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第二話:偽りの仮面の脱ぎ捨て方

私が浮かべた笑みは、静まり返った王宮の大広間に、まるで一滴の毒のようにゆっくりと広がっていった。


 それは、公爵令嬢エレノア・フォン・クライフォルトがこれまで決して見せることのなかった種類の笑みだったからだ。完璧に計算された妃候補の微笑みでも、社交辞令の穏やかな笑みでもない。目の前の愚かな茶番を、そしてこれから始まるであろう己の新しい人生を、心の底から楽しむかのような、深く、不敵な笑み。


 最初に我に返ったのは、私の断罪者であるはずのアルフォンス殿下だった。彼の顔は、予測が外れた子供のように困惑から怒りへと赤く染まっていく。


「……何を笑っている。エレノア、貴様、気でも狂ったか!」


 一度目の人生で、同じ状況に陥った私は、ただ震え、青ざめ、床に崩れ落ちた。弁明しようにも声は裏返り、涙で視界は滲み、助けを求めるように周囲を見渡しては、冷たい視線に絶望するだけだった。

 王子が期待していたのは、きっとその姿だったのだろう。打ちひしがれ、惨めに許しを乞う、哀れな悪役令嬢の姿を。


 だから、私は彼の期待を裏切ることから始めることにした。


 すっ、と背筋を伸ばし、処刑台の上ではもはや遠い記憶でしかなかった、完璧な淑女のカーテシーをゆっくりと披露する。スカートの裾が優雅に広がり、少しも乱れのないその所作は、私が長年かけて身体に叩き込んできた努力の結晶だ。


「いいえ、殿下。わたくしは、かつてないほど正気でございますわ」


 凛、と響いた声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。恐怖も、悲しみも、もはやない。一度死を経験した魂は、これしきのことで揺らぎはしなかった。


 私のあまりに落ち着き払った態度に、アルフォンス殿下はたじろいだように一歩後ずさる。彼の腕に絡みついていたリリアナが、不安そうに殿下の袖を強く握りしめるのが見えた。彼女のシナリオでも、私はここで泣き崩れるはずだったのだろう。


「き、貴様……自分が何をしたのか、わかっているのか!」


 アルフォンス殿下は気を取り直すように、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。一度目の人生でも見た、私の「罪状」が書き連ねられた紙だ。


「貴様は、聖女であるリリアナに深く嫉妬し、夜会のドレスを汚損し、階段から突き落とそうとし、挙句の果てには毒を盛ろうとまでした!そのすべてに証人がいるのだぞ!」


 矢継ぎ早に放たれる言葉の一つ一つが、かつては私の心を抉る刃だった。そんなことはしていない、と叫んでも、誰も聞いてはくれなかった。

 けれど、今の私には、ただの雑音にしか聞こえない。


 私は、慈愛に満ちた聖母のような笑みさえ浮かべて、彼の言葉に耳を傾けた。そして、彼が言い終わるのを待って、静かに口を開く。


「……まぁ。わたくしが、そのような恐ろしいことを」


 まるで他人事のような、抑揚のない返答。

 アルフォンス殿下は、言葉に詰まった。彼はきっと、私が必死に無実を訴えるか、あるいは罪を認めて許しを乞うか、そのどちらかだと思っていたのだろう。この、無関心という反応は、彼の想定にはなかったのだ。


「そ、そうだ!貴様の悪行は全て暴かれたのだ!ゆえに僕は……」


「わかっておりますわ、殿下」


 私は彼の言葉を、優雅に遮った。

「このエレノア・フォン・クライフォルトとの婚約を、破棄なさるのでしょう?」


 その言葉は、まるで祝福の響きさえ帯びていた。

 一度目の人生で、私に絶望の烙印を押したその言葉を、今度は私自身の口から紡ぎ出してやる。それこそが、私の反撃の第一歩だった。


 アルフォンス殿下は、自分が言うはずだった決め台詞を奪われ、完全に狼狽していた。彼の隣で、リリアナが「殿下……」と不安そうな声を漏らす。周囲を取り囲む貴族たちが、ひそひそと囁き始めているのがわかる。場の空気が、少しずつ変わり始めていた。


 私は、最後の一押しのために、ゆっくりとアルフォンス殿下の前へと歩み寄った。そして、彼の空色の瞳をまっすぐに見据える。


「殿下。これまで長きにわたり、殿下の婚約者という大役を仰せつかり、身に余る光栄でございました。至らぬわたくしを、本日この時をもって解任してくださるというのでしたら、それに異存はございません」


 そして、私はもう一度、深く、完璧なカーテシーを捧げた。


「喜んで、その婚約、破棄させていただきますわ。――これまでのご厚情、心より感謝申し上げます」


 感謝。

 その一言は、どんな反論よりも、どんな罵倒よりも、アルフォンス殿下のプライドを打ち砕くのに十分だった。

 婚約を破棄される悲劇の令嬢が、その決定を下した王子に「感謝」する。これ以上の皮肉があるだろうか。彼の断罪は、私にとって罰ではなく、解放の福音でしかないのだと、暗に告げているのだから。


 アルフォンス殿下の顔が、怒りで歪む。

「……貴様、僕を、馬鹿にしているのか!」

「滅相もございません。ただ、事実を申し上げたまで。殿下のお隣には、わたくしのような堅苦しい女ではなく、聖女リリアナ様のような、可憐で心優しい方こそが相応しい。そう、心の底から思っておりますの」


 私はそこで初めて、リリアナへと視線を移した。彼女はビクリと肩を震わせ、アルフォンス殿下の背後へと隠れる。その怯えた小動物のような仕草は、男たちの庇護欲を掻き立てるのだろう。

 けれど、その瞳の奥にある、計算高い光を見逃しはしない。


「リリアナ様、殿下のこと、くれぐれもよろしくお願いいたしますね」


 微笑みかけた私に、彼女は何も答えられなかった。


 もはや、この場に用はない。

 アルフォンス殿下が何かを言う前に、私は彼らに背を向けた。一度目の人生では、衛兵に引きずられるようにして退場させられた。けれど、今は違う。私はまだ、クライフォルト公爵家の令嬢としての誇りを失ってはいない。


 シャンデリアの光を反射する大理石の床に、私の靴音だけが響く。

 集まった貴族たちが、モーゼの海のように私のために道を開けた。彼らの視線には、もはや侮蔑の色はない。あるのは、困惑、好奇、そしてほんの少しの畏怖。

 彼らは見たのだ。王子の権威を前にしても一切動じず、逆に王子をやり込めてみせた、一人の令嬢の姿を。


 大広間の巨大な扉の前で、私は一度だけ足を止め、ゆっくりと振り返った。

 そこには、唇を噛み締め、悔しさに震えるアルフォンス殿下と、その腕にすがりつきながらも、不安の色を隠せないリリアナの姿があった。


「それでは皆様、ごきげんよう」


 小さく、しかし広間の隅々まで届く声でそう告げ、私は今度こそ迷いなく歩き出した。

 扉が衛兵によって開かれ、その向こうへと姿を消す。扉が閉まる直前、ざわめきが大きくなるのが聞こえたが、もう私の知ったことではなかった。


 王宮の長い廊下を、一人、歩く。

 大広間での毅然とした態度は、すべて処刑台の上で誓った決意の賜物だ。けれど、こうして一人になると、緊張の糸が少しずつ緩んでいくのを感じる。膝が微かに震え、指先が冷たい。

 それでも、私は歩みを止めなかった。


 正面玄関で待っていた従者が、私の姿を見て安堵の表情を浮かべる。彼の案内で、クライフォルト公爵家の紋章が刻まれた豪奢な馬車に乗り込んだ。


 重厚な扉が、パタン、と音を立てて閉まる。

 その瞬間、王宮の喧騒が嘘のように遠ざかり、静寂が訪れた。


「……ふぅぅぅううう」


 私は、誰に聞かせるともなく、長い長い息を吐き出した。張り詰めていた身体から力が抜け、ビロードのシートに深く沈み込む。

 やった。やりきった。

 悲劇のヒロインを演じることなく、私は、私の意志で、あの忌まわしい婚約を終わらせたのだ。


 馬車が、ゆっくりと動き始める。

 窓の外に、見慣れた王都の景色が流れ始めた。一度目の人生では、この景色を涙で滲ませながら見ていた。けれど今は違う。

 私の瞳には、はっきりと未来が見えている。


 これは、復讐ではない。

 復讐などという、後ろ向きな感情のために、二度目の人生を浪費するつもりはない。

 これは、奪還だ。

 偽りの仮面を被った空っぽの自分に奪われた、私の本当の人生を取り戻すための、戦いの始まりなのだ。


 処刑台の冷たい雨の感触を、今も肌は覚えている。

 あの絶望を、あの後悔を、二度と繰り返さない。


 私は、静かに拳を握りしめた。

 これから始まるであろう、本当の人生に思いを馳せながら。

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