プロローグ
―――そのとき私は何も考えていなかったんだろう。
ある日、私は大きな事故に遭った。
それはそれは凄惨な事故だった。
その場に居合わせた者は皆その場に立ち止まり、ある者は唖然とし、ある者は目を覆い、ある者はその場に泣き崩れた。
そして私は、その場で起きたことを傍観者の位置から眺め、当事者の立場から嘆息した。
「…何もこんな所で……」
茜色に染まった交差点。大量の自動車が静止したその場所で、無機質な真黒いアスファルトに生気を失った真紅の液体が染み渡っていく。
そのとき私はただ立ち尽くしてそれを眺めていた。
四月も終わるというこの時期に、私は季節外れの書き入れ時を迎えていた。
小ぢんまりとした事務机には書類束が山と積まれ、納入済みの判を押された領収書はクリアファイルから溢れ出し、机の上に置かれた灰皿は文字通り灰とその根源によって埋め尽くされていた。
「もう嫌だ」
呟いて今し方読み終えた書類を堆い書類の山に丁寧に積み重ねた。
両の手をだらんとさせ、背もたれに身を預ける。
椅子がキィ、と小さな悲鳴を上げた。
「もう、いい。暫く何も考えたくない」
一時休憩。
さすがに限界だった。
仕事に、その事後処理としての書類の片付けに追われ、ここ二週間まともに家に戻っていない。それどころかまともに休眠を取ってもいない。この四日間の睡眠時間を合わせても常の一日分の睡眠時間にも満たないときている。
それでは幾らなんでも無茶が過ぎるというものだ。
「…………あぁ、何も考えないのは無理か」
目を閉じると無意識に数字と未納の取引先の名前が頭に浮かんでくる。なんともやるせない。
「………………………………………………」
数秒瞳を閉じていると、それでも心は空になっていった。
それから一分と経たずに深い眠りに陥っていた。