箱庭
私は再び、路上で泥遊びをしている子供を見かけた。
これも一種の異常気象なのだろうか、二週間も降り続いた雨が急に上がって、逆に強い日差しが戻ってきた昼下がりだった。これはつかの間の晴れ間だ、と予報されている。誰も彼もがまた雨が降り始めるまでに用事を済まそうと外を忙しく動き回っている。
でもなぜ、子供まで?
目の前の女の子も段ボールの箱にせっせと土を詰め込んでいる。
この段ボール箱、1メートル四方はあって、比較的浅く蓋はない。ようやく小学校に上がったばかりという子が扱うには少々大き過ぎる感じで、彼女自身がそのまま入れそうなサイズである。
実は、不思議なことに同じような子供をさっきからもう、何人も見ているのだ。小学校の宿題なのか、それとも今、子供たちの間で流行っている遊びなのだろうか?
これまで黙って通り過ぎてきたが、今度は話しかけてみることにした。
少女は私が近づいているのには全く気付かず、自分の仕事に集中している。
彼女は庭の花壇から土を運んできては段ボールの底に敷き詰め、上からジョロで水をかけていた。さらにその花壇に咲く花を乱暴に掘り起こしては箱の中に植えているようだ。すでにたくさんの草や花、そして小さな木までがごちゃ混ぜに詰め込まれていた。
どうやら箱庭を作っているようである。
私も子供の頃、同じように遊んだ記憶がかすかに残っていた。タンポポなど道端に咲いていた花を引っこ抜いてきて植え、そこに蟻やバッタを集め、小さな自分だけの世界を作って満足していたものだった。
しかし、今の子が同じことをしているのは今日、初めて見た。
「何をして遊んでいるの?」
少女はあまりにも自分の世界に入り込んでいたのだろう、私の声にも気づかず黙々と手を動かしている。しかし、箱に私の影が掛かったのでようやく邪魔者の存在に気づいて振り向いた。
「何をして遊んでいるの?」
私は繰り返した。
「箱庭を作っているの」
ほんの小さな子が「箱庭」という言葉を知っているのに、また驚いた。
「そう、箱庭を作っているのか。面白い?」
「面白いとは言えないわね。それに、遊んでいるんじゃないのよ」
その子は僕の間違いを指摘するように、きっぱりと答えた。
僕はその大人のような口ぶりに驚いた。彼女は今、重要な仕事をしていると考えているのだ。そして、お喋りをしながらも手は休めず、箱庭の草にジョロで水をかけ続けていた。
「あまりたくさん水をかけると箱が破れてしまうよ」
段ボール箱はすでにかなりの水を含んでいるようで、このままでは箱が破れてしまいかねない。破れると道路に泥や草花が散らかり、掃除も大変で、女の子は家の人に怒られるだろう。
ところが少女は元気な声で言ったのである。
「お花には水がいっぱいいるのよ。それにこの箱は水に濡れても大丈夫、って言われたの」
よく見ると確かに水はほとんど浸み出していない。特別製の段ボールなのだろうか?
「ほんとだね。水をたっぷりもらってお花さんたちも喜んでいるわけだ」
段ボールの中の草花はしおれもせず、気のせいか、とても生き生きしているようだ。咲いている花を無頓着に引き抜いてきたにしては元気に見える。
「虫や蝶々も一緒にいればいいのにね」
「もう直ぐやってくるわよ」
少女がそう言った途端、どこからともなくヒラヒラと蝶が飛んできて箱庭の中の花にとまった。花の蜜を吸おうとしているようだ。私が作った箱庭には決して蝶など飛んでこなかったのに。それによく見ると蟻も箱庭の土の上をゾロゾロ歩いている。さっきまで水浸しだった土もほどよく乾いている。
「とってもすてきな箱庭だね。虫さんも寄ってきて。お嬢ちゃんもこんなかわいい箱庭に入って遊びたいんじゃないの」
僕は白昼夢のように、この少女が不思議の国のアリスのように小さく縮んで箱庭に入り、花と並んで立っている情景を想像してしまった。街のあちこちに出来上がりつつあるたくさんの箱庭が一つ一つ生き物を運ぶ小さな世界になるかもしれないと。それほどこの箱庭はよくできているのだ。
しかし僕の言葉はなぜか女の子を悲しませてしまったようである。女の子はうなだれて小さくつぶやいた。
「それは無理なの」
オヤオヤ、今の子供は夢と現実の違いをきちんとわきまえているようなのだ。
「どうしてだい?草花があって、いろんな生き物がいて、そこに人間が住んで始めて素敵な世界が出来上がるんだよ」
「でも……でも、人間は別だって言われたの」
女の子の不思議な言葉に私は思わず聞き返した。
「誰から言われたの?」
「今度は、人間はダメだって」
少女は僕の問いには気づかず、ただ悲しく繰り返すだけだった。
そのとき、私は頭に雨粒がポツリと当るのを感じた。見上げると、空にはいつのまにか、分厚く真っ黒な雲が広がっていた。
予報の通り、また雨が降り始めた。