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乙姫は恋を知らない  作者: HANABI


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第1話 退屈と、波打ち際の男

潮の満ち引きが、私の気分ひとつで変わる。

世界の真ん中に座っているのに、いちばん退屈しているのは、いつもこの私だ。


だから――たまには、海の外から面白い男を一人くらい、連れてきてもいいでしょう?

退屈という名の波は、案外、静かに押し寄せてくる。


海底の楽園、竜宮城は、

今日もいつもどおりの平穏に包まれていた。


美しくそびえ立つ珊瑚の柱。

最高級の真珠を惜しみなく散りばめた、高い天井。


水の底を青白く揺らす、幻想的な灯り。

お抱えの楽師たちが奏でる、柔らかで妖艶な旋律。


色鮮やかな魚たちが群れを成して美しく舞い、

海の民たちが楽しげに笑い合う。


漂う甘い酒の香りと、静かな水音。


ここは、海に選ばれた特別な者しか辿り着けない場所。

そして私は、そのすべてのあるじだった。


「……退屈だわ」


私は玉座へだらしなく横座りになったまま、

胸元のネックレスを白い指先で弄ぶ。


淡い青と白。二つの不思議な珠が、

青白い灯りの中で静かにゆらゆらと揺れていた。


潮満珠しおみつたま

潮干珠しおふるたま


神代の昔から伝わる、海神の絶対的な宝。

潮の満ち引きを意のままに操り、海そのものへ干渉する珠。


困ったことに、この宝具は少しだけ、

持ち主である私の感情と連動してしまう癖があった。


「姫。また珠が騒いでおられます」


すぐ隣の影から、低く、落ち着いた声が落ちてくる。


潮守しおもり 宵臣よいおみ

私直属の近衛長であり、幼い頃からずっと傍にいる男。


黒髪はきっちりと後ろで束ねられ、

濃紺の装束には、相変わらず皺一つとしてない。


腰に帯びた細身の剣。

その立ち姿まで、呆れるほどに隙がなかった。


見ると、私の胸元の青い珠がほんの少し強く光っている。

それに呼応するみたいに、結界の向こうの海流がゆらりと揺れた。


「だって、退屈なんだもの」


私は小さくあくびを噛み殺しながら、

胸元へ揺れる宝珠へと、爪の長い指先を伸ばした。


淡い青の光が、私の白い皮膚へ静かに滲む。

爪先で軽く弾くと、からん、と鈴みたいな音が小さく響いた。


「もう何百回、これと同じ宴をやったと思っているの?」


広間では、今日も大勢の客人たちが笑っている。

地上から招かれた者、海で命を落としかけた者。

激しい嵐へ呑まれた船乗り。絶望して自ら身を投げた者。


その中から、私が気まぐれに拾い上げた人間たち。

どいつもこいつも、見目麗しい者ばかりだった。

磨き上げた宝石みたいに綺麗。


中には、竜宮城の居心地に囚われ、

そのまま楽士や侍女として働いている者もいる。


皆、私へ媚びるように笑いかける。

欲しがる。けれど。


誰一人として、私をこの深い退屈から救ってはくれなかった。


「変わらぬことは、平穏の証にございます」


宵臣が静かに言葉を返す。

相変わらず、教科書に載っているような退屈な答えだった。


「平穏は嫌いじゃないわ」


私は玉座の肘掛けへ、そっと頬杖をついた。

ひんやりとした珊瑚の感触が、白い頬へ静かに触れる。


「でも。“慣れきった退屈”は、大嫌い」


「……姫がそう仰るたび、地上の海面が不穏になりますので、出来ればお控えください」


小さくため息をつく美しい横顔を、私は横目で見上げた。


整った顔。冷静な目。穏やかな声音。

昔から何一つ変わらない。


けれど、私は知っている。

この冷静な男の胸の奥には、私なんかよりもずっと荒い波が、時々、激しく立っているということを。


「ねえ、宵臣」


「はい」


「あなた、退屈じゃないの?」


宵臣は、ほんの少しだけその切れ長の目を細める。

静かな海面へ、小さな波が立つみたいな、微かな変化だった。


「姫のおそばに仕えることに、退屈など――」


「その模範解答、前にも聞いたわ」


私が言葉を遮ると、彼はほんのわずか、困ったように肩をすくめた。


「……では正直に申し上げましょう」


「うん」


「姫がお暇を持て余されるたび、こちらの心臓に悪いのです」


思わず、ふふっと私の唇から笑いが零れた。


「どういう意味?」


「いつ、どこの世界のどこの男を、

“実験”と称してここへお連れになるのかと」


皮肉混じりの視線が飛んでくる。

私はわざと、子供のようになってにっこり笑った。


「嫉妬?」


「注意です」


少しだけ、言い返せなくて悔しい。

その時だった。


ばたばた、と広間の外から騒がしい音が響く。


「ひめさまーっ!!」


広間の大きな扉から、小さな海亀が勢いよく飛び込んできた。侍女たちが小さく悲鳴を上げる。

私は思わず、玉座の上で可笑しそうに笑う。


「ミドリ。静かに歩きなさいって、何度言ったら分かるのかしら」


「ごめんなさい! でもでも、聞いてください!」


子亀のミドリは、目をきらきらと輝かせながら、

短い前足をせわしなくばたつかせた。


「すっごい人間がいたんです!」


「また?」


「“また”じゃないです!

今回はほんとに、すっごいんですってば!」


客たちの視線が、一斉にこちらへ集まる。

宵臣が一歩前へ出て、冷たく制した。


「ミドリ。姫の御前だ。言葉を選べ」


「は、はいっ!」


ミドリは慌てて小さな姿勢を正す。

それから、まっすぐに私を見上げた。


「浜辺で、僕を助けてくれた人間なんです!」


「助けた?」


「地上の子どもたちに石を投げられてて……

甲羅をひっくり返されてたところを、大きな手で抱き上げてくれて」


ミドリの必死の声に合わせるみたいに、

その光景がありありと私の頭の中へ浮かび上がってくる。


夕暮れの砂浜。磯の匂い。

砂まみれの甲羅。よく日に焼けた、健康的な腕。


「“痛いか?”って言ったあと、“海に帰りたいんだろ”って」


ミドリは、本当に嬉しそうに言葉を続ける。


「そっと、海まで運んでくれたんです!」


私は、少しだけ首を傾げた。


「優しい男なんて、地上には別に珍しくないでしょう?」


「違うんです!」


ミドリが前足をぶんぶんと振る。


「もっと安全な沖まで行こうって言ったんです!

自分も、服がずぶ濡れになるのに!」


その瞬間。

胸元の潮満珠が、ひやりと、冷たく震えた。

海の底の波が、大きく揺れる。


「……名前は?」


思わず、口から言葉が零れ落ちていた。

ミドリは得意げに、小さな胸を張る。


「浦島太郎、です!」


周囲のざわめきが、一瞬で遠くなっていく。

耳に残るのは、遠い波の音と。


私の胸元の珠が、ドクンと鳴る感覚だけだった。

宵臣が、隣で小さくあきらめたように息を吐く。


「……姫。目が変わっております」


「そう?」


「獲物を見つけた時の、悪い目です」


「失礼ね」


私は笑いながら、ゆっくりと玉座から立ち上がった。

その瞬間。潮満珠が、強く、激しく光を脈打つ。


竜宮を覆う結界の向こうで、深い海面が大きく揺れ動いた。


「姫。感情を珠へ乗せすぎです」


宵臣の小言すら、今の私には心地よかった。


「ねえ、宵臣」


「はい」


「私の退屈、終わったわ」


宵臣の眉が、わずかに、不穏そうに動く。


「まさか――」


「そう。その“まさか”よ」


私は玉座の階段を降りる。

薄い薄青い衣の裾が、海の灯りの中で美しく揺れた。


「人間界へ行ってくるわ」


「……護衛をつけます」


「いらない」


私は即答する。


「宵臣を連れて行ったら、その太郎が怯えて逃げてしまうもの」


「もう名前でお呼びですか」


「名前を覚えた時点で、半分くらい好きになってるのよ、人は」


そう口にした瞬間。自分でも少しだけ驚いていた。

胸の奥で、冷えていた潮が急速に満ちていく。


久しぶりに。私の心が、確かに動いている。


ミドリが足元で、嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねた。


「姫様、絶対好きになりますよ! あの人のこと!」


私はくすっと、悪戯っぽく笑う。


「もう半分は好きよ」


そのまま、私はまっすぐに歩き出す。

あの光が届く、波打ち際の世界へ。


まだ見ぬ、知らない男のところへ。

私のこの分厚い退屈を、木っ端微塵に壊してくれそうな、たった一人の、人間のところへ。


――浦島太郎。


私はその名前を、胸の中で静かに、大切に転がした。

悪くない。実際に口に出したら、きっともっと気に入るわ。


「さあ、太郎」


胸元の潮満珠が、からん、と小さく歓喜の声を上げた。


「あなたの退屈と、私の退屈。

どっちが強いか、今から試してみましょうか」



海面を割って顔を出した瞬間、潮の匂いが一気に変わった。深海の冷たい匂いじゃない。


もっと軽くて、乾いた砂が混じった、人間の世界の香り。波打ち際の世界は、いつだって私には少しだけ眩しすぎる。


私は美しい人の姿へ化けたまま、そっと地上の浜辺へ足を下ろした。裸足へ寄せる白波が、くすぐったい。


「姫、あまり足を濡らしすぎると、戻るのが面倒になりますよ」


脳裏の奥で、宵臣の堅苦しい声が蘇る。

私は知らないふりをして、わざともう一歩、波の中へ踏み込んだ。そっと視線を上げる。


夕陽が斜めからオレンジ色に差し込む、静かな浜辺。

岩場へぽつんと腰を下ろした、男がひとり。


細い釣り竿。日に焼けた首筋。いかにも漁師らしい、逞しい腕。


背中を見つめるだけで、なんとなくすべてが分かった。真面目で、不器用で、どこまでも優しい男。

そんな、愛おしい背中だった。


胸元の潮満珠が、小さく愛おしそうに震える。


「……あれね」


私が呟くと、海面を泳いでいたミドリが勢いよく頷いた。


「あの人です! 浦島太郎!」


ミドリは興奮したまま、ヒソヒソ声で続ける。


「さっきも、ずっと海を見ながらため息をついてました!」


「ため息?」


「はい! “今日も全然釣れねぇなぁ”って!」


私は、少しだけ声を殺して笑った。

――退屈そう。

それが、私には妙に愛おしくて、気になった。


退屈とため息は、いつだって隣り合わせだ。

私は美しい着物の裾を少しだけ持ち上げ、静かに砂浜へ足を踏み入れる。


人間界の砂は、海底のどんな砂よりも温かかった。

太郎はまだ、こちらの気配に全く気づいていない。


波の音と、自分だけの世界に閉じこもっている、そんな横顔だった。

私はわざと足音を立てず、彼のすぐ後ろまで近づいてから声をかける。


「ねえ」


太郎の広い肩が、びくっと大きく揺れた。


「あなたが、浦島太郎?」


驚いて振り返ったその顔は、ミドリの言った通りだった。

日に焼けた健康的な肌。真っ直ぐな黒い瞳。

整っているのに、気取ったところがまるでない。


何より。私と目が合った瞬間、慌てて気まずそうに目を逸らしたところが、最高に良かった。


「……どなた、ですか?」


慌てて立ち上がろうとして、砂へ足を取られて転びかける。

私は思わず、ふふっと声を上げて笑ってしまった。


「名前、合ってる?」


「は、はい。浦島太郎ですけど……」


「よかった。間違えてたら、潮を一段上げて海に沈めるところだったわ」


「えっ」


本気で怯えて困った顔。冗談に慣れていないらしい。

でも、そこもたまらなく嫌いじゃない。


「冗談よ」


そう言いながら、私はさらに一歩、距離を近づく。

太郎は反射的に、あとずさるように一歩下がった。


「……ほんとに、どなたなんです?」


「あなたに助けられた亀の、雇い主」


「雇い主?」


「そう。小さくて、緑色で、ちょっとおしゃべりな海亀」


太郎の顔が、その瞬間、ぱっと明るくなった。


「ああ……あいつ、元気でしたか?」


その邪気のない笑顔を見た瞬間。

私の胸の奥が、なんだか少しくすぐったくなった。


「ええ。今もそこにいるわよ」


私が波打ち際を指差すと、ミドリがぴょこんと顔を出した。


「たろうさーん!」


「うわっ、ミドリ!」


太郎は慌てて駆け寄りかけ、それからまた不思議そうに私を見る。


「えっと……あなたは?」


ようやく、本題の問いへと辿り着いたらしい。

私は少しだけ、綺麗に顎を上げた。


豊玉姫とよたまひめ。この海の、少し深いところを預かってる者よ」


本当は、竜宮の主。海神の姫。

でも、最初からそこまで言うと、大抵の人間は恐怖で固まる。

太郎は案の定、ぽかんと大きく口を開けていた。


「……え?」


「信じるかどうかは、あなたの自由」


私は可愛く肩をすくめてみせる。


「でも、あなたがミドリを助けたのは本当。だから、

私がお礼を言いに来たのも、本当よ」


そう言って、私は軽く、お姫様らしく頭を下げた。


「ありがとう、太郎」


太郎は慌てて、ぶんぶんと首を振る。


「い、いや! そんな大したことじゃ……」


「“そんな”って言うの、私あんまり好きじゃないわ」

「え?」


「自分で自分を軽くする男って、見ててつまらないもの」


太郎が言葉に詰まる。

その新鮮な反応が面白くて、私はまた少し笑った。

そして。気づけば私は、彼との距離をさらに一歩、詰めていた。


太郎がじわじわと、赤くなりながら後ろへ下がる。

満ちてきた波が、二人の足首を優しく濡らした。


「ねえ、太郎」


「は、はい」


「あなた、退屈してる顔をしてるわ」


太郎が、目を丸くしてパチパチと瞬かせる。


「……そんなふうに、見えますか?」


「見えるわ」


私は真っ直ぐに見つめて笑う。


「毎日毎日、同じ海を見て、同じ魚を獲って、

“まあ俺の人生なんてこんなもんだろ”って諦めてる顔」


図星だったらしい。太郎は参ったというように苦笑した。


「村の連中には、これでも欲張りだって言われます」


「あなたは?」


「……半分は、今のままでいいって思ってます」


ざあ、と波の音が心地よく揺れる。

太郎は、静かに遠い海を見つめた。


「でも、もう半分は……違う景色も、見てみたい」


その瞬間だった。私の胸元の潮満珠が、これまでで一番強く、激しく脈打った。


ざぁぁ……と、二人の足元で潮が満ちる。

私は心の中で、はっきりと決める。


――この男、今すぐ連れて帰ろう。


「ねえ、太郎」


私はわざと一拍置いて、まっすぐに彼の黒い目を見つめた。


「私と遊ばない?」


「……遊ぶ?」


「そう。少しだけ、退屈じゃない場所へ」


太郎が本当に困った顔をする。

その戸惑う顔が、またどうしようもなく可愛かった。


私はさらに、彼を追い込むみたいに顔を近づけた。

甘い深い花のような香りが、潮風へと混ざり合う。


「竜宮城って、聞いたことある?」


「……昔話なら、少しだけ」


「あるわよ、本物が」


私はくすっと、耳元で囁くように笑った。


「極上の酒も、美しい歌も、華やかな踊りもある。

あなたが欲しいものは、大抵揃ってるわ」


「大抵、なんですね」


「完璧な場所なんて、この世界のどこにもないもの」


太郎はまだ、真面目に色々と迷っている。

だから私は、逃がさないように最後の一押しをする。


「太郎」


波の音が、急に遠くなる。


「あなたの“もしも”に、私を混ぜてみない?」


「……もしも?」


「もしも、見知らぬ怪しい女の誘いへ乗ったら。

もしも、海の底の美しい世界へ本当に行ってしまったら。もしも――そこで、私と本気で恋をしたら」


太郎の顔が、その瞬間、耳まで一気にと真っ赤になった。


「こ、恋って……急に、何言ってるんですか……っ」


「冗談かどうかは、これから二人で決めるわ」


私は、白い掌を彼へと差し出す。


「さあ、どうする?」


太郎は、私の手と、夕陽に染まる海を何度も何度も見比べていた。

潮風に吹かれるその指先が、少しだけ震えている。


長い、愛おしい沈黙。

それから。彼は観念したみたいに、はぁ、と大きな息を吐き出した。


「……少しだけ、なら」


私は、最高に嬉しく笑う。

勝ち誇る代わりに、わざと女の子らしく、軽く。


「少しだけが、一番危ないのよ?」


太郎が、私のその手をしっかりと握った、その瞬間。

胸元の潮満珠が、まばゆいばかりの光を脈打った。


ざぁぁっ――!! と、目の前の海が真っ二つに割れる。


太郎が、大きく息を呑んだ。


海底へとまっすぐに続く、青白く光る神秘の道。その先。

二人の、おそろろしく濃密な時間の始まりへと――。


新しいお話始めました。

今回は浦島太郎の民話をモチーフにアレンジしました。

史実とは違いますので、ファンタジーとしてお読みください。


よろしければ、感想いただけたら作者喜びます。

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