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第四話:動き出す者たちの思惑

その頃、王宮は、エレノアが残していった見えない波紋に揺れていた。


 第一王子アルフォンスの私室には、高価な陶器が床に叩きつけられて砕け散る、甲高い音が響き渡っていた。

「可笑しいだろう!あの女、僕が婚約を破棄してやったというのに、感謝するなどと!僕を、この国の王子を、馬鹿にするにもほどがある!」

 アルフォンスは、憤怒に顔を歪ませ、ぜいぜいと肩で息をしていた。彼の金色の髪は乱れ、完璧に整えられていたはずの服装には皺が寄っている。


 傍らには、聖女リリアナが心配そうに寄り添っていた。

「殿下、お気を鎮めてくださいませ。きっと、エレノア様はショックのあまり、心がおかしくなってしまわれたのですわ。お可哀想に……」

 純白のレースのハンカチでそっと目元を押さえるその姿は、いかにも心優しく、か弱い少女そのものだ。

 アルフォンスは、そんな彼女の姿を見てわずかに冷静さを取り戻すと、その華奢な肩を抱き寄せた。


「……ああ、リリアナ。僕の側には、お前のような優しい女性こそが相応しい。あんな、鉄のように冷たく、プライドばかり高い女はこりごりだ」

「はい、殿下……。わたくし、ずっと殿下のおそばにおります」


 甘い言葉を交わしながらも、リリアナの心は冷え切っていた。

(可哀想? あの女が?)

 脳裏に焼き付いて離れないのは、あの時のエレノアの姿。

 全てを見透かしたような、不敵な笑み。完璧な作法で婚約破棄を受け入れ、感謝さえ口にした、あの堂々たる態度。それは、リリアナが最も嫌う、本物の気品と知性を持つ者の振る舞いだった。


 リリアナの計画では、エレノアは泣き叫び、無様に許しを乞い、貴族たちの嘲笑の中で惨めに退場するはずだった。その醜聞が、クライフォルト公爵家の権威を失墜させ、アルフォンスの心を完全に自分だけのものにする、決定打となるはずだったのだ。

 なのに、現実はどうだ。

 大広間から戻って以来、聞こえてくるのはエレノアを非難する声よりも、むしろその毅然とした態度を評価する声や、一方的に婚約を破棄した王子の未熟さを訝しむ声ばかり。


(あの女……!私の計画を、どこまで知っているの……?)

 偶然ではない。あの態度は、明らかに何かを知り、覚悟を決めた者のものだった。

 アルフォンスを腕の中で慰めながら、リリアナの頭はこれからの対策を巡らせて、高速で回転していた。このままでは、ただ婚約者が入れ替わっただけで、クライフォルト公爵家は無傷のまま残ってしまう。それでは困るのだ。彼らが邪魔なのだ。


 やがて、ようやく癇癪を落ち着かせたアルフォンスが、疲れたように寝室へと下がっていく。その背中を愛らしい笑顔で見送ったリリアナは、扉が閉まった瞬間、その表情をすっと消した。

 聖女の仮面が剥がれ落ち、そこには氷のように冷たい瞳を持つ、計算高い少女の顔があった。


 彼女は、音もなく私室に戻ると、信頼する侍女を一人だけ呼びつけた。

「これを、宰相閣下へ。誰にも見られぬよう、秘密裏にお届けして」

 そう言って手渡したのは、小さな羊皮紙の巻物。そこには、彼女の美しい筆跡で、こう記されていた。


『計画に支障あり。エレノア・クライフォルトを警戒せよ。予想外の動きを見せている。早急に次の手を打つ必要あり』


 侍女が音もなく下がり、一人になった部屋で、リリアナは窓の外に広がる王宮の庭園を見下ろした。

「エレノア様……。あなたがどれだけ足掻こうと、無駄なこと。クライフォルト家は、この国の未来のために、消えていただかなくてはならないのですから」

 その呟きは、夜の闇に吸い込まれるように消えていった。


 ◆


 翌朝、クライフォルト公爵邸の私、エレノアの部屋は、静かな戦場と化していた。


 床に広げられたのは、私の所有するドレスや宝飾品の数々。一度目の人生では、妃教育の一環として、ただ言われるがままに最高級品を揃えてきた。そのどれもが、今の私にとっては過去の遺物でしかない。


「お嬢様、これらを全て、処分なさるので?」

 心配そうに尋ねてきたのは、私の侍女頭を務めるアンナだ。

 彼女は、私が幼い頃から仕えてくれている、数少ない心から信頼できる人間の一人。温和な顔立ちだが、芯が強く、口も堅い。一度目の人生で、私が投獄された後も、最後まで私の無実を訴え、公爵家を解雇されたと聞いている。


「ええ、アンナ。今の私には、もう必要のないものばかりだから」

 私は、山のようなドレスの中から、特に豪華な刺繍の施されたものを数着選び出す。

「これは、王家から下賜されたもの。持ち主がいなくなったのだから、返上するのが筋でしょう」

「しかし……」

「いいのよ。むしろ、さっぱりするわ」


 私は、ドレスの山から視線を移し、宝石箱が並べられたテーブルへと向かった。きらびやかな宝石の輝きも、今の私の心には響かない。

 けれど、これらはただの飾り物ではなかった。

 これから始まる私の戦いのための、最初の「軍資金」なのだ。


「アンナ、少しこちらへ来てちょうだい」

 私が手招きすると、アンナは不思議そうな顔でそばに寄ってきた。

「あなたに、秘密でお願いしたい仕事があるの」

「……わたくしに、できることであれば何なりと」

 アンナの忠誠心に満ちた瞳を見て、私は自分の計画を打ち明けることにした。


「ここにある宝飾品をいくつか、換金してきてほしいの。公爵家の御用達の店ではなく、あなたが信頼できる、目立たない店で。そして、このことは、誰にも……兄様にも、お父様にも、決して知られてはならないわ」

「か、換金、でございますか!? なぜそのような……お嬢様、もしや、この屋敷から……」

 アンナの顔が、不安で青ざめていく。私が家出でもすると考えたのだろう。


 私は、彼女の手をそっと握った。

「違うわ、アンナ。どこかへ逃げるためじゃない。ここで、私自身の力で生きていくために必要なの」

「お嬢様……」

「お願い。あなただけが頼りなのよ」


 まっすぐに彼女の目を見つめて告げると、アンナはしばらく逡巡した後、意を決したようにこくりと頷いた。

「……承知いたしました。このアンナ、お嬢様のためでしたら、どのようなことでも」

 その言葉に、私は心から安堵した。最初の協力者を得られたことは、何よりも心強い。


「ありがとう、アンナ。では、これを」

 私は、宝石箱の中から、価値の高いダイヤモンドやルビーには目もくれず、少し変わった品を三つ選び出した。

 一つは、月の光を浴びると微かに色が変わる、「月長石げっちょうせき」と呼ばれる半貴石のネックレス。今は、大して価値のある石とは見なされていない。

 二つ目は、百年ほど前の無名の彫金師が作った、森の妖精を象った銀のブローチ。細工は見事だが、作者が無名なため、二束三文で取引されている。

 そして三つ目は、南方の小国でしか採れない、虹色の輝きを持つ真珠の耳飾り。今はまだ、その希少性があまり知られていない。


 一度目の人生の記憶によれば、これらは全て、これから二年以内に、とんでもない価値を持つことになるのだ。

 月長石は、魔法薬の触媒として非常に高い効果を持つことが発見され、高騰する。無名の彫金師は、実は歴史に名を残す大芸術家の若き日の姿だったと判明し、その作品の価値は百倍以上に跳ね上がる。そして虹色の真珠は、その美しさに目をつけた隣国の王妃が身につけたことで、貴婦人たちの間で爆発的な流行を見せるのだ。


「アンナ、これらを換金してきて。今の価値は、馬車一台分にも満たないかもしれないわ。けれど、店主にはこう告げて。『今はまだ眠っているが、やがて目を覚ます宝です。価値がわかる方に』と。足元を見られてはだめよ」

「は、はい……!」

 アンナは、私の選んだ品々を見て、その価値の低さに戸惑っているようだったが、私の真剣な眼差しに押され、それらを丁寧に布で包んだ。


「お願いしますね、アンナ」

「お任せくださいませ」

 お忍び用の地味なフード付きマントを羽織り、アンナは私の部屋から静かに出ていった。


 一人になった部屋で、私は再び机に向かう。

 資金確保の目処は立った。次は、『情報網の構築』だ。

 一度目の人生で、私はあまりにも無知だった。王宮で、貴族社会で、何が起きているのか。誰が誰と繋がり、何を企んでいるのか。それを知らなかったからこそ、宰相たちの陰謀にやすやすと嵌められたのだ。

 情報は、武器だ。それも、最強の。


(どうやって、情報を集めるか……。兄様なら、騎士団の繋がりがあるかもしれない。でも、あまり危険なことには巻き込みたくない……。街の商人たちは? あるいは、もっと裏社会に精通した……)


 私が思考の海に沈んでいた、その時だった。

 コン、コン、と控えめなノックの音がして、私の意識は現実へと引き戻された。


「エレノア、入ってもいいかい?」

「兄様?」


 ドアを開けて入ってきたのは、兄のテオドールだった。彼は、少し困ったような、それでいて優しい笑みを浮かべていた。

「昨夜は、驚いたよ。お前が、父上を相手にあそこまで堂々と話すなんてな」

「……ご心配をおかけしました」

「いや、心配もしたが、少し……頼もしくも思った」

 そう言って、兄は私の机の上に、一冊の分厚い本を置いた。


「これは?」

「我がクライフォルト公爵領の、ここ十年分の収支報告と、事業計画の記録だ。お前、領地経営に力を注ぎたいと言っていただろう? 何かの役に立つかと思ってな」


 それは、私が今、喉から手が出るほど欲しかった情報だった。

 兄は、私が本気だと理解し、こうして力を貸そうとしてくれているのだ。


「何か、僕に手伝えることはないか? お前が一人で全部背負う必要はないんだぞ」

 兄の言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 私は、孤独ではない。


「ありがとう、兄様。本当に、ありがとう」

 私は、差し伸べられたその手を、今度は迷わずに取ることができそうだった。

 強力な味方を得て、私の二度目の人生は、今、確かな一歩を踏み出したのだ。

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