これから教育されるのですが、マスターが美形すぎて、正直不安です。
今日から教育されるということが決まった。
マスターは心なしか、上機嫌だった。
タイムによると、ひさしぶりの教育なので……。
とのこと。
そんなに教えるのが好きなのか?
まぁいい。とにかくやるべきことはやろう。
マスターの執務室で、授業を受けることになった。
執務室は、意外と質素なものだった。
壁には本棚に10冊程度の本があるだけだった。
薬草辞典が2冊、詩集が3冊、執事の心得が1冊、メイドの心得が1冊、料理全集1冊、庭木の剪定1冊、リュート楽曲集が1冊。
あとは少し大型のトランクケース。
デスクの上にも何も置かれていなかった。
きょろきょろする私を見て、マスターが
「どうかされましたか?」
と聞いてきた。
「いえ。あまりにも質素というか、簡素なので、驚きました」
とオドオドして答えてしまった。
恥ずかしい。
「まぁそうですね。我々は常に証拠を残さずに、行動しないといけないものですから、このように荷物を最低限にしています」
とマスター。
「あっあの。毒を使うと聞いたのですが、そういう本とかもないのですね。もしかして隠してあるのですか?」
と私。
「フフフ……。
少しはやる気になったようですね」
とマスター。
「いや。
やる気がでたわけじゃないのですけど、ただ気になって」
と私。
わぁ~。こんなキレイな男の人と、二人っきりなんて、緊張する。
マスターの手がスーッと伸びる。
えっなに?
もしかして……。
その手は薬草辞典にむかった。
よかった。焦るよ。
「実はこの薬草辞典は、薬草の良い部分のみが書かれた本です。これは普通に流通していますが、実はギルドの仲間による執筆でして……。
ある詩集を解読の道具として使うと、毒として使う方法や分量などがわかるのです」
そう言って、薬草辞典と詩集を手渡された。
解読の方法を3分ほどレクチャーされ、
「では、それをしばらく眺めて、読み解いていなさい。あとで問題を出しますから」
とマスターは去っていった。
解読の方法は、まるでパズルを解くような気分だった。
問題を解くたびに、世界が広がっていく。
植物は身近にあるものも多かった。
身近にある、ありふれた植物が、組み合わせしだいで毒になる。
そのことが意外だったし、面白かった。
薬草の知識はスーッと入ってきた。
やはり私は、ローズマリーとつながっているのだろう。
数十分後、マスターが、お菓子と紅茶を持ってやってきた。
「どうです。できましたか」
とマスター。
「できたかどうかはわかりませんが、楽しかったです」
と私。
「おや。あの作業が楽しいだなんて、あなた変わっていますね」
とマスター。
そうかな。まぁパズル好きなのも、変わっている扱いされたからなぁ。
もしかしてちょっと向いているのかもしれない。
それにしても美味しそう。アーモンドの香りと、紅茶の香り。あのお菓子はフィナンシェかな。
「あの……。
それはフィナンシェですか?」
と私。
「……フィナンシェ。
聞いたことがないですね。
こちらでは小麦の焼き菓子と読んでいます。あなたの国にもあったのですか?」
とマスター。
「はい。ありました。好物です」
と私。
「そうですか。では問題をやりましょう」
とマスター。
「えっ。オヤツはもらえないのですか?」
と私。
「これは私のものです。あなたのものではありません」
そんなちゃんと2人分あるのに……。
泣きそうになる私。
「問題の結果しだいですね」
とマスター。
「がんばります」
と私。
マスターは薬草辞典を手に取り、
「それでは、これを解読してください」
私は、薬草辞典の該当ページを読み、詩集と照合する。
「〇▲■です」
と答える。
あまりにも早かったのか、マスターは驚きながら照合する。
「正解です。早いですね。ではもう一問」
そしてそこから10問ほどやって、
「薬草の解読は完璧です。どうぞ召し上がれ」
マスターは紅茶と焼き菓子を差し出した。
焼き菓子は、砂糖は入っていないようで、別のなにかで味付けがされていた。
「これはなにで甘くしてあるのですか?」
と私。
「これは完熟させたかぼちゃです」
とマスター。
「お砂糖は使っていないのですか」
と私。
「お砂糖など、王族や貴族以外使いませんよ」
とマスター。
かぼちゃだけで、この甘みを出すとか、私はその技術に感動した。
「あのマスター。
この毒の本がないっていうのは、
その狙いがバレないようにですか」
と私。
「そうですね。基本的に我々は医師や薬剤師、調香師の身分証を持ち歩いています。
これは正式な物です。
普段は医師や薬剤師、調香師として、生活を行っているのです。
毒の本を持っていてもおかしくはないですが、持っていないほうが疑わられません」
なるほど。たしかにそうだ。
「この詩集は、解読だけに使うのですか?」
と私。
なにかもう一つくらいあるのではないだろうか?
「よく気がつきましたね。実は詩集が毒の調合のマニュアルになっています」
とマスター。
「この詩集も普通に流通しているものなのですか?」
と私。
「そうです。
この詩人はギルドの関係者でした。もうお亡くなりになられていますが……」
とマスター。
「服とかはどうするのですか?」
「基本的に仕事先にあるものを着ます」
そうマスターは答えた。
マスターは部屋の隅におかれた、トランクケースを開けた。
そこにはおびただしい数の小瓶、スポイト、身分証などが入っていた。
「この瓶はいったい?いくつくらいあるのですか?それに重そう」
と私。
「ハハハ。
これはエッセンスの瓶です。およそ1000くらいあります。
あと普段持ち歩くのは、この20分の1から10分の1程度です」
とマスター。
そこから、マスターに実際の調合などを教わった。
「あのマスター。
なぜ毒なのですか?」
私は思い切って聞いた。
マスターは、私の耳元でそっと呟いた。
マスターの吐息が耳にかかり、こそばゆい。
「植物に毒がなぜ生まれるか、わかりますか?
身を守るためなのですよ。
別に傷つけるために毒を持つ植物はいません。
生物の場合は、傷つけるために毒を持つものもいます。
ただそれらにしても、全て弱い生き物なのです。
ヘビにしろ蜘蛛にしろ、サソリにしろ、ハチにしろ、皆小さく脆弱です」
私はマスターがなにが言いたいのかわからず。困惑していた。
「……脆弱な存在が身を守るすべ。
脆弱な存在とは、私達の世界ってことですか?」
私は尋ねた。
「そうですね」
そうマスターは言うと、
締め切られた執務室の窓を開け放った。
勢いよく春の風が流れ込む。
そこには花の香りが混じっていた。
「みてください。この庭を美しいと思いませんか?」
マスターは、窓越しの庭を私に見せる。
そこは色とりどりの花が咲き乱れる、美しい庭園だった。
蝶々がゆらゆらと舞いながら、
生の限りを尽くしていた。
マスターは鼻から思いっきり息を吸い。
「我々は美しく咲き誇る花が好きだ。
緑豊かな木々が好きだ。
活気のある市場が好きだ。
そういう何気ない生の営みが好きだ。
我々は冷酷に鳴り響く軍足の音が嫌いだ。
カチカチとなる剣やサーベルの音が嫌いだ。
愛する者を送り出す者たちの涙が嫌いだ。
そういう絶望への諦めが嫌いだ。
だから我々は脆弱な植物の助け、脆弱な生物の助けを借り、慎重に危険の芽を取り除く」
そう言った。
その横顔は美しいだけではなかった。
幾千もの哀しみを乗り越えてきた、傷ついた少年のものであった。
マスターのあの哀しく美しい横顔を見ていると、
彼のやっていることが、間違っているとは思えなかった。
「正義……。それは正義なのですか」
私は自分の言っていることがわからなかった。
「基本的に、私は正義や善や悪などの言葉が好きではありません。
それは勝者の方便であり、実効性がないものだと私は思うからです。
正義という文脈でいえば、毒を用いるなど、言語道断でしょう。
しかし放置しておけば何万という人々が犠牲になる。
それを放置できるのでしょうか?」
とマスター。
その表情は責めるものではなく、
ただ哀しみをおびた少年のものであった。
「本来ターゲットは狙われる必要のない御霊だったのかもしれない。しかし不幸な重なりで彼は滅びの芽となってしまった。
その芽はそっと輪廻に還さねばならない」
マスターはそう言った。
「輪廻……。」
私はそう呟いた。
「植物や生物たちは、普通……。
自分達が生きるために必要なものだけ、食します。
しかし輪廻の輪から離れた存在は、食するという、願望ではなく、ただ怒りや支配欲で、他者を害します。
それが輪廻の輪から外れた存在。
ただこれはある程度は仕方のない事。そして世界の浄化力でなんとかなります。
ただ今回のようなケースでは、我々のような存在の出番となるのです。
もし放置し
ておけば、世界が滅んでしまいますからね」
マスターはそう言った。
「しかし……」
話はわかる。
気持ちもわかる。
これが他人なら、ラノベという安全装置からの傍観者側なら「当然だ」というだろう。
でもいざ自分がその引き金を引く実行者となると、恐ろしくて躊躇してしまう。
極刑執行などの職員のストレスが過大という話を聞いたことがある。
今ならわかる。こんなにきつい仕事……。
他にない。
マスターは私の頬を触り
「殺すにしても、残酷なことは致しません。
自然に眠るように、美しく、最後にいたるまでの時間は、苦しみや苦悩を可能な限り、取り除いて差し上げましょう。
最高にエレガントで気の利く従者として、仮初めの主人にお仕えしましょう」
そう耳元でささやいた。
美しい彼の言葉に
思わずボーっと……。
マスターは私の手を取り
「私たちは、輪廻の輪から外れた存在を、輪廻に還すというお勤めをしているだけなのです。
彼は不幸な重なりで、あぁなってしまった。それは人の手では、もはや止められないのです」
そう言った。