第六話:封印されし私
「お父様。ご心配には及びません。事業の資金は、すでに、ここにございますので」
私が差し出した革袋の、ずっしりとした重み。それは、私の言葉がただの虚勢ではないことを、何よりも雄弁に物語っていた。
父、クライフォルト公爵は、生まれて初めて見るような驚愕の色を目に浮かべ、絶句していた。厳格で、常に冷静な父が見せたその表情は、私の胸の奥に、ほんの少しだけれど、確かな勝利の感覚を灯した。
父の隣で、兄のテオドールも信じられないといった顔で、私と革袋を交互に見ている。
「エレノア、お前……そのお金は、一体どうしたんだ?」
「少し、先見の明があっただけですわ、兄様」
悪戯っぽく微笑んでみせると、父はハッと我に返ったように一つ咳払いをした。その表情は、驚きから、何かを吟味するような複雑なものへと変わっていた。
「……どこで、どのように工面した金かは問わん。だが、クライフォルト家の名を汚すようなやり方でないことだけは、信じよう」
「もちろんです、お父様」
「よろしい。ならば、好きにしろ」
父は、それだけを言い残すと、くるりと背を向けた。その背中は、昨日までの、ただ娘を叱責する父親のものではなく、娘という未知数の存在を前にした、一人の為政者のものに見えた。
「ただし、約束は忘れるな。期間は一年。結果が出せねば、それで終わりだ」
扉の向こうに消える直前に投げかけられた言葉は厳しかったが、その声には、もはや単なる怒りだけではない、かすかな期待のような響きが混じっているのを、私は聞き逃さなかった。
父が去り、部屋には私と兄、そして侍女のアンナの三人が残された。
「……驚いた。本当に驚いたぞ、エレノア。父上をあそこまで絶句させるとはな」
兄が、感心したように、それでいて少し呆れたように言った。
「お前は、僕の知らないうちに、とんでもない策士になっていたらしい」
「策士だなんて。ただ、自分の足で立ちたいだけですわ」
「そのための資金まで、自分で用意してしまうとはな。……わかったよ。僕も、もうお前をか弱い妹としては扱わない。一人の事業家として、対等に協力させてもらう」
兄の力強い言葉に、私は心から感謝した。
家族の理解という、何よりも強固な地盤を得て、私の計画は、今、ようやく本格的に始動する。
兄が部屋を出ていくと、私はアンナと共に、革袋の中身を机の上に広げた。
チャリン、チャリン、と硬質な音を立てて転がり出る、目映いばかりの金貨の山。アンナがごくりと喉を鳴らすのが聞こえた。
「すごい……お嬢様、これだけの額、本当にあの三つの宝飾品だけで……?」
「ええ。良い買い手が見つかったようね、アンナ。ご苦労様でした」
「いえ、わたくしは、お言いつけ通りにしただけで……」
この金貨の重みが、二度目の人生の、自由の重み。
誰にも頼らず、自分の知識と判断だけで手に入れた、確かな果実。
私は、その冷たい感触を確かめるように、一枚の金貨を指で弾いた。
しばらくその輝きに見入っていたが、いつまでも感傷に浸っているわけにはいかない。
「アンナ、早速仕事よ。この資金を元手に、『忘れられた谷』を開拓するために必要な物資をリストアップし、それぞれの市場価格を徹底的に調べてちょうだい。測量器具、土木用の工具、種苗、それから、開拓に従事する人々のための食料や医療品もね。できるだけ安く、そして質の良いものを手に入れるための、交渉材料を集めるの」
「は、はい!承知いたしました!」
アンナは、目を輝かせて力強く頷くと、早速羊皮紙とペンを取り出した。彼女もまた、私がただの悲劇の令嬢ではないと理解し、新しい仕事への意欲に燃えているようだった。
アンナが物資のリスト作成に没頭する傍らで、私は椅子に深く腰掛け、机に広げた谷の地図へと視線を落とした。
物資は、金で買える。けれど、本当に重要なものは、金だけでは手に入らない。
――才能ある、人の心と、その腕だ。
『忘れられた谷』を開拓し、薬草園という前例のない事業を成功させるには、既存の常識に囚われない、卓越した能力を持つ人材が不可欠だ。
そして、私の脳裏には、その条件に合致する二人の人物の顔が、はっきりと浮かんでいた。
そこまで考えた時、ふと、私は自分の変化に気づいた。
事業計画。資金調達。人材確保。
ほんの数日前まで、いや、一度目の人生の最後まで、私が使うことのなかった言葉ばかりだ。
妃になるために、私は多くのものを切り捨ててきた。いいえ、切り捨てるように、仕向けられてきた。
幼い頃、私は数字のパズルや、複雑な計算が好きだった。けれど、数学の家庭教師が父にこう進言したのを、扉の向こうで聞いてしまったのだ。
『お嬢様は、驚くほど数字に強い。ですが、妃殿下になられる方に、これ以上の高等数学は不要かと。むしろ、理屈っぽすぎると敬遠されかねません』
その日を境に、数学の授業は打ち切られた。
外国の書物で、革新的な治水技術や建築工法の話を読むのが好きだった。けれど、教育係は眉をひそめて言った。
『エレノア様。そのような下賤な学問は、男たちの仕事です。貴女様がご興味を持つべきは、詩や音楽、美術でございます』
私の手から、専門書は取り上げられた。
母の管理する庭園の片隅で、土に触れ、新しい品種のバラを育ててみるのが、何よりの楽しみだった。けれど、それを見つけた母は、悲しそうな顔で私の手をとり、こう言った。
『エレノア……。その手は、ピアノを弾き、美しい刺繍を成すための手です。土で汚してはなりません』
私の小さな秘密の畑は、その日のうちに潰された。
私が愛したものは、全て「未来の王妃に相応しくない」という、たった一つの理由で、私から引き剥がされていった。
そして、私も、いつしかそれが当たり前だと思うようになっていた。良い妃になるために、完璧なアルフォンス殿下の伴侶になるために、自分を殺すことが、正しいことなのだと。
その結果が、あの処刑台だ。
私が「相応しくない」と封印してきた知識や興味が、もし、あの時私の手元にあったなら。王宮の陰謀を数字で読み解き、宰相の不正な資金の流れを見抜き、自分の手で何かを生み出す喜びを知っていれば。
あんなにも無力に、断罪されることなどなかったかもしれない。
皮肉なものだ。
一度目の人生で私を殺したのは、私が必死に演じ続けた「完璧な妃」という仮面だった。
そして、二度目の人生で私を助け、武器となっているのは、その仮面の下に無理やり封じ込めてきた、「本当の私」なのだから。
じわり、と胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。
それは、悲しみではない。
抑圧からの解放と、自分自身を取り戻した、静かで、しかし何よりも力強い喜びだった。
私は、回想を振り払うように、すっと立ち上がった。
そして、新しい羊皮紙を取り出し、そこに二つの名前を書き記す。
『バルトルト・ヘンケル』
元王国騎士団所属の工兵。土木技術に関して、右に出る者はいないと言われた天才。しかし、あまりに実直で、融通の利かない性格が災いし、貴族である上官の汚職を告発しようとして逆に陥れられ、騎士団を不名誉除隊となった。今は、王都の片隅で日雇い労働者として酒に溺れる日々だと、一度目の人生で風の噂に聞いた。
『ライナー・ミルフィ』
南の農村出身の、若き農学者。痩せた土地でも育つ、寒さに強い小麦の品種改良に、独学で取り組んでいる。しかし、その革新的な農法は、伝統を重んじる村の長老たちから「神の御業に逆らう異端」と見なされ、村八分に近い扱いを受けていると聞く。
この二人こそ、私の計画の成否を握る鍵だ。
荒れ地を開拓し、インフラを整備するバルトルトの技術。そして、痩せた谷に薬草園という実りをもたらす、ライナーの知識。どちらが欠けても、事業は成功しない。
私は、すぐさま兄宛に短い手紙を書いた。
『この二人の人物の、現在の正確な居場所を調べていただけますか。内密にお願いいたします』
返信は、三日後に届いた。
兄の構築した情報網は、私が思うよりもずっと優秀らしかった。手紙には、二人の現在の住まいと、その暮らしぶりが簡潔に記されていた。どちらも、私が記憶していた通りの、不遇な生活を送っているようだった。
私は、手紙を読み終えると、物資リストの作成をしていたアンナを呼んだ。
「アンナ、少し、旅の支度をしてちょうだい」
「旅、でございますか? どちらへ……」
「人に、会いに行くのよ」
私は、きっぱりと告げた。
「クライフォルト公爵令嬢としてではなく、エレノアという一個人が、未来の仲間を迎えに行くためにね。お忍びで行くわ。準備をお願い」
アンナは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに全てを察したように、力強く頷いた。
「承知いたしました。すぐに、最高の準備を整えます」
公爵令嬢という身分は、時には強力な武器になる。しかし、人の心を動かす交渉の場では、むしろ邪魔になることさえあるだろう。
私は、対等な立場で彼らに会う。
事業家エレノアとしての、最初の仕事。
胸の高鳴りを抑えながら、私は窓の外に広がる青空を見上げた。
私の本当の人生は、今、この場所から始まるのだ。




