第1話 セイという少女
セイは窓から帰宅した。ビショビショのウエットスーツから、ドレスに着替え。
クーラーボックスを片手に、廊下を走る。
「大量、大量! これなら旦那様も気づかないでしょう」
魚は精度が命だ。冷やしているとはいえ、陸上で劣化は避けられない。
出来るだけ新鮮な状態でコック長に渡したい。
礼儀悪いと思いながらも、ドレス姿で駆けていた。
周囲の使用人達が、何事かと彼女を見つめる。
視線を無視して走っていると。反対側から嫌味な笑みが見えた。
メイド長。長年コスモ家に使える身であり、趣味は新人虐めだ。
「あらあら? "元"お嬢様。そんなに急いでどうしたのですか?」
わざわざ元を強調して伝えるメイド長。
まだ婚約は正式に破棄されたわけではないのだが。
メイド長はもう追い出したも当然と見ているようだ。
「廊下を走ってはいけませんよ。教養の浅い貴方には難しい事かもしれませんけど」
「メイド長。今時間と勝負中なの。嫌味なら後にして」
セイは無視して、メイド長の脇を走ろうとした。
「あらあら。これは旦那様に報告をしなければなりませんね」
クスクスと笑いながら、メイド長は振り返った。
「"今のお嬢様"は、はしたない方だと」
「お好きにどうぞ。でも旦那様がお腹壊したら、貴方の責任になるけどね」
嫌味を気にせず、食堂に急ぐセイ。
そんな彼女を、メイド長は嘲笑った。
「良いのですか? 婚約を破棄されると、貴方のご両親は苦しみますよ?」
溜息を吐きながら、セイは足を止める。
「私は長年、この家に使える身です。私の口添えがあれば、ご縁談の延長くらいはご助力できるかと」
「随分と自信があるようだけど。貴方嫌われているよ」
両手を広げて、セイは再び歩き出す。
「嫌味なら後でたっぷり聞いてあげるから。約束の場所、教えてくれる?」
「そう言う軽率な態度。ますます坊ちゃまと釣り合っているとは……」
「はいはい。こりゃあ、旦那様に報告ね。メイド長が油売っているって」
嫌味を無視して、セイは再び走り出した。
「火を注がれないように注意してね」
後ろから舌打ちが聞こえてきたが、セイは構わず動く。
嫌味を言われるのは慣れている。ゾアと婚約が決まったその日から。
一々構っていたら、心が持たない。セイは直ぐに割り切った。
メイド長に軽口叩いて、セイは直ぐに食堂に辿り着いた。
コック長がセイを見るなり、不安そうな表情を浮かべる。
「お待たせ。仕入れた手ほやほや。新鮮な魚だよ」
「ええ!? ま、まだ一時間しか経過していないですが……」
セイはクーラーボックスを開いて、中身を見せる。
そこにはタコやサメ、ウツボなど。珍しい食材が入っている。
「うわぁ……。これ全部、銛付きで?」
「ええ。痛まないよう一撃で。まあ、味の保証は貴方の腕次第だけど」
「サバイバルが得意とおっしゃられていましたが。本当だったんですね……」
食材を渡されて、コック長は目を輝かせていた。
彼は直ぐにハッとなると、セイに頭を下げる。
「すいません! 大したお礼も出来ないのですが……」
「大丈夫。私が好きでやった事だから。気にしないで」
手を上げて軽く微笑むセイ。
彼女は背を向けて、何も受け取らず食堂を出ようとした。
「我々はお嬢様の事を、誤解しておりました」
「それも気にしなくて良いから。私は部外者だし。全部が全部、間違いじゃないしね」
振り返らず、セイはそのまま食堂の出口に向かった。
「旦那様に美味しい料理を食べさせてあげてね!」
その一言だけ告げて、セイは食度を後にした。
屋敷の廊下に飾られている、時計を見る。
まだ夕方になりかかったころだ。
貴族としての仕事はないが、部屋でジッとしているのも暇だ。
次に何かすべきか、彼女は歩きながら考えた。
「あの面倒なメイド長が、八つ当たりしていないか、監視にでも行こうかな?」
何度も対峙した間に、メイド長の人となりは知った。
彼女は強者に媚び売り、弱者を隠れて虐げるタイプだ。
人を見下す事に、悦を得ている。
そう言う人間は、自分の思い通りにならない人が嫌いだ。
セイはまさにそう言うタイプ。
逆らえない他のメイドを虐めていないか、偶にセイは監視をしている。
「そろそろあの威圧長をなんとかしないと。メイドの質が下がるね」
性格悪い人がトップだと、必然的に性格の悪い人間が集まる。
そのせいで下が育たず潰れる事は、セイも良く知っている。
行きつけだった食堂が、昔潰れた事から学んだ事だ。
「さあてと。旦那様は私の話を聞かないし。他に頼れたよれそうなのは……」
独りごとを呟いていると、ゾアの執務室の前に辿り着いた。
丁度部屋の主が、仕事を終えて出てきたところだ。
「丁度良いタイミングで。もしかして、狙いました?」
「何のタイミングか知らんが、狙ってないし、興味もない」
セイを無視して立ち去ろうとするゾア。
「まあまあ。そう言わず。これはコスモ家の存亡に関わる事ですから」
「お前如きに解決出来る問題で滅ぶ家なら、滅んだほうが良い」
「解決出来ないから、ゾア様を頼っているんじゃないですか!」
微笑みながら、セイはゾアの肩に手を置いた。
途端に彼に腕を振り払われる。
「触るな。服がシワになる」
「失礼。生魚に触れたもので、ちょっと生臭かったですね」
「随分と楽しそうだな。セイ」
ゾアはようやくセイに顔を向けた。
表情は面倒そうで、どこか羨ましさを感じている様な気がする。
一つ確かなのは、憎悪を向けられている事だろう。
「婚約破棄が正式に決まったら、屋敷の使用人として雇ってやろうか?」
「そりゃあ良いですね。堂々とあのムカつくメイド長を、ぶっ潰せる」
嫌味のつもりだったのだろうが、そんなものセイには通用しない。
ゾアは溜息を吐きながら、体もセイに向ける。
「解決したい問題とは、メイド長のことか? お前ら仲悪いのか?」
「割と有名な口喧嘩だと思っていたんですけどね」
「知らん。お前の全てに興味がない」
ここに来た時から変わらない。そっけない態度。
これは政略結婚なのだから、お互いに愛がないのは分かっている。
それでもセイは、彼の瞳を見るとなんだか胸が痛くなる。
「だが今、少しだけ興味を持った。俺もアイツの事は、嫌いだからな」
「あら? 意外とハッキリ言いますね。貴方には媚び売っているものかと」
「売っているさ。だがそう言うタイプを山ほど見てきた。本質くらい見抜ける」
セイは目を細めながら、呆れた笑いを向ける。
「なら何とかして欲しいものですね。みんな困ってますよ?」
「雇い主は叔父だ。俺の一存だけで、長年の部下のクビは切れんだろ」
セイは意外に思った。ゾアは自分以外に興味がないと思っていが。
意外と人を見ているらしい。
「ないか策があるなら、協力してやってもいい。今回だけな」
「意外と部下にお優しいのですね。世間知らずかと思っていました」
「別に……。ただ偉そうな能書き垂らして、他人をコントロールしようとする奴が嫌いなだけだ」
今まさに政略結婚で、人生コントロールされている。
そんな自分を皮肉っているのかと、セイは勘ぐった。
だがそんな軽口叩けば、折角の糸口が切れるだろう。
「策ならありますよ。旦那様が躊躇う道理を失くすくらい、メイド長の性悪を示せばね」
「それを証明するのが難しいから、みんな困っているんだろ」
「それは問題ないですよ。どうせ今夜仕掛けてきますから」
太陽が沈みかけた空を、窓から眺めながら。
セイは屋敷に近づく馬車を見つけた。
「もうすぐ屋敷を去るというのに。随分とお優しい事で」
「別に。私は気に入らない奴をぶっ潰す、性格の悪さがあるだけですよ」
フンっと鼻を鳴らしながら、ゾアも窓から馬車を見下げる。
「自分が褒められると、否定するんだな」
「同族嫌悪?」
「喋る度にその口、永遠に閉ざしたくなるな」