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第三話:これは好機、呪縛からの解放

クライフォルト公爵家の紋章を掲げた馬車は、王都の喧騒を抜け、静かな貴族街の一角に佇む我が家へと滑るように到着した。


 従者が扉を開けるよりも早く、屋敷の執事が沈痛な面持ちで私を迎える。その後ろには、メイドたちが心配そうな、あるいは好奇の目を隠せずに並んでいた。王宮での一件は、すでに鳥の速さで屋敷にも伝わっているのだろう。


「お嬢様、おかえりなさいませ……」

「ええ、ただいま戻りました」


 私は動揺を見せることなく、いつもと変わらぬ穏やかな声で応え、馬車を降りた。けれど、屋敷に一歩足を踏み入れた瞬間に感じた空気の重さは、これが「いつも通り」でないことを雄弁に物語っていた。


 案内されたのは、父の書斎を兼ねた応接室。磨き上げられたマホガニーの調度品が並ぶ、重厚で、そして今は息が詰まるほど冷たい部屋だ。

 そこには、二人の男性が待っていた。


 一人は、暖炉の前に立ち、厳しい表情で腕を組む、この家の主。私の父、レオナルド・フォン・クライフォルト公爵。彫りの深い顔に刻まれた皺が、その不快感を隠そうともしていない。

 そしてもう一人は、窓際に立ち、私に気づいて心配そうな顔を向けた、最愛の兄。テオドール・フォン・クライフォルト。私より三つ年上の彼は、陽光のような金髪を今は曇らせ、苦しげに眉を寄せていた。


 一度目の人生でも、同じ光景があった。

 あの時、私はこの部屋に入るなり父の前に崩れ落ち、ただ「申し訳ございません」と泣きじゃくることしかできなかった。父は激怒し、兄は私を庇い、家族の絆に癒えない亀裂が入ったのだ。


 もう、同じ過ちは繰り返さない。


「……エレノア」

 地を這うような低い声で、父が口火を切った。

「王宮で何があった。恥を忍んで、お前の口からすべて話せ」


 その声には、怒りと、それからほんの少しの失望が滲んでいた。

 私は、部屋の中央まで静かに歩みを進めると、父と兄に向かって優雅に一礼した。


「お父様、兄様、ただいま戻りました。ご心配をおかけして、申し訳ございません」

「心配だと? そのような次元の話ではない!」


 父の怒声が、部屋の空気を震わせる。

「クライフォルト家の娘が、王太子殿下から公衆の面前で婚約を破棄される!これがどれほどの恥か、どれほどの不名誉か、わかっているのか!我が家の顔に泥を塗るにもほどがある!」


 一度目の私が恐怖で震え上がった、厳しい叱責。

 けれど、今の私は違う。私は、ゆっくりと顔を上げた。そして、怒りに燃える父の灰色の瞳を、まっすぐに見つめ返した。


「お父様。わたくしには、これが恥だとは思えません」


「……何だと?」

 父の眉が、怪訝そうに吊り上がる。私の隣で、兄が「エレノア、父上の前だぞ!」と慌てたように囁いた。


 私は構わず、言葉を続ける。声は、静かだったが、確固たる意志を込めた。


「いいえ、恥ではございませんわ。むしろ、これは好機です」

「好機……だと? エレノア、お前、ショックで頭がおかしくなったのではないか?」

 父の声に、初めて純粋な困惑の色が浮かぶ。


 そうだ。私の反応は、父の、そして兄の予想を大きく裏切っているはずだ。それでいい。彼らが私を「悲劇に見舞われた可哀想な娘」だと思う限り、私は彼らの庇護の下から抜け出すことはできないのだから。


「お聞きください、お父様。アルフォンス殿下は、ご自身の感情を優先し、国家間の約束事である王家と公爵家の婚約を、私的な理由で一方的に破棄なさいました。それは、次期国王たる者として、あまりにも未熟で、危険な行いです」


 私は、一度目の人生で経験した、その後の出来事を思い返しながら語る。

「殿下は、聖女リリアナ様の言葉のみを信じ、長年婚約者であった私の言葉には一切耳を貸そうとなさいませんでした。冷静な判断力と、人の真贋を見抜く目をお持ちではない。そのような方が国王となられた時、この国がどうなるか、お父様にはお分かりのはずです」


 父は、何も言わなかった。ただ、その厳しい目が、私を観察するように細められる。彼は、私がただ感情的に王子を非難しているのではないと気づき始めていた。


「クライフォルト家は、代々王家を支える『王の盾』たることを誇りとしてきました。しかし、我らが忠誠を誓うべきは、王家そのものではなく、この国と、ここに生きる民のはずです。その国を危うくしかねない王太子に、クライフォルト家の娘を嫁がせること。それこそが、我が家の未来にとって最大のリスクとなり得たのではございませんか?」


 これは、ただの言い訳ではない。処刑台の上で、そしてこの場所に戻ってくるまでの間に、私が考え抜いた結論だった。

 リリアナの存在は、きっかけに過ぎない。アルフォンスという人間の器そのものに、王たる資格はなかったのだ。そんな男と結婚したところで、私に待っているのは、彼の尻拭いと、リリアナとの終わらない闘争だけだっただろう。


「今回の婚約破棄は、我がクライフォルト家が、王家の内乱に巻き込まれる前に、その呪縛から解放された、またとない好機なのです。これからは王家と距離を置き、我らが治める北の領地の経営にこそ、力を注ぐべきです」


 一気にそこまで言い切ると、私は息を整え、再び父の言葉を待った。

 応接室には、暖炉の薪がぱち、と爆ぜる音だけが響いている。


 長い、長い沈黙だった。

 父は、射抜くような視線で私を見つめたまま、動かない。

 その沈黙を破ったのは、兄のテオドールだった。


「……エレノア。お前、いつの間に、そんな……」

 兄の声は、驚きと戸惑いに満ちていた。彼にとって、私は守るべき、か弱い妹でしかなかったはずだ。その妹が、百戦錬磨の政治家である父を相手に、一歩も引かずに堂々と持論を述べている。無理もないだろう。


 やがて、父が重い口を開いた。

「……お前の言うことにも、一理あるのかもしれん」

 それは、肯定ではなかった。けれど、完全な否定でもない。

「だが、結果として、お前は婚約を破棄されたのだ。社交界での立場も、今後の縁談も、厳しいものになるだろう。その現実をどうするつもりだ」


「縁談は、もう望みません」

 私は、即答した。

「これからは、誰かの妻としてではなく、エレノア・フォン・クライフォルトとして、自分の足で生きていきたいのです。お父様、わたくしに機会をくださいませんか。この家の人間として、クライフォルト家に貢献する機会を」


 その言葉は、私の心の底からの本心だった。

 父は、私の目をじっと見つめ、何かを確かめるようにしていた。そして、やがて大きなため息をつくと、私から視線を外し、暖炉の炎へと向けた。


「……少し、一人で考えさせてくれ。テオドール、エレノアを部屋へ」

「は、はい、父上」


 それは、事実上の「休戦宣言」だった。

 一度目の人生では、この部屋で何時間も罵倒され続けたことを思えば、信じられないほどの進歩だ。


 私は静かに一礼し、兄に促されるままに応接室を後にした。


 長い廊下を、兄と二人、並んで歩く。

「エレノア……」

 兄が、心配そうに私の顔を覗き込んだ。

「大丈夫なのか? 無理をしているんじゃないだろうな。父上の前だからと、気丈に振る舞っているだけじゃないのか?」


 兄の優しい言葉に、思わず涙が滲みそうになる。一度目の人生でも、彼はこうして最後まで私の味方でいてくれた。その温かさは、何一つ変わっていない。


「大丈夫よ、兄様。無理なんてしていないわ」

 私は立ち止まり、兄に向き直って、心からの笑みを浮かべた。

「むしろ、今までずっと無理をしていたの。これからは、もうやめる。自分のために、生きたいの」


 私の笑顔に、兄は一瞬、息を呑んだようだった。

 それは、彼が今まで見たことのない、妹の顔だったのだろう。


「……そうか。お前が、そう決めたのなら」

 兄は、戸惑いながらも、最後には優しく微笑んでくれた。

「兄として、お前を全力で支える。何かあったら、必ず言うんだぞ」

「ありがとう、兄様」


 兄と別れ、ようやく自室の扉の前にたどり着く。

 侍女に断って一人で部屋に入り、背後で扉を閉めた瞬間、私は全身の力が抜けて、その場にへたり込みそうになった。


「……疲れた……」


 誰に聞かせるともなく呟く。

 気丈に振る舞ってはいたが、精神の消耗は激しかった。父との対峙は、まさに薄氷の上を歩くようなものだった。


 けれど、私は勝ったのだ。第一ラウンドは。

 私はゆっくりと立ち上がると、ふらつく足で部屋の奥にある大きな机へと向かった。そして、椅子に座り、引き出しから一枚の真っ白な羊皮紙とインク、そして羽根ペンを取り出す。


 処刑台の記憶は、まだ鮮明だ。

 あの無力感、絶望感は、決して忘れてはならない。

 けれど、感傷に浸っている時間はない。私は、生きているのだから。


 ペンをインクに浸し、私は羊皮紙に、これからやるべきことの第一歩を書き出した。


『1.活動資金の確保』

『2.信頼できる情報網の構築』

『3.協力者の選定』


 具体的な計画は、まだ頭の中にしかない。けれど、やるべきことは明確だ。

 もう、誰かに人生を決めさせたりはしない。この手で、未来を掴み取る。


 窓の外では、陽が傾き始め、空が茜色に染まっていた。

 それは、長い一日の終わりを告げる色であり、そして、私の新しい人生の始まりを告げる、夜明けの色にも見えた。

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