幕末に転生したら、日本がやばかった
幕末に転生したら、日本がやばかった
2017年8月15日
大日本帝国布哇県真珠湾鎮守府の海は、今も多くのカップルが憧れる淡く甘い夢のような色をしていた。
端的に言ってしまえば、ハワイアンブルーである。
だが、かき氷と違って甘くもなければ、冷たくもない。
水の成分は水96.6%に対して塩分 3.4%であり、要するに塩辛かった。
そんなことはさておき、かつてこの海が血と炎によって紅く染まったことは、日本国の中等以上の教育を受けたものではあれば誰でも知っていることだろう。
真珠湾鎮守府の奥に鎮座する基準排水量70,000tの超超弩級戦艦大和は今でこそ観光名所であるが、かつてその世界最大の艦載砲でこの地に破壊の雨を齎したのだ。
太平洋戦争の重要な攻防の焦点となった布哇には、現在も広大な日本海軍の軍港があり、外国人の立ち入りには制限がある。
故に、その軍港に、アメリカ海軍のミサイル駆逐艦を迎え入れることになったのはちょっとしたニュースになった。
ニュースにもなれば、それを見てみたいと思うのが人の情であり、湾口に整備された臨海公園に多くの見物人が詰め寄せた。
布哇在住の現地人やたまたま居合わせた幸運な観光客に加えて、多くの報道陣がバズーカ砲のような超望遠レンズを岸壁に並べて見守る中、帝国海軍の駆逐艦に先導されたアメリカ海軍の軍艦が現れた。
ホスト役を仰せつかった帝国海軍の駆逐艦は駆逐艦「綾波」であった。
1930年代から連綿と建造が続く艦隊のワークホースである艦隊型駆逐艦の第8世代型にあたり、位相配列電探と高速電脳化火器管制装置を備え、垂直噴進弾発射機を用いて対空目標を8目標同時攻撃可能な優秀艦だった。
攻撃面もおざなりなく、8発の超音速対艦巡航誘導弾を備えており、衛星誘導によって800km先の目標を攻撃可能だった。
駆逐艦と言っても、基準排水量は先の大戦で活躍した陽炎型の4倍に達しており、時代が時代なら巡洋艦と呼ばれていただろう船である。
その後ろのしずしずと走るのはアメリカ海軍の駆逐艦フィッツジェラルドであった。
アメリカ海軍が誇るイージスシステム搭載艦であり、弾道弾迎撃改修も受けていた。
ゲストとしては申し分ないだろう。
見物人のほとんどは一般市民であったが、軍港都市の常として、彼らは軍艦は見慣れていた。
だが、そんな人々にしても、フィッツジェラルドは珍しい存在だった。
なぜならば東京講和条約の結果、アメリカは太平洋に展開する軍備を著しく制限されており、太平洋に配備できる軍艦には限りがあり、その数は多くなかった。
さらに真珠湾鎮守府にアメリカの軍艦が入るなど、戦後70余年を経ても、ニュースになる程度に珍しい話であった。
それほどまでに先の大戦で負った日米の傷は深いものであった。
フィッツジェラルドが湾口に差し掛かると出迎えのブラスバンドチームは、アメリカ国歌『The Star-Spangled Banner』を吹奏し始めた。
布哇の風を受けてフィッツジェラルドのマストに掲げられた星条旗がはためくと、見物人の中には感極まって泣き出す者がいた。
太平洋戦争の結果、アメリカ合衆国から大日本帝国に割譲された布哇から、戦後多くのアメリカ人が本国へ帰国したが中には布哇の生活を捨てられず残った者も多かった。
そんな彼らにとってThe Star-Spangled Bannerのメロディと風を受けてはためく星条旗は禁忌であり、今は遠い祖国を思わせる郷愁そのものであった。
ブラスバンドチームは、The Star-Spangled Bannerに続けて日本国歌「君が代」を吹奏した。
布哇の空に溶けていく詠み人の定かならぬ詩は、The Star-Spangled Bannerに比べれば、おとなしく繊細な印象のメロディだった。
太平洋の覇権国らしからぬ彩な印象の詩だが、それを女々しいと笑うものは一人もいない。
70年前の大戦争に勝ち抜き、21世紀現在においても太平洋にまたがる大洋の帝国として君臨する大日本帝国の国歌は尊貴すべきものとして布哇の空に溶けていくのである。
1939年に始まる太平洋戦争において、大日本帝国が勝利したことは、今日においてはごく当たり前の常識の類であり、議論の余地のない普遍的な事実である。
だが、1839年(天保9年)にそのことを吹聴しようものなら、物笑いにされるだけであろう。
当時の日本の統治する江戸幕府は鎖国とよばれる海禁政策を祖法として崇め奉り、近寄る外国船を武力で沿岸砲台で打ち払うなど、頑迷な態度に終始していた。
世間を闊歩するのは刀を差した丁髷姿の侍であり、800年続く武士の時代であった。
とはいえ、それは巨大な背景であり、生まれたばかりの赤子には関係ない話である。
生田兼光が佐賀藩の八戸に生まれた時、世は今だに天下泰平のうちにあったといえるだろう。
幕末の始まりとされるペリーの黒船来航でさえ、1853年のことである。
だが、兼光が生まれた1839年には、アヘン戦争が勃発。幕末への前奏が鳴り響き、幕府を取り巻く対外政策は大きく変わることになる。
幕府は、長崎出島のオランダ商館を通じてアヘン戦争の顛末を確認すると東洋の大国「清」が呆気なくイギリスに敗れたことに衝撃を受けた。
これまでの対外強硬政策の基本であった異国船打払令は取り下げられ、異国船に薪や水の便宜を図る薪水給与令を新たに打ち出すことになる。
だが、国防の刷新は急務であり、特に長崎出島の防備強化が急がれた。
そんな風雲急を告げる状況下で、佐賀藩主の座についたのが佐賀の七賢人、幕末四賢侯の一人、鍋島直正であった。
佐賀藩は福岡藩と後退で出島防備の役務を担っており、防衛強化と体制刷新は不可避の状況である。
だが、防備強化のための財政負担に佐賀藩は財政破綻寸前までに追い詰められていた。
藩主の座につくと直正は守旧派の勢力を徐々に削減していき、権力を手中に収めると大胆な藩政改革に着手する。
膨大な藩の借金については半ば踏み倒し、財政余力を弘道館などの人材育成や精錬方と呼ばれる近代工業育成のための資金に充てた。
後に佐賀藩は、アームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功している。
この技術を用いて造れたのが、江戸海防の切り札であった品川の台場である。
日本の近代工業の先端を走る佐賀藩にあって、生田家は大砲製造に係ることになった。
なぜか?
生田兼光の父、生田兼望は手明槍と呼ばれる知行地なし、蔵米から禄を支給される下級武士であった。
その役務は年に一度、藩内の村々を回って年貢を徴収することである。
もちろん、集めて終わりというわけではなく、徴収の後には膨大な集計作業が待っている。
徴税役人というものは、自然と数字に強くなるもので、生田兼望は武士でありながらそろばんを巧みに操る算盤侍であった。
さらに趣味で和算を嗜んでいたことで、兼望の計算にはいつも間違いないと評判であった。
だが、年貢の徴収が終わればあとはひたすら暇である。
もちろん無役であるから、蔵米の支給もない。
現代風に言い表せば、繁忙期だけに呼び出される契約の派遣社員みたいなものだろうか。
よって生田家は傘張りなどの内職で辛うじて食いつないできた貧乏侍の家系でもあった。
そんな兼望が大砲製造に抜擢されたのは、つまるところ西洋砲術には数学的素養が必要不可欠であったからである。
まさに芸は身を助けるを地でいく話と言えよう。
そんな上昇機運漂う生田家にあって、兼光は神童と讃えられて、両親の期待を一身に集めた。
僅か3歳で人語を操り、5歳で漢籍を読み、7歳の時には藩校の弘道館へ内生として入学するに至った。
弘道館の先輩には、江藤新平や大隈重信がいる。
ただし、大隈重信は葉隠を基本とする儒教的な弘道館の教育に反発して、退学してしまい一緒に学んだ期間はごく短い。
開明的な大隈には、葉隠を精神的な支柱とする佐賀藩の気風が合わなかったとされる。
兼光はその後の彼の人生からすると意外なことだが最後まで弘道館で学び通した。
弘道館での教育の話となると、
「面白くはなかったが、興味深くあった」
と答えている。
学問としてはつまらなかったが、弘道館の有り様について心惹かれるものがあったらしい。
兼光は現在でいうところのメモ魔、記録魔で、7歳から詳細な日記をつけており、当時の弘道館の様子を詳細に書き残している。
その記録の付け方は極めて体系だったものであり、まるで後世の歴史家に見せるために書かれたかように見えるため、偽書の可能性も指摘されるほど現代的なものであった。
付記されていた簡単な絵図は極めて現代的な筆致であり、その感性は20世紀後半のものと紹介されても違和感ないほどである。
その記録の対象は弘道館のみならず、当時の佐賀での生活や人々の暮らしぶりなど多岐に渡っている。後に天災などで消失した国宝級の文化財などの記述もあり、第一級の歴史・文化・政治史資料として佐賀県の県立図書館に収蔵されている。
そんな貴重な歴史記録に木原倫太郎の名前が現れるのも、弘道館時代からである。
木原倫太郎と生田兼光は出会った瞬間、意気投合して終生の友情を誓ったとされる。
だが、具体的にどのような出会い方をしたのかは現在にいたるも不明である。
一説によれば、倫太郎が、
「ぬるぽ!」
と奇声を発して講義中に騒ぎ、兼光が問答無用で殴りつけて制裁したのが始まりという真偽不明の言い伝えがある。
だが、いくらなんでも荒唐無稽すぎるため、これは眉唾の類であろう。
木原倫太郎も、神童と名高く僅か7歳で弘道館入学を許された異才の子であった。
貧しい下級武士の家であることも兼光と同じであり、二人が意気投合するのに時間はかからなかったという。
だが、倫太郎は奇行が多く、弘道館の気風は全く反りが合わず、大隈重信が退学すると同時に彼のグループの一人として行動を共にすることになる。
その後、倫太郎は大隈と同じく、枝吉神陽から国学を学び、神陽が結成した尊皇派の「義祭同盟」に副島種臣、江藤新平らと参加している。
だが、そこでもトラブルを起こして義祭同盟にもいられなくなり、兼光が元服と同時に藩費で江戸遊学を許されると自費でこれについて江戸に渡ることになる。
トラブル続きの倫太郎に比べて、弘道館きっての俊英として、藩費での江戸に遊学を許されるなど、この頃は至って順風満帆にエリート街道を邁進していたと言えるだろう。
そして、歩みは事なれども、同じ方向に進む二人は、江戸で大事件に遭遇することになった。
時に1853年、黒船来航である。
ペリー来航の歴史的な意義について述べるのは歴史書の役割であるためここでは割愛するが、直接的な武力恫喝で日本に国策の変更を迫ったのは、1274年の元寇以来の出来事であるという点については注意してしすぎることはないだろう。
外国勢力に武力で脅されるという経験がない日本人が味わった不安、恐怖こそが、江戸幕府の支配を揺るがす地殻変動の震源地といえるからである。
では、その全ての日本人の喉元に刃を突きつけるがごとき暴挙に至った黒船来航時、生田兼光と木原倫太郎がどこにいたかと言えば、タイミング良く浦賀にいたのである。
この時、二人は浦賀沖に現れた黒船を見物し、さらに間近で見るためにスイカ売りの行商人に扮して、小舟で黒船に漕ぎ寄せ、間近で黒船を詳細に観察することに成功している。
また、実際に黒船の水兵に身振り手振りでスイカを売りつけ、5ドルの利益をせしめていた。
二人は手にした5ドルをこの他喜んで、終生の宝として大切に保管した。現在では日本銀行博物館にこの時得た5枚の1ドル硬貨が展示されている。
その後、ペリー艦隊が浦賀沖から退去するまで二人は黒船につきまとい何度も小舟で乗り付けて、様々な土産物を売りつけてちょっとした利益を得た。
特によく売れたのは竹光だった。
現在でも観光地で土産物として模造刀が売られているが、二人は江戸の竹細工師を回って大量の竹光を仕入れるとそれを小舟に載せて黒船にこぎ着け、水兵たちに土産物として売りつけた。
物珍しさから竹光は飛ぶようにして売れた。
この時、二人は最初の日に売り込んだスイカの値つけから、おおよその相場のあたりをつけたという。
また、積極的に物々交換を申し込み、黒船の水兵から水兵服や時計やナイフ、ピストル、書籍などを手に入れている。
当時の黒船危機を狂歌は、
「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」
と詠んだが、そうした危機の中にあっても、果敢に黒船に挑んだ二人の挑戦は特筆すべきことだろう。
また、この時の会話から二人は片言ながらも英会話を学んだとされる。
竹光と交換に、黒船から様々な物資をかっぱいだ二人の活躍は江戸の町で口づてに評判となり、多くの人々の目にとまることになった。
体当りで黒船に土産物を売り込んだことが、少しばかり頭のできの良い手明槍の倅でしかなかった二人を歴史の表舞台に引き上げる最初の一歩となったのである。
そして、この一件から分かる通り、兼光、倫太郎は共に開国論者であった。
これは攘夷思想が盛り上がりを見せた当時の世相からして、異例のことであった。
兼光は開国論からさらに一歩踏み込んで、和親関係の構築と海外貿易構想をこの頃から温めていたとされている。
後年、兼光が海外へ進出する際に、この時の経験は大きく役立つことになる。
だが、この時の二人はまだ14歳の青二才であり、江戸の佐賀藩邸に呼び出された二人は江戸家老から大目玉を食らうことになる。
一応、即座に処罰とはならず、黒船から得た品物を見せたところ処分保留となったようである。
しかし、以前から素行が悪く奇行が目立った倫太郎は赦されず、申し開きのため佐賀に戻ることになり、江戸には兼光のみが残ることになる。
その後、兼光は当初の目的である江戸遊学を戻ったが、剣術を学ぶために当時評判であった北辰一刀流の桶町千葉道場の門を叩くことになった。
そこで、兼光が運命を出会いを果たすことになる。
明治維新に至る武力倒幕の原動力となった薩長同盟の立役者、坂本龍馬が剣の修行に汗を流していたのである。
千葉道場では、龍馬と兼光の関係は千葉道場の先輩と後輩に過ぎなかったが、竹光を黒船に売りつけた兼光の冒険譚は既に千葉道場に伝わっており、龍馬は兼光に興味をもったようである。
剣の腕前はからきしだが、弁が立ち、度胸のある兼光を龍馬は可愛がったようである。
その後、二人は揃って革新的な洋学者佐久間象山の主催する「五月塾」の門を叩いて、砲術・兵学を学んでいる。
この時、兼光は後に松下村塾を開く吉田松陰(当時は寅次郎)とも知遇を得ている。
松陰は佐久間象山の門弟であり、特に象山から高く評価されていた高弟であった。
だが、兼光はしつこく黒船について聞き出そうとする松蔭に閉口したとされる。
松蔭は再びやってくる黒船に乗り込み密出国を企てていたのである。
兼光はそれに気づいており、繰り返し軽挙妄動を慎むように警告したが、松蔭からは一顧だにされなかったようである。
翌年、1854年に再び浦賀沖に黒船が現れた時、松蔭は密出国を試みて失敗し、逮捕された。
松蔭は長州藩に送られ、蟄居となり、やがて松下村塾を開くことになる。
それはそれとして、そのとばっちりで佐久間象山は伝馬町牢屋敷に入獄する羽目となり、松代で蟄居となった。もちろん「五月塾」も閉鎖であり、兼光が象山の元で学ぶことができたのは1年足らずであった。
ただし、兼光は後年、象山の5月塾での出来事を「黄金の日々」と感慨深い振り返っており、短いながらも得たものは大きかったようである。
何しろ、この時、佐久間象山の元に集った人材は、何れも幕末、明治維新、明治政府において活躍する多士済々が揃っていた。坂本龍馬や吉田松陰については言うまでもないだろう。
だが、その黄金の日々からは松蔭の名前は丁寧に省かれることになる。
なぜならば、取り調べを受けた松蔭の口から兼光の名前も出たことで、兼光もまた象山と共に伝馬町牢屋敷に入獄する羽目になったからである。
幸いにも嫌疑はすぐに晴れたが、佐賀藩から帰国命令が出たため、兼光の江戸遊学は一年と少々で終わることになった。
兼光の吉田松陰に対する評価が恐ろしく低いのはこのためである。
なお、兼光は帰国の日まで短い猶予の中で、ジョン万次郎から聴講を受けるなど、外国知識の習得に努めた。
ジョン万次郎の聴講は坂本龍馬も受けているが、龍馬もこの時期は基本的に攘夷論者であった。
その後の活動の中で龍馬は開国論へと変わっていくことになるが、最初から開国論者であった兼光とは、この時期、反りが合わないものがあったらしい。
そのため、兼光の佐賀帰国により、一度縁が切れることになった。
二人が再び出会うのは血風吹きすさぶ1862年の京都となる。
その後、坂本龍馬に京都で再会するまでの8年間、兼光は佐賀で過ごすことになる。
松蔭のとばっちりを受け、遊学終了前に帰国する羽目になった兼光であったが、周囲の期待は未だに大きなものがあった。
現代風に表現すれば、東京大学を途中で休学して故郷に戻った地元の星と言ったところだろうか。
帰国後、兼光はすぐに父親の兼望と同じく大砲製造に係ることになる。
黒船来航後、沿岸防備が特に叫ばれた時期であることから、これはエリートコースと言っても良いだろう。
ここで兼光は先に帰国していた倫太郎と再会することになる。
再会した二人が大砲製造の傍らに始めたのが、洋式銃のコピーであった。
サンプルは既にあった。
黒船来航の際に、物々交換で得たピストルである。
これは、Smith & Wessonが1857年に世界で最初に発売した22口径の金属薬莢を使った装弾数5発のリボルバー拳銃『Model1』だった・・・とするのが、長い間の定説だった。
これは倫太郎自身が証言していたことなので、長期間に渡り支持されてきた。
しかし、黒船来航時(1853年)に1857年発売のModel1を入手することは不可能であり、倫太郎の記憶違いというのが近年の定説である。
そうなるとコピーした元ネタが何か全く不明であり、全くのオリジナルということになりかねず、Model1と酷似したメカニズムやデザインについて全く説明不能となるため、その界隈では論争が続いている。
ここでは説明の煩雑化を避けるため、長く信じられてきた俗説を用いて話をすすめる。
『Model1』のコピーは比較的スムーズに進み、1856年には第1号が完成して、藩主の鍋島直正にお披露目する機会に恵まれている。
お手本があったとはいえ、僅か2年程度で当時の最新鋭小火器といって差し支えないリムファイア式金属薬莢を使用するシングルアクション・リボルバー拳銃をフルコピーしたことは高く評価されるべきだろう。
コピーされた『Model1』は佐賀式ピストール、佐賀式拳銃と名付けられ、直ちに藩の直営工場で生産が開始されている。
幕末の戦場において大量に出回ったSmith & Wessonの『Model1』はそのほとんどが佐賀藩で密造されたコピー製品であることが現在ではわかっている。
坂本龍馬が使っていたピストルも、実は違法コピーされた佐賀式ピストールであった。
この成功で、洋式銃の製造について藩主から公認を得た二人が次に取り掛かったのは、歩兵用ライフル銃の製造であった。
しかも、二人が目指したのは元込め式の連発銃だった。
これは冷静に考えると無謀としか言いようがない挑戦であった。
歩兵用ライフル銃は欧米列強がその開発に鎬を削る最新技術の塊である。当時列強各国が装備していた銃でさえ、前装式のミニエー銃方式が大半であった。
元込め式の連発可能なライフル銃といえば、既に世界初のボルトアクションライフルであるドライゼ銃があったが、これはまだ極東の日本には入ってきていない。
もしかすると辛うじて文献資料があったかもしれないが、ドライゼ銃の情報を二人は知らなかったと考えるのが打倒だろう。
ドライゼ銃の圧倒的な連射速度に驚いたフランス軍が同じく元込め式のシャスポー銃を採用するのが1866年のことだった。エンフィールド銃を元込め式に改造したイギリスのスナイドル銃も同じく1866年の制式化である。
どちらも、まだ1850年代の日本には存在しないものである。
極東の果ての、その又片隅にある佐賀藩が、如何に日本の近代工業化の先端を走る土地であったとしても、二人が目指したところは世界水準を遥かに超えるところにあった。
もちろん手本となるものなど何一つないところからの出発である。
二人が手本に出来たのは黒船の艦上で見たアメリカ海軍水兵が持っていたスプリングフィールド銃であったが、知っているのは外見だけであり分解して構造を確認出来たわけではない。
もしかすると出島にオランダ人が持ち込んだ洋式銃があったかもしれないが、当時のオランダ軍が装備していたのは、旧式のゲーベル銃であった。
だが、1860年1月、二人は日本初のボルトアクション式ライフルの製造に成功してしまう。
作動機構は回転ボルトアクション方式で、今日ではモーゼル方式と呼ばれる形式を採用していた。薬莢は蝋で耐水性を高めた紙である。
開発において最大の困難は幕末日本の冶金技術と精密加工技術の低さであった。
だが、二人はそれを逆手にとった。
即ち、有効射程距離を短くとり、射撃精度を意図的に低くすることで、未熟な冶金技術や加工技術を補ったのである。
こうした設計手法で成功した有名な例といえば、共産圏の代表的なアサルトライフルAK-47であろう。
実際、二人が造った洋式銃は部品の精度を意図的に低く設定しており、部品同士のクリアランスがガバガバであった。
それ故に泥田に沈めたあとでも動作可能であり、武人の蛮用に耐える優れた銃であった。
また、部品同士の精度を低くても互換性を保てる工夫が施されており、部品が破損して直ぐに交換可能で、別の銃から部品を剥ぎ取ることで前線での修理さえ可能であった。
これは職人が1丁ずつ部品をすりあわせて造っていた当時の軍用ライフル銃としては全く考えられないことであり、エポックメイキングであったと言えよう。
遠距離での命中精度はドライゼ銃やシャスポー銃に遥かに及ばなかったが、最大射程距離で撃ち合うことは実用上ほとんどなく、実際の戦闘は近距離でおきていたことを考えれば必要にして十分だった。
なお、開発にあたって具体的な作業は木原倫太郎が担当し、生田兼光は資材や予算の調達などを担当していた。後に東洋のエジソンと称される倫太郎と二人三脚で日本有数の財閥を作り上げた兼光の役割分担が垣間見える。
100年以上も時代を先取りした革命的な日本初の洋式銃はこうして完成した。
明治維新後も、そのあまりの革新性故に、二人が造った銃はアサルトライフル登場によりボルトアクションライフルが歩兵の主要火器から外れるまで、改良を重ねて制式採用され続けるほどだった。
問題が一つあるとすれば、それは造った二人がほぼ無名の存在だったことである。
Smith & Wessonの『Model1』をコピーした実績はあったけれども、この新式銃にはお手本となるものなどなく、二人が一から考案したものであった。
この時、二人は二十歳すぎたばかりの青年であり、政治的な後ろ盾の類などあろうはずもない。
また、佐賀藩主鍋島直正は海外事情に通じる英明な君主であったが、蘭癖と呼ばれるほど舶来品を珍重する癖があった。
海外の優れた文物を取り入れようとするあまり、国内のものは劣ったものと考えがちであったと言える。
これは新式銃開発そのものに比肩する大問題であった。
いつの時代も、決定権をもつ上役をどのように説得するのか、現場の人間の頭を悩ませるものである。
Smith & Wessonの『Model1』をコピーしたときは、海外の最新兵器という看板が使えたが、二人が一から作り上げた国産洋式銃では無理だった。
しかし、新式銃を世に送り出すには、直正の絶対的な支持と支援が必要不可欠である。
そこで、兼光は苦肉の策を講じることになる。
出島へ来日中のとある親日オランダ海軍少佐が、日本の現状を憂いてオランダ軍が開発中の最新式銃の図面と製造方法を憂国の志に燃える日本人青年に託したという作り話をでっち上げたのである。
そのオランダ海軍少佐から名前をとって、
ロマンシング海軍少佐が考案した佐賀藩の新式ライフル銃=ロマンシング・佐賀一号銃
が、藩主直正にお披露目されたのは、1860年1月10日のことであった。
戊辰戦争の8年前のことである。