準々決勝「バックネット裏の珍事」
もうすぐ50歳になる身体には、長時間の運転業務はこたえる。特に今夏の猛暑は、車内の冷房との温度差が激しく、体調が優れなかった。
9月も終わりを告げ、ようやく過ごしやすくなった頃、珍しく健一から電話が掛かってきた。
「今度の週末は、いつが非番なの?」
「土曜日だけど、急にどうした?」
「その日は阪神戦の中継がNHKであるから、見ててよ。例の人がバックネット裏に現れるかもよ」
それだけを告げると、電話を切ってしまった。
あの男は高校野球のファンで東京在住だし、プロ野球の一試合を見るために、わざわざ甲子園へ足を運ぶのだろうか。そもそも息子は、どこからその情報を仕入れたのか。不思議に思いながらも、本来ならば来春の高校野球まで拝むことのできない恩人の出現を、うれしく思い心が弾んだ。
土曜日の午後2時、試合開始の時刻にチャンネルを合わせた。
(本当だ、あの男が来ている……)
お馴染みのファッションに身を包み、いつもの最前列の同じ席に座っている。
「もしもし、お前の言ったとおり、テレビに映っているよ。どうしてあの男の行動が分かったんだ?」
すぐさま電話を取り、興奮気味に息子へ問い掛けた。
「まあ落ち着いて見ててよ、お楽しみはこれからなんだから……」
意味深な言葉を残し、一方的に電話は切られた。
トイレを済ませテレビ画面を見やると、思わず二度見をし、「えー!!」と驚きの声を上げてしまった。
なんと、そっくり同じ配色の黄色と赤のラガーシャツ男が、もう一人増えて二人並んで座っているではないか……確かさっきまでのその座席には、別の服装をした男が座っていたはずなのだが……。
ラガーシャツ男の増殖はそれだけにとどまらなかった。阪神と広島の攻守が入れ替わる度に、ラガーシャツ男は細胞分裂をするがごとく、バックネット裏を次々に占拠していった。
最終的には画面内で確認できる範囲において、12人に達した。
7回裏阪神の攻撃前にジェット風船が打ち上げられた後、再び電話が掛かってきた。
「びっくりしただろう、俺がアイデアを出し、大学の友達やバイト仲間と協力してやったんだ。最前列の左端で今、手を振っているのが俺だよ、分かる?」
「ああ、分かるよ」
「それから、少し早いけど誕生日おめでとう。これからも安全に気を付けて運転の仕事をして下さい。いつも仕送りありがとうございます」
そういえば1週間後には、ちょうど50歳の大台を迎える。息子に私の誕生日を祝ってもらうなんて、10年ぶりくらいだろうか。最後の年には、折り紙で作った安全運転のお守りをくれたっけ……そのお守りは今も、売上金を納めるセカンドバックの奥底に、大切にしまってある。
息子が就職するまでは、もう一踏ん張りしなければ……先日の健康診断で医者から指摘された肝臓の数値を気に掛け、2本目の缶ビールは開けずに我慢した。