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第一話:処刑台の雨

ざあ、と音を立てて降りしきる雨が、私の頬を冷たく濡らしていく。


 鉄の匂い、湿った木の匂い、そして私を取り囲む群衆の、むせ返るような悪意の匂い。そのすべてが混じり合って、私の意識を容赦なく現実へと引き戻す。


 ここは、王都の中央広場に設えられた、断罪のための処刑台の上。


 かつて、この国の公爵令嬢として、完璧な淑女として、未来の王妃として称賛を浴びたエレノア・フォン・クライフォルトの、人生の終着点だった。


「偽りの聖女め!」

「国を売った悪魔!」


 どこからか投げつけられた泥が、すでに汚れ切ったドレスの裾をさらに汚した。もう、痛みも感じない。地下牢での短い時間で、私の心はとっくに何も感じなくなっていたから。骨張った手首にはめられた枷が、動くたびに冷たい音を立てる。ああ、そういえば、最後にまともな食事をしたのはいつだったかしら。


 ゆっくりと顔を上げた私の目に、見慣れた光景が映る。

 広場を見下ろす王宮のバルコニー。そこに、一組の男女が寄り添うように立っていた。


 私の元婚約者、この国の第一王子であるアルフォンス殿下。

 そして、その隣で庇護欲をそそるように寄り添う、男爵令嬢リリアナ。今や「真実の聖女」と謳われる彼女は、扇で口元を隠し、悲しみに耐えるかのように眉を寄せている。けれど、その瞳の奥に宿る、微かな、それでいて確かな勝利の光を、この距離からでも私は感じ取ることができた。


. . .どうして、こうなってしまったのだろう。


 私の人生は、完璧だったはずだ。

 物心ついた時から、未来の王妃となるべく教育を受けてきた。感情を殺し、常に微笑みを浮かべ、国の利益を第一に考え、アルフォンス殿下の完璧な伴侶となることだけを目指して生きてきた。趣味も、好きなものも、すべて「妃として相応しいか」という基準で選び、そうでないものは切り捨てた。


 血の滲むような努力だった。けれど、それが私の役目であり、誇りだった。

 リリアナが現れる、その日までは。


 田舎の男爵家から、聖なる力を持つと神殿に認められ、鳴り物入りで王宮にやってきた彼女。天真爛漫で、少しドジで、誰にでも愛される少女。伝統と格式を重んじる私とは、まさに正反対。

 アルフォンス殿下は、瞬く間に彼女に心を奪われた。私がこれまで捧げてきた全てを、殿下は「退屈で、堅苦しい」と一蹴した。


 私は嫉妬に狂った、ということになっている。

 聖女リリアナを陥れようと様々な悪事を働き、ついには隣国に国の機密を売り渡そうとした、と。

 もちろん、すべて嘘だ。身に覚えのないことばかり。けれど、次々と出てくる「証拠」と「証言」の前で、私の言葉は誰にも届かなかった。

 父も、母も、私を信じてくれた。けれど、王家の決定を覆すことはできず、クライフォルト公爵家は爵位の剥奪こそ免れたものの、全ての権力を失い、領地での蟄居を命じられた。


 唯一の心残りは、最愛の兄、テオドールのこと。最後まで私の無実を信じ、奔走してくれた優しい兄。処刑が決まったと告げた時、彼は私以上に絶望し、涙を流していた。ごめんなさい、兄様。出来の悪い妹で、本当にごめんなさい。


 ギィィ、と背後で鈍い音がして、私の思考は中断された。

 処刑人が、断頭台――ギロチンの刃を吊り上げる音。


 ああ、終わるのだ。

 私の、空っぽの人生が。


 バルコニーに目を戻す。

 アルフォンス殿下は、もう私を見てはいなかった。リリアナの濡れた髪を、慈しむように指で拭っている。その光景は、鋭い刃となって私の胸を貫いた。憎しみではない。悲しみでもない。それは、あまりにも巨大な、虚しさだった。


 私が費やした歳月は、私が殺してきた感情は、私が捧げた忠誠は、一体何だったというの?

 完璧な妃を演じるだけの、空っぽの人形。それが、私の人生。


 刃が、定位置まで上がりきったのだろう。広場が水を打ったように静まり返る。

 処刑人が私の背中に手を置き、首を固定台へと押し付けた。冷たい木と鉄の感触。視界の先には、編み目の粗い籠が置かれている。あれが、私の頭蓋を受け止めるのか。


 その時、走馬灯のように、記憶が駆け巡った。


 厳しい作法の授業。夜を徹して学んだ政治学。褒められることのなかった刺繍。アルフォンス殿下の好きな青色のドレスばかりを選んでいたこと。リリアナに「もっと素直になればいいのに」と哀れみの目で見られたこと。


 違う。

 違う、違う、違う!


 本当は、赤いドレスが好きだった。庭で泥だらけになって、花を育てるのが好きだった。難しい歴史書よりも、胸のときめく恋愛小説が好きだった。

 けれど、そのすべてを「妃に相応しくない」と、私自身が捨てたのだ。


 ――後悔。


 その二文字が、絶望で凍てついていた私の心を、灼熱の鉄のように焼き尽くした。

 後悔。後悔。後悔。

 こんな結末のために、私は自分を殺してきたわけじゃない。こんな理不尽な最期を迎えるために、完璧を演じてきたわけじゃない!


 もし。

 もし、もう一度だけやり直せるのなら。


 この、空っぽの人生を。

 誰かのために演じるだけの自分を。


 もう、たくさんだ。

 今度は、絶対に誰かの言いなりになんてならない。誰かに媚びることも、自分を偽ることもない。私が本当に欲しかったものを、この手で掴んでみせる。私の人生を、私の手に取り戻す!


 その強い、あまりにも強い意志が生まれた瞬間。


 シュッ、という空気を切り裂く音と共に、私の意識は永遠の闇へと落ちた。


 ◆


 ――エレノア・フォン・クライフォルト!


 重く、厳しい声が、闇の中に響き渡る。

 ああ、神による裁きの時が来たのだろうか。それとも、地獄の番人の呼び声か。どちらにせよ、もうどうでもいい。私の魂がどうなろうと、知ったことではない。


 ――聞いているのか、エレノア!


 けれど、その声はあまりにも執拗に私を呼ぶ。そして、どこかで聞き覚えのある、懐かしく、腹立たしい声だった。

 重い瞼を、こじ開ける。

 滲む視界が、少しずつ焦点を結んでいく。


 そこは、薄暗い地下牢ではなかった。

 雨の匂いも、鉄の匂いもしない。

 磨き上げられた大理石の床。高い天井から吊るされた、壮麗なシャンデリアの光。壁に飾られた、英雄譚を描いたタペストリー。


 見間違えるはずもない。ここは、王宮の大広間。

 そして、私の目の前に立つ人物を見て、呼吸が止まった。


 豪奢な装飾の施された王族の正装。傲慢なまでに光を弾く金色の髪。私を侮蔑の色で見下ろす、空色の瞳。

 処刑台から見上げた彼よりも、少しだけ幼く、その分だけ苛立ちを隠そうともしない、未熟な顔つき。


「この僕が話しているのだぞ!いつまで黙っているつもりだ!」


 アルフォンス殿下。

 私の、元婚約者。


 彼の隣には、純白のドレスに身を包んだリリアナが、不安そうな顔でこちらを見ている。その手は、しっかりと殿下の腕に絡みついていた。


 状況が、理解できない。

 私は、死んだはずだ。あの冷たい雨の中、ギロチンの刃に首を刎ねられて。

 なのに、なぜ。

 なぜ、私はここにいる?

 なぜ、彼らが目の前に?


 混乱する私の耳に、決定的な言葉が突き刺さる。


「……よって僕は今この時をもって、貴様、エレノア・フォン・クライフォルトとの婚約を破棄する!」


 その言葉は、私の人生の全てが崩れ始めた、始まりの言葉。

 聖女リリアナを虐げたという、最初の冤罪を突きつけられた、運命の日。


 私は、戻ってきたのだ。

 処刑されるよりもずっと前の、この、全ての悲劇が始まった瞬間に。


 呆然と立ち尽くす私を見て、アルフォンス殿下は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

「どうした、あまりの衝撃に声も出ないか? 自業自得だ」


 違う。

 衝撃は、受けている。けれど、それは絶望などではない。


 私の心に宿ったのは、処刑台の雨の中で燃え上がった、灼熱の後悔と、そして――闇の中に射し込んだ、一筋の光。


 やり直せる。

 この、空っぽの人生を。

 もう一度。


 ゆっくりと、私は顔を上げた。

 そして、まだ何も知らない愚かな王子と、これから私を陥れようとしている偽りの聖女をまっすぐに見据え、一度目の人生では決して見せることのなかった笑みを、深く、深く、浮かべたのだった。

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