1回戦「バックネット裏の気になる男」
「オヤジ、この人のこと知ってる?」
帰省中の健一が、夏の甲子園の熱戦を映し出すテレビ画面を指差した。
健一の指し示すバックネット裏の観客席へ目を凝らすと、鮮やかな蛍光色のキャップを被り、濃紺と赤のラガーシャツを着た男が座っている。
「この人、ちょっとした有名人なんだぜ。10年以上も前から春、夏ともに甲子園の高校野球を全試合欠かさず、同じ座席で観戦しているんだ」
「いやー、毎年見てはいるが、そこまでは気付かなかったな」
「これから注意して見ててよ。毎試合、色違いのラガーシャツに着替えたりもするから」
「最前列は日差しを遮る物もなく、汗もかくだろうし着替えもするだろうよ」
「いや、そうじゃないんだ。暑くない春の大会でも着替えてるから」
「なぜわざわざ、そんなことをする必要がある?」
「さあね、派手な帽子といい、目立ちたいんだろうよ。実際、話題になって週刊誌で特集されて、インタビューを受けていたし……」
第3試合が始まり映し出された画面には、先ほどとは違う緑と白のラガーシャツを着た男が座っている。
「本当だ、世の中には変わった奴もいるもんだ」
健一と顔を見合わせ、大いに笑い合った。二人でこんなに楽しく語り合ったのは、いつ以来だろう。
健一は中学生になった頃から反抗期に入り、同じ食卓で飯を食うことさえもなくなっていたのに……この変わり者の男が、親子の仲を取り持ってくれた。どこの誰だかは知らないけれど、感謝したい気持ちになり、画面に映る男に向かって手にした缶ビールを捧げ、乾杯の真似事をした。
息子との長年の冷戦状態が解け、上機嫌となった私は、この男の話題をあちこちで喋りまくった。勤務しているタクシー会社の控え室で、同僚に披露したのはもちろんのこと、乗客にも世間話のきっかけとして話を向けた。
「お客さん、甲子園のバックネット裏で、全試合観戦している男のこと御存知ですか?」
我が社のタクシーには乗客サービスの一環として、後部座席前に8インチのワンセグテレビが備え付けられている。高校野球中継にチャンネルを合わせた客には、待ってましたとばかりに声を掛けた。
「知ってるよ、ラガーさんって呼ばれている人だろう。大会期間中は毎晩、入場門前で野宿をして座席を確保しているらしいぜ」
驚いたことに半数以上の客が、あの男の存在を知っており、さらには詳しい情報まで教えてくれた。
「実家は印刷屋をしており、甲子園の期間中は店を親任せにして観戦している」、「他にも30人を超える観戦仲間が野宿をして並び、交代で銭湯やコインランドリーへ行っている」
乗客から仕入れた裏話を追加して、また次の乗客に話してきかせた。
健一はお盆が終わると大学のある大阪へ帰って行ったが、それまでの間、客とのやり取りをネタに夕食時に楽しく語り合った。息子とこんなにも早く酒を酌み交わす日々がおとずれようとは……すべてはあの男のおかげ。いつの日か甲子園へ観戦に行き、礼を述べたいと思った。