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第十話:孤独な畑の共鳴者

「貴方の育てているその小麦を、ぜひ、この目で見せていただきたくて、参りましたの」


 私の言葉は、静かな農村の空気に、奇妙な響きをもって溶けていった。

 ライナー・ミルフィと名乗った青年は、敵意に満ちた表情を崩さないまま、しかしその瞳の奥に、わずかな困惑の色を浮かべていた。鍬を握る手に、さらに力がこもる。


「……小麦が見たい、だと?」

 彼の口から漏れたのは、嘲りと不信が入り混じった声だった。

「はっ、新しい嫌がらせか。次はなんだ? 見て、気味が悪いと石でも投げるか。それとも、神への冒涜だと、この畑に火でも放つか。村の連中がやりそうなことだ」


 彼の言葉の一つ一つが、これまで彼が受けてきた仕打ちの過酷さを物語っていた。長年の孤独が、彼の心をハリネズミのように硬い針で覆ってしまっている。

 傍らのバルトルトが、その無礼な物言いに眉をひそめ、一歩前に出ようとするのを、私はそっと手で制した。力でねじ伏せても、彼の心は開かない。


「わたくしは、村の人間ではございません。もちろん、石を投げたり、火を放ったりするためなどという、野蛮な目的で参ったのでもありません」

 私は、彼の敵意を恐れることなく、ゆっくりと一歩、彼の畑へと足を踏み入れた。アンナが小さく息を呑む気配がしたが、構わない。


「ただ純粋に、貴方の研究に興味がある。それだけです」

「興味……だと?」

「ええ。例えば……」


 私は、彼の足元に広がる、実験用の区画の一つを指さした。そこには、他の麦よりも明らかに背が低く、しかし力強い穂をつけた一角があった。

「この列は、意図的に水の量を減らし、乾燥した土地への耐性を調べていますね。そして、あちらの列は、わざと日当たりの悪い北向きの斜面に植えられている。これは、寒さへの耐性を試しているのでしょう。どちらも、普通の農家が決してやらない、素晴らしい試みです」


 私の言葉に、ライナーの動きが、ぴたりと止まった。

 彼の見開かれた瞳が、信じられないものを見るかのように、私を捉える。

 私は構わず、畑の中をゆっくりと歩き、観察を続けた。妃教育で学んだ植物学の知識と、一度目の人生で聞きかじった未来の農業技術の記憶が、頭の中で結びついていく。


「穂の色が少し赤い、こちらの品種。これは、この村の固有種と、北国から取り寄せた野生種を交配させたものでは? 病に強い特性と、寒さに強い特性を、同時に両立させようとなさっている」

「……なっ……」

「そして、この一番隅の小さな区画。ここだけ土の色が違います。養分の少ない砂を混ぜているのですね。どんな過酷な環境でも育つ、最強の小麦を……貴方は、たった一人で、ここで生み出そうとしている」


 そこまで言い切った時、私は歩みを止め、ライナーへと向き直った。

「違いますか? ライナー・ミルフィ様」


 彼は、絶句していた。

 その顔に、もはや敵意の色はなかった。あるのは、自分の秘密の実験室に、土足で踏み込まれたかのような衝撃と、そして、生まれて初めて自分と同じ言語を話す人間に会ったかのような、途方もない驚きだった。


「……あんた、一体……何者なんだ……?」

 ようやく絞り出したその声は、震えていた。

「なぜ、そこまで……わかるんだ……」

「申し上げたはずです。貴方の研究に、ただならぬ興味がある、と」


 しばらく、沈黙が続いた。

 やがて、ライナーは、武器のように握りしめていた鍬を、力なく地面に置いた。

 それは、彼の降伏宣言のようにも見えた。

「……ついてこい」


 彼は、ぶっきらぼうにそう言うと、畑の奥にある小さな小屋へと、おぼつかない足取りで歩き始めた。

 私とバルトルト、アンナは、顔を見合わせ、静かにその後に続いた。


 小屋の中は、彼の研究室であり、おそらくは生活の場でもあった。

 壁一面に、様々な種類の乾燥させた麦の穂が、標本のようにびっしりと並べられている。テーブルの上には、手書きの研究記録が山のように積まれ、インクの匂いが部屋に満ちていた。隅には、簡素なベッドと、一脚の椅子。この若い研究者が、どれほどの情熱と時間を、この小さな小屋に注ぎ込んできたのか、一目でわかった。


「……座ってくれ。汚いが」

 ライナーは、椅子を私たちに勧め、自分は無造作に床に座り込んだ。

 そして、堰を切ったように、語り始めた。


「俺の家は、代々この村で小麦を作ってきた。だが、親父もお袋も、俺がガキの頃に、冷害で畑が全滅したせいで、食い詰めて体を壊して死んだ。俺は、それが悔しくて……悔しくて、たまらなかった。天候なんかに、人間の命が左右されるのが、どうしても許せなかったんだ」


 彼の言葉は、もはや私たちに向けられたものではなかった。長年、誰にも話せず、自分の中に溜め込んできた、独白だった。

「だから、決めたんだ。どんな日照りでも、どんな寒い冬でも、絶対に枯れない、最強の小麦を、この手で作ってやるって。そうすれば、もう誰も、腹を空かせて死ぬことなんてなくなる……」


 彼は、壁の標本を、愛おしそうに見つめた。

「村の連中は、俺を気味悪がった。先祖様のやり方を変えるな、と石を投げられた。役所に相談に行っても、頭のおかしい奴だと、追い返されるだけだった。……誰も、誰も、俺がやろうとしていることの価値を、理解してくれなかった……!」


 彼の孤独な魂の叫びを、私たちは、ただ黙って聞いていた。

 話の合間に、バルトルトが、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。彼もまた、この若き天才の、報われない情熱に、心を動かされているのだ。


 ライナーの話が一段落した時、私は、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。

「ライナー様。これは、わたくしの故郷の土地の、土壌の分析データです」

「……土壌データ?」

「ええ。そこは、このミルフィ村よりも、遥かに寒く、そして土地も痩せています。貴方のその研究は、このような土地にこそ、希望の光をもたらすはずです」


 ライナーは、恐る恐るその羊皮紙を受け取ると、そこに記された詳細なデータに目を見開いた。

「……なんだ、この土は。砂と粘土ばかりで、腐葉土がほとんどない……。こんな場所で、作物が育つはずが……いや、待てよ……」

 彼の目の色が、研究者のそれに変わる。

「この土壌のph値……カリウムの含有量……。もし、俺の、あの『霜降り小麦』の系統……七番目の交配種なら、あるいは……」


 ぶつぶつと専門用語を呟き始めた彼を見て、バルトルトが、面白そうに口の端を上げた。

「おい、エレナ。こいつ、気に入ったぜ。わけのわからんことを言ってるところが、昔の俺の設計図を見てるみてえで、ゾクゾクする」

「ふふ、わかりますわ、バルトルト様」


 ライナーは、もはや私たちの存在も忘れ、羊皮紙のデータと、壁の標本を交互に見比べ、思考の海に沈んでいる。

 彼の心が、完全にこちらに開かれた。今こそが、その時だ。


「ライナー様」

 私が声をかけると、彼ははっと我に返った。

「その素晴らしい研究を、この小さな畑と、小さな小屋だけで、終わらせてしまうおつもりですか?」

「え……?」

「わたくしと、共に来てはいただけませんか。貴方のための、この国で一番大きな実験場をご用意します。資金も、人員も、必要なものは全て。そこで、貴方の夢を、思う存分、実現させていただきたいのです」


 私は、バルトルトにも見せた、『忘れられた谷』の地図を、テーブルの上に広げた。

「この痩せた谷を、わたくしは、貴方の『霜降り小麦』で、黄金色の穀倉地帯に変えたいのです。いいえ、薬草園と、両立させてみせます。そうなれば、この国から、飢えと病で苦しむ人々を、救うことができる」

「……俺の、小麦で……国を、救う……?」


 ライナーの瞳が、激しく揺れていた。

 村を出ることへの恐怖。長年馴染んだ、この孤独な畑を離れることへの不安。

 しかし、それ以上に、自分の研究が認められ、大きな舞台でその真価を発揮できるかもしれないという、抗いがたいほどの期待と興奮。


「……考え、させて、くれ……」

 彼は、絞り出すようにそう言った。

「わかったわ。お返事は、明日までお待ちします」

 私は、彼の動揺を察し、それ以上は何も言わなかった。無理強いは、逆効果だ。


 私たちは、静かに小屋を後にした。

 彼には、一人で考える時間が必要だろう。


 しかし、村へと戻る道すがら、私たちの目の前に、数人の老人たちが、道を塞ぐように立ちはだかっていた。その中心にいるのは、一際威厳のある、この村の村長らしき男だった。

 その目は、冷たく、そして明確な敵意に満ちていた。


「よそ者たちよ」

 村長は、威圧するように言った。

「我らの村の厄介者に、これ以上、関わらないでいただきたい。あいつは、この村の和を乱す、異端者だ。お前たちが、あいつをそそのかして、これ以上、村を引っ掻き回すというのであれば……」

 村長は、言葉を切ると、厳しい視線を私たちに向けた。

「よそ者だろうと、容赦はせんぞ」


 バルトルトが、臨戦態勢で私の前に立つ。

 村との、決定的な対立の始まりだった。

 そして、それは同時に、ライナーがこの小さな村から飛び立つための、最後の一押しになるかもしれないと、私は静かに確信していた。

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