第1話
僕と君が始めて出会ったのは去年の六月。
梅雨の中休みで、気持ちが悪いぐらい暑かった日。
その日の僕は予備校でぼんやりしていた。
英文法の質問をしてみたら少しはスッキリするかと思い講師を呼んでみたが、彼のぼさっとした説明は頭に入ってこない。
「はぁ、わかりました。」
僕は生返事で講師を机の前から追い出した。
僕は自分を諦めた。
こんな日はもうぼんやりするしかない。
そう決めた途端、なぜか無性に甘いものが食べたくなった。
昼飯に食べたチキン南蛮弁当のせいかもしれない。
異常に塩辛い味付けだったが、貧乏で腹ペコの僕に食物を残すという選択肢はないので、完食した。
普段僕は甘い物をとらない。だから家に帰っても甘い食べ物は何もない。
焼きそばを炒めるぐらいしかしない僕の家には砂糖すらない。
駅のコンビニでチョコレートかプリンを買おうかと思ったけどやめた。
せっかく甘い物が食べたいチャンスに恵まれたんだ。今日は奮発してケーキを買って帰ろう。
僕は田舎の専門学校を卒業した後、もう一度四年制大学に入るため上京してきて二浪している。
さすがに、今年は落とすわけにはいかない。
僕は家の近くの駅ビルに入っているケーキ屋で買うことにした。色々な店が入っているので、選び甲斐があると思ったからだ。
だが、三軒目のショーケースを覗いた時に失敗した事に気づく。
種類が多すぎてとてもじゃないが選べない。
しかも蒸し暑い平日の午後にケーキを物色している客は少なく、男一人で何分も店の前をうろつくのはなぜか気まずい。
「いらっしゃいませぇ。」
と、気のない店員の呼び込みの声も邪魔だ。
一通りビルに入ったケーキ屋を一周したが何も決まらなかった。
目星すらつけていない。
僕は自分の優柔不断さと居心地の悪さで嫌な気分になってきた。ケーキ一つでこんなに憂鬱になるとは・・・。
他のデパートに行こうかと思ったがどっと重い街をうろつきたくなかったし、行ったとしても結果は同じだろう。
僕は仕方なく自分に言い聞かせた。
一番出口に近い店のケーキの中から選ぶ。もしそこで買うことが出来なければ、コンビニ。
意気地なしは板チョコの刑だ。
出口に一番近い店の名はフレッシュフルーツケーキ アットホーム・ママ
なるほど、どのケーキもフルーツがたっぷり使われている。わりと大きめで派手な感じだ。
「いらっしゃいませ。」
僕は服を買う時も、CDを買う時も、本を買う時も、ハンバーガーを買う時も、店員の目は見ないし、会話もしない。嫌な客と思われても構わない。こっちだって嫌な店員だと思ってやる。うるさくて不適切なアドバイスしか出来ないくせに、やたら自分のセンスがいい事をアピールしたがる。
そんな奴は猿と同様だ。目を合わせちゃ、駄目だ。
でもその日は違った。
チキン南蛮弁当に塩以外の何かが入っていたのだろう。
僕はその日、チキン南蛮以外に有害なものを摂取していない。
「どれが一番人気ですか?」
しばらくケーキを睨んでいた僕は、気がつくと店員に話しかけていた。
店員は僕と同い年ぐらいだろうか。
顔のパーツがきちんと整っていて可愛いというよりは美人だ。
大きいアーモンド形の目、鷲鼻気味の高い鼻、柔らかそうではあるが肉のあまりついていない頬、小さめだが形の良い肉厚の唇“アットホーム・ママ”のわりには親しみやすい顔ではない。
この店員というのはそう、君のことだ。
君は大きい瞳を僕にぶつけてきて、沈黙した。
僕は話しかけたことを一瞬後悔したが、君の沈黙が解けると僕がいつも嫌っている様な店員じゃないことがすぐにわかった。
「人気・・・なのは一年を通してショートケーキです。
今の時期は売上が全体的に落ちますけど、トータルすると夏でも一番売れているのはやっぱりショートです。でも今は苺の季節じゃないので・・・お勧めはしません。あっ、私としてはです。」
僕は君が「○○ケーキです。」と、事務的に言うものだと思っていた。
「じゃあそれで。」と言うつもりだった僕は、面食らってしまった。
「じゃあそれで。」とは言えない一言を君が添えたからだ。
僕はますます悩んでしまったが、お勧めできないケーキを僕が買うのを阻止してくれた君に好感を持った。
しかし、ここでケーキを選ばなければいけないプレッシャーからはまだ開放されていない。
ショーケースをもう一度見渡す。
涼しそうなスイカとゼリーの入ったカップに目が止まった。ケーキじゃないが、この際もうなんでもいい。
「スイカはそろそろ旬ですよね?」
僕は少しドキドキしながら尋ねた。君はちょっと困った顔をして口を開く。
「はい、そろそろです。なので、まだ、今だと温室スイカです。
・・・このカップの三分の二にはゼリーが入っているだけで上のスイカは大きく見えますけど値段の割には入ってないというか、少なめです。もしスイカが食べたいなら、もう少ししてからスーパーで買った方が安くておいしいかもしれません。いえっ、もちろん今スイカが食べたいのならこのスイカはお勧めです。温室スイカ、甘いですよ。」
君は遠慮がちに、でもはっきりと、そこまで食べたいわけじゃないならスイカはやめろと店員とは思えない発言をした。僕はそこまでスイカが食べたいわけじゃなかったから、スイカを買うことはできない。
「じゃあ・・・何かお姉さんのお勧めはありますか?」
もうこう聞くしかなかった。
「私の、個人的なお勧めでいいんですか?」
僕も君もちょっとずつ笑顔になっていった。
「じゃあ、アップルパイです。りんごも旬じゃないですけど、甘く煮てるから私には季節での味の違いがわかりません。ちなみに工場で焼いているので焼きたてではないです。でもここのケーキの中では一番おいしいですよ。」
アップルパイなんかあったかな・・・僕はアップルパイを探した。
あった。
一番端っこだ。他のケーキはフルーツやクリーム、ゼリー等で華やかにデコレーションされているが、君のお勧めのアップルパイだけは堂々と地味だった。
「じゃあそれ、一つ下さい。」
「ありがとうございます。」
君は微笑んだ。
いや、笑った。
綺麗な顔が一瞬にして溶けて、“アットホーム・ママ”の代表選手みたいな笑顔だった。
この時、僕の心も一緒に笑った。
僕は一つじゃ悪いかな、とも思ったが二つはいらなかった。
あまりにも君が正直だから、僕も正直に必要な分だけ頼んだ。
君は笑顔でアップルパイを箱に包みながら僕に話しかける。
「地下にある焼き鳥屋のレバーはもっとお勧めですよ。おいしくて、安いんです。砂肝と軟骨もいいですけどやっぱりレバーです。」
これが僕と君の出会いだった。
その後、僕は会計を済ませるとエレベータで地下へ降りて焼き鳥屋のレバーと砂肝と悩んだけれど、軟骨も買った。