第12話 おかえり
帰る場所は、もうどこにも残っていなかった。
それでも太郎は、百年後の世界を、生きることを選ぶ。
――胸の奥に、竜宮の潮騒を抱いたまま。
太郎は、百年後の見知らぬ町で生きていた。
最初の頃は、何もかもがうまく噛み合わなかった。
人々の話す言葉は、どこか訛りが違う。
行き交う服の形も、道に並ぶ見慣れない品物も、
自分の知っている時代のものとは、少しずつ違っていた。
けれど。まったく知らない世界だったわけでもない。
海へ抜ける、あの懐かしい潮風の匂い。
見上げる山の影。港へと続く、なだらかな坂道。
その輪郭だけは、
百年前のあの日と、何一つ変わっていなかった。
昔、小さな魚屋があった場所には、今は立派な大店が建っている。
古びた団子屋の軒先には、見覚えのある家紋が静かに残っていた。
人は入れ替わり、家も姿を変えていたけれど。
ここで誰かが生き、笑い、海と暮らしてきた時間だけは、地上の地で、確かに今も続いていた。
ただ。その温かい営みの中に、“浦島太郎”という人間の居場所だけが、もうどこにも残っていなかった。
それでも。
太郎は、生きることを決してやめなかった。
市場の荷運びでも、舟の修理でも、魚の仕分けでも。
頼まれたことは、なんでもやった。
人が嫌がるようなきつい力仕事でも、文句ひとつ言わなかった。
地上の荒波と、あの竜宮での過酷な鍛錬で鍛え上げられた身体は、百年後の世界でも、ちゃんと太郎の武器になってくれた。
「おい兄ちゃん、腕っぷしが本当に強ぇなあ!」
「はは、昔、ちょっと漁をやってたんで」
笑う。 どんなに胸が苦しくても、ちゃんと笑う。
それだけは、あの別れ際に乙姫と交わした大切な約束を、まだ自分は守れている気がした。
◇
季節が、静かに巡る。
気づけば、地上へ戻ってから一年が経っていた。
この町にも、少しずつ馴染んだ。
一日の終わりに、酒を酌み交わせる仲間もできた。
祭りの準備を、周りと笑いながら手伝う日もある。
悪くない。
本当に、悪くない人生の続きだった。
でも。静かな夜になると、決まって胸がざわついた。
太郎は、必ず一人で玉手箱を取り出す。
そっと風呂敷を解く。
白い貝と黒い貝が、
水面のような波の紋を綺麗に描いている。
その冷たい表面を、指先でそっと撫でる。
「……乙姫さん」
ぽつりと、誰もいない部屋で名前を呼ぶ。
乙姫は、今も元気にしてるだろうか。
宵臣は相変わらず、頭の固い堅物なんだろうか。
ミドリはまた、地上の子供に騙されてないだろうか。
玉依姫は、乙姫をからかって笑っているだろうか。
あの魚人隊長とは、もう一回だけでも相撲を取りたかった。
魚人の皆は、釣りが少しは上手くなっただろうか。
思い出せば思い出すほど、胸の奥にぽっかりと空いた穴は、大きく広がっていく。
この町の人達は、みんな温かくて優しかった。
でも。母親も、兄貴も、もうこの世界にはいない。
自分の本当の帰る場所は、一体どこだったのか。
それが、だんだんと分からなくなっていた。
◇
賑やかな秋祭りの日。
町は、海神への奉納で大きく湧いていた。
並べられる、極上の酒、米、果物。
獲れたての魚、美しい布。
人々は、一斉に海へ向かって祈る。
豊かな実りを、また来年も授けてくれるように、と。
太郎は、少し離れた賑わいの中から、
その光景をただじっと眺めていた。
海神様。乙姫さん。
気づけば。
太郎の足は、自然とあの静かな浜へと向かっていた。
ミドリと、最後に別れた場所。
乙姫へ、笑顔で最後に手を振ったあの砂浜。
今日の海は、驚くほど穏やかだった。
遠くに、優しい白波だけがかすかに見える。
青い空には、魚の鱗みたいな白い雲が静かに棚引いていた。
太郎は、砂浜へ静かに座り込む。
その膝の上には、あの玉手箱があった。
「……乙姫さん」
懐かしい潮風が、優しく頬を撫でる。
脳裏へ、あの別れ際の美しい声が蘇った。
『もしも、あなたがこれを開ける日がいつか来たら』
太郎は、ゆっくりと静かに目を閉じた。
『ちゃんと、笑いながら開けなさい』
太郎は、小さく愛おしそうに笑った。
「……相変わらず、難しいこと言うよなあ、あの人は」
でも。もう、心はとっくに決まっていた。
太郎は、玉手箱の結び目を静かに解く。
白と黒の蓋へ、無骨な指をかけた。
それから。広大な、青い空を真っ直ぐに見上げた。
「乙姫さん。俺、あれから地上でちゃんと生きたよ」
波が、優しく足元へ寄せる。
「あなたの言う通り、海は俺から全部を奪っていった」
太郎は、世界で一番優しい笑顔で少しだけ笑った。
「だけどさ。……それでも、俺はやっぱり海が好きだよ」
胸がすくような潮の匂い。耳に心地いい、静かな波の音。その全部が、あの美しい乙姫へと繋がっていたから。
「あなたが、そこにいるからだろうな」
太郎の手から、玉手箱が、からん、と砂浜へ落ちた。
その瞬間。
わずかに開いた蓋の隙間から、白い煙が、ふわり、と溢れてゆっくりと太郎の身体へ絡みついていく。
太郎は、崩れるようにその場へ膝をついた。
手が、みるみる皺がれていく。
黒かった髪は、潮へ溶けるみたいに白く染まり、
鍛え上げられていた肩や腕も、急激に細く、小さく縮んでいった。
背筋が、耐えきれないように曲がる。
骨が軋む。呼吸が、うまく吸えない。
急激に喉が渇き、肺が焼けるみたいに苦しい。
百年という時間が、一気に肉体へ流れ込んできていた。
けれど。太郎は、その苦しみの中で、
不思議と恐怖だけは感じていなかった。
太郎は、震える細い手で、愛おしそうに玉手箱を拾い上げる。その時、震える手が、そっと己の懐へと伸びた。
玉手箱の下。ボロボロの布にずっと包まれていた、一つの小さな釣り針。あの日、地上の兄貴から借りたまま、どうしても返せなくなってしまった、あの釣り針だった。
太郎は、それを愛おしそうに、そっと手のひらへと乗せる。すっかり錆びてしまっていた。
けれど、この1年間、不思議とどうしても捨てられなかった。
不条理に死んでしまった、兄貴のことを。
優しかった、母親のことを。
あの懐かしい浜辺で確かに生きていた、自分という人間のことを。片時も、忘れたくはなかったから。
「……兄ぃ」
掠れた声で、小さく、申し訳なさそうに笑う。
「結局、最後まで返せなかったなぁ。……ごめんな」
太郎は、その錆びた釣り針を、玉手箱のすぐ横へ静かに置いた。
冷たい波が、ざあ、と足元へ寄せる。
白い泡が、兄の釣り針と乙姫の箱を、そっと一緒に濡らしていく。
太郎は、ちゃんと、最高の笑顔で笑った。
皺だらけになってしまった顔で。
あの日の約束を、最後まで守り抜くみたいに。
「……ほら、乙姫さん。俺、ちゃんと笑ってますよ」
掠れた、おじいさんの声。
白い煙が、まるでいたわるように優しく太郎を包み込む。
「また……一緒に、釣りをしましょう」
温かい涙が、深く刻まれた皺を伝って落ちる。
「槍舞だって、地上の1年でもうちょっと上手くなったんですよ」
呼吸が、少しずつ、穏やかに弱くなっていく。
傷だらけだった太郎の口元は、最後まで優しく笑っていた。
「乙姫さん。……ありがとう」
白い髪が、静かな潮風にさらさらと揺れる。
「あの時、俺をナンパしてくれて」
夕陽を浴びて、地上の海がきらきらと金色に光る。
「あれが……俺の人生で一番、衝撃的で、一番楽しい時間だった」
太郎は、満足したようにゆっくりと目を閉じた。
「俺、あなたに恋したこと、絶対に後悔してないから」
白い煙が、さらに濃く、二人だけの境界を優しく包む。
「大好きだったよ、乙姫さん」
満ちてきた波が、静かに老人の身体へと届く。
冷たい海水。なのに、どうしようもなく懐かしくて、温かい。
その時だった。ふいに。
冷たくなっていく頬へと、絹のような柔らかな手が触れた。
「……太郎」
聞き慣れた、世界で一番大好きな声。
「また、ナンパしに来ちゃったわ。
いい男だもの……」
太郎が、ゆっくりと重い目を開ける。
そこには。
薄青い衣を美しく揺らした、あの日のままの乙姫がいた。その綺麗で赤い瞳が、大粒の涙に濡れている。
太郎の乾いた喉が、小さく震えた。
「……乙姫、さん」
乙姫が、愛おしそうに泣き出しそうな顔で笑う。
「ちゃんと……約束通り、笑って開けたのね」
太郎は、少し照れくさそうに笑ってみせた。
「男の、約束、だったので」
その後ろから、ミドリが顔をクシャクシャにして大号膝しながら飛び出してくる。
「太郎ざぁぁぁん……!! 寂しかったぁぁ!」
玉依が、少し呆れたように、でも本当に嬉しそうに笑う。
「だから言ったじゃないですかぁ。
笑って開ければ、ちゃんとまたお姉様に会えるって」
側近の宵臣は、静かに、誇らしげに目を伏せた。
「……ほら、練習再開しますよ。浦島殿」
太郎が、ゆっくりと砂浜から身体を起こす。
その瞬間。白く老いていた髪が、さらり、と艶やかな黒髪へと戻っていく。顔の皺が消え、曲がっていた背筋が真っ直ぐに伸びる。
働くために必死で鍛えた、あの若い漁師の身体へ。
いや。もう二度と老いることのない、海の一員としての身体へ。
太郎が、呆然と自分の若返った両手を見つめる。
乙姫が、そっと正面から、その大きな手を両手で包み込んだ。
衣服の奥で、潮満珠と潮干珠が、
二人の再会を祝福するように静かに、優しく光る。
「さあ」
乙姫が、涙を拭って、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「今度こそ、私たちの龍宮城へ帰りましょう」
太郎は、愛しい乙姫の目を真っ直ぐに見つめた。
それから。少しだけ泣きそうになりながら、最高に笑った。
「……はい!」
波が、静かに、優しく満ちる。
二人の姿は、白い綺麗な泡へと溶けるみたいに、ゆっくりと海へ消えていく。
そのあとには。
ただ、どこまでも穏やかな潮騒だけが、
二人の永遠の幸せを歌うように、いつまでも響いていた。
完
完結しました。
あの浦島太郎の民話をアレンジして、ひとつのストーリーにしてみました。
一応民話を元にしていますが、史実と違う物語ですので気軽に読んでいただけたら嬉しいです。
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