。主だった幹部が戦死して組織崩壊に至り、中国共産党は歴史の表舞台から消えることになる。

 国内の共産主義勢力撲滅を達成した蒋介石は、その権威を比類なく高め、国民政府及び軍の最高位を兼務して中華民国総統を名乗ることになる。

 これが1935年11月7日のことだった。

 中華民国総統に就任した蒋介石はこれまで中国が外国と結んだ一切の国際条約は無効であるとする革命外交を開始し、中国国内に列強がもつ鉄道や鉱山を次々に国有化していった。

 その脳裏には、植民地開放と満鉄国有化を鮮やかに成功させた石原莞爾の姿があった。

 彼にできたのなら、自分にもできるはずだと考えたのである。

 だが、それはナポレオンやカエサルにできたのなら、自分にもできるはずだと考えて破滅した数多の将帥の辿った道をなぞるものだった。

 石原莞爾にできても、蒋介石にできないことは無数にあった。

 例えば、戸籍の編成である。

 石原は権力を掌握すると即座に戸籍を編成した。

 驚くべきことに、それまで満州国には戸籍がなかったのである。

 それでどうして人口を把握し、徴税や国家予算の編成ができるのかといえば、国土から算出される資源の売却益や満鉄のような大企業からの税収で予算を編成していたのである。

 だが、それでは自国民に対する無関心が拡大するのは当然と言えた。

 そもそも国民であるという意識さえ生じていなかった。

 国民なき国家というのが満州王国の実態であり、日米の特殊権益を維持、追認するための傀儡国家としては正しい有様ともいえる。

 石原は権力を掌握すると国民から直接的に徴税する方向へ舵を切った。

 これは極めて面倒の多いことだった。満州のあちこちに税務署を作り、膨大な人員を配置して、それまで無税だった国民から大きな反発を自ら進んで買いに行くのである。

 一揆や暴動も当然発生するので、軍隊を投入してこれを鎮圧した。

 だが、これはどうしてもやらなくてはいけないことだった。

 これまで財布の紐を握ることで政治権力を好きに動かしてきた日米大企業の不法な政治介入を撲滅し、満州国自身のための政治を手に入れるためだった。

 満鉄国有化後も、満州国に残った米国企業や日本企業は、その財力で国政への介入を続けていたから、満州国が政治的に完全に独立するには国民から暴力を用いてでも税を取り立てるしか方法がなかったのである。

 まさに国家の基幹は、徴税権の行使に他ならなかった。

 また、石原は独裁的な権力を握ったが、満州国の議会には何ら手を付けなかった。

 そのため予算の審議でしばしば政治的な苦境に陥ったが、


「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」


 という五箇条の御誓文の精神を忠実に守った。

 国家の基幹が徴税権の行使なら、集めた税金の使いみちを議論することは、国家建設そのものであり、それが独立した国民国家へ道だったからだ。

 石原が満州国の国父、満州の大久保利通として21世紀現在まで尊敬を集めるのは当然といえるだろう。

 だが、蒋介石にそのような発想はなかった。

 上辺だけ石原の真似をして、完膚なきまでに失敗することになる。

 そもそも国民党政府の権力と統制は中央集権的なものではなかった。直轄部隊への指揮権は絶対だったが、他の軍閥に絶対的な命令権があったわけではない。

 地方軍閥が蒋介石の命令に服していたのは、主に日米からの援助金を景気良くばらまいていたからだ。

 革命外交で、列強各国から総スカンを食らった蒋介石は資金不足に陥り、大企業からの献金に依存することになった。

 蒋介石は国民から直接税を取り立てるような面倒なことはしなかった。

 その能力もなければ、意思もなかった。

 蒋介石の妻の宋美齢が宋財閥の令嬢であったのは偶然ではない。

 革命外交で国有化した財産のうちのかなりが宋財閥の手に渡ったから、その癒着は凄まじいものとなった。

 また、蒋介石は議会政治にも全く理解を示さなかった。

 彼は総統という名前の新しい皇帝になろうとしていたのである。

 結果、1936年2月26日に第二次上海クーデタが発生する。

 所謂、


「2・26事件」


 であり、これは新しい中華皇帝に対する拒絶反応だった。

 合衆国の支援を受けた汪兆銘が上海で武装決起すると、呆気なく南京と上海が切り崩され、各地の軍閥も離反して、蒋介石は北京で孤立した。

 なお、宋美齢はクーデタを察知すると持てるだけの金塊や美術品を抱えて飛行機に乗り、台湾に脱出した。

 大した女である。

 宋財閥は壊滅し、上海や南京に拠点を置く大企業からも切り離された蒋介石は風前の灯火だった。

 だが、日本がこれに手を差し伸べた。

 アメリカ合衆国主導の統一中国など、悪夢でしかないからだ。

 日米関係は満州事変以後、急速に悪化していた。

 理由は満州国の独立と満鉄国有化を絶対に承認しない合衆国の強硬な対応にあった。

 満鉄国有化後、石原はアメリカと交渉を重ねたが、尽く交渉は物別れに終わった。30年分割での買い取りにもノーサインだった。

 それどころか軍事力の行使も視野にいれ、日本に「適切な対応」をするように強い口調で警告するなど、満州国への圧力を高めた。

 日本が日満修好通商条約を締結して独立を承認すると、全てのアメリカ企業を満州から引き上げ、日米の合弁企業の多くも提携取り消しとなった。

 アメリカの強硬な対応の背景には、フィリピンや中南米の植民地的な支配があった。

 これらの植民地や衛星国に満州独立が飛び火して各地の親米政権が倒れるのが合衆国の抱えた悪夢だった。

 また、満州を海の果てにあるニュー・フロンティアとして国民を煽ってきたアメリカにとって、思想的に満州独立は受け入れられないことだった。

 なぜなら、そこは新しいアメリカなのだ。

 世界で最も自由で民主的なアメリカの一員であることを拒否して、独自の国を持つことなど、アメリカの価値観を全否定する行為にほかならなかった。

 楽園に住むものは、楽園から去ろうとするものを決して赦さなかった。

 なぜならば、楽園から去るという行為自体が楽園を否定しているからだ。

 そして、連れ戻すことも、引き止めることもできないと分かると、楽園から去った者を騙された被害者とすることで自己を肯定し始めた。

 満州独立の背後に日本がいるという根拠のない陰謀論がワシントンの常識になるのにさほど時間はかからなかった。

 全てが日本の陰謀であれば、アメリカ的価値観には一切傷をつけず、全てを論理的に説明できるからだ。

 もちろん、何ら証拠はない。

 故に如何なる反証も不可能だったから、日本の反論は全て徒労に終わった。

 また、1934年に日本経済はイギリス主催のスターリングブロックへ参加した。

 日英同盟があればこその安全保障の安定であり、経済発展でカナダやオーストラリアから大量の石炭や鉄鉱石、綿花を買うようになっていた日本にとって自然の成り行きといえる。

 これは日本経済にとって苦渋の選択といえた。

 市場規模からいえば、ポンドブロックよりもドルブロックの方が利益は大きいからだ。

 日露戦争以後の経済発展は、アメリカのドルの力を巧みに取り込んできた結果だった。

 だが、最近落ち目で手を繋いだことしかない幼馴染の女の子とセクシーで直ぐにヤらせてくれる尻軽女を天秤にかけたとき、日本は幼馴染の女の子を選んだ。

 男は、乳と尻とふとももだけ見ているわけではないのだ。

 日本のオタワ協定参加から始まるアメリカの強烈な反日外交を、このように解釈すると日本人の視点からは理解しやすくなる。

 実際、その後のアメリカ人の狂乱ぶりは、フられた女のヒステリーに近かった。


「騙された!あいつは私の体だけが目当てだったのよ!」


 という例のアレである。

 汪兆銘への過剰な肩入れもその文脈の中にあった。

 合衆国からの資金援助を受けた汪兆銘は政権(南京政府)を掌握すると満州を含む全ての中華統一を政治公約に掲げた。

 これは日本と満州国に対する宣戦布告に等しく、汪兆銘の背後にいる合衆国が何を考えているのか、これ以上もなく明確に表していた。

 日本政府は対抗措置を迫られた。

 北京政府と日本の香辛料貿易はこうして始まったのである。

 最初に取引されたのは、唐辛子チョウテンラージャオだった。

 口に含めば火が出るほど辛い、泣く子も黙る帝国陸海軍の軍事顧問団(義勇軍)と海援隊傭兵部隊である。

 次いで花椒ホアジャオが輸出された。

 唐辛子と並ぶ代表的な辛味香辛料で、近代戦争には欠かせない航空機だった。

 帝国海軍の九六式シリーズ(九六式艦上戦闘機、九六式中型陸上攻撃機、九六式大型陸上攻撃機)が実戦の洗礼を受けるのはこの時である。帝国陸軍も九七式シリーズ(九七式戦闘機、九七式重爆撃機)を中華内戦に送っている。

 八角パージャオも中華料理に欠かせない香辛料であり、近代戦争には欠かせない戦車だった。

 帝国陸軍の九五式軽戦車や九七式中戦車が投入され、貴重なデータが収集された。

 桂皮ゴェイピーはやや甘ったるい匂いのする山吹色のお菓子だった。買収工作は中華内戦では立派な武器の一つである。

 丁香ディンシャンは中華料理の縁の下の力持ちとも言える。戦争で必要なのは地道に兵站を積み上げる後方支援で、海援隊が山ほど丁香を持っていった。

 日本からの香辛料輸入によって、北京政府軍は首都北京前面から黄河まで戦線を押し返すことに成功する。

 一時期は、首都北京の郊外にある盧溝橋まで攻め込まれていたのだから、効果は覿面であったと言えるだろう。

 久しぶりの戦争特需で日本国内は湧きたち、軍需関連株もまた暴騰傾向あった。

 汪兆銘の南京政府軍は1938年6月、黄河の堤防を爆破することで、人為的な洪水を引き起こして戦線を押しとどめたが、脱走兵が相次ぎ、士気低下が著しかった。

 南京政府軍もまた軍閥の寄り合い所帯だったからだ。

 各地の軍閥がかかえる私兵集団に、最後の最後まで粘り強く戦い抜くといった気概の在るものは殆どいなかった。

 焦りを強くした合衆国政府は南京政府軍へ援助を増やしたので、中国大陸の空と大地は日米の新兵器展示会の様相を呈することになった。

 空中戦では、帝国海軍の九六式艦上戦闘機と九七式戦闘機が、アメリカ製のP-36AやF2Aと対戦した。

 九七式戦闘機も九六式艦上戦闘機と同じ河城重工の河城重工業のカッパード106a1(離昇1050馬力)12気筒液冷倒立V型エンジンを搭載した高速戦闘機だった。

 開発はそれぞれ中島飛行機、三菱航空機である。

 離着陸の条件が艦上機よりも緩和されているので、同じエンジンを使っていても九七式戦闘機の方が最高速度も上昇性能も上だった。

 カッパード106a1は欧州で流行していたモーターカノン装備可能なエンジンで、20mmモーターカノン砲(エリコンFSS)が九六式艦戦/九七式戦の主力兵装だった。

 なお、エリコンFSSは高初速(820m/s)かつ大威力(20✕110mmRBカートリッジ使用)かつ高発射速度(毎分450発)の優秀砲だったが、エンジンの振動で暴発事故が続出し、初期型は機首武装の7.7mm機銃2丁のみで戦っている。

 機関砲本体と取付方法の改善によって九六式艦戦改/九七式戦改からは20mmモーターカノンの使用が可能となり、その大威力により大戦末期まで日本戦闘機部隊の主要装備として活躍した。

 モーターカノン以外にも、燃料噴射ポンプや無段変速過給器などカッパード106a1は河城重工の高度技術をふんだんに投入されており、高度5,000mにおいて九七式戦を時速580kmで引っ張り、アメリカ製のカーチス戦闘機を圧倒する原動力となった。

 実戦でその力を示した九七式戦はフランスやポーランドからも注文がきたほどである。

 フランスは国内の政情不安で対ドイツ軍備の拡張が滞っており、航空軍備の再編成のための国産のプライドを捨ててでも完成品輸入を始めようとしていたところだったから、九七式戦の勝利はよいタイミングだったと言える。

 中島飛行機は400機もの発注をフランス空軍から受けて、事業拡大に弾みがついた。

 時間軸を1937年の中国大陸に戻すと日本軍航空部隊は多くの貴重な実戦データを得て、以後の戦いに役立てた。

 特に防弾装備のない航空機が役に立たないことは直ぐに理解された。

 30口径弾の一発でもパイロットが被弾して死亡すれば、墜落するのが飛行機というものだった。

 性能低下を忍んでも戦闘機にも防弾装備が必要であり、対空砲火に撃たれる爆撃機や攻撃機は防弾装備がないことは全くありえないこととされた。

 海軍の九六式大型陸上攻撃機は四発長距離爆撃機で戦闘機よりも速い爆撃機と喧伝されたが、カーチス戦闘機の迎撃を受けて大損害を出してからは、全機が内地に戻され防弾装備と防御機銃を追加工事を行っている。

 九六式大攻の防御機銃は、初期は僅か7.7mm機銃6丁に過ぎなかったが、21型は一気に倍の12丁となり、エンジンを換装した32型からは全ての機銃が13mm機銃に変更された上で2門の20mm旋回機銃まで装備するようになった。

 大量の動力銃座を追加した九六式大攻は速度性能が40km/h近く低下したが、防弾板と防御機銃の方が重要だった。

 大攻ほどの拡張性のない九六式中攻は、改造では限界があるとして後継機の開発が促進されることになった。

 また、戦闘機の護衛がない爆撃機は無力ということが明らかとなり、九七式戦や九六式艦戦に緊急で落下タンクを装着して航続距離を延伸する改造を施している。

 陸の戦いでは相手にまともな対戦車兵器がないことから、初期の戦いでは九五式軽戦車や九七式中戦車が一方的に南京政府軍の歩兵を蹂躙した。

 九七式中戦車は短砲身の75mm砲を装備した18t級の戦車で、各国陸軍でいうところの歩兵戦車の類であった。

 帝国陸軍は九七式中戦車の性能に満足していたが、世界の戦車開発の趨勢、特にソビエト戦車軍団の拡張は掴んで、短砲身砲を野砲ベースの長砲身砲に換装する作業を進めていた。

 合衆国から南京政府に供与されたM2軽戦車相手なら、九五式軽戦車や九七式中戦車でも十分だったが、アメリカ製の37mmクラスの対戦車砲が前線に行き渡る1938年ごろになると日本製戦車は苦戦を余儀なくされた。

 九五式軽戦車は小型軽量の機動戦用戦車であり、対戦車砲を機動力で回避するという発想で作られていたが、現実の戦場ではそれは不可能だった。

 37mmクラスの対戦車砲をアウトレンジできる75mm野砲を九七式中戦車へ搭載すべきと考えるようになるのは当然の論理的な結論だった。

 さらに河城重工では中華内戦の戦訓を反映した上で、フランスやイギリスへの輸出を考慮した輸出専用戦車を開発していた。

 これが後に九九式軽戦車、中戦車、重戦車となる。

 河城重工の輸出用戦車計画はほぼ同一設計の車体(10t級、20t級、40t級)と同一のエンジン(水冷500馬力ガソリンエンジン)を用いて部品の共通化でコストダウンを図りつつ、三様のラインナップを用意して多様のニーズを取り込もうというものだった。

 重戦車タイプはRR駆動のエンジンとトランスミッションを避弾経始が効いた45t車体に収め、100mm45口径砲(陸軍野戦重砲をベースに開発:自動装填装置付)を装備したもので、フランス軍が中戦車タイプと共に購入を打診している。

 なお、この計画は河城重工(海援隊)独自のもので、帝国陸軍は関与していなかった。

 そのため九七式中戦車チハのような別称がなく、河城重工内部でも特に名前をつけずに製品番号のみで呼称していたことからフランスに輸出される際に、名前がない戦車ネームレスという不名誉なアダ名を頂戴している。

 ただし、名前のない戦車ネームレスが1940年5月の北フランスで見せた活躍は、名前のない怪物とさえ呼べるものであり、それに対峙したドイツ軍を恐怖のどん底に叩き落とす働きをした。

 話を中華内戦に戻すと、黄河決壊により北京政府軍の攻勢は一旦止まったが、インターバルを挟んで、攻勢が再開された。

 その先頭を走るのは、帝国陸軍が派遣した援蒋義勇兵団だった。

 彼らは北京政府軍を支援すると同時に最新兵器や戦術のテストを行っており、帝国陸軍は非公式に彼らを調査兵団とも呼んでいた。

 調査兵団でテストされた新兵器は数多く、先の大戦ではエリート部隊にしか配備されいなかった44年式突撃銃は調査兵団の歩兵標準装備として全面採用され、帝国陸軍もそれに倣うことになった。

 44年式突撃銃は中華内戦においても評価が高く、北京政府軍に大量供与され大々的に使用された。

 その有用性から各地の軍閥が違法コピー生産され無軌道にばらまかれたことから、内戦の死者数を飛躍的に増大させ、国土の荒廃をいっそう激しいものとした。

 なお、44年式突撃銃は削りだし加工が多く生産性が低いため、プレス加工を多用して生産性を引き上げた近代改修型が開発された。

 これが99式短小銃となる。

 短小銃とあるのは銃身が短くして携帯性を高めたカービンタイプのためである。

 長銃身化して遠距離の命中精度を高めた長小銃タイプも相当数生産された。

 99式長小銃はセットで狙撃眼鏡が支給され、分隊に1丁ずつ配備された。

 これは現代でいうところのマークスマンライフルであり、分隊で最も射撃成績が高い者に配備されるのが常だった。

 長小銃が配備されたのは、射程距離が短い99式短小銃が、野戦でボルトアクションライフルにアウトレンジされることがしばしば発生したための措置で、短小銃の欠点を長小銃の狙撃で補う構想だった。

 この構想は実戦でその正しさが証明され、戦後にソビエト軍が模倣してドラグノフ狙撃銃を配備するなど、20年は時代を先取りした先進的なものだった。

 突撃銃の運用で大量使用される弾薬は、これもまた大量生産されたトヨタ自動車の3.5tトラックやくろがね4起が運ぶので補給が問題になることはなかった。

 中華内戦において、トヨタ自動車の3.5tトラックはその堅牢さ故に大活躍し、サントンハンという言葉が中国語化するほどであった。

 報道写真にも繰り返し3.5tトラックに記されたトヨタのロゴマークが登場したことから、中華内戦はしばしばトヨタ戦争と揶揄、中傷されることがあった。

 特にそうした揶揄や中傷が多かったのがアメリカのメディアだった。

 トヨタ自動車は死の商人というレッテルを貼られ売上を落とし、1937年8月には日米修好通商条約が破棄されたため、カルフォルニア支店を閉鎖してバンクーバーに移転した。

 日米修好通商条約の破棄は日本政府にとっても衝撃であった。

 驚いた日本政府は暫定協定締結の交渉を開始したが、合衆国は日本政府がソーシャル・ダンピングを実施していると一方的に非難し交渉がまとまらなかった。

 実際のところは、質、量、価格の全てにおいて勝る日本製品に全く太刀打ちできず、国内市場を荒らされた合衆国経済界による報復だった。

 日本製のトランジスタ・ラジオに、真空管を使っている米国製ラジオでは太刀打ちできないのだから、法外な関税障壁で排除するしかなかった。

 そのために通商条約が邪魔になったのだ。

 条約は半年後に失効するため、無条約時代に備えてアメリカ国内から日本企業の撤退が相次いだ。

 海援隊も歴史あるニューヨーク支店を閉鎖してカナダのオタワに拠点を移している。

 日本企業の撤退が相次いだ1938年はアメリカ経済にとって最悪の年だったから、条約破棄は二重の意味で大失策といえた。

 1938年のアメリカ経済を直撃した著しい景気後退は、


「ルーズベルト恐慌」


 と記録される戦前アメリカの経済政策の記録的大失敗であった。

 -10%という破滅的な有様だった。

 同時期の日本経済が+12%だったから、その深刻さが理解されるであろう。

 このような破滅に至ったのは、1936年に二選を成し遂げたルーズベルト政権が選挙公約に財政赤字削減/財政再建を掲げていたからだ。

 合衆国政府はニューディール政策で景気対策を連発して政府債務を積み上げており、財政赤字削減を求められていた。

 そのため、1937年には大規模な政府支出の削減が行われた(そのためアメリカ海軍拡張も止まった)ので、1938年は政府需要の激減からアメリカ経済は恐慌状態に陥った。

 ニューディール政策は、1935年までにアメリカ経済をある程度回復させていたが、実態経済は弱含みで政府支出だけが頼りの状態だった。

 そのような状態で財政再建のために政府支出を削減すれば、支えを失った経済が失速するのは目に見えていた。

 さらにそこへ条約破棄と日本企業排除が加わって、壊滅的な様相を呈することになった。

 逆に好調な日本経済の恩恵を受けてスターリングブロックの各国はプラス成長を維持していたから、世界経済においてアメリカ経済一人負けの状態だった。

 さらに5,000%もの高関税をかけて締め出したはずの日本製トランジスタ・ラジオは、真空管ラジオの20倍の価格であるにも係わらず売れ続けた。

 他に代替品が存在しないからだ。

 これはトランジスタ・ラジオにかぎらず、日本が独占的に保持している先進高度技術を用いた製品全般において同じことだった。

 日本製品に対して関税障壁は通用しなかったのである。

 むしろ高額商品を買わさせる消費者の憎悪は合衆国政府へと向けられることになった。

 ホワイトハウス周辺やアメリカ経済の枢要に近い人々は、除草剤を原液でぶっかけても枯らすことができない新種の雑草かなにかを見るような顔で日本製品の浸透に怯えた。

 このまま貿易を続けても経済的に勝てないことは明らかだった。

 当時の最も悲観的な予測では、20年以内に米国内のビック3(フォード、クライスラー、GM)の新車販売台数が日本のビッグ3(トヨタ、日産、ホンダ)に追い抜かれ、鉄鋼や非金属などを含む鉱工業で日本が米国のそれを上回り、世界市場の支配的な地位を築くというものだった。

 そして、合衆国の支援する南京政府軍も連戦連敗を重ねていた。

 1938年11月には上海や南京が戦場となり、中華内戦の終わりが近いことは誰の目にも明白となった。

 アメリカ政府の焦りは凄まじいものとなった。

 南京政府が崩壊すれば、そのパロトンであったアメリカ政府は中国における全てを失うことになるからだ。

 実際、上海戦が始まると上海にあったアメリカ租界には北京政府から退去勧告が出された。

 在留邦人の安全を守るためという名目であった。

 だが、日本租界やイギリス租界、フランス租界などには退去勧告は出されておらず、北京政府がアメリカを狙い撃ちにしていることは誰の目にも明らかだった。

 満州事変後、アメリカ企業の殆どの企業が上海に拠点を移していたから、上海租界を失うことは合衆国が中国におけるすべてを失うことだった。

 それどころか、満州市場も、日本市場も既に失っていた合衆国にとって、時計の針が日露戦争後(1905年)以前まで巻き戻ることを意味している。

 中国大陸においても一人負けの危機に陥った合衆国政府は、これまでにない大量の武器を大陸に送ることになる。

 もはやなりふり構っていられなくなった彼らは、星条旗を掲げた船で直接、南京政府軍に武器弾薬を運び始めていた。

 これは明確な戦時国際法違反の上に、不測の事態を招きかねない危険行為だった。

 武器弾薬を満載した船を戦場でうろうろさせているのである。

 火薬庫の中で花火をするようなものだった。

 だが、後先を考えれば慎重な対応が必要であり、日本政府や北京政府は厳重に現地軍をコントロールしてアンクルサムの軍艦には手出し無用としていた。

 特に日本の政府関係者はメイン号の故事を引き合いにだして軽挙妄動を戒めた。

 アメリカの直接軍事介入を招く、一切の口実を与えないためである。

 だが、1938年12月12日、アメリカ軍の河川砲艦マーシー・パネェー号が日本義勇兵団の爆撃機によって攻撃され、長江に沈んだ。

 所謂、パネェー号事件である。

 即座にアメリカ政府は激烈な抗議書を日本政府に送りつけ、謝罪と賠償を要求した。

 これに対して日本政府は事実無根であると回答した。

 パネェー号を義勇兵団が攻撃したという事実はなく、その攻撃が起きた時刻に飛行していた義勇兵団の航空機は存在しないとした。

 事実上のゼロ回答であり、アメリカ世論は沸騰した。


「リメンバー・メイン!リメンバー・マーシーパネェー!」


 という日本政府が最も恐れていた事態がおきてしまった。

 12月26日にアメリカ政府が通知した対日抗議通牒は、事件の真相究明を日米合同調査委員会で開催することを提案し、調査組織の安全を確保するため全ての戦争状態の停止、非武装地帯の設定、容疑者である義勇兵団の即時活動停止を求めていた。

 日本政府は合同調査委員会の設置は受け入れたが、その他は受け入れられないとした。

 北京政府についても同様だった。

 既に北京政府軍が、南京を包囲しつつあり、勝ちが見えた状態で停戦や非武装地帯の設定など受け入れられるはずもなかった。

 このまま攻撃を続ければ、南京は陥落し、それで戦争は終わるのだ。

 日本政府は反論として独自の調査に基づき、流出機雷による事故説を発表した。

 長江は河川交通を妨害するため敵味方の機雷が多数敷設されており、流出した機雷によって戦争に無関係のギリシャ商船が沈む事故が前月にも起きていた。

 パネェー号の沈没も流出機雷によるものの可能性が高く、攻撃が起きた時刻に飛行していた義勇兵団の航空機は存在しないと改めて主張した。

 だが、アメリカ国内世論にこの反論が受け入れられる余地は殆どなかった。

 満州事変と同じ日本の陰謀であるというのが合衆国のマスコミ各社の共通した論調で、根拠のない陰謀論が公共のラジオニュースでさえ公然と語られるほどだった。

 集団ヒステリーといえばそれまでだろう。

 だが、世界最大の経済大国がそうなるとその害は冗談やシャレでは済まないのだった。

 1939年2月1日に手交された第二次対日抗議通牒は、改めて日本の謝罪と賠償を要求するもので、日本政府の弁明を一切無視したものだった。

 さらに謝罪と賠償が受け入れられない場合は、軍事的報復を実施すると明記されており、事実上の最後通牒といえた。

 これを受けとった近衛文麿首相は、


「これはもう駄目かもわからんね」


 と発言し突如、内閣総辞職となった。

 病休という名目だったが、開戦を前にして政権を投げ出したのである。

 さすがにこれは主要なマスコミ、政界関係者、日米両国の国民の全てを唖然とさせた。

 日米開戦に至る日本側に戦争責任があるとすれば、この男を同時期に首相へ選出していたことに尽きるとされるほどの無責任ぶりだった。

 だが、唖然としているばかりもいられず直ぐに後継首相を決めなければならなかった。

 迫りくる戦争を回避するため、首相の近衛だけを除いて閣僚全員が留任した新内閣が発足したのは2月3日のことだった。

 新首相には立憲政友会から坂本一が選ばれた。

 坂本一は坂本龍馬の孫にあたり、龍馬の再来と称されるほどの逸材であった。

 軍歴もあり、帝国海軍では中将まで務めた。海軍時代から知米派として知られており、アメリカ政界に通じていたことから戦争回避内閣としては打ってつけの人材と言えた。

 事態は風雲急を告げており、就任式も全て後日という異例の措置がとられた。

 組閣とほぼ同時に記者会見を開いた坂本首相は有名な、


「じっちゃんの名に賭けて」


 で始まる有名な反戦演説を行い、戦争回避に全力を挙げる方針を示した。

 だが、ルーズベルト大統領は2月5日にパネェー号事件の報復に軍事力の使用承認を求める議案をアメリカ連邦議会に提出。同日、賛成多数で可決され、48時間の猶予を以って連邦議会は軍事力の行使を承認した。

 そして、日本時間の2月7日の午前5時12分、帝国海軍の南洋最大の泊地トラック環礁の早期警戒レーダーが接近する所属不明機の大編隊を捉えた。

 アメリカ海軍空母機動部隊による奇襲により、泊地は火の海に包まれた。

 太平洋戦争の始まりである。





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