前世の夫が大好きな元90歳男爵令嬢は、王太子ルートからドロンしたい
森川光子、享年九十歳。
春の柔らかな陽射しが差し込む病室で清潔なベッドに横たわり、三人の息子と二人の娘をはじめとする大勢の親族に見守られながらの、安らかな最期だった。
目を閉じる間際、光子は穏やかな表情で「これでやっと、おじいさんに会えるわぁ」と言った。
ちなみに、十年前に同じ病院で息を引き取った光子の夫が、最期に彼女に宛てた言葉は「先に行って待っているからね」だった。
時を超えた二人の愛情深いそのやりとりに、話を聞かされていた看護師を含め、病室内にいる全員が涙を流した。
「夫婦二人、天国でお幸せに」と、みんなの気持ちが一つになったと言っても過言ではない。
光子としても、気掛かりは夫への惚気を綴った日記の行方くらいのもので、「七十年間書き溜めたあれを、子ども達に読まれてしまうのは恥ずかしいわね」と思いながら、それでも「自分は天国に向かうのだ」と信じて目を閉じた。
その時彼女の脳裏に浮かんでいたのは、夫と共に天国の花畑を歩く、幸せそうな自分の姿だったのだ。
しかしどういうわけだか、事態は思うようには進まなかったらしい。
「ここは……どこだい!?」
光子は反射的にそう叫んだが、彼女はここがシルヴァニア王国の王都に構えられたフォレスト男爵家の屋敷内であることを知っていた。
なぜなら、光子はフォレスト男爵家の第二子であるシャインとして、十六年間生きてきたからだ。
……そう、いわゆる〝異世界転生〟である。
「とにかく、一旦落ち着きましょうかね」
光子はゆっくりと息を吐き、自分自身に言い聞かせる。
常人であれば、突如として降って湧いた前世の記憶に慌てふためいたことだろう。
けれども光子は、かつて激動の時代に生まれ、多感な時期に戦争を体験し、そして戦後の混乱期を生き抜いたのだ。
たかが異世界転生ごときで、動じるような人間ではない。
「私の日本人離れしたカラフルな色合いの容姿と、屋敷の外に広がる街並みから考えると、ここは中世ヨーロッパの世界なのかねぇ。けれども、衛生面と治安の良さは九十歳の私が生きていた日本と変わらないし、何よりも公用語が日本語なのがねぇ……」
それらを踏まえて光子が出した答えは、「どうやらここは曾孫がよく遊んでいた〝乙女ゲーム〟とやらの世界らしい」というものだった。
「最近のマイブームなの!」と言って、前世の光子の病院の枕元で延々と乙女ゲームについて熱弁していた曾孫も、自分が教えた知識がまさかこんなところで活かされようとは、予想もしていなかっただろう。
「あの子は乙女ゲームのことを『気に入ったイケメンとの恋愛を楽しむゲームだよ!』と言っていたねぇ。ということは、私はこの世界で恋愛をしないといけないのかい?」
そう呟きながらも、実は光子にはこの世界での恋愛のお相手に心当たりがあった。
なんなら三日後には、そのお相手である王太子と学園外で初めて会う約束までしているほどで、すでに光子が『王太子ルート』をある程度進めてしまっていることは疑いようもなかった。
正直に言えば、ほんの数分前までの彼女は、王太子とのその約束を心から楽しみにしていたのだ。
しかし前世を思い出した今の光子にとって、曾孫と同年代の王太子が恋愛対象になるはずもない。
そうでなくとも、光子はいまだに前世の夫のことを一途に想い続けているのだから。
「おじいさん以外の人と恋愛するだなんて……。なんとかして、王太子ルートからドロンできないものかねぇ」
それから三日間、光子は考えに考えた。
けれども、ある程度良い雰囲気になってしまっている男性との関係を、後腐れなくなかったものにするアイディアなど浮かぶはずもない。
「ごめんなさい、おじいさん。これは浮気じゃないのよ、当たり前じゃない。だって、相手は赤ん坊に毛が生えたくらいの坊やなんだから。曾孫とのお出掛けみたいなものなのよ」
五人の子どもを育て上げ、九人の孫と十五人の曾孫の育児にも手を貸してきた光子にとって、それは嘘偽りのない本心だった。
それでもどこか夫への罪悪感を抱えながら、光子はしぶしぶ王太子との約束の場所へと向かう。
……いや、正確に言えば〝しぶしぶ〟ではない。
その時の光子は、実は少し浮き足立っていた。
もちろん、王太子との恋愛に前向きになったからではない。
「若いって素晴らしいわねぇ。どんなお洋服だって、素敵に着こなせるんだから」
ヒールの高い靴を履いているにもかかわらず、ふらつくことも痛むこともないその身体に、光子は歌さえ口ずさんでいた。
「若い頃、初めておじいさんとデートした時のことを思い出すわぁ。あの時のおじいさんはガチガチに緊張していて、待ち合わせ場所に現れた私を見るなり顔を真っ赤にしていたのよねぇ」
当然ながら、光子がそんなことを考えているだなんて、周囲の人間には知る由もない。
だから、くふくふと笑いながら上機嫌で待ち合わせ場所に現れた光子を見て、王太子であるセオドールがすっかり誤解してしまうのも、無理がないことだった。
「私とのデートを、そんなに楽しみにしてくれていたのか……!」
こうして、都合の良い勘違いのおかげで順調に滑り出したかに見えた光子とセオドールの初デートだったが、歯車が噛み合わなくなるのにそれほど時間は掛からなかった。
最初にセオドールが「おや?」と思ったのは、二人で海岸を歩いている時のこと。
まだ秋口だからと薄着でデートに臨んだセオドールが、海から流れ込む潮風の冷たさにふるりと肩を振るわせた瞬間、光子ははっとした表情を浮かべて、がさごそとバッグの中を漁り始めたのだ。
光子はそのままバッグから大判のストールを取り出すと、「身体を冷やしてはいけないわ」と言い、それをセオドールへと押し付けた。
どこからどう見ても女性物のストールをデートの最中に身につけるのは、セオドールとしては避けたかったのだが、対する光子の意思は固く、決して折れようとはしない。
なんとしてでもセオドールを温めようとする光子を前にして、ようやく彼は光子が貴族令嬢が持つには大きすぎるバッグを手にしていることに気がついた。
「どうしてデートにこれほどの大荷物が必要なんだ? 中身がちらりと見えたが、裁縫セットやキャンディまで入っていたぞ?」
セオドールは内心で、光子の大荷物に困惑していたのだけれど、残念ながら光子には伝わっていない。
その時の光子は、夫との海にまつわる思い出――冬の海辺を長時間散歩したせいで二人揃って体調を崩してしまったことや、子どもが生まれてからは毎年家族全員で海水浴に行っていたこと――を思い出すのに忙しくて、派手な花柄のストールを上半身に巻きつけた姿でこちらを見つめる男のことなど、視界にも入っていなかった。
そんな扱いを受けたセオドールは、この時点で「何かが違うな?」とは思っていた。
それでも、彼は脳内に芽生えた違和感に目を瞑り、光子と共に予定していたカフェへと足を運ぶ。
……ここで一応言っておくが、今回が光子とセオドールの初デートだとは言え、二人きりで過ごすこと自体が初めてなわけではない。
今までにも何度か、二人は学園内のサロンで語り合ったことがあるし、そこでお互いが「ひょっとして相手は自分に気があるのでは!?」と思うくらいに親密になったからこその、今日のデートなのだ。
だからセオドールは、目の前の彼女の大好物が焼き菓子であることを知っており、それゆえに王都でも人気のこのカフェをデートの目的地に選んだのである。
セオドールは、美味しいお菓子を前にして瞳を輝かせる彼女を見たかったし、彼女に喜んでほしかった。
さらに欲を言えば、「こんなに素敵なお店をご存知だなんて、さすがセオドール様♡」と褒められたかった。王太子であるとはいえ、彼も年頃の男なので。
しかしここでも、セオドールの当ては外れることになる。
「どうぞたくさん食べて? 若いんだから、お腹が空くでしょう?」
目の前のテーブルに並べられた色とりどりの焼き菓子を、どういうわけだか彼女はしきりに自分に食べさせようとしてくるのだ。
「いや、遠慮することはないぞ? 足りなければ追加で頼むこともできるのだから」
「ありがとうございます。でも、私はこのくらいで……。見ているだけで満足なので」
これは光子の本心で、今の光子にとって焼き菓子は〝自分が食べるもの〟ではなく〝子ども達に食べさせるもの〟という立ち位置だった。
「緊張しているわけではなさそうだが、どうしたんだ? ……おや? 追加の注文をしたということは、他に食べたいものがあるのか?」
セオドールはそう考えたものの、その後運ばれてきたドリアは光子の手によって彼の前へと差し出された。「男の子だからお米の方がいいでしょう?」との言葉と共に。
すでに満腹だったこともあり、セオドールは内心で「勘弁してくれ……!」と思ったのだけれど、しかしここでも彼の気持ちは光子に伝わらない。
その時の光子は、夫との喫茶店にまつわる思い出――若い頃に背伸びして行った純喫茶の落ち着いた雰囲気に二人してソワソワしたことや、定年後の夫と週に一度モーニングセットを食べに行くのを楽しみにしていたこと――を思い出すのに忙しくて、必死に食べ物を口に詰め込みながら恨めしげにこちらを見つめる男のことなど、視界にも入っていなかった。
この頃にはもう、セオドールは認めざるをえなかった。
「一生を共にするパートナーとして彼女を選ぶのは、考え直した方が良さそうだ」と。
その結果、セオドールはまだ辺りも明るいうちに「そろそろ帰ろうか」と言うことになった。
今朝の段階では今回のデートの締め括りとして、夜景が見えるスポットへと彼女を連れて行くつもりにしていたのだが、このままではまた派手な花柄ストールを巻きつけられることになりそうなので。
もちろん光子はその提案を快諾し、帰りの馬車の中では「近頃風邪が流行っているそうだから、気をつけてね? 帰ったら、手洗いうがいを忘れずにね?」と、セオドールの身体を案じる言葉を掛け続けた。
あまりにもそれが延々と繰り返されるものだから、しまいにはセオドールも、ひたすら「うん、うん。わかったよ、大丈夫だから。ありがとう」と返す羽目になった。
しかしセオドールとて、今日の光子の言動が自分のことを気遣ってのものであることは十分に理解しているし、彼女のことが嫌いになったわけではない。
ただ、「パートナーとしてはいまいちしっくりこない」だけだ。
自分の中で消化しきれないその不思議な感覚について、セオドールは馬車の中で考え続け、そして彼女の家まで後少しというところで、ようやく理由に思い至ったのだ。
「今日のシャインは、なんだかずっと乳母みたいだったな」
初デートの別れ際、屈託ない表情で告げられたその言葉を聞いて、光子は王太子の方が『シャインルート』からドロンしたのを悟ったのだった。
◇◇◇
あれから数年が経過した。
当然ながらあのデート以降、セオドールと光子が恋愛関係に発展することはなく、今でも二人は〝仲が良い元同級生〟として年に数回近況報告をし合う関係を保っている。
細く長く関係が続いているとは言え、相手はこの国の王太子。
ここ数年のやりとりは全て手紙を介したものだったので、だから光子は今日のセオドールの来訪を、一ヵ月以上も前から心待ちにしていたのだ。
「やあ、シャイン。変わらないな」
「そうかしら? セオドール様は、見るたびに成長なさるのね」
「おいおい、成人してから何年経つと思っているんだ? さすがにもう成長はしないさ」
笑いながら「やはりシャインは乳母みたいなことを言う」と付け加えるセオドールの横には、彼と同じくらいの年齢の小柄な女性が寄り添っていた。
「シャインには直接紹介したくてな。私の婚約者だ」
セオドールからそう紹介された隣の女性は、頬を上気させながら「私、シャイン先生が書かれる作品の大ファンなのです!」と言った。
セオドールの婚約者の言葉からもわかるように、学園卒業後創作活動にのめり込むようになった光子は、今では作家として生計を立てるまでになっていた。
女性視点で書かれた彼女の恋愛小説は幅広い年代の女性の支持を受け、「売れっ子作家」としてその名を轟かせているほどだ。
「空飛ぶ乗り物や、遠く離れた人間と通信ができる装置が登場する不思議な世界を舞台にしながら、そこで繰り広げられる人間関係はどれも共感できる内容で。そんな世界をまるで見て来たかのように描写なさるシャイン先生の頭の中は、一体どうなっているのだろうかと、作品を読むたびに思うのですよ」
興奮したように語る婚約者の言葉に、セオドールが「本当にその通りだ」と同意した。
「浮ついた話一つ聞かないシャインが、あの一途な恋愛物語を体験したかのような語り口で書いていると知った時には、私も驚いたよ」
そんな二人の言葉を受けて、光子は「ふふふ」と穏やかに笑う。
そしてそのまま窓の外へと視線をやると、「……『先に行って待っている』って、言われたからねぇ。見つけてもらうための努力はしないと」と呟いた。
光子のその返事は、二人にとっては全く理解できないものだった。
しかし光子は、それ以上のことを語ろうとはしない。
彼女にとって、自分の作品が前世での夫との出来事を元にしたものであることは、夫と二人だけの秘密だったからだ。
その後セオドール達を見送った光子は、今日も物語をしたためる。
「夫もこの世界に生きているかもしれない」という一縷の望みを抱きつつ、夫への愛情をラブストーリーの形にして。
「いらっしゃるのなら、早く見つけてくださいね?」
春の柔らかな陽射しが差し込む部屋で机に向かいながら、光子はそう言って穏やかな表情を浮かべるのだった。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
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