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乙姫は恋を知らない  作者: HANABI


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第12話 おかえり

帰る場所は、もうどこにも残っていなかった。


それでも太郎は、百年後の世界を、生きることを選ぶ。

――胸の奥に、竜宮の潮騒を抱いたまま。

太郎は、百年後の見知らぬ町で生きていた。


最初の頃は、何もかもがうまく噛み合わなかった。

人々の話す言葉は、どこかなまりが違う。


行き交う服の形も、道に並ぶ見慣れない品物も、

自分の知っている時代のものとは、少しずつ違っていた。


けれど。まったく知らない世界だったわけでもない。


海へ抜ける、あの懐かしい潮風の匂い。

見上げる山の影。港へと続く、なだらかな坂道。


その輪郭だけは、

百年前のあの日と、何一つ変わっていなかった。


昔、小さな魚屋があった場所には、今は立派な大店が建っている。

古びた団子屋の軒先には、見覚えのある家紋が静かに残っていた。


人は入れ替わり、家も姿を変えていたけれど。

ここで誰かが生き、笑い、海と暮らしてきた時間だけは、地上の地で、確かに今も続いていた。


ただ。その温かい営みの中に、“浦島太郎”という人間の居場所だけが、もうどこにも残っていなかった。


それでも。

太郎は、生きることを決してやめなかった。


市場の荷運びでも、舟の修理でも、魚の仕分けでも。

頼まれたことは、なんでもやった。


人が嫌がるようなきつい力仕事でも、文句ひとつ言わなかった。

地上の荒波と、あの竜宮での過酷な鍛錬で鍛え上げられた身体は、百年後の世界でも、ちゃんと太郎の武器になってくれた。


「おい兄ちゃん、腕っぷしが本当に強ぇなあ!」


「はは、昔、ちょっと漁をやってたんで」


笑う。 どんなに胸が苦しくても、ちゃんと笑う。

それだけは、あの別れ際に乙姫と交わした大切な約束を、まだ自分は守れている気がした。



季節が、静かに巡る。

気づけば、地上へ戻ってから一年が経っていた。


この町にも、少しずつ馴染んだ。

一日の終わりに、酒を酌み交わせる仲間もできた。

祭りの準備を、周りと笑いながら手伝う日もある。


悪くない。

本当に、悪くない人生の続きだった。


でも。静かな夜になると、決まって胸がざわついた。

太郎は、必ず一人で玉手箱を取り出す。

そっと風呂敷を解く。


白い貝と黒い貝が、

水面のような波の紋を綺麗に描いている。

その冷たい表面を、指先でそっと撫でる。


「……乙姫さん」


ぽつりと、誰もいない部屋で名前を呼ぶ。


乙姫は、今も元気にしてるだろうか。

宵臣は相変わらず、頭の固い堅物なんだろうか。


ミドリはまた、地上の子供に騙されてないだろうか。

玉依姫は、乙姫をからかって笑っているだろうか。


あの魚人隊長とは、もう一回だけでも相撲を取りたかった。

魚人の皆は、釣りが少しは上手くなっただろうか。


思い出せば思い出すほど、胸の奥にぽっかりと空いた穴は、大きく広がっていく。


この町の人達は、みんな温かくて優しかった。

でも。母親も、兄貴も、もうこの世界にはいない。


自分の本当の帰る場所は、一体どこだったのか。

それが、だんだんと分からなくなっていた。



賑やかな秋祭りの日。

町は、海神わたつみへの奉納で大きく湧いていた。


並べられる、極上の酒、米、果物。

獲れたての魚、美しい布。


人々は、一斉に海へ向かって祈る。

豊かな実りを、また来年も授けてくれるように、と。


太郎は、少し離れた賑わいの中から、

その光景をただじっと眺めていた。


海神様。乙姫さん。


気づけば。

太郎の足は、自然とあの静かな浜へと向かっていた。


ミドリと、最後に別れた場所。

乙姫へ、笑顔で最後に手を振ったあの砂浜。


今日の海は、驚くほど穏やかだった。

遠くに、優しい白波だけがかすかに見える。

青い空には、魚の鱗みたいな白い雲が静かに棚引いていた。


太郎は、砂浜へ静かに座り込む。

その膝の上には、あの玉手箱があった。


「……乙姫さん」


懐かしい潮風が、優しく頬を撫でる。

脳裏へ、あの別れ際の美しい声が蘇った。


『もしも、あなたがこれを開ける日がいつか来たら』


太郎は、ゆっくりと静かに目を閉じた。


『ちゃんと、笑いながら開けなさい』


太郎は、小さく愛おしそうに笑った。


「……相変わらず、難しいこと言うよなあ、あの人は」


でも。もう、心はとっくに決まっていた。

太郎は、玉手箱の結び目を静かに解く。

白と黒の蓋へ、無骨な指をかけた。


それから。広大な、青い空を真っ直ぐに見上げた。


「乙姫さん。俺、あれから地上でちゃんと生きたよ」


波が、優しく足元へ寄せる。


「あなたの言う通り、海は俺から全部を奪っていった」


太郎は、世界で一番優しい笑顔で少しだけ笑った。


「だけどさ。……それでも、俺はやっぱり海が好きだよ」


胸がすくような潮の匂い。耳に心地いい、静かな波の音。その全部が、あの美しい乙姫へと繋がっていたから。


「あなたが、そこにいるからだろうな」


太郎の手から、玉手箱が、からん、と砂浜へ落ちた。


その瞬間。

わずかに開いた蓋の隙間から、白い煙が、ふわり、と溢れてゆっくりと太郎の身体へ絡みついていく。


太郎は、崩れるようにその場へ膝をついた。


手が、みるみる皺がれていく。

黒かった髪は、潮へ溶けるみたいに白く染まり、

鍛え上げられていた肩や腕も、急激に細く、小さく縮んでいった。


背筋が、耐えきれないように曲がる。

骨が軋む。呼吸が、うまく吸えない。

急激に喉が渇き、肺が焼けるみたいに苦しい。


百年という時間が、一気に肉体へ流れ込んできていた。


けれど。太郎は、その苦しみの中で、

不思議と恐怖だけは感じていなかった。


太郎は、震える細い手で、愛おしそうに玉手箱を拾い上げる。その時、震える手が、そっと己のふところへと伸びた。


玉手箱の下。ボロボロの布にずっと包まれていた、一つの小さな釣り針。あの日、地上の兄貴から借りたまま、どうしても返せなくなってしまった、あの釣り針だった。


太郎は、それを愛おしそうに、そっと手のひらへと乗せる。すっかり錆びてしまっていた。

けれど、この1年間、不思議とどうしても捨てられなかった。


不条理に死んでしまった、兄貴のことを。

優しかった、母親のことを。


あの懐かしい浜辺で確かに生きていた、自分という人間のことを。片時も、忘れたくはなかったから。


「……兄ぃ」


掠れた声で、小さく、申し訳なさそうに笑う。


「結局、最後まで返せなかったなぁ。……ごめんな」


太郎は、その錆びた釣り針を、玉手箱のすぐ横へ静かに置いた。


冷たい波が、ざあ、と足元へ寄せる。

白い泡が、兄の釣り針と乙姫の箱を、そっと一緒に濡らしていく。


太郎は、ちゃんと、最高の笑顔で笑った。

しわだらけになってしまった顔で。


あの日の約束を、最後まで守り抜くみたいに。


「……ほら、乙姫さん。俺、ちゃんと笑ってますよ」


掠れた、おじいさんの声。

白い煙が、まるでいたわるように優しく太郎を包み込む。


「また……一緒に、釣りをしましょう」


温かい涙が、深く刻まれた皺を伝って落ちる。


槍舞やりまいだって、地上の1年でもうちょっと上手くなったんですよ」


呼吸が、少しずつ、穏やかに弱くなっていく。

傷だらけだった太郎の口元は、最後まで優しく笑っていた。


「乙姫さん。……ありがとう」


白い髪が、静かな潮風にさらさらと揺れる。


「あの時、俺をナンパしてくれて」


夕陽を浴びて、地上の海がきらきらと金色に光る。


「あれが……俺の人生で一番、衝撃的で、一番楽しい時間だった」


太郎は、満足したようにゆっくりと目を閉じた。


「俺、あなたに恋したこと、絶対に後悔してないから」


白い煙が、さらに濃く、二人だけの境界を優しく包む。


「大好きだったよ、乙姫さん」


満ちてきた波が、静かに老人の身体へと届く。

冷たい海水。なのに、どうしようもなく懐かしくて、温かい。


その時だった。ふいに。

冷たくなっていく頬へと、絹のような柔らかな手が触れた。


「……太郎」


聞き慣れた、世界で一番大好きな声。


「また、ナンパしに来ちゃったわ。

いい男だもの……」


太郎が、ゆっくりと重い目を開ける。


そこには。

薄青い衣を美しく揺らした、あの日のままの乙姫がいた。その綺麗で赤い瞳が、大粒の涙に濡れている。


太郎の乾いた喉が、小さく震えた。


「……乙姫、さん」


乙姫が、愛おしそうに泣き出しそうな顔で笑う。


「ちゃんと……約束通り、笑って開けたのね」


太郎は、少し照れくさそうに笑ってみせた。


「男の、約束、だったので」


その後ろから、ミドリが顔をクシャクシャにして大号膝しながら飛び出してくる。


「太郎ざぁぁぁん……!! 寂しかったぁぁ!」


玉依たまよりが、少し呆れたように、でも本当に嬉しそうに笑う。


「だから言ったじゃないですかぁ。

笑って開ければ、ちゃんとまたお姉様に会えるって」


側近の宵臣よいおみは、静かに、誇らしげに目を伏せた。


「……ほら、練習再開しますよ。浦島殿」


太郎が、ゆっくりと砂浜から身体を起こす。


その瞬間。白く老いていた髪が、さらり、と艶やかな黒髪へと戻っていく。顔の皺が消え、曲がっていた背筋が真っ直ぐに伸びる。


働くために必死で鍛えた、あの若い漁師の身体へ。

いや。もう二度と老いることのない、海の一員としての身体へ。


太郎が、呆然と自分の若返った両手を見つめる。

乙姫が、そっと正面から、その大きな手を両手で包み込んだ。


衣服の奥で、潮満珠と潮干珠が、

二人の再会を祝福するように静かに、優しく光る。


「さあ」


乙姫が、涙を拭って、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。


「今度こそ、私たちの龍宮城へ帰りましょう」


太郎は、愛しい乙姫の目を真っ直ぐに見つめた。

それから。少しだけ泣きそうになりながら、最高に笑った。


「……はい!」


波が、静かに、優しく満ちる。

二人の姿は、白い綺麗な泡へと溶けるみたいに、ゆっくりと海へ消えていく。


そのあとには。

ただ、どこまでも穏やかな潮騒だけが、

二人の永遠の幸せを歌うように、いつまでも響いていた。


完結しました。


あの浦島太郎の民話をアレンジして、ひとつのストーリーにしてみました。


一応民話を元にしていますが、史実と違う物語ですので気軽に読んでいただけたら嬉しいです。


よろしければ、感想いただけたら作者喜びます。


ブックマークマークも良かったらしていってください。

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