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終末世界の抗体少女  作者: クスノキ了
1/1

再会の街

 乾いた破裂音が三度、路地に短い回想のように残響した。

 真壁湊は伏せた姿勢のまま割れた自動販売機の影から銃口を引く。薬莢がアスファルトを転がり、曇った空の色を小さく反射する。這い寄る二体が前のめりに崩れ、最後尾の一体だけがまだ腕を伸ばしてきた。歯茎の剥き出しを見た瞬間、湊の背中のどこか——異世界で鍛えられた回路が「近すぎる」と判断する。躊躇を切り捨て、膝で距離をつくり、喉筒を踏み抜いた。


 「……次」


 声に出すと心が静まる。異世界から戻って一年、身体に残ったわずかな“強化”はいまも彼の反射を先回りしてくれる。

 だが銃の匂いに彼は時折違和感を覚える。「この世界の弾丸は、安っぽい匂いがしないな」と、誰にも向けずにつぶやいた。向こうの世界で嗅いだ黒色火薬の匂いは、もっと土臭かった。


 角の向こうで誰かが転んだ。白いスニーカーがひっくり返り、泥の飛沫が散る。少女だ。肩から落ちたリュックの口が開いて、包帯と乾パンが跳ねる。

 少女は振り返り湊を見て目を大きくした。


 「……やっと、見つけた」


 出会いの言葉としてはあまりにもおかしい。湊は反射で距離を詰め、彼女の腕を掴んで引き起こすと低く言った。


 「走れるか」

 「うん。——湊」


 名前を呼ばれて心臓が一拍遅れる。

 彼女は十五歳くらい、痩せぎすで、額にかかる髪は切り揃えられていない。頬に泥がつき息は荒いのに、目だけが妙に落ち着いている。肩のリュックには手書きで「AOI」とある。


 「誰に教わった」

 「あなたに」


 冗談を言っている顔ではなかった。背後から濁った合唱のような呻きが近づく。湊は手短に状況を切り上げるため、足元の紙切れに目を止めた。地図の切れ端。廃墟だらけの市街図に赤いペンで粗い印がついている。


 「これ、君のか」

 「違う。道で拾った。赤い印、たぶん物資庫」


 地図に記された印は、この路地の先にある廃ビルを指しているように見えた。

 餌にしては出来が良すぎる。だが、選択肢は多くない。湊は葵と名乗った少女を庇いながら低い姿勢で路地を渡る。自販機と倒れた標識の隙間をすり抜け、割れたガラス戸からビルの内部へ。


 暗い。ロビーの吹き抜けには鳥の巣があり、風が埃を舞い上げる。カウンターの内側に転がったバッグを足で引き寄せ中を漁る。カロリーバー、軍手、携帯用浄水器。


 「当たり、だな」


 葵はすぐに自分のリュックを開け、手際よく仕分けを始めた。カロリーバーは四本中二本を開けずにしまい、残りを半分に割って一つは湊に差し出す。


 「半分こ」

 「腹は……」

 「空いてるけど、もっと後で空く」


 十五歳の判断ではない。湊は受け取り、噛む。甘さで喉が軋む。静けさの中に遠くから聞こえる階段を上る歪んだ足音。


 「上へは行かない。地下があるはずだ」


 二人はエレベーターホール横の扉を見つけ、非常灯の下で取っ手を探る。鍵がかかっている。葵がしゃがみ込み、床のマットをめくった。古い清掃道具入れ。錆びた鍵束が一本。


 「短期の幸運ってやつか」

 「違うよ。拾い物ってだいたい、誰かの置き土産」


 湊は鍵を回す。重いクリック音。扉の向こうはコンクリートの階段が地下へ続いていた。

 降りながら、湊はさっき葵が自分の名を呼んだことを思い出す。


 「俺を知っていると言ったな」

 「言ってない。……叫んだだけ」


 嘘をついている気配はなかった。だが、葵の首元で揺れる小さなペンダントが彼の視線を奪う。銀色の古いもの。掠れた装飾。


 「それ、見ていいか」


 葵はためらいなく外し、彼に渡す。

 ペンダントトップがぱかりと開く。中には小さな写真。色褪せた街角で、背中を向けた若い男が写っている。肩幅、癖のある髪、腰の落とし方。

 湊は喉に重りを落としたような感覚を覚えた。


 「これ、誰だ」

 「知らない。最初から入ってた。目が覚めた時には」


 写真の隅、うっすらと白い光の筋が走っている。稲妻のようでもあり光の綻びのようでもある。湊は無意識に指でなぞった。

 ——時空が擦れたような歪み。向こうの世界で見飽きた現象だ。

 彼は写真を閉じ、返そうとした。そこで自分の右手の甲にある薄い傷跡が目に入る。帰還直後に負ったばかりのかすり傷。

 胸裏にざわめきが広がった。


 「……あとで、もう一度見せてくれ」


 葵が頷く。階段の底まで降りると薄暗い倉庫が広がっていた。段ボールが積まれラップで巻かれ、埃をかぶっている。赤ペンで「救援」と走り書きされた箱を開けると、乾燥米、缶詰、医療用アルコール、古いが未開封の包帯。

 湊は思わず笑う。油断ではない、ほんの一滴の安堵だ。


 「助かる」


 その時、棚の隙間に見慣れない金属の光がちらついた。

 湊は吸い寄せられるように手を伸ばす。布に包まれた細長いもの。布を剥ぎ、指で重心を確かめる。

 刃渡りの短い癖のある剣——異世界で使われていた鋼ではない合金の打ち方。鍔の部分に刻まれた印を見て、視界が一瞬、遠ざかった。

 刻印は湊の異世界での部隊の紋と、彼自身の呼称を縮めた符丁だった。


 「なんで……ここに」


 息が浅くなる。帰還直後彼は全身泥まみれで中心街のはずれの広場に吐き出された。その直後の記憶は断片的で、寒さと吐き気と耳鳴りと何か重いものを手放した感触だけ——。

 棚の裏、床に擦れる痕が続いている。引きずった誰かがここに置いた。


 「湊?」


 葵が心配そうに覗き込む。湊は剣を鞘代わりの布で巻き直し背中に斜めに背負った。


 「俺のだ。……多分、俺が落とした」


 言いながら、自分でもその言葉の気味の悪さに気づく。帰還“直後”に、ここに? 時間が前後している。歪みはまだこの世界に残っている。

 倉庫の空気が重たくなったように感じた。遠くで、金属が擦れる音。階段の上からだ。


 「来る。準備」


 葵は即座にライトを消し、身を低くする。湊は剣と銃を選ぶ時間を一秒だけ悩み、銃を腰に戻した。狭い場所と残弾を考えれば静かに倒せる方がいい。

 最初の影が降りてくる。靴の先が逆向きに曲がり、膝が笑うように震えている。

 湊は踏み込み喉元に刃を通す。異世界仕込みの足運びはいまも身体に残っている。二体目は棚の角で額を割り、三体目が呻き声を漏らす。葵が背後から棚から外したであろう棒で膝関節を打った。乾いた音。


 「痛覚は?」

 「たぶん、鈍い」


 掛け合いは短く、呼吸は長く。五体目の顎が湊の肩を掠め、鋭い痛みと同時に血の温かさが広がる。反射で刃を返し静かに床へ横たえる。

 静寂が戻るまで数十秒。二人の肩が上下する音だけが残った。


 「傷、見せて」


 葵はリュックからアルコールと包帯、ハサミを取り出す。湊が「大したことはない」と言う前に、彼女は無言で肩のジャケットを裂いた。しみる。


 「我慢して」

 「できれば優しくしてほしい年頃だ」


 葵は目を細め、ほんの少しだけ笑った。


 「あんまり向いてない」


 手つきは正確で早い。包帯を巻く彼女の指先が震えていないことに、湊は安堵と違和感を同時に覚える。十五年の生で、何を学べばこんな動きが身につくのか。


 「熱、あるのか」

 「大丈夫。……ちょっとだけ、暑い」


 葵は額の汗を拭いペンダントを無意識に胸元へ戻した。肌に触れた瞬間、湊は微かな熱の気流を感じた——夏の空気とは違う内側から漂う熱。


 「体温、いつも高いのか」

 「時々。天気みたいに」


 比喩としては幼いが、感覚としては正しいのかもしれない。

 湊は倉庫内の簡易ベンチに腰を下ろし壁に背をあずけた。痛みが少し引く。剣の重みが背中に馴染む。


 「葵。さっき、俺の名前を呼んだよな」

 「——うん」

 「どこで知った」


 葵はしばし黙ってからリュックの底からメモ帳を取り出した。紙の角は擦り切れ、何度も開閉した跡がある。最初のページに丸い字で一行。


 《ミナトを探す。東へ。第七隔離都市。》


 「目が覚めた時、これが入ってた。書いたのは私じゃない」

 「誰が」

 「わからない。でも、探してたら、ここに来られた」


 湊はメモの隅に細い筆圧の試し書きを見つける。記号のような、紐の結び目のような線。

 異世界の簡略文字。

 背筋に冷たい汗が流れた。


 「——東、か」


 沈黙が降りる。地下の空気は重いのに、思考は軽くなっていく。求心力のある目的は人間を生かす。

 湊は息を整え、倉庫の片隅に目をやった。折り畳みの地図が置かれている。昼間の路地で拾った切れ端と同じ柄。開いてみると、いくつもの赤い印が東へ向かって点々と続いていた。


 「餌か、導きか」

 「どっちでも、進む」


 葵の返事は短く迷いがない。湊は彼女の横顔を見た。

 この世界は個人の選択に残酷だ。だが選ばないことはもっと残酷だ。


 「わかった。東へ行く。第七隔離都市まで、君を送る」


 その“約束”を口にした瞬間、どこかで歯車が噛み合う音がした気がした。

 ふいに頭の奥でノイズが走る。冷たい水に顔を沈めたときのような外界が遠ざかる感覚。

 闇の廊下、鏡のように黒い床、血の匂い。

 そこにゾンビ化した自分が立っている——。


 湊は目を開け強く瞬きをした。掌が汗ばみ、爪が食い込んで痛い。


 「どうしたの」

 「いや、……寝不足だ」


 嘘だ。だが、ここで語る話ではない。

 倉庫の奥にもう一つ重い扉がある。注意書きは消えかけ、かろうじて「避難通路」と読める。取っ手に触れると先ほど拾った鍵束の一本が形状的に合いそうだった。

 湊は鍵を差し込む前に、葵を見た。


 「行くか」

 「うん」


 鍵が回る。金属が諦めの音を立てて開き、冷たい風が頬を撫でた。

 二人は通路に足を踏み入れる。足元の古い誘導灯が一瞬だけ点き、すぐに消える。代わりに遠くの出口から差し込む白い光が細い筋になって伸びている。

 湊は剣の柄を確かめ、葵はペンダントを握りしめる。


 地上に出る直前、湊はもう一度だけ振り返った。

 棚の上に置いたままの地図の大きな一枚が風にめくられている。赤い印は確かにこのビルを示していた。

 偶然ではない。誰かが道を整え、ふたりを東へ向かわせようとしている。


 「導きでも餌でも、食い破って進む」


 湊がそう言うと、葵は短く笑った。


 「じゃあ、半分こね」


 「何を」

 「怖さ」


 地上の光の中、二人は肩を並べて歩き出した。

 遠く風に乗って腐臭と潮の匂いが混ざる。東は海だ。第七隔離都市は、さらにその向こう——。

 湊の背で、異世界の剣がかすかに鳴った。まるで自分の帰る場所はそこだと主張するみたいに。


 彼は歩きながら胸の奥でひとつの確信を温める。

 ——俺は“鍵”だ。誰かがそう作った。

 だとしたら、錠前の方はどこにある。


 答えは、東にある。

 そしてその鍵穴に差し込む前に、彼は一度、選ばなければならないだろう。


 俺はまだ選べる。

 そう、自分に言い聞かせて、湊は空を見上げた。

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