前編
その日、俺が教室に着いたのは、朝のホームルームがすでに終わった後だった。
「よ、孝昭。今日は随分重役出勤だな」
自分の席に座るなり、中学時代からの友人・鈴木和馬がむかつく程にやついた表情で俺の元にやってくる。
「悪い。今はお前の軽口に付き合う気にはなれないんだ」
主に精神的に、今俺は非常に疲れを感じていた。
「なんだ、なんだ。本格的にお疲れモードじゃねーか。どうやら、昨晩は大分お楽しみだったようで」
「死ね」
「ひどっ! 確かに、お前のテンションも考えずに悪ふざけしたオレも悪かったけど、さすがにそれはないだろ」
「そうだな。今のは俺が悪かった。朝っぱらから災難に遭って気が立ってたんだ」
「災難? それもその災難が原因か?」
言いながら和馬が、湿布の張られた俺の右手を見る。
「あぁ。教室に来る前に保健室に行って張ってもらった」
遅刻の理由はそこにあった。なので、担任の方には武井先生から連絡が行っているはずだ。
「うぉ! 朝から保健室で美奈子ちゃんと二人きりか。羨ましいな。このー。どんな治療してもらったんだ?」
「うせろ、ゲスが」
「冗談。冗談だからそんな冷たい眼差しでオレを見ないでくれ。お前のその目はマジで怖い」
「知るか。自業自得だ。たく、人が真面目に話してるって言うのに」
こっちは気が立っている上に疲れているのだから、冗句は程々にしてもらいたい。
ちなみに、美奈子ちゃんとは武井先生の下の名前で、彼女の事をそう呼ぶ生徒は実は少なくない。しかし、本人の前でそう呼ぶともれなく注意されるので、ほとんどの生徒が影でそう呼んでいるだけという事が多い。まぁ、中には和馬のように、注意されても気にせずに呼ぶ強者もいるが。
「で、結局のところ、その怪我の理由はなんなんだ? 登校中に手首怪我するなんて普通ないだろ」
「それ、武井先生にも言われたよ。ま、簡単に言えば、階段で突き飛ばされて落ちそうになったから、手擦りを掴んでそれを防いだ結果手首を捻った、ってわけなんだけど」
「突き飛ばされたって……。痴漢? もしくは、覗き? ――ぐは!」
ムカついたので、とりあえず一発お腹にお見舞いしておく。
「すみませんでした。マジで」
「なんもしてねーよ。ただ目の前を歩いてた子が足を滑らせたから、それを受け止めただけで……」
「その時に変なとこ触ったんじゃねーの?」
「触ってない――と思う。というか、もし触ってたとしてもそれは不可抗力であって俺のせいじゃないだろ」
そんな事で気分を害されては、こちらも堪ったものじゃない。
「まぁ、客観的に考えればそうかもな。だけど、当人はそう思わないかもしれないし、あっちも無意識の行動だったかもしれない。なんにせよ、お前はツイてるって話だ」
「はぁ!? どこが? 突き飛ばされて更に怪我までしたんだぞ」
そこは断固抗議をする。
「階段で足を滑らせた女の子が、たまたま後ろを歩いてたお前の胸の中に納まる。くー。そのシチュエーション羨まし過ぎるぜ」
「……羨ましいのはお前の頭だ。ドアホ」
とはいえ、決してこうなりたいとは思わないが。
「さすが〝ロマンティック症候群〟。そんなシチュエーション、日常茶飯事って事か?」
「言っとくけど、それ言ってるの、お前だけだからな」
和馬曰く俺の体質は病気らしい。ロマンティックなイベントに遭いやすい病気。それが〝ロマンティック症候群〟――のようだ。
病気というのはおおげさな表現だが、確かに自分でも自身がそういう事に遭いやすい体質である事は自覚している。とはいえ、遭遇する事といえば今朝のような本当に些細な出来事ばかりで、頻度こそそれなりに多いがだからどうという類の話である。
「あー。オレも一度でいいから、階段で助けるとか曲がり角でぶつかるとかやってみてー」
「そんなに言うならやってこいよ。曲がり角を曲がってきた女の子に抱き着けば、速攻で夢が叶うぞ」
「夢の後に待ってるのは警察沙汰っていう地獄だけどな。てか、分かってないな。そういうのは偶然だからこそ価値があるんじゃないか。これだから勝ち組は」
「さいですか」
正直な話、もの凄くどうでもいい。それよりも今の俺には目下思考中の懸案事項があった。それは――
「どうするかな、ノート」
怪我をした箇所は利き手の手首。全く板書出来ないというわけではないが、おそらく今日一日は待つまい。ならば、俺の取るべき手段は一つ。
「小雪さん、小雪さん」
「なんだい、孝昭君」
隣の席の片桐小雪は、名前の通り白い柔肌を持つクラスきっての美人である。容姿こそ黒い長髪の似合うクールビューティだが、その実態は非常にノリのいい素敵女子だったりする。
「というわけで、今日一日のノートのコピーを明日以降に頂けると有り難い」
「いいけど高いよ」
俺たちの会話を聞いていた事を前提に話を振ってみたが、小雪はなんの引っ掛かりもなくすんなりと言葉を返してきた。この辺りも俺が彼女の事を気に入っている理由の一つだ。
「いくら?」
「エスプレッソ一杯で手を打ちましょう」
「OK。交渉成立だな。今日だったら俺バイト入ってるけど?」
「うーん。今日はパス。近い内に行くよ。もちろん孝昭君がバイト入ってる時に」
「了解」
よし。これで今日一日の懸念は消えた。後は板書しなくてよくなった授業中をどう過ごすかだが。
「あのー」
「ん?」
声のした方を見ると、そこはまだ和馬が立っていた。
「何してるんだ? もうすぐ先生来るぞ」
「おまっ! いえ、なんでもありません。おっしゃる通りで」
なぜか肩を落として自分の席に向かう和馬。その姿を目で追いながら俺は一人首を傾げる。
なんで凹んでいるんだ? あいつ。
俺がまともに授業を受けなくても時間は進み、そして授業は終わる。
ノートを一切取らなくていいというのは、楽な用で実際の所しんどい。やる事がないので眠たくなるが、寝たら確実に起こされるのでそれも出来ない。先生に、ではない。隣の席の真面目さんに、だ。
「ふわぁー……」
大きく伸びをし、天井に眠気を放出する。
いや、当然ながら、本当に放出しているわけではない。あくまでも、そういう気分というだけだ。
「うふふ。お疲れ様」
俺のそんな様に、小雪が口を押えて笑う。
「なんか悪いな。俺だけ楽しちゃって」
「いいよ、コピーするだけならそんなに苦じゃないし。それよりちゃんと治しなさいよ、その手」
「分かってるって」
武井先生は治るまで二・三日は掛かると言っていたけど、字を書くくらいなら一晩寝て起きればなんとかなるだろう、多分。さすがに二日続けてノートのコピーをもらうのは気が引ける。
「にしても、孝昭君の体質って本当に厄介よね」
「ん? あぁ。俺自身迷惑してるよ」
今日は怪我までしたし。
「私の言ってるのはそういう事じゃないんだけどなぁ」
「それってどういう――」
「孝昭」
小雪に尋ねようとした俺の言葉は、突然の乱入者の声によって遮られた。
「学食行こうぜ」
ようやく板書を終えたらしい和馬が、いつものように俺を昼食に誘いに来た。高校に入ってから俺は、大抵和馬と学食に行きそこで昼食を済ましている。たまにお互いの予定が合わない事もあるが、本当にたまだ。
「あー。悪い。今日はパス。手こんなだし、購買のパンで済ますわ」
「ふーん。そっか。じゃあ、オレもそうしようかな」
「よし。なら、行くか」
立ち上がり、和馬と連れ立って教室を出る。
「お前と片桐さんって仲良いよなぁ」
廊下に出た所で和馬がふとそんな事を言う。
「なんだよ、藪から棒に」
「いや、お前達が話してるのを見てさ。ほら、片桐さんって高嶺の花じゃないけど、なんか話しかけ難い感じあるじゃん?」
「まぁ、否定はしないけど」
日頃気軽に会話をしている俺でさえ時より彼女にそういった感覚を抱くのだから、他の男子クラスメイトなんてその比じゃないだろう。とは言うものの、それも外見だけを見ればという話だが。
「きっかけはやはり例の〝アレ〟か?」
「……まぁな」
〝アレ〟の部分を強調している辺りに悪意を感じるが、事実そうなるので認めざるを得ない。
「出来れば二人の馴れ初めなんかを」
馴れ初めって……。完全に喧嘩売っているな、こいつ。
「そんな大層なものじゃねーよ」
「いいから教えろよ」
「ヤダ。なんでわざわざ俺が自分の暴露ネタをお前に話さなきゃならねぇんだよ」
しかも、よりにもよって和馬相手に。
「いいじゃん。減るもんじゃないし」
「ヤダ。というか、あまり大きな声で俺の体質の話すんなよ。なんかまるで俺が馬鹿みたいじゃんか」
「そうか? オレは素直に羨ましいけどな」
「それはお前が実際にそういう場面を目撃してるのと、お前が純粋な馬鹿だからだ」
「なるほど」
いやいや、そこは納得しちゃダメだろう。怒るか突っ込まないと……。
「あちゃー。遅かったか」
和馬が購買前に出来た人だかりを見て声を上げる。生徒たちがひしめき合うその光景は、さながらバーゲンセールのようだった。
とはいえ、今日が特別混み合っているわけではない。少し出遅れると、いつもこの調子だ。
「まぁ、物さえ選ばなければ問題ないだろ」
「だな」
意を決して人だかりに二人で突っ込む。
当然ながら、人だかりを形成する生徒達も自分の事で必死だから簡単には前に進ませてくれないが、そこは慣れとコツ、そして相手を顧みない心でもって半ば強引に進路を確保していく。途中で和馬とは逸れたけれど、そんなのはお構いなしだ。四・五人を掻き分けた所でようやく購買を視界に捉える。ここまで来れば後はもう一踏ん張り――なのだが……
「あー! もう! 何よ。全然前に進めないじゃない」
何やら目の前で女生徒が一人で騒いでいた。非常に残念な事に、俺はその声に聞き覚えがあった。というか、今朝聞いたばかりである。
これも和馬に言わせれば〝アレ〟の影響、なのだろうか。まぁ、それはともかくとして面倒事に巻き込まれる前に速やかにこの場を去るとしよう。
最低限の配慮をしながら、体を横へと移動していく。しかし、その行動がどうやら余計だったようだ。女生徒が振り向き、俺の存在に気づく。
「あ……」
時が止まり、そして動き出す。
「あ、あ、アンタ……」
「やぁ……」
最大限の作り笑いを浮かべ、気さくに片手を挙げる。右頬がぴくぴくと動いているのが、自分でも分かった。
「――ッ」
女生徒が大声を出そうと息を吸ったので、仕方なく彼女の口を塞がせてもらう。
やってから自分でも思い切った事をしたものだと思ったが、非常事態だったので仕方ない。
「んー……」
「騒がないで。ここで君が騒ぐと少々厄介な事になる。お互いに、ね?」
出来るだけ優しく聞こえるようにそう女生徒に語りかける。頷くのを待ってから、俺はそっと彼女の口を解放した。
「ぷふぁっ! 何すんのよ、アンタ!」
女生徒は怒りながらも、俺の忠告を聞き入れてくれたようでその声は控えめだった。結構、賢い子なのかもしれない。
「とりあえず先に目的を果たさない? 会話はその後って事で」
「……分かった」
渋々といった感じで頷いた女生徒に、俺はにこりと微笑んだ。
先程の反応を見る限り、きっと彼女なら俺の提案を了承してくれるだろうと思って取った行動だったが、実際その通りで本当に良かった。もし俺の予想が外れたら……多分、今日は昼飯抜きだったな。
女生徒を連れて人だかりを突破する。
一人連れながらなので多少苦労はしたが、難なく目的を果たして人だかりの外へ。
人だかりからある程度離れると、ようやく女生徒と向き合う。髪はセミロング。芯の強そうな目が特徴的な可愛らしい少女だ。どことなく誰かに似ているような気もするが……。
「ありがとう……」
「へ?」
怒っていたはずの女生徒からの突然のお礼に戸惑う。
「さっき助けてもらったし朝もお礼言ってなかったから」
「あぁ……。うん。どういたしまして」
なんか調子狂うな。さっきの様子からして、罵声を浴びせられるくらい覚悟していたんだけど……。
「じゃあ」
「え? ちょっと」
片手を上げて去っていこうとする女生徒を、俺は慌てて引き留める。
「何?」
「いや、〝何?〟じゃなくて。俺に何か言いたい事があったんじゃないの?」
「あー。もういいや。半分くらい逆恨みみたいなものだったし」
「半分?」
なら、もう半分はなんだろう?
「気にしないで。私も気にしない事にするから」
頬を赤らめながら女生徒がそんな台詞を吐く。
一体、俺は知らぬ間に彼女に何をやらかしたんだろう。和馬が言うようにどこか触ったか? だとしたら、これ以上この話題を引っ張るのはこちらにとっても得策ではない。
「じゃあ、今度こそ」
宣言通り、本当に今度こそ俺から去っていく女生徒。
「……あ」
ま、いいか。本人がいいって言っているんだし。
「俺も行くか」
一人呟き、教室に向かって歩き出す。
そう。一人。……って、あれ? 何か忘れているような……。
軽やかな鈴の音が店内に響き渡る。
「いらっしゃいませ」
その音と気配により来客を知った俺は、扉に向かって決して大き過ぎない声で半ば条件反射的にそう告げた。
「って、美鈴さんか……。お帰りなさい」
「なーに? その反応は? 私じゃご不満?」
「いえ、そういうわけじゃ……」
店内に入ってきた人物は橘美鈴さんといって、この店の店長である橘大二郎さんの一人娘だ。
「おい、美鈴。帰って早々ウチの店員に絡んでんじゃねーぞ」
カウンターの中から、美鈴さんに向かって店長の声が飛ぶ。
「何よ。今の私はお客様よ。別にお店の店員さんとお話したって構わないはずでしょ?」
「けっ。だったら、早く席に着きやがれ」
「まったく。ここの店は店長の躾がなってないわね。孝昭君、しっかりしてね。こうなったら、あなただけが頼りなんだから」
「うるせー。それがウチの売りだ」
店長と美鈴さんのやり取りに、俺だけではなくお客さん達も苦笑する。今店内にいるお客さんは皆常連さんばかりなので、最早この光景も見慣れたものなのだろう。
適当な席に腰を下ろした美鈴さんから注文を聞き、それを店長に伝える。そして、店長の煎れた物を美鈴さんの席に運ぶ。
「アメリカンになります」
「どうもありがとう。ところで、孝昭君右手どうかしたの?」
「え? あぁ……。ちょっと捻りまして」
勘付かれているものを、無理に隠しても仕方ないので正直に答える。
「そう。動作が少しぎこちなかったから気になって」
自分ではそんなつもりはなかったが、傍から見るとやはりいつもと違う動き・動かし方をしているのかもしれない。
「なんだ、孝昭。お前怪我してたのか?」
俺達の会話をしっかり聞いていたらしい店長が、カウンターから声を張って俺達の会話に入ってくる。
「ええ。まぁ、でもたいした事ありませんから大丈夫です」
「そう? なら、いいけど。お父さん! 今日は孝昭君に無理させない事! いい?」
娘の美鈴さんも、同じくカウンターに向けて声を張り上げる。
「分かってるって。てか、いつも無理なんてさせてねーよ」
「どうだか」
「いや、ホント大丈夫なんで。気遣わないで下さい」
再び親子喧嘩が始まりそうな勢いだったので、慌てて間に入る。ま、別に喧嘩と言ってもこの二人の場合はそれが本気なものではなく、一種のコミュニケーション手段と化しているため止める必要もないのだが、それでも自分が原因というのはやはりバツが悪い。
「にしても、手首、ね」
「なんです?」
「いえ、私は足首捻ったり突き指したりした事はあっても手首はまだないなぁって思って。どうやって捻ったの、それ?」
「え? その、あはは……」
本当の理由はとてもではないが言えないので、とりあえず笑ってみる。もちろん、そんな事でこの場が誤魔化せるとは思っていない。自然と零れ落ちた感じだ。
「まさか!? 私には言えないような方法で……」
「孝昭。そんなに暇なら仕事頼まれてくれ」
「あ、はい」
渡りに船とばかりに俺は逃げ込むようにカウンターへと向かった。
「もうお父さんたら」
「ここはホストクラブじゃないんだ。一人の客の相手ばかりさせてられるか」
「あら。チップなら払うわよ。私とのデート券っていうチップを」
「馬鹿言ってないでそれ飲んだらとっと家に引っ込め。孝昭悪いが表を軽く掃いてきてくれるか?」
「はい。行ってきます」
店長から箒とちり取りを受け取って店を後にする。
外に出ると、微かに肌寒さを覚えた。夕焼けが照らす街並みはどこか物寂しい。だが、こういう景色は嫌いではない。
「さて、やるか」
自分に言い聞かせるように呟き、俺は表を掃き始める。
掃除とは言うものの、実際の所は見栄えを整える程度のものなので、適当とまではいかないけれどそこまで神経質にならなくても良かったりする。
ある程度の所で掃除を切り上げ、ちり取りを手にする。腰を屈ませて集めたゴミをちり取りに掃き入れていく。
――その時だった。誰かが俺の側に立つ。いや、正確に言えば、そんな気配を感じた。
顔を上げる。
「すみません。今退きま――」
そこに立っていた人物を見て言葉が止まった。
「な、なんで……」
少女が驚きの表情で俺の顔を見る。
本日三度目の遭遇。偶然、ではないんだろうな、きっと。
「一度目は朝。登校中、駅の階段で足を滑らせたらたまたまあなたがすぐ後ろを歩いていて助けてくれた、と」
もしかしたらこのまま引き返してくれるかなぁという俺の淡い期待は見事に裏切られ、少女は当初の予定通りこうして店内に入り座席に着席したわけだ。そして、俺が注文を取り――今の台詞に繋がる。
「二度目はお昼。パンを買おうと購買前の人だかりに突っ込んだ結果後少しという所でその高い壁に阻まれた私を、これまたたまたま真後ろにいたあなたが助けてくれた、と」
「あのー、ご注文は?」
無駄と分かっていながら職務を全うしてする。
「そこまでならまぁ、偶然で済ませられる範囲かもしれない。でも、三度目はないわ。おかしいもの。偶然も三度続けば不自然よ」
「おー」
なんだか最後の言葉が何かの標語のようにきれいに収まっていたので、思わず声を上げて拍手してしまう。
「馬鹿にしてるの!?」
しかし、その行動が少女の逆鱗に触れたようだ。
「いや、そう言われても今回は君が勝手に来ただけだし」
「うっ!」
「大体その三つが偶然じゃなかったらなんだって言うんだ?」
「うっ!」
「ご注文は?」
ここぞとばかりに注文を取る。
「アイスコーヒー……」
「かしこまりました」
注文を恭しく受け賜り一旦カウンターに掃ける。
「店長、アイスコーヒー一つお願いします」
「それはいいが……」
店長の視線の先、そこには――
「うぉ!」
いつの間にかカウンター席に移動していた美鈴さんの姿が。しかも、何やらこちらをジト目で睨んでいる様子。
「なんですか?」
「別に……」
明らかに別に何もないという顔つきではないが、そこに突っ込むと藪蛇になりそうなので敢えて触れない事にした。
「ほれ」
店長がカウンターに置いたコップをお盆に乗せ、それを彼女の席へ持っていく。
「アイスコーヒーになります」
「え? あ、ありがとうございます……」
「では、ごゆっくり」
「え? あ」
相手に何か言わせる暇を与えず素早くその場を去りカウンターへ。
「いいの?」
「何がです?」
「彼女、寂しそうよ」
美鈴さんに言われて彼女の方を見ると、確かにアイスコーヒーを飲む姿が手持無沙汰そうではあった。
「いいも何も、元々知り合いじゃありませんから、俺達」
「そうなの? その割には仲良さげだったんだけど?」
「そうですか?」
再び彼女の方を向く。何やら向こうは向こうでこちらを窺っているようだった。正直、かなり挙動が怪しい。
「青春ねー」
「意味分かんないです」
「またまたー」
ほっぺたを突かれる意味も分からないです。
「そもそも美鈴さんは何も分かってないんですよ」
「何それ? 影のある男アピール? かっわいいー! もう! これ以上お姉さん惚れさせてどうするつもり?」
どこにどう興奮したのか分からないが、急に俺の頭を激しく撫で回す美鈴さん。
「止めて下さい」
「照れちゃって」
「ん!」
大きめの咳払い。
「お前らここがどこだが分かってるのか?」
「喫茶店でしょ?」
「そういう事じゃなくて……。まぁ、いい。とりあえず美鈴は家に、孝昭は仕事に戻ってくれ」
「しょうがないなぁ。では、そろそろ私はお暇させて頂きます」
椅子を後ろに引きながら、美鈴さんが帰宅の意を店長に伝える。
「じゃあ、孝昭君。引き続きお仕事頑張って」
去り際に俺の肩を二度叩いて、美鈴さんは裏口から居住スペースに入って行った。
本当に嵐のような人だ。
「帰ります」
「うぉ!」
突然背後から聞こえてきた声に思わずその場で飛び上がる。
「何?」
「いや」
彼女から伝票を貰いレジをうつ。
「五百円になります」
「はい」
差し出された五百円を受け取る。その時、一瞬二人の手が触れた。
「あっ」
少女はまるで熱い物に触れた時のそれのように、自分の手を慌てて引っ込めた。
それにしても大げさな反応だ。異性の店員と偶然手が触れる事なんてよくある事だろうに。少なくとも俺にとっては日常茶飯事である。
「じゃあ」
片手を不自然な動作で上げると、これまた不自然な動作で少女は扉に向かって歩き出した。何かもうその動きはぎくしゃくしていた。
「ありがとうございました」
軽やかな鈴の音が店内に響き、彼女の姿は店外へと消えていく。
〝ロマンティック症候群〟。確かに俺のこの体質はまるで一種の病気のようである。ただし、発症するのはいつも俺ではなく向こう。すでに出来た抗体の出来た俺はただ周りに菌をバラまくだけで、自らは常に傍観者気取り。




