OKB48
OKB48
1933年1月12日、日本国長崎県の海が見える丘に建てられた邸宅で一人の男が息を引き取った。
岡辺倫太郎、享年95歳。
おそらく、その生涯において世界の歴史を何度となく塗り替えただろう発明を成し遂げた天才の最期は曾孫に囲まれた幸福なものであった。
さすがに死の数年前からは体力や知力の衰えがあったものの最期のときまで意識ははっきりしており、自分自身の状態についても科学的知見の対象とみるほどであった。
死の直前にも自分自身の体重を確認し、
「僕が死んだら体重を測ってほしい。減った分が魂の質量である」
と述べるなど、笑えない冗談を述べている。
そして、それが岡辺の最期の言葉となった。
この章では晩年に至るまで研究、発明の最前線に立ち続け、最期の瞬間まで学究の徒であった男の生涯について振り返っていきたい。
岡辺倫太郎は1840年(天保10年)、肥前国佐賀郡八戸村に生まれた。
著名な同郷人に江藤新平がいる。
岡辺は佐賀藩の下級武士(手明槍)の木原家の次男であった。
後に脱藩して実家に勘当を言い渡されるまで、岡辺は木原姓を名乗っているが、ここでは岡辺姓で通す。
木原家時代について岡辺はあまり多くを語っていないが、僅か7歳で藩校である藩校の弘道館への入学を許されるなど、神童として将来を期待されており、木原家でも別格の待遇だったようである。
ただし、長兄との関係はよいものではなかったらしく、勘当された後は一切の関係を断っており、維新後に木原家が困窮しても無縁であるとして援助もしてない。
弘道館時代の岡辺については、様々な文献で既に語られているが、一言で言えば
「神がかり」
であった。
講義の最中に、
「フゥーハハハハハ!」
などと奇声を発して折檻を受けるのは日常茶飯事だった。
ただし、その才覚は広く認められていた。そうでなければ即日放校処分であっただろう。
そんな岡辺が唯一、対等の存在とみなしたのは、神童として先に弘道館へ入校していた御坊兼光であった。
当時は兼光は生田姓を名乗っていたがここではそのままで通す。
二人の意気投合については既に多くの書籍で述べられておりここでは省くが、浮いた存在だった岡辺にとって兼光との絆は他に代えがたいものであったことは想像に難くない。
また、日本の歴史、世界の歴史とって、この異能同士の出会いがもつ意味は表現が困難なほどに大きなものだったと言える。
強いて言うなら、ルビコン川を渡るか、渡らないかという次元の問題と言えよう。
だが、二人は出会ってしまった。
20世紀を代表するSF小説作家ロバート・A・ハインラインは、この二人が存在しないという歴史改変を行った世界での日米戦争を描き、最終的に合衆国が勝利する形で話を終わらせた。
逆にいえば、それぐらいしないと合衆国が勝利するという結末にリアリティをもたせられないと認識されていたといえる。
少し話が逸れたが、二人は離れがたく結びつき、江戸遊学を経て黒船来航のような歴史的大事件に遭遇しつつも、再び佐賀の地に戻った。
佐賀で二人が手がけた最初の共同作業が、洋式リボルバー拳銃のコピーだった。
岡辺はその生涯において、数多の兵器開発に携わることになるが、彼の最初の発明品が武器であったことから、それはある種の運命であったとも言える。
佐賀式ピストールの開発は順調に進み、1856年には最初の1丁が完成した。
この成功が佐賀藩主鍋島直正に認められ、二人は本格的な洋式銃の開発に着手。
結果として生まれるのがロマンシング・佐賀一号銃だった。
ボルトアクション後装式銃として、ロマサガライフルは世界水準を越える性能を発揮し、幕末・戊辰戦争を左右するほどの存在となった。
現在でも、日本製ボルトアクションライフルは海外では全てロマサガライフルとカテゴライズされるほどである。
これを薩摩藩経由で長州藩に売りさばいたことで、巨利を得たのが坂本龍馬だった。
薩長同盟の立役者となった龍馬だったが、薩長が急速に武力討伐に傾く中、平和的な体制転換を模索していたは龍馬は薩長と対立、自身の暗殺未遂事件を経て完全に手切れとなる。
この時、岡辺は土佐藩邸にいて、龍馬の身代わりとなって重傷を負った兼光の救護にあたっている。
兼光は大量出血で心停止状態だったが、岡辺は心臓マッサージと人工呼吸によって蘇生させた。
おそらく、これが日本初の近代的な心肺蘇生法の実施と見られている。
その後、龍馬とその仲間達は大阪湾からいろは丸で脱出し、江戸からラスト・タイクーン=徳川慶喜ともにフランスへ亡命した。
国際企業としての海援隊の始まりについては、多くの書籍が刊行されているため省くが、フランス亡命時代(1868~1878年)の岡辺の足取りを詳しく追った書籍は少ない。
だが、近年になって漸く研究が行われるようになり、2010年にアメリカ合衆国で刊行された
「Where did he come from?(彼はどこから来たのか?)」
という岡辺倫太郎に関する最新の研究よって、フランス亡命時代の岡辺はその活動範囲を全ヨーロッパのみならずアメリカ大陸に広げていたことが分かった。
その移動距離は地球の7周分に匹敵し、一時も休まず知識の収集と探求を邁進した当時の岡辺の旺盛な探究心が伺える。
岡辺が亡命時代に面識を持った人物としては、カール・ベンツやゴットリープ・ダイムラー、シャルル・ガルニエ、ベンジャミン・B・ホチキス、アルフレッド・ノーベル、カール・ウィルヘルム・シーメンス、アレクサンダー・グラハム・ベル、ニコラ・テスラ、トーマス・エジソンといった錚々たる面子が揃っている。
彼らの殆どは、東洋からやってきた怪しい小男としか岡辺を認識しておらず、かろうじてシーメンスがその日記に、
「変な格好をした東洋人がやってきて、工場と研究室を見学していった」
という極短い記述を残しているだけである。
もしもシーメンスがその後の展開を知っていたのなら、岡辺をその場で射殺しただろう。
何故ならば岡辺は工場を見学してホテルに帰ると、その類まれなる記憶力とノートと鉛筆を駆使して工場にあったもの全てを書き写し、そっくりそのままコピーしていったからだ。
現代でいうところの産業スパイである。
もちろん当時でも、そうしたスパイが存在することは既に知られていた。
シーメンスも、相手がイギリス人やフランス人なら、決して工場や研究施設を自由に見学させたりしなかっただろう。
だが、東洋人にヨーロッパ最新の科学技術が模倣できるなど、それどころか理解することさえ全く不可能だと思われていたので、警備は全くザルになった。
普仏戦争前のフランス政府は、亡命者を利用して日本の植民地化を企てていたことから、亡命者の歓心を買うために最大限の便宜を図っており、岡辺のスパイ活動を助けた。
フランス政府は普仏戦争が敗北に終わって日本の植民地化どころではなくなった後も海援隊の傭兵達を植民地警備に使うために岡辺の”社会見学”に便宜を図り続けた。
徳川慶喜とその亡命者達が明治政府と和解した後も、岡辺はヨーロッパ・アメリカに残って最新技術の収集しつづけ、日本に帰ったのは1878年のことになる。
日本に戻った岡辺は海援隊から資金提供を受けて、博多に自分自身の研究施設を開いた。
当時は、単純に”ラボ”と呼ばれていた。
岡辺は研究者や助手を
「ラボメン」
と呼んで親しく接したことが記録に残っている。
岡辺のラボは当初は組織化されておらず、岡辺の個人事業であったが規模が拡大するに従って分化し、OKB(OKBとはロシア語のОпытное конструкторское бюро(設計局)をラテン語に転写したOpytnoe Konstructorskoe Byuroではなく、OKABE(岡辺)の語呂合わせである)という独特の組織体系を作り出した。
OKB同士には上下関係はなかったが、岡辺が主催するOKB0は別格だった。
なお、OKBの公表されているナンバリングは48までしかない。だが、実際には48以上あり、OKB101のような機密度の高い研究を行っていたOKBもあった。
なぜOKBの公表ナンバリングが48までしかなかったのかは不明である。
「48じゃないと意味がない」
という岡辺の発言の真意もまた不明である。
話が逸れたが、岡辺主催のOKB0はその後、下部OKBの統括及び特許などの知的財産権の保護を目的とした財団組織に再編されてる。
これが科学と文化の保護を謳ったSCP財団(以下、財団)の始まりである。
財団は、下部OKBの維持管理、発明品と特許を保護し、研究費や奨学金の援助を通じた次世代の人材育成、日本のみならず世界各地の有形・無形の文化を人類全体のアイデンティティと位置づけ、これを保護することを使命としている。
また、海援隊のシンクタンクとしての役割を担っており、その組織規模は帝国海軍軍令部や帝国陸軍参謀本部に比肩するものがあった。
仮に隕石落下などの非常事態で日本政府が消滅しても財団があれば、政府機能は代替可能とさえ言われている。
財団はその規模と性格から秘密結社的な扱いで創作のネタにされることが多く、アノマリーアイテムの収集や保護、隠蔽などを図っているとされるが、そのような事実はない。
このような噂話が生じたのはSCPアーカイブスという形で流出した岡辺の創作メモが面白おかしく紹介されたことがそのきっかけと考えられている。
SCPアーカイブスとは、岡辺倫太郎が残した個人的な創作設定資料集である。
それは西暦2000年台中盤までの世界情勢を年表形式で現したものだが、その展開は太平洋戦争で日本が敗北したり、米ソが冷戦状態に陥ったり、中国に共産党政権が誕生するといった史実とはかけ離れたものとなっている。
岡辺がなぜこのようなものを残したのかは不明だが、一般には黒歴史ノートなどと扱われることが多い。
天才にも痛い過去があるということである。
財団が今日のような組織規模を有するに至ったのは、1923年の関東大震災からの復興を目的に実施された日本列島改造計画の実現に強く関わったことが大きい。
1920年代に実施された政府主導の経済計画、第一次五カ年計画によって日本は戦後不況、震災不況から完全に脱出した。
「もはや戦後ではない」
という言葉が有名だろう。
第一次五カ年計画(列島改造計画第1期)では、帝都復興を中心に日本最大都市、東京・大阪・名古屋を結ぶ弾丸鉄道と高速道路網が整備された。
1920年代後半は、日本のモータリゼーションの黎明期であり、日米合弁会社が様々な自動車の生産と販売を開始した時期だった。
自動車の生産販売は民間企業の仕事だったが、それを走らせる道路を作ることができるのは政府・自治体だけであり、モータリゼーションにおける道路行政の役割は大きなものだった。
欧米でも未だに建設例が少ない高規格高速道路の建設は非常に難航したが、景気対策としては極めて有効で、1kmごとに失業率が0.01%ずつ減っていった。
この工事では大規模に土木建設機械が投入され、ユンボが日本の建設現場で一般化する最初の例となった。
土木機械なら既に満州開発にも多数投入されていたが、日本での運用例は少なかった。
これは土木機械を使うことで省力化が進み、雇用対策としての公共事業の効果が薄れることを政府が恐れて規制していたためである。
だが、列島改造計画では労働力の不足が顕著になったことから、規制緩和がなされた。
満州の明治油田がアメリカ資本で大規模に開発されており、アスファルト舗装材が大量供給されており、高速道路建設は大きく弾みがついた。
また、高速道路の支線となる各地の国道も整備され、モータリゼーションの時代に対応する土台が築かれた。
高速道路と並行して整備された弾丸鉄道”新幹線”は満州鉄道の経験を活かした標準軌の高速鉄道だった。
満州の平原を疾走する大出力蒸気機関車をそのまま日本本国に移植したもので、平均時速は100kmに達した。
瞬間的には130kmでの運転も可能だったが採算が悪化するため速度記録程度の意味しかなかった。
最初の新幹線である東海道新幹線は、東京ー名古屋間が1925年に開通。さらに1926年に京都まで延伸され、1928年には大阪までの全線開通を迎えた。
その後、新幹線は大阪を越えて岡山、広島、下関に達し、関門トンネル建設工事を経て博多まで開通したのが1937年のことである。
このような大規模な公共事業を実施すると土地の買い占めで巨利を得るものが現れ、汚職の温床となることが通例である。
しかし、列島改造計画では最初に土地収用法が定められ、土地の価格が法律で1924年時点で固定化されたので土地の買い占めで利益を得るのは不可能となった。
また、土地収用法は一種の錬金術として機能した。
政府は土地収用法を使ってインフラ建設のための土地を安く買い上げ、建設が終わるとそれを競売にかけた。
インフラ整備された土地は高額で落札されるのが常であり、最初に買い上げた土地の何倍もの値段で売れたので、インフラ投資の経費を差し引いても黒字だったのである。
列島改造計画の運転資金の大半はこの錬金術によって賄われた。
ただし、私有財産に対する侵害という違憲性は立法当初から指摘されており、第五次五カ年計画が完了した1948年に廃止されている。
だが、この錬金術がなければ、日本のインフラ整備は土地の買収という壁に突き当たり、非効率的なものとなっていたと考えられている。
土地収用法が帝国議会を通過したことは一種の政治的な奇跡と言われており、関東大震災直後の非常事態でしか不可能だった。
第一次五カ年計画が終了した1929年にも土地収用法は廃止されそうになったが、廃止法案が議会で審議中に世界大恐慌が発生し、審議が延期された。
1930年に始まった第二次五カ年計画の特色は、3大都市以外の地方都市を高速道路と高速鉄道で結び、地方に工業団地を造成することで、3大都市に集中した工業を地方移転させ国土の均一なる発展を促すことだった。
大規模な米不作で経済が悪化した東北地方には多くの予算が割り当てられた。
仙台が東北地方の経済的な中心となるのは、この時の道路・鉄道整備以後のことであり、それまでは江戸時代以来の杜の都が続いていた。
八戸や磐城といった田畑以外何もなかったような場所に工業団地が建設され、日産や日窒のような新興財閥が安い土地と労働力を求めて進出していった。
貧窮を極めていた東北経済が徐々に回復に向かったことで、国内世論も落ち着きを取り戻すことになる。
経済の近代化が遅れていた東北では農村の疲弊が著しく、若い娘の身売り(人身売買)や欠食児童問題が横行していたことから、短絡的な憂国青年を量産化する温床となっていた。
これはその他の地方都市や農村でも大なり小なり見られた現象である。
だが、適切な経済対策が施行されたことで、世論は落ち着きを取り戻していった。
それに失敗したドイツやイタリアでは左右過激派の対立や政治不信の果てに、ファシスト政権が誕生していることを考えると日本は幸運だったといえる。
列島改造計画は、ケインズ政策を先取りしたものとして名高いが、第二次五カ年計画は完全なケインズ政策となっていた。
第二次五カ年計画を主導した高橋是清首相(第二次高橋内閣)は海援隊からジョン・メイナード・ケインズを引き抜き、第二次五カ年計画の最高顧問として抜擢したからだ。
明治以来、久しぶりのお雇い外国人枠で日本政府の財政政策に関与することになったケインズはこの時の経験を元に1936年、「雇用・利子および貨幣の一般理論」を発表した。
日本経済は1932年下半期には恐慌前の水準に回復し、1933年以後は年率10%ずつ経済が拡大する高度経済成長路線に復帰した。
アメリカやイギリスがマイナス成長を続ける中、V字回復を成し遂げた日本に世界各国は熱い視線を送ることになる。
列強国は世界恐慌を受けて市場を囲い込むブロック経済体制へと移行していた。
イギリスを中心とするスターリングブロック(オタワ協定)やフランブロック(フランス植民地)、ドルブロック(南北アメリカ)である。
内需主導で高い成長率を維持する日本市場を自ブロックに取り込めれば、需要が冷え切った経済を再起動させる起爆剤になりえた。
猛烈な勧誘合戦が発生したが、日本はスターリングブロックに参加することになった。
1934年のことである。
後の世では、これが戦前世界の自由貿易体制崩壊を決定づけたとされている。
アメリカ経済界の働きかけは猛烈だったが、満州事変以後日米関係は冷却化しており、ドルブロックへの参加はありえなかった。日英同盟という要素もある。
イギリス政府の経済閣僚は日英同盟を維持してきたことを神に感謝したという。
内需主導の自律的な経済発展を続ける日本は、旺盛な購買力でイギリス製品を買い漁った。
所謂、
「爆買い」
であり、イギリスの経済的な苦境を大きく助けた。
日本が進めるインフラ整備に必要な資材は重厚長大産業型産業が得意とする製品が多く、多くの老舗を抱えるイギリス、特にヴィッカーズ社にとって慈雨になった。
21世紀現在でも、この時ヴィッカーズ社が日本に納品した鋼製橋梁などが日本のあちこちに歴史遺産として残っている。
反対に日本から輸出されたのは、自動車だった。
アメリカ企業との合弁で腕を磨いた日本の自動車産業は1930年代に離陸期を向かえ、国内生産を拡大すると同時にスターリングブロックに輸出を開始した。
イギリスは左側通行、右ハンドルだったので日本車の輸出に大きな障害はなかったことも大きく作用した。
こうした日本車の攻勢は、当初は殆ど無視された。
日本が輸出したのが安い大衆車だったからだ。
イギリス自動車業界はロールスロイスなどの高級車を指向していた。一般大衆が車を持つなど考えられないと考えていたのだ。
だが、その判断は間違っていた。
廉価な日本車は急速に浸透し、誰もが車を持てる時代、モータリゼーションがイギリスで爆発的に進行していった。
慌ててイギリス政府は大衆車を開発するように各自動車メーカーに指示したが手遅れだった。イギリスがもつ海外植民地にも日本車は急速に浸透しており、イギリスの自動車市場を日本車が席巻していくのである。
イギリスの自動車メーカー各社は悲鳴をあげたが、イギリス政府がそれに応えることはなかった。
日本をスターリングブロックから締め出すような真似はできないからだ。
インフラ整備を進める日本はイギリスから多数のインフラ資材を買っており、日本へのインフラ輸出はイギリス産業界の救世主だった。
日本は1936年にそれまで狭軌で作っていた日本全国の鉄道を標準軌にしたてなおすという非常に金のかかるインフラ投資を始め、イギリスから大量の鉄道レールを買っていた。
日本の自動車産業も大量の工作機械をイギリスから買っている。
世界大恐慌で中古の工作機械がだぶついており、対日輸出で在庫を一掃することができた。
消費減退でだぶついていた工業資源もどんどん買ってくれるお得意様なのである。
自動車産業を犠牲にしても、古い重厚長大産業を守れば黒字になるというのが1930年代のイギリス対日貿易政策だった。
自動車産業という先端産業より、ヴィッカーズ社のような老舗の重厚長大産業を守る決定を下したのは1930年代当時としては間違いとはいえない。
だが、イギリス経済の斜陽が決定的となった1950年代に入るとイギリス政府は当時の決定を思い出し、のたうち回ることになった。
また、現実問題として、1930年代の日本製品の革新さに自国の先端産業が太刀打ちできていないということもある。
「日本の科学技術は世界一ィィィィーーーーッ!
と叫んだ全身義体のサイボーグ日本軍人が活躍する漫画作品が存在するが、1930年代の日本は技術革新期で、様々な先端技術が花開き、日本経済の国際競争力を底上げした。
特筆すべきことは、それらの革新的な技術は、いずれも岡辺か財団のOKBが生み出したものだということである。
代表例を挙げるすれば、海援隊傘下の八幡製鉄所が1934年に導入した酸素直噴式転炉法だろう。
酸素直噴式(以後、ヤハタ式)転炉は日本の独自の技術による画期的な製鋼技術で、平炉法を完全な過去のものとした。
平炉法は鉄スクラップからの製鋼に適していたが、ヤハタ式転炉が完成すると急速に切り替わり、鉄スクラップによる製鋼は電気炉が主流となった。
ヤハタ式転炉の導入後、日本の粗鋼生産量は急激に上昇し、1945年には年間6,000万tに達した。
これはアメリカ合衆国の8,000万tに次ぐもので、イギリスの2,000万tを遥かに上回っていた。
日本の鉄鋼生産量の拡大は異常なペースであった。
あまりにも拡大が早すぎたので、鉄鋼価格が暴落しかけたほどである。
そのため日本政府は作りすぎた鉄を消費するために巨大戦艦をいくつも建造した。作りすぎた鉄を処分するために戦艦を作ったのは日本ぐらいなものである。
日本の粗鋼生産量が1億tに達するのは1955年となる。
なお、酸素直噴式転炉は窒素の含有量が少なく、低炭素鋼を作るのに適していた。
低炭素鋼は曲げ伸ばしに適しており、自動車生産の拡大にはなくてはならないもので、日本の自動車産業の急激な拡大は酸素直噴式転炉の完成なくしては考えられなかった。
また、新規建設された製鉄所ではストリップミル化や連続鋳造、連続圧延施設など圧延技術の進歩で、厚板や薄板、鋳造製品を一貫生産するようになり、飛躍的に生産効率が高まった。
これまでの製鉄では鋼塊がそのまま出荷され、鋼塊を再加熱して加工するという二度手間、三度手間が発生していたが、製鉄所に連続圧延や連続鋳造設備が増設、併設されるとそうした非効率は排除された。
1920年代までは日本の主要な輸出品目は綿布や生糸などの繊維製品だったが、1930年代に入ると自動車や機械類、船舶といった付加価値の高いものが主流となり、紡績は朝鮮半島へ主力が移ることになった。
さらに30年台後半からは、ここに電気製品が加わることになる。
特に半導体産業は異常な速度で発展し、世界を席巻した。
日本の半導体産業の主力は、真空管に代わる半導体デバイス、ゲルマニウム・トランジスタ/ダイオードだった。
最初のトランジスタを発明、或いは発見したのは岡辺であった。
岡辺は晩年に真空管の改良に取り組んでいたが、1919年に真空管に代わる半導体デバイスとしてトランジスタを考案した。
といっても考案しただけで生産することは1910年代の技術では不可能だった。
岡辺は真空管を使用したラジオの代替品として鉱石ラジオを自作し、その改良発展型として純度の低いゲルマニウムを使用したゲルマラジオを開発した。
そこでゲルマニウムを使用した電子信号の増幅装置がつくれないか研究を進め、トランジスタを着想するに至った。
アイデアはあったものの純度99. 9999999%のゲルマニウム結晶をつくることは困難だったが岡辺は、
「この技術は必ず世界を席巻する」
と断言した上で、特許を取得せず財団によって秘匿管理させている。
トランジスタのアイデアは弟子達に引き継がれOKB25如月設計局で研究が続けられた。
研究の中心となったのは如月武博士である。
そして、1935年に点接触型、さらに成長型、接合型といったトランジスタが発表された。コピー生産を防ぐために特許は取得されず、製造方法は最高機密であった。
OKB25はトランジスタ生産を事業化し、海援隊の有力な企業、如月電子として独立することになる。
21世紀現在、如月電子はキサラギに改名して存続している。
如月電子を興した如月博士は元は化学者で専門分野は空中窒素固定だった。独学で電子工学を学んでOKB25を任せられるほどになった立志の人だったが、溺愛していた一人娘に先立たれるなど悲運の人とも知られている。
如月博士は狂乱し、娘を生き返らせるために人造人間の発明に没頭したことがあり、後に仏教に帰依するこで正気を取り戻したとされる。
キサラギの自社製品にやたら仏教用語(AMIDA、MIROKU、MANTORA)を採用されているのはこのためである。
なお、正気を取り戻したされる如月博士だったが、晩年には再度、発狂して自殺するなど、本当に正気だったのかは疑わしいとされる。
話を本筋に戻すと、トランジスタは如月電子の熊本工場で独占的に生産され、日本の各メーカーに供給された。
トランジスタは当初、無線通信分野で利用された。
これまで最小でも卓上設置が基本で電源が必要だった真空管ラジオは市場から駆逐され、乾電池で動作するポケットサイズのトランジスタ・ラジオが世界市場を席巻した。
また、真空管に代って電子回路を構成し、大幅な小型、省電力化が達成され、あらゆる産業分野に電子制御が導入されることになる。
所謂、
「マイコン化」
である。
工業製品にマイコン制御を導入するのは、かさばる真空管では不可能だった。
マイコン制御の大規模な適用例は軍事が先行したが、兵器の大増産のためにCNC制御旋盤が大量導入され、不足する労働力を補う上で重要な役割を果たした。
世界各国はトランジスタを実用化のために多額の予算を費やし、日本から入手したサンプルをリバースエンジニアリングしようとしたが、そうした試みは殆どが失敗に終わった。
高純度のゲルマニウムの結晶をつくることが困難で、添加物の配合割合も不明だったからだ。如月電子は技術情報を完全に秘匿しており、手がかりとなるものは何もなかった。
如月電子の熊本工場は海援隊シークレットサービスの厳重な警備下にあり、従業員も経歴や生活状況を厳しくチェックされており、産業スパイは不可能だった。
如月電子のトランジスタの生産独占は1941年まで続いた。
世界大戦勃発とその後の需要爆発に如月電子の生産力では対応できなくなり、特許取得と技術情報開示により日本の各メーカーでトランジスタのOEM生産が行われた。
この情報を元にアメリカやドイツではトランジスタの違法コピーが行われたが、大戦中に量産化することはできなかった。
トランジスタは黄金の石と呼ばれ、今日の如月電子の基礎を築き上げた。
生産独占で多額の資金を得た如月電子はトランジスタを使用した集積回路IC、LSIの開発・実用化し、21世紀現在も変態的電子技術で世界をリードし続けている。
1930年代に話を戻すが、トランジスタを生み出したOKB25以外にも財団管理のOKBは活発に活動していた。
OKBの代表には国籍を問わず優れた業績を挙げた者が配置されていた。
外国人科学者の代表的な人物には、ロシアから亡命したニコライ・ステパノヴィッチ・ソコロフのOKB745(ソコロフ設計局)や高額報酬で招いたヨハネス・ルートヴィヒ・フォン・ノイマンのOKB112(ノイマン設計局)、合成繊維を開発した李升基のOKB29(李設計局)がある。
日本人の代表格は、ソコロフと共に宇宙ロケット開発を主導したOKB31(糸川設計局)の糸川英夫や、原子核工学を発展させたOKB39(湯川設計局)の湯川秀樹、ノイマン設計局や如月電子と協働してトランジスタ計算機を作り上げたOKB27(高橋設計局)の高橋秀俊がいる。
発展的解消として独立した企業となったOKBも多く、前述の如月電子や本田宗一郎の本田技研も元はOKBであった。
独立せず事業を海援隊傘下の企業に吸収されたOKBもあり、河城重工に吸収されたOKB48(種子島設計局)もその内の一つである。
若き英才種子島時休率いる種子島設計局のテーマはタービン・ロケット機関だった。
欧米ではジェットエンジンという名称の方が一般的だが意味するところは同じである。
タービンロケット機関を発明したのは岡辺倫太郎で、全く新しい内燃機関として遠心式圧縮機と燃焼器を組み合わせたプロパンガスで動く最初のタービンロケット機関「TーRX0」が完成したのは1920年のことである。
ただし、生まれたばかりのタービンロケット機関は、プロパンガスを光と熱と二酸化炭素に変換する以外には何の役にも立たなかった。
だが岡辺は、
「これは無限の可能性を秘めた、可能性の獣だ」
と述べて開発を続行し、1922年に燃料をプロパンガスから灯油に変更したTーRX1を完成させている。
T-RX1はT型フォードに搭載され、50mの試験走行を行った。
熱量の大きい灯油への変更は成功であり、出力が大幅に増加したことで内燃機関として実用性が立証された。
ただし、燃費は最悪だった。50m動かすだけで燃料タンクが空になるほどだった。
それでも安価な灯油で車を動かすことができるのは大きな利点と思われた。
満州の明治油田は重油質でガソリンの収穫量が少ないため、収穫量が多い灯油で車が動くなら、日本の燃料問題を緩和できるかもしれないと考えられたのである。
ただし、低速域でタービンロケット機関は燃費が最悪で、熱で燃焼室が溶けるなどすぐに自動車のエンジンとしては使い物にならないと判明した。
航空機用のエンジンとしては見込みがあったことから開発が進み、1933年に遠心式から軸流式圧縮機に変更したTーRX78が完成した。
T-RX78は、推力450kgを発生させ、航空機用発動機としての実用性が確認された。
さらに実用品として完成度を高めるためOKB48は河城重工のエンジン開発部門に合流して発展的に解消となっている。
T-RX78は河城重工にて改良が加えられ、NTR001(推力475kg)へ発展した。
NTR001を搭載した世界初のタービンロケット機「橘花」は、河城重工と提携関係にあった中島飛行機で製作された。
橘花は1935年5月12日に霞ヶ浦で世界初の純ジェット飛行を成功させた。
1937年には推力800kgのNTR004が帝国海軍航空本部の審査をパスし、日本は本格的なタービン・ロケット時代を迎えることになった。
プロペラのない飛行機、最初のジェット機を世界に先駆けて飛ばしたことは、世界初の有人動力飛行を成功させた航空ニッポンにとって再び快挙であった。
このように1930年代の日本は世界大恐慌というアクシデントがあったものの輝かしい発展と飛躍の時代であった。
こうした飛躍の時代を迎えられたのは、日露戦争後の日米蜜月時代や第一次世界大戦の大戦景気や政治の民主化と安定化、さらに岡辺倫太郎のような才覚に恵まれたことが大きかったといえる。
しかし、光が強ければ、反比例して影もまた深く暗くなるのが常であった。
日本製品の高い国際競争力に国内市場を荒らされたアメリカ合衆国は1937年に日米修好通商条約を破棄し、日本製品の排除に乗り出した。
さらに大陸情勢の混迷が日米間の大きな政治問題に発展していた。
中華内戦である。