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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

魔人ネクロ

魔人ネクロ ~Dark Elf's Trick~

作者: 天空 宮

 風が吹きすさぶ渓谷。

 蒼穹そうきゅうから覗けるそこは、地割れの起きた後のように辟易へきえきとした赤い大地が拡がっている。

 一見のどかで静かなこの場所は、魔物も少なく牧歌的ぼっかてき

 しかし近くに作物はなく、植物すら視界に映るのは稀有である。

 食べる物と言えば空を飛ぶ鳥を落とすか、半日歩いて辿り着ける森の中の作物だ。

 肌が色黒で耳が尖ったエルフの属種――ダークエルフにとって、ここは外敵から離れて暮らすには最適な場所だった。

 が――突如としてこの渓谷は戦場と化す。

 何を思ったのだろう――それは誰にも分からない。

 取り立てて奪い取れる物はないダークエルフに対し、魔人まじんが戦争を仕掛けた。

 ダークエルフは、元々同種のエルフと縄張り争いをしていたこともあり、戦いの心得が無いわけではなかったが、全種族の中で一番の強さを誇ると言われる魔人を相手にすれば、勝敗は初めから明確であった。

 渓谷には悲鳴が轟き、力負けする戦闘員が戦う裏で、火傷を負った女性ダークエルフがへたり込む。

 まだ戦闘音――魔法による爆発音と共に同胞の悲鳴が耳に入る中、彼女は息苦しそうに咳き込み、下唇を噛み締める。

「げほげほ……くっ……ふざけるなよ、魔人族め……!!!」

 同じくして先を逃げていた女性ダークエルフが心配して戻って来た。

 地面に膝を折る女性へと駆け寄り、捲し立てる。

「なにやってんだ! 早く逃げないとアンタもやられちまうぞ!!」

「っ……――なんで逃げなくちゃならないんだ! なんであいつらはこんな、我々の里に……!! あたしらはあいつらの生活の邪魔をしたのか!? あたしらは何もしていない。何もしていないのに……!!」

 彼女は鬱憤を吐き出した。

 悔しさと怒りに塗れたその口調は、相手の女性の顔色を曇らせるものだった。

 それは彼女たち、誰もが抱いている理不尽に対する怒りがゆえである。

 拳を握り締め、二人は誓う。

「……立て! こんな所で死んでいる場合ではない。復讐してやるんだ――奴らに絶対……復讐してやる!!」

「ああ、無論――それ以外無い!! 覚えていろ、魔人族。この苦渋は貴様らの命を以て清算させてやるからな……ッ!!!」

 二人の声は戦闘音と風音によって掻き消されていく――。



 ◇◇◇



 くらい森の中を雨音が支配する。

 喧騒けんそうな森は、誰の足音も聞く者はない。

 枝木に腰掛ける静かに待つ者がいる。その周辺で飄々(ひょうひょう)と風が吹くと、隣の樹に何者かの影が現れた。

 感覚的に来客の存在を認識したの者は、閉ざしていた瞼を開き愚痴ぐちを零す。

「……遅かったじゃん」

「それはこの私に対しての苦言か?」

 女性の声だが、おごそかな口調。その冷酷な視線が彼の者の背中に向けられる。

 彼の者は黙る。鬱陶しい説教や世間話、余計な話をきらってのことで、それを主張するような息を漏らした。

 背後に佇む者は、面白いようにほくそ笑む。

「魔人族の動向はどうだ? そろそろ期限のはずだが」

「……既に情報収集も終えている。ウチがやつの首を持ち帰り、うるさいお偉いさんらの舌戦ぜっせんにも終止符を打ってやるさ」

「分かっていると思うが、魔人族は我々の宿敵だ。いくら貴様が幼少の頃より暗殺者として克明こくめいに育てられたからとはいえ、油断をすることは許されない。この任務だけはしくじることは愚か、一瞬の隙も作ってはならない」

「奴の弱点は把握している。無知な者たちを寄越されたところで、足手纏いになるだけだ。無駄なことはウチの――仕事の邪魔にしかならない」

「……これも承知のこととは思うが、大切なことゆえ念押ししておく。魔人族は宿命の種族であると同時に忌むべき存在だ。やる時は徹底的に死の淵に追い込むのだ……! 奴等が殺してくれと言っても直ぐには殺すな! 魔人族に我々の力を見せつけてやるのだ!!」

「……分かってるよ――」

 彼の者が振り返ると、興奮した声の主は既にいなくなっていた。



 ◇◇◇



 とある昼下がり、少女が指南しなんを受けていた。

 木剣のぶつかり合う音がカンカンと高らかに森の木々に響く。

 袖の無いシャツに短パンのこれといって装備していない少女。

 ショートヘアーで切れ長の目をしており、対抗心に顔を顰めている。

 対して、大人あいては胸当てやガントレット、脚絆きゃはん等で装備している。

 腰まで伸びる長い髪を靡かせながら、すらっとした四肢を上手く操り上位者としての振る舞いを享受していた。

 二人共色黒な肌で銀髪。耳が横に尖り伸び、子供と大人で違いはあれど勇ましい面立ちをしている。

 少女は真摯しんしに剣を振るうが、相手は見下すかのように、暴力を振るうように少女を蹴倒した。

 小さく悲鳴が挙がり、矮躯な体が地面を転がる。

 芝が舞い、土が白い服を汚した。

「どうした――そんなものか! そんなていたらくでは、魔人族を相手にすることなど夢のまた夢だぞ!」

「くっ……!」

 おごかな叱責しっせきに少女は悔しく、また恨めしそうに大人を見上げた。

「お前は千年に一度の才能を持つと言われているのだ。魔人族を殺す刃――【魔殺鬼ジーク】の一員として、その程度では困るんだ……!」

 嫌いな相手に見下ろされ、少女は小さく舌打ちを漏らしながら呟く。

「魔人族なんて、もうこの世にいない種族だろうが……」

 ダークエルフは何百年も前、魔人族に蹂躙じゅうりんされた時代があった。

 長命のダークエルフにおいて、その歴史を忘れない怨念が消えることはなく、今でも根に持つ者は多い。

 恨みを新しい命に対しても教え、同様に恨みを抱かせる。怨念の激しさがゆえ、それに抗うことはできないのだ。

 しかしまだ成長が乏しい少女からすれば、理解しがたい風習でしかなかった。

「なにか言ったか?」

「い、いえ! もう一度、お願いします!」

「フン、ならばさっさと起き上がり我が剣を抜けてみせよ!!」

 少女はねめつける眼差しに気圧されるが、意気良く返答し再び木剣を振るった。



 ◇



 ◇



 ◇



 少女は嘆息たんそくする。

(鬱陶しい。何故ウチが古い因縁の為にせっせと修練し、居るはずもない魔人を殺せと命じられなければならないんだ……)

 通りすがりの同性で同年代のダークエルフが幾人かいた。

 彼女らは少女をあざけた目で見て、陰口を叩く。

「あれよ」

「可哀想に。まだわたしたちと同じくらいでしょう?」

「しょうがないのよ。千年に一度の逸材だから。暗殺部隊(ジーク)としての、ね――」

 少女は耳が良かった。

 鍛錬もあるが、才能という方が大きい。

 周囲は暗殺術に秀でた才能だと褒めるが、自分自身では嬉しいとは思えない。彼女たちが聞こえていないだろうと思っていても、聞こえているがゆえに聞こえていないフリをしなければならないのだ。

(うるせえよ……同情するくらいなら、代わってくれよ! ウチは、こんな役割嫌なのに、逃げらんないんだよ!!)

 ――それがどうしようもなく鬱陶しいのだ。

 少女は一人になるべく長めに、ダークエルフの里よりやや遠くまで歩いてきた。

 森は広く、まるでどこまでも続いているかのように景色が変わらず、匂いも一様である。

 どこにいても風は変わらずに吹き、土や木の香りも絶えずある。

 そんな折、突如として風変りな匂いを嗅ぎつけ、少女に関心が湧いた。

 少女は鼻も良かった。というか、五感が全て並の人間よりは優れている。匂いにも敏感だった。

(この匂い……人族か? 長には、他種族には近づくなと言われているが、どうやら一人――しかも子供みたいだな……。

 ふっ、おどかして鬱憤を晴らしてやるかァ!)

 軽い気持ちで足を進める。

 近づくにつれ、少女は朽葉くちはすら踏まずに想定の場所まで忍び寄った。

 木々の開けた、花の生い茂る場所があった。その近くの茂みの前で屈み、草木の隙間から覗き見る。

 しかし、そこには誰もいない。

(あれれ? おかしいな、確かに匂いが……。帰ったのか? 匂いはまだ残ってるし、そんなに遠くには行っていないはずだけど……風のせいでどこへ行ったかまでは分からないか)

「ばあ!」

 背後から大声を出され、全身が震え上がる。

 

『背後を取られたら死ぬと思え』


 教えられたことを思い出し、少女の顔が青ざめる。

 しかし、彼――少女とも少年とも見分けのつかない子供は、ニコニコと笑っているだけで襲っては来なかった。

 黒髪黒目の人族にしては匂いが微かに異様な、特殊な雰囲気の子供だった。

 驚かそうとして、固まった少女の反応が面白いようである。

「何してるの? かくれんぼ?」

 子供は腰を抜かした少女に手を差し伸べる。

(殺さない!? 罠か……いや、そんなことするくらいなら、ウチならとっくにもうやっている……)

 少女はおどおどとしつつも、困惑気味に彼の手を取る。

「大丈夫? おどかしちゃってごめんね」

 少女は反応悪く、端的に応答するのみだったが、内心ではほっと安堵の息を吐いていた。

(あぶねえ……。ウチを殺そうとしていたわけじゃなかったのか。

 にしても、ウチが全然気づけなかった。隠密に関しては里でも指折りのウチが気付けなかったなんて、隊長に話したら殺そうとするだろうなー……。一応身元は確認しておくか)

「おま――……あ、あなたはどちらの、誰、なのでしょうか……? わたしはここら辺の地理には疎くて、できればあなたの住まいを教えて頂けるとありがたいのですが」

 少女は一応、潜伏に関する知識も心得ており、まるで他人のように振舞うこともできる。

 弱弱しく見せるのも彼女にとってはお手の物で、捨てられた子猫のように目を潤ませながら訊ねた。

「うん、ボクはネロ。ここら辺の領地を治めているロスティル家の者だよ。

 キミは? 他国の人に見えるけど――……キミ結構やけてるね。南方の方にはキミくらい肌がやけている人が多いって聞くけど」

(こいつはダークエルフを知らないのか? 耳の形や顔立ちでなんとなく分かるだろうに無知な人間だな)

 と言外で卑下ひげしつつも、慇懃いんぎんな態度で自己紹介する。

「わたしはエムリット。エムでいいですよ」

(――あ! やべ……つい本名を……。はあ……まだまだ甘いなあ……)

「よろしくエム。エムは道に迷ったの? あんまりこの辺の森にいる子供は多くないから」

「近くで親が木こりをしていて、付き添いで来ているのです。親が仕事をしている間、ちょっと探検してみようかと」

(全部嘘だけどなー。どうせ相手は底辺種族、人族のガキだ。バレはしないだろうし、短命な部類に入る人族じゃすぐに死ぬから名バレも構わないだろ……)

「じゃあ一緒に遊ぼうよ! ずっと同い年の友達が欲しかったんだ!」

「友達……ですか?」

(誰がそんな子供のお遊びなんか……)

「ダメ、かな……?」

 拒否しようと思ったが、ネロの切実そうな面相を前にしては難しかった。「えっと……」と葛藤しながらも、今演じている性格上仕方なく快諾するのである。

「い、いいですよ……」

(て、なにやってんだウチは!? 今更そこらの女の子らしく可愛いものに弱い系になるつもりはねーぞ!!?)

「やった。ありがとうエム! じゃあボクに付いてきて。面白いものを見せてあげるよ!」

 ネロは嬉しそうにエムの手を引いて駆け出した。

(はあ……マジで、なにやってんだウチは……)



 ◇◇◇



 誰もが――特に10代の子供は、特にお腹を空かせるお昼時。

 今日の昼食当番はネロであり、手伝いをシロがつとめる。

 ネロ――肩ほどまである黒い髪をした中性的な面相の少年は、鼻歌混じりにフライパンを揺すっている。

 取手には熱いので布を巻いて持ち、料理人のようにエプロンを着けていた。

 シロ――長い銀髪の少女は、ネロから一歩ほど下がってまじまじと、フライパンではなくネロを見ていた。その目には羨望せんぼうが映り込み、輝いている。

 土製のかまどの上に置かれたフライパンがじゅうじゅうと音を鳴らす。

 フライパンの上にあるのは分厚い三枚の肉で、花のような食材でかざられている。

 香ばしくも華やかな、食欲を駆り立てる匂いを漂う。

 平民で、しかもこんな孤児を受け入れている教会が、こんなに立派な肉を仕入れられるということはない。ましてや関係者などの周りが裕福で、譲り受けられるということもない。

 肉は、子供たちでってきた魔物の肉である。

 子供だけで魔物を倒すというのはいささか物騒な話だが――彼、そして彼を取り巻く者たちにおいては例外である。

 子供の中には血気盛んな者、自分の実力を過信して自ら危地に赴く者もいるが、決まって痛い目を見るか、最悪亡くなってしまうということもある。子供たちの中にもそういうやからは在るが。

 その問題を解決、もしくは未然に防いでいるのが彼――ネロ・ディア・ロスティルの存在だ。

 物腰柔らかく線の細い印象を受ける彼はとてもそんな風には見えない。

「そろそろいいかな。シロ、皿を持ってきてくれる?」

「うん、任せて!」

 絶えず「兄さん凄い!」と賞賛が聞こえてきそうな表情かおで返答する義理の妹――シロ・ロシナンテは、足早に近くのテーブルに置いてある皿を一枚両手で持ってくる。

「昼は肉? 肉?」

 出し抜けに静かに歩み寄ってきたのは、孤児たちの中では最年少であるスタインだ。

 色白で黒髪のどこにでも居る無垢な少年。ただし、彼のトレードマークであろう首のチョーカーが彼たらしめる。

 スタインは、匂いに誘われて目を半円にしていた。

「まだだよスタイン!」

「えーいいじゃん、もうできたんでしょ? アツアツの方が絶対美味(おいし)いよ!」

「む!」

 シロが威嚇をすれば、スタインは短い脚を走らせる。そのままネロの腰周りにしがみき、強請り始めた。

「ねぇ、ネーロー! いいでしょ?」

「……しょうがないなあ……」

 可愛く言われ、拒絶できないネロは困り笑いする。

 他の男子たちがやや傲慢なためか、スタインがまだ幼く可愛いからか、彼のお願いを無視できる者は多くない。日頃素直でよく言うことを聞くというのもあるのだろう。

 ネロのサービス精神はつい、スタインへ肉を献上しようとしたが――

「こーら、ダメでしょスタイン!」

 赤みがかった茶髪をポニーテールにした、ネロより少しお姉さんな少女――レヴェナが厨房へと入ってくる。

 明朗めいろうな顔立ちとおおらかな性格、最年長の女子という点から孤児院ではお姉さんという立ち位置にある。

 やれやれと言いたそうな面立ちは、どちらかというとスタインではなくネロに向けられていた。

 ネロは、心の中で謝罪する。

 しかし、彼女に聞こえるはずもなく、レヴェナはネロの鼻をつまんだ。

「ネロもだよ。今、渡そうとしてたでしょ!」

「はい……ごめんなさい……」

「兄さん、ダメだよ。皆、平等、絶対!」

「あはは……」

「スタインももう少し我慢してね。ここでは皆で食べることに意義があるの。でも、大丈夫。ネロならパパっと作っちゃうし、一番新しいのをあげるから」

 レヴェナは膝立ちになりながら話し、スタインの頭を撫でる。

 レヴェナの厳しくも優しい眼差しにスタインは眉尻を下げて頷いた。

「うん! ごめんね、焦らせちゃって……」

 ネロは、そんな気を使わなくていいよ、と首を振る。

「少しだけ先に食べちゃおうか」と言うと、レヴェナが再び眉間に皴を寄せるので、苦笑いしながら「ちょっとだけだよ」

「え、いいの?」

 ネロはたった今焼き上げた肉の一部を包丁で切り取り、スタインに与えた。

「やったー!」

 するとスタインは大喜びし、代わりにレヴェナとシロからは冷たい視線が返ってくる。

「ふ、二人にもあげるから……皆には内緒にしてくれない?」

 二人は吐息を漏らしながらやれやれと首を振った。


 ――その時、ネロの頭につーんとした衝動が生じる。


 それは頭痛ではない。

 ましてや病気などの疾患というわけでもない。

 誰かの感じている痛みが、声と共に届くのだ。


(――助けて…………助けて……!)


 ネロはエプロンを投げ捨て、走り出す。

 唐突に出ていくネロに、三人は目を点にした。

 一泊の間を空けてから、漸く理解の及ぶレヴェナが叫ぶ。

「どうしたのネロ!?」

 ネロは無我夢中で走り出した――



 ◇◇◇



 森道に人の嘲笑い声が響いている。

 声は2つ。野太い声と、高い声、どちらも男の声だ。

 森がざわめいている中、その声は周囲一帯にまで及ぶ。

 しかし、その声に反応して近寄る者はいない。

 一人はぽっちゃりした男で、横に太い。

 もう一人は丈があり、手足が細く、頬骨が出ている。

 二人共平民らしく小袖こそでを着た者たち。

 おそらく荷運びをしていたのだろう。近くには荷台があった。

 馬はなく、押して来たらしい。どおりで各々筋肉質ではある。

 対して、彼らに見下され道で頭を抱え転がっている者がいた。

 奴隷だろうか、首には大きめの首輪に鎖が付けられており、格好も貧相で身体中が傷だらけである。

 背の方にはボロ雑巾――にも見えるが、おそらく違う。獣の毛に覆われた尻尾で、頭には獣耳がへたり混んでいる。

 彼の者は獣人族、なのだろう。

 この世界にはあらゆる種族――人族とは違うという意味の別称として扱われる――亜人がいる。

 このように獣の特徴を持つ者たちは大枠として、獣人族として扱われ、その種族のみの国家もあるほどである。

 耳や尻尾の特徴から、この娘は獣人族の中でも犬人種ドッグラーに該当する。

 この見下し、見下されの関係が出来上がるのも種族の違いによるものだ。

 ここラトゥーリエ王国は、人族による国であり、他種族を忌み嫌う風習がある。ゆえに、獣人族がここらを彷徨うろつくことはないのだが、奴隷となれば例外となる。

 獣人族の少女は身体全体が震え、おびえているのがわかる。

「や、やめてください……」

 悲鳴の合間に、ぽつりと小さく零す。

 しかし、その聞こえたかどうか分からない声を反抗と見なした男二人は鼻で笑う。

「バッカじゃねえの!?」

「奴隷のくせに生意気なんだよ! 奴隷なら奴隷らしく、俺たちのさ晴らしに付き合え!」

 そう言って痩躯そうくの男が、少女の首にある鎖を引っ張り、舐め回すように見る。

「はっ、みにくいなあ。しかも鈍臭どんくさい。これだから獣人の奴隷はダメなんだ。女を寄越すというから期待したが、こんな醜女しこめでは萎えてしまう」

「しかも、けがれている。やるだけ無駄だ」

「だからこうして鬱晴らしにしてやっているんだ、感謝して欲しいねえ!」

 くくく、と笑い、再度男は少女の顔を殴る。

 地面に倒れると、今度は髪を引っ張られて起こされ、「痛い」と悲痛を嘆いてもそれは男たちの我欲を駆り立てるだけだった。

 男たちの高笑いが悪魔の叫びに聞こえ、少女は涙を流しながら最後の心からの叫びを放つ。

「――やめて……」

 男たちにも、誰にも聞こえないと思われたその小さな叫びは、たった一人にだけは届いていた――。


 

「やめろぉ――――!!!」

 突如現れる嘆きのような叫びが、細長い男の手を止めさせる。

 声の主――ネロは、差し迫った様子で少女との間に割って入った。

 警戒した男たちはたたらを踏む。

「だ、誰だお前は!?」

 それがまだ小さい少年だと分かると、ぽっちゃり男が一歩前に出て怒鳴った。

 ネロは肩で息をしながらキッと二人を睨みつける。

 威嚇にしてはあまりにも弱弱しい圧である。

「何をしてるんだ! しかも、こんな子供に……どうしてこんなことが出来る!!」

「う、うるさい! なんなんだお前は!? ガキはすっこんでろ!」

 気が昂る男の肩を叩き、後ろから狡猾こうかつな面相で細長男が出てくる。それでもネロは両手を広げて少女を庇おうとした。

「おい坊主、お前もそいつと同じ目に遭いたくなければ頭を下げ、謝罪しろ。それならまだ金を出せば許してやるよ」

 二人はけたけたと笑みを浮かべ、まるで態度を改める素振りがない。それどころか、拳を見せつけ脅す腹積もりだ。

 王都に限らないだろうが、貴族と触れ合う機会がある平民はこうやって悪癖あくへきを貰ってくることがある。

 目上の人がよければ、自分もやっていいのではないか――という勘違いが愚かな行為を増長させてしまうのだ。

 元はこんな事をする人じゃなかったかもしれない。本当は優しい人なのかもしれない。そんな思考が彼らへの敵対心を鈍らせる。

(――だからこそ、目を覚まさせてやらなくちゃいけない)

 ネロは、再度二人を睨みつけた。

「やめてください。こんなこと間違っています。こんなことをしても、誰かが不幸になるだけだ!」

「なに?」

 顔を顰める二人を他所に、ネロの後ろで倒れていた少女が慌てて、しかし弱々しくネロの服の袖を掴んで、ほつほつと言い放つ。

「や、やめて……やめてくだ、さい……。あなたまで、酷い……目に遭ってしまいます」

 横目に少女の青くなった顔が映る。

 するとネロは、一瞬悲しそうに顔色を曇らせたかと思うと、安心させるように笑った。

「もう大丈夫。ボクがなんとかするから」

 そう言って少女の頭を撫でる。

「人はもろいんです。どんな種族でもそれは変わらない。押せば倒れるし、波が来れば流されてしまう。あなたたちだってそれを知っているはずだ! なのにどうして……壊れてしまうかもしれないと分かっているのに、これじゃあ弱者が見栄を張っているだけじゃないか!」

「なんだとガキ……!」

「俺たちが弱者だと……!?

 タイズー、決まりだ――この小うるさい坊主をシバいて奴隷商に持っていくぞ!」

「おう!」

 どうして分かってくれないのだろう。どうして気づかないのだろう。

 彼らだって時と場合が違えば倒される側になると知っているはずなのに、どうして倒される側の気持ちを分かってあげられないのだろうか。

 憐憫れんびんに心染まる頃、胸の内より現れるあの声がネロの体を反応させる。

(それなら、つぶせばいいだろ――)

 両目が黒く、瞳は赤く獣のように鋭く移り変わった。

 不敵に笑うと襲ってくる男たちに対して、隙だらけのように棒立ちとなる。

 まるで「掛かって来いよ」と挑発しているようだ。

 神妙になったと考えたぽっちゃり男は、「おらあ!」とネロへ向けて意気揚々に拳を突き出した。

 彼の脚が間合いに入った瞬間――瞬く間に少年の身体が動く。

 やや前に出て、足を払う。

 前屈みになったところを左手で首を掴み、華奢な身体からは考えられない力で地面に押し倒した。

 目が見開かれ、ぽっちゃり男の苦しむ姿を見て面白がっているかのような笑みを浮かべる。

 男は腕を払おうと掴むが、びくともせず首をへし折ろうとしていると直感する。

 首を掴めば、やめてください――という嘆願も、ごめんなさい――という謝罪も吐き出すことができない。

「バカな奴だ。上下関係すら分からないとは、目が腐っている。まだそこらの魔物の方が利巧だぞ。まるで世の歩き方を知らない……それでは命を無駄にする。こうやってな――」

 まるで人が変わったかのように口調と雰囲気が様変わりしている。

 さっきまでの見栄を張って足掻いていた少年が、殺気を隠そうともしない百戦錬磨の威圧感だけが溢れ出している。

 ――彼は、ネロではない。

 とはいえ、全くの別人とは言えないだろう。

 体はネロそのものだ。変わったところといえば、双眸そうぼうが黒く瞳は赤くなり、犬歯が口から漏れ出し、爪が尖った。

 彼はネロの中にあるもう1つの人格――クロと呼ばれる者である。

 ネロとは違い、嗜虐心しぎゃくしんが高い上に超人的な力を持つ。だからこうして、ネロに危害を加えようとする相手と代わりに対峙している。

 細長男が、クロを蹴り飛ばそうとする。

 クロはその動作を見てもいないというのに、簡単に受け止め、脚を掴んだ。

「ぐっ……この!」

 細長男は狼狽うろたえて尻もちをついた。

 クロは鼻で笑うと、その脚を放り投げる。

「うわぁあああ!!?」

「――こいつも消してしまおうか」

 そう言って、クロは右手を掲げた。

 禍々しい漆黒の魔力が可視化され、その右手の平に集束していく。

「ひぃっ!」

 その悲鳴は、クロの邪心じゃしんを煽った。

 刹那、彼を静止させる声が頭に響く。

(やめろ! その辺で十分だ!)

 逼迫ひっぱくした声が、クロの視線を落とさせる。

 首を掴んでいたぽっちゃり男が泡を吹いて気を失っていた。

 クロは舌打ちすると、やれやれと体を起こす。

「まったく……てめェは本当に、甘ちゃんだな。こいつもこいつで軟弱だが、てめェは別の意味で軟弱だ」

 瞬きして、瞼を開いた時には彼の目は元の白黒へと戻っており、寂寥感の塗れた表情となっていた。

「この人を連れて帰ってください」

 細長い男は、慌てて首を縦に振る。

 そして泡を吐いたぽっちゃり男の腕を引っ張り、脱兎の如き退却をした。

(あいつらは、また同じことを繰り返す。自分の愚かさをまるで自覚していないバカな奴らだ。殺した方が世の中のためだと俺は思うが)

「僕は、世の中のために何かをしようとは思っていないよ」

 


 ◇◇◇



 いつも誰かを助けるとレヴェナに叱られる。

 助けたから叱られるわけではない。一人で危険を冒すネロを心配して、だ。

 レヴェナはネロがクロ――魔人であると知っている。

 この国では魔人を含めて人族以外の亜人は忌み嫌われている。もし魔人であると知られたら、ネロはここに居られなくなる。それを心配してくれるのだ。

 だから、レヴェナの説教には愛情がある。それが今のネロにはありがたくて、微笑んで、また叱られる。それがお決まりの流れだ。

 説教が終わると、昼食作りをセシルが代わってくれたことを知って、腹が鳴った。

 金髪ボブの眼鏡を掛けた少女。

 歳はネロよりも下だが、歳以上に大人びて見えて、時折ネロも彼女が大きく見えていた。

「また叱られていたの?」

 彼女は叱られ疲れたネロの下にやってきた。

 そばかすのある彼女は、いつも揶揄うように笑う。

 彼女の言う『また』に対し、何も言えずに微笑するネロ。

「相変わらず勘がいいわね。どうやってあんなに離れている人の声が聞こえたのかしら。……もしかして、それも魔族帰りだから?」

「……さ、さあ……?」」

 うーん、と唸って直ぐに判らないことを報せると「なにそれ」と笑ってくれる。

「セシルありがとう。昼食の当番代わって貰って」

「いいのよ。あたしはあっちに行けなかったし、少しは役に立てたならそれで」

「うん、ありがとう」

「それより、もう皆お腹を空かせて待っているわ。早く行きましょ」

 そう言って、セシルは先にリビングへと向かう。

 彼女の後を追おうとした。

 その時、背後から服の袖を掴まれて足を止める。

 振り返ると、スタインが立っていた。

 それまで気配がなかったが、いつの間に来たのだろうか――と一瞬考える。

 けれど、スタインが眉を顰めていたのが気になり、屈んで目線を合わせた。

「どうしたスタイン?」

「どうして獣人なんか助けたんだよ。他の人に知られたら、ここもどうなるか分からないじゃないか」

 皆も胸の内では思ったのかもしれない。その疑問を隠すことができたのは、ネロがそういう人間であると分かっていたからだろう。

 無論、スタインもネロが魔族帰りであると知っている者の一人だが、まだ幼いゆえか、神妙な面持ちで訊ねてきた。

「……ごめん。だけど、放ってはおけなかったんだ。彼女が助けて欲しいって言って、それがボクに聞こえた。助けないわけにはいかないよ。

 でも、大丈夫。もし何かあってもボクがこの場所を守るから」

 ネロは安心させるような笑みでスタインの頭を撫でる。

「――そうか」

 一瞬だけスタインの目の色が変わり、不安になる。

 それはまるで唾棄だきされているかのような目だった。

(え――?)

 瞬きをすると、スタインは年相応に笑みを浮かべていた。

「どうしたのネロにい。早くお昼ご飯にしよう!」

 どこか作り笑いな気がしてならなかった。

 スタインは、表情を隠すように走り去ってしまった。

(今のはなんだったんだ? もしかしてスタインは、亜人が嫌い――なんだろうか……。それとも――)

(……)



 ◇◇◇



 「で――」とトーマの一言で会議が始まる。

 取り仕切るのは、孤児たちによって構成される自警団――【ラーディストリート・イレギュラーズ】でリーダーを務めるトーマという少年だ。

 両腕に包帯を巻いた彼は、テーブルに肘をつき、威容いような雰囲気を醸し出していた。

 ここには彼を含め十一人の子供たちがいる。一人、仕事に出ていていない者もいるが、ここに大多数がいる為、多数決となったところで大差ないと考えた。

「その子をどうするか――だが」

 そう言って、彼女――端の席で小さくなっている獣人の少女へと視線を移動させる。

 すると、含み笑いする者がちらほらと出始める。

 レヴェナとセシルの二人が堪えきれないといった様子だった。

「ちょっとトーマ、なにその話し方……ふふっ、バカみたいだよ」

「ぷす……どこかで……ふふふ……頭でも打ったんじゃない?」

「う、うるさい! せっかく威厳ある凄い人みたいにしてんのに、これじゃあ台無しだろうが!」

 恥ずかしさに頬を赤くするトーマ。

最初はなっから破綻してんだよ。そんな面倒なことして何の意味があるんだー?」

 オレンジ髪の少年――ボーラスがけらけらと笑う。

「そんな事をしてる暇があるなら、さっさと決めればいいだろ。どうせネロが連れてきたんだろうしー? 全部ネロにぶん投げろよ、いつものことだろ~」

 釣眼でネロをねめつける。

 しかし、ネロは愛想笑いするだけだった。

「そうは言っても……この問題は結構難しいんだぞ」

 トーマは溜息混じりに零す。

 その理由は誰もが周知していることだ。

 獣人と一緒に街を歩けば当然のように目立つし、良からぬ噂が流れかねない。

 教会で匿うにしても、彼女は奴隷であり主人がいる。いずれその主人がここを訪れることになるだろう。

 それは――今日にでも、だ。

 獣人族というだけで、これだけの心配事ができてしまう。

 トーマからしては、できれば放り出したいところだが――ネロが救ったという経緯がある以上、そんな不義はできないと困窮こんきゅうしている。

 トーマのうめき声が出る頃、獣人の少女がほつほつと話し始めた。

「あ、あの……た、助けて頂き……ありがとう……ございました。わ、わたし……は、一人で帰れます、ので……その……」

 トーマはまた溜息まじりに「まあ」と仕切り直す。

「そうするしかないだろうな」

「え、どうして!?」

 ネロが席を立つ。

 説明するのはセシルだった。

 あまり賢いとは言えないトーマより、聡明そうめいで知られる自分の方が納得いくだろうと配慮してのことだ。

「いいネロ? この国は亜人は基本的に奴隷制度によってある意味守られているの。奴隷でない彼女たちは通常、その場で処刑ということもあり得るけれど、奴隷であれば所有権は主人が持つから一定以上の危害を加えられることはないわ」

「だから、殺されることはないって言いたいの?」

「ええ」

「それじゃあこの子はまた同じ目に遭うよ!」

「仕方ないのよ。ここには奴隷契約を破棄させる手立てなんてないんだから」

 セシルの真剣な眼差しを受けてネロは俯いた。

 セシルが言うならば、本当に手立てはないのだろう。

 どこで得た知識かは分からないし、訊いてもはぐらかされるのがオチだろうが。セシルがこの中で一番の知恵者なのは間違いない。そんな彼女がさじを投げれば、諦める他なかった。

「じゃあ――決まりだな……」

 皆、可哀想な目で獣人の少女を見る。

 平民の場合、孤児であっても貴族ほど裕福でないにしろ、人権は認められており、正式な手順を踏めば商人になったり戦士になったりすることができる。

 しかし、奴隷にはそれら一切がなく、まさしく自由が無い。

 貧しくても人間として扱わられるだけ恵まれているのかもしれない、と各々考えさせられる。

 ネロは無力に落ち込んだ。

 クロという力があるとはいえ、社会に打ち勝つには別の力が必要なのだ。

(救いたくても救えない、どうしてボクは何もできないんだろう――)



 ◇



(ほら、思った通りだ。どんな偽善者でも、最後には見捨てるしかないんだ。それがお前の限界なんだよ――クソ魔人)

 どこかで哀れみながらも蔑む心が潜む。



 ◇◇◇



 数日後――。



 ネロはシロと共に貴族街の一角にある屋敷を訪れていた。

 ここはネロの知人――ハツネ・ブルーベルポーサー・コーネリウスが研究所として使っている。

 彼女とはネロが幼少の頃からの付き合いで、貴族令嬢である。

 見てくれは、他の令嬢には負けず劣らずの美形である。

 すらりと伸びたしなやかな四肢、凹凸のはっきりしたプロポーションに整った顔立ち。誰が見ても、彼女を美人だと評価しない者はいない。

 研究所を訪れると、またか、という光景が毎度の如く繰り返される。

 おそらくは冗談が少しは混じっているだろうが、ハツネはネロといると度々誘惑をする。

「ねえ、ネロくぅーん。最近寂しくない? いつでもここに引っ越して来ていいんだよ〜」

 ハツネの恋愛対象しゅみは、主にまだ幼い少年だ。ネロもその範疇に入っていた。

 背後からネロの耳元へ近づくと、甘えた口調が漏れる。

 同年代かそれ以上の大人に対してはゴミを見るような顔になる彼女が、こういった態度を取るのは自分の趣味に適合する相手にのみである。

 ネロは考え事をしている為、話が聞こえていなかった。

 椅子の上で姿勢正しく座ったまま、目下にあるテーブルの木目を覗き込んで静止している。

 ハツネは首を傾げた。

 これはどうしたのかと心配になった女性――同じ研究者のリリコが、ネロの肩を叩く。

「おい、大丈夫か?」

「え、あ、はい? なんですか?」

 ネロははっと現実に引き戻され、リリコの顔を見た。

 赤いポニーテールの、イケメンと呼ばれる方が妥当な、綺麗な女性に見つめられていた。

「大丈夫ネロくん? もしかしてなことでもあった?」

「い、いえ、そんなことは……」

 ハツネが、今度は本当に心配して声を掛ける。

 ネロは自重するような笑みを浮かべてお辞儀をし、また小さくなっていく。

 他人の悩み事に対し、当たり前のように熱心になるネロだが、自分のこととなると表には出さないように伏せる節がある。

 ハツネはそれを理解しているので、より悲愴ひそうな顔つきとなった。


 シンとした空気が流れる。

 ハツネも何か声を掛けようとしていたが、その前にそれまで静かに座っていたシロが口を開く。

「兄さんは、人を助けたいと思ってる」

「え、人? 誰を?」

 シロは、はっとしたネロの顔色を窺いながら話し始めた。

 もしかしたら二人ならどうにかしてくれるかもしれない、と一縷の希望を持ちながら、だ。

「奴隷の女の子で――獣人」

「獣人の奴隷!?」

「この前、道で助けた。…………けど、この国だと獣人は嫌われてるし、奴隷契約には逆らえないから、それ以上何もできなかった。だから兄さんは、ずっと考えてる」

 そういうことか、とリリコが納得する。

 ハツネとリリコに知られたくなかったが、シロが言おうとするのを止めることはできなかった。

 二人揃って腕組みし、難しい顔になってしまう。

「この国は昔から人族(ヒューマン)国家で、亜人を遠ざけるような政治や法を作ってる。国に入った他種族は皆、奴隷か死刑だ。一部、姿を偽って滞在する者もいるかもしれないけれど、そういう体制ができてしまっている以上、この国の中にいる限りどうにもできないだろうな」

「元々は人族でも重罪を犯したら奴隷になることもあったみたいだけど、先代国王の時代に廃止されたのが記憶に新しいかな。その内法が変わる可能性もあるかもしれないけど、今すぐにどうこうできる問題じゃないのは確かだよね」

 ハツネの最後の言葉でネロはより俯いてしまい、咄嗟に「で、でも、ネロくんが落ち込むことじゃないわ!」と付け加えた。

 ネロは嘆息し、窓の外を見る。

 この国は亜人を蔑視べっししているが、他国の中には亜人を受け入れている国も多く存在する。近場で言うなら、隣国のカイセディア公国もその1つ。

 そんな国に送り出すことができれば良かったのだろうが、例の獣人には奴隷契約という絶対的(かせ)がある。それを消さない限りはどうにもできない。

 奴隷契約を一方的に破棄する方法は、実はある。

 ――契約者本人が亡くなることだ。

 しかし、それはネロの嫌う非人道的行いであり、子供たちを危険に晒してしまいかねない。

(そんなことできないよ……)

「ネロくんが名前も知らない困っている誰かを想うのはとても立派だし、素敵なことだよ。だけど、それでネロくんの心が病んでしまうのはよくない……」

「まあ、今回のことは忘れるんだな。どんなことにも限界はある。したい、やりたいだけでどうにかできるほど世の中甘くないってこった」

 天を仰いで椅子に体重を預けるリリコを、ハツネはぎろりと睥睨する。

 シロは、しゅんとしていた。

 二人に相談すれば何か変わるかもしれないと思っていたが、話す前以上にネロを落ち込ませてしまったことが申し訳なかったのだ。

 再び空気が重くなったことに居てもいられなくなったハツネは、出し抜けにネロを自分の胸に抱き寄せる。

「ネロくん、今日はここに泊まっていきなよ! 何か一緒に方法を考えよう?」

「はあ!? おい、マジかよ!?」

「別にいいでしょ、ネロくんはわたしの部屋で面倒を見るし!」

「そこじゃねえよ、方法を考えるってとこ! お前も貴族の娘なんだから、どうしようもないことだってのは分かるだろ! それだけじゃない。どこから矢が飛んでくるかも分からない事案だ。この件にはこれ以上首を突っ込ませないのは、ネロの為でもあるんだよ!」

「どうしようもできないからって何!? あなたはいつから不可能って早くに見切りをつけて諦めるようになったの!? わたしたちは研究者でしょ! だったら、不可能なら、別の方法がないか考えるものじゃん! まだ諦めるには早いよ!」

 リリコは自分よりも威圧的なハツネの形相に牙を抜かれてぼやく。

「……なに熱くなってんだよ……」

「だってわたしは――ネロくんのお姉さんだから!」

 そう言いながらも、ハツネはネロの後頭部を撫でながら顔を胸の中に埋めるのだった。

「ハツネさん、苦しいです……」

「あ、ごめん……」

「でも、ありがとうございます。ハツネさんがそう言ってくれるの、すごい嬉しかったです」

「ホント? 元気になった?」

 ネロは愛想笑いしながら相槌を打つ。

 途端にハツネは食い気味に捲し立てる。目はギラギラとし、恍惚こうこつな表情を浮かべて顔を近づけた。

「じゃあ、今日はわたしの部屋に泊まるってことでいいよね! お風呂も一緒に入ろうね! 昔を思い出すよね……あの頃はネロくんもっと小さかったけれど、ちょっとは成長して……た、食べごろになってるのかな――なんて妄想しちゃったりして......」

 ネロは次第に困り笑いになっていったが、ふと何かを感じて立ち上がる。鋭い眼差しで窓の奥を凝視した。

 夢の世界に入りかけたハツネも現実に引き戻される。

 何かあるのかと窓を覗き込むが、ひしめき合う建物が連なる風景しかない。

 かと思ったが、よく見れば豆くらいに見える距離に誰かいるのがわかる。しかし、よくあんなに遠くが一瞬で見えるものだな、と関心する。

 リリコもつられて腰を上げ、窓の方を振り向く。

「なんだ? どうかしたのか?

 …………んぅ……ウチには全然見えないけど……」

 出し抜けにネロが駆けだした。

 三人からネロへの呼び掛けが発せられるが、まるで別人のように何の反応もなく屋敷から飛び出して行ってしまった。

 すぐに窓からネロの姿が見えるようになる。

 リリコは窓を開け放ち、静止を試みた。

「おい、どこ行くネロ! やめとけ、どうせろくな事じゃない!」

 何が起こっているのかは分からない。

 しかし、ここは端の方でも貴族街。もし何かが起こっているのだとしても、関わっているのは貴族の可能性が高い。

 貴族が発端で、ネロが介入すれば、ややこしいことになるのは必至ひっしだ。

 子供で、戦闘能力が乏しく、虚弱なネロが太刀打ちできる要素はなに1つない。

 だが、ネロの脚には躊躇いすら現れなかった。遠くに見える点へと向かい、研究所の前に拡がる開けた一本道を駆け抜ける。

 リリコは、目を疑った。

 ハツネの毎度のことながらの誘惑には困り笑いするだけ。掃除好きでどちらかというと農民のようだが、華奢でそれほど筋肉はない。無害そうで、ハツネが気に入るほどに無垢な少年が――風のように素早く、並みの冒険者以上に軽快に走り抜けている。

 ネロは、来年で成人する。ゆえに大人びた動きをするのは、不自然ではないのかもしれない。しかし、ネロはあんな動きをするような体つきではない。

 研究の過程で暫く人体のつくりを調べたことのあるリリコにとって、ネロの走りは異様に思えてならなかった。

「あれは……本当にネロか?」



 ◇



 周囲は建物が連なっているが、今ではほとんど使われていない通りだ。

 貴族街だとしても廃屋の多いこのような通りには、ほとんど人が寄り付かず、しかし貴族街がゆえにごろつきやホームレスがたむろしているということもない。

 ここを通るとすれば変わり者か、人の目を気にした者かくらいだ。

 おそらく彼らは後者だろう。

 大きな体躯たいくをしているが、太っているからそう見えるだけである。

 少し歩くだけでも体は重そうで、腹に溜め込んだ脂肪がぶるんぶるんと音を立てて揺れる。

 首には金のネックレス、腕輪に指輪、イアリング。ギラギラとした宝石をあしらったアクセサリーをこれでもかと装飾していた。

 そんな彼の右手には鎖が握られており、それは彼の背後を歩く少女の首輪に繋がっている。

 少女に着けられている首輪は、彼女を奴隷であると証明する物の1つだ。

 少女は頭から獣耳を生やし、腰の方には尻尾がある――つまり獣人だ。

 獣人の少女は、首を引っ張られてついて行くのがやっとのようにやつれており、足並みがたどたどしい。

 脚にはいくつもの擦り傷やあおたんがある。右の瞼は腫れあがり、全身がすすや土で汚れている。

 布切れと大差ない服は今にもずれおちそうなほど傷んでおり、少女の寿命を示唆しているかのようである。

 何を考えているのか、手綱を握る男は不気味な笑みを浮かべて後ろを顧みようとせず、どんどん前に進んでいく。

 次第に鎖は伸びていき、ぴんと張ったところで少女は前に倒れた。

 太った男は、汚物を見るような眼差しで見下ろしながら捲し立てる。

「おい、何をやっている。さっさと歩かぬか、このウスノロめェ!!」

「は、はい……すみませ――……申し訳ございません」

 つい最近、謝り方でこっぴどく叱責しっせきを受けたため、咄嗟に言い直す。

 のっそりと立ち上がりながら、なんともない、とでも言いたげに無理して笑った。

 太った男は(何故自分が足を止めなければならないのか)と不満げに鼻を鳴らす。

 再び歩き始めるが、やはりまた、少女が転ぶ。

 もう足に力が入らず、立っているのが不思議なほどだ。

「なにをやっているのだ!? ただ歩くこともできないのか愚鈍な奴隷めェ!!!」

 面白いわけでもない。

 楽しいわけでもない。

 嬉しいわけでもない。

 だが、少女は笑わなくてはならない。顰め面や無表情などを見せれば、きついおしかりを受けるからだ。

 自分を守るために、彼女は無理にでも笑ってみせる。

 しかし、男は少女の顔に拳を振り下ろした。

 頬が切れ、地面についた肘からは血が流れる。

 思わず漏れた悲鳴も彼を改心させる要因にはなり得ない。逆に男は被害者面をしていると思い、息を荒げながら捲し立てた。

「この私が貴様を貸し与えた顧客にケチをつけられたのも貴様のせいなのだぞ! それだけならまだしも、貴様は貴様と共謀した相手の名も居場所も口にしようとしない。本当に使えないゴミくずだ!!

 えさを与えてやっているというのに、ちゃんと働きもしない貴様を奴隷として雇ってやっている私に恩を仇で返すとは、やはり獣人は誰の役にも立たない穢れた種族だなぁ!!」

「も、申し訳ございません……」

 ――謝ることしかできない。

 いや、この主人を前にして謝罪以外の言葉を口にすることがほとんどない。

 何をしても怒られる。殴られる。罵倒される。

 結果に付随するそういった反応が、彼女の心をむしばんでいく。

 もういつ枯れたのか分からない涙は、やはり出ない。

 しかし表では笑っていても、痛いのは痛く、苦しいのは苦しく、悲しいことは悲しい。

 この痛みが痛覚なのか、それとも心が痛いのかももう判らない。

 だが、痛いというのは確かで、思わず心の中で叫んでしまう。

(――助けて……。誰か、助けて。痛い、辛い、苦しい……こんな人生なんて嫌だ。こんな、こんな扱いされたくないのに……どうしてわたしは人並みに生きちゃいけないの……?)

 足音がこちらへ向かってくる。

 しかも駆け足だ。

 少女の耳は切り込みが入っており、ぐわんぐわんと頭痛がする頭には人族と同程度の距離しか聞こえなくなっている。

 つまり、足音がかなり近いということだ。

(もしかしたらこの人を止めてくれる人――)

「申し訳ございません、お待たせしました!」

 その声にはっと顔を上げると、そこに居るのは自分が待ち望んでいた者とは違った。

 金髪青目の壮年そうな男が、爽やかな笑みをして立っている。

 身なりからして貴族。少女からしても近寄りがたい狡猾こうかつそうな雰囲気を纏っている男は、笑顔で主人の男におべっかしている。

 期待を裏切られて思わず表情が曇った。少女は、それを咄嗟に隠そうと項垂うなだれた。

(やっぱりそうだ。前のが出来過ぎてただけだったんだ。子供でも、わたしを救おうとしてくれたあの人たちだけしかわたしを人として見てくれない。

 わたしまだ誰かが助けてくれるかもしれないなんて思ってる。そんなこと絶対有り得ないって分かっているのに、この前助けて貰ったからもしかしてって思わず期待しちゃってるんだ……。

 やめよう。こんなこと考えても、現実に裏切られてより苦しくなるだけだ。

 だってわたしは――奴隷なんだから……)

「遅かったではないか。このヘーデル・ケツ・ラッシュラッシュ様に出迎えが無いとは、あやうく例の件について口が滑りそうだったぞ」

「それは勘弁ですよ。少し別件で外しておりまして、出迎えるのが遅くなってしまいました」

「言い訳は結構。さっさと案内――」

「――待ってください!」

 今度は、足音がまったく聞こえなかった。

 ヘーデルたちの視線が向く方を振り返ると、そこにはなんともひ弱そうな少年が立っていた。

 彼には見覚えがあった。

 先程脳裏に過った子供――ネロ・ディア・ロスティルだ。

 何故この人がここに?

 そんな疑問が湧いたが、少女は咄嗟に立ち上がる。

(もしかしたらまた助けてくれるかもしれない。でも――それはこの人に迷惑をかけることになる。この人にだけは不幸になって欲しくない。

 わたしを助けようとしてくれたこの人だけは、不幸なんて似合わない人なんだ!)

 少女は、苦しい様子を見せないように笑ってみせた。

「なんだお前は?」

 金髪の男が警戒し、腰にある剣に手を掛ける。

(お願い……ご主人様を怒らせるようなことは言わないで……!)

 そんな少女の願いとは裏腹に、ネロは泰然たいぜんとヘーデルを睨み付けた。

「その子を放してください!」

「っっ……!!」

 そういう言葉を言わないで欲しいと思った――はずなのに、心は温かく、胸の痛みが和らいだ感覚があった。

 震える唇を噛み締める。

(喜んじゃいけない。この人はきっとご主人様の恐ろしさを知らないから、そんなことが言えるんだ。

 ご主人様は商売ギルドの顔で、表では理知的な子爵として通しているけれど、裏の顔は他国との不法商売を仲介するブローカー。殺し屋や密かに有名な実力者とも顔見知りで、ご主人様が命じれば直ぐに抹殺されてしまう。――そんなの、ダメ!)

「なにぃ?」

 ヘーデルの怪訝な面持ちがより険しくなった。

「悲しんでるし、痛がっているし、苦しんでる。あなたがその子にしていることは、その子にとってはつらいだけだ!! そんなの人間のすることじゃないっ!!!」

「口の悪い童子どうじだなぁ……。おいハックリード、この礼儀知らずを殺せ。この私に無礼にも口を利こうとした平民を斬首に処すのだ!!」

 金髪の男は鼻で笑いながら「はっ!」と応答し、抜剣する。

 ネロの風貌を見て相手にならないと悟ったのだろう。構えはせず、ゆっくりとネロに近づいていく。

 すると、少女はネロの前に出て行き、両手を広げてネロを庇おうとした。

(――ダメ!)

「キミ......」

 少女は首を横に振った。

 ハックリードは、眉間に皴を寄せるとヘーデルに「どうします」と視線を送った。

 嘆息しながら頭を抱えるヘーデル。

「だぁから、何をしているんだ……奴隷の分際でッ!!」

 その行動に驚いたのは彼らだけではない。ネロもだった。

 唐突な出来事に呆気に取られていたが、相好を崩して少女の肩に手を置く。

「優しいんだね、ありがとう。でも、大丈夫。ボクがなんとかするから――もう絶対、見捨てたりしない!」

「何を言っているんだ貴様……! ハックリード、奴隷は叩き倒しても構わん! さっさとその目障りな童子を殺せェ!!」

「それではお言葉に甘えさせていただきます」

 ハックリードが近づいて来るのに合わせて、ネロが少女の前に出る。

「悪いな小僧――貴様を恨んじゃいないが、このお方の命令に背くと後で私が上の人に罰を受けてしまうからねえ……さっさと済ませるよ。ハァア!」

 剣を斜め上からネロの首筋を狙い、振り下ろす。

 剣はやけに抵抗なく線を描いた。

「”第1段階(ファースト・ステージ)”」

 ――だが、その途中でキンという鈍く高い音が響き、違和感を覚える。

 ハックリードは、手元を見て目を丸めた。

 剣の柄から先が無くなっていたのだ。

 ふと、目の前を上から下に何かが通り、地面に突き刺さる。それは、柄から先の刃だった。

 鼻で笑う音が聞こえて、徐々に青ざめていく顔を上げた。

「たく、なんでこうも変な所に突っこんでいくのか――オレにはまったく理解できねェよ……。

 だぁが、やっぱりてめェには感謝しないとなあネロ。少し、羽を伸ばしたかったところだからよ」

 相変わらず強そうではない華奢な体だが、それとは違う指標にて彼を強そうだと思った。

 その指標は形容しがたい何か(・・)だ。

 奴隷であり、剣士や兵隊の訓練を見たこともない身の上である少女に、それを表現することはできない。

 獣人族由来の感覚か、先程までの少年とは一線を画す何か(・・)が現れたのだと感覚的に思った。

「何をやっているんだハックリード、玩具の剣などを見せびらかして追い返そうと思ったのか? 私はその童子を殺せと言ったはずだぞ!?」

「……いや……」

(そ、そうだ……柄が緩んで飛んでしまっただけだ。勘違い……はは……。こんなガキが、あり得ない)

 ハックリードは明らかに動揺していた。

 心の奥底で、先程の鈍い音が尾を引いて勘違いだと思いきれていないのだ。

 とはいえ、なによりも重要なのはそこではない。

 多くのことが――まず、目の前で起きている異変に気付いていないという点からだろうか。

 少女はその異変に気付いているのは自分だけなのか疑問に思ったが、二人にとって何の関係もない、初見の少年の雰囲気が変わったところで気にしないのだろう。

「なんだてめェら、こんなのも見えないのか?」

「なんだと!?」

 少年の挑発で警戒したのか、漸く気付く。

 少年の目が黒く、瞳は赤く変わっていた。

「な、なんだその目は……?」

「ああ? はっ、そこかよ。……まあいいけど、そんな危機感でいいのかよ――死ぬぜ?」

 ハックリードは全身から血を噴き出した。

 まるで体を引き裂かれる病が発症したかのように独りでに、倒れる。

「な、なあ゛…………!!?」

 目の前でハックリードが倒れたことで、ヘーデルは驚愕する。

 一瞬にして緊張感が走った。

 ハックリードは、これでも騎士たちの中では指折りの剣士だ。

 ヘーデルは、彼が倒れたことで少なからず少年を警戒し始めた。

「な、ど、どうしたというのだハックリード!?」

「笑える。まさか自分がなんでもできるだなんて思っちゃいねえよな?」

「な、なんだと!? この私に無礼な口を利きおって!」

「無礼? 生死が分かれる縁に立っているってのに、そんなもんを気にするバカがどこにいんだよ。

 まあデブ豚だから、理解が追い付かないってのは理解してやるけど――豚の寿命を握るのは食べごろかどうかってところだ。てめェは見るからにかなり溜め込んでいるようだ。そろそろ頃合いだって気付かねえかな」

「で、デぇブだとぉ……!!?

 ま、まさか貴様……公爵派閥の手の者か!? こ、この私は、ヘーデル・ケツ・ラッシュラッシュ子爵だぞ! 貴様のような童子如き、暗殺部隊に命じれば一日であの世行きなんだぞ!!」

「ふーん? へえ? じゃあ今は無力ってわけだ。自分でやり返せない奴はつれェよなあ? 頼み綱も折れた今、てめェはただの一人の人間、目の前の強者に朽ちるしかない無力な人間だァ」

「な、何をする気だ……?」

 嘲笑を浮かべる少年に対し、ヘーデルはおののく。

 あれだけ威張っていた主人の様子に、意外でならない少女は固まった。

「ネロは優しいからな、てめェのように弱い奴をいたぶる趣味はない。だが、それじゃあオレの腹が収まらねェ。少しくらいならオレの嗜虐心しぎゃくしんを満たしても構わねえよなァ!!」

 少年が足を進める度、ヘーデルは後退あとずさる。

 ふと何かに気付いたヘーデルは笑みを浮かべると、地面に落ちていた鎖を引っ張った。

 少女の首が引っ張られ、倒れる。

「うわっ!」

「こいつ……この、奴隷がいたぶられるのが嫌なのだろう!! これ以上こいつのいたぶられる姿を見たくなければ立ち去るがいい!!」

 その時、鎖に黒い一閃が走ったかと思うと、途中で千切れた。

 少年は鬼のような形相となっており、ヘーデルを血のように赤いの瞳で脅していた。

 「ひぃ」という情けない悲鳴を挙げながら、ヘーデルはその場にへたり込む。

「な、なんなんだ貴様は!?」

「Hey……I'll kill you!!」

 何を言ったのか分からないといった顔で、ヘーデルは口をへの字にした。

 次の瞬間、ヘーデルが尻をついている地面が黒く変色していく。それはまるで動く影のようであり、流砂りゅうさのようでもあった。

 体が沈み込む感覚を覚えてハッとし、どんどん自分の下半身が漆黒の地面に飲み込まれていくのに気が付く。

「な、なんだこれは!? 貴様、いったい何をした!?」

「安心しろ。殺しはしねえ……殺し(・・)は、な」

「ゆ、許せ! もうこんなことはしない! 金ならやるから、やめてくれぇ!!」

「要らねえよ」

「な、なに!? だ、だったらなんだ。何が欲しい? 家か、女か……そうか、その奴隷か! それもやるから、お願い……お願いします……助けてくれ……」

「もう黙れ。こいつはもうてめェのもんでもなんでもねえ――黒に沈め」

 少年が背中を見せると、ヘーデルは数秒も経たずに漆黒の地面に飲み込まれていった。

「い、いやぁあああああああああ――…………」

 通りに慟哭どうこくが反響する。


 少女は彼――ネロの皮を被った少年を見上げて腰を抜かしていた。

 何度も怖いものをみた。ヘーデルもその一人だ。

 奴隷は彼女だけではなく、他の奴隷をしつけと称して甚振いたぶる姿を何度も見たことがある。

 他にも、死人を見た回数も指では数えきれないほどで、殺されるところを見たこともある。

 しかしどんな恐怖も――主人にいたぶられるかもしれないと陰で怯えるよりもずっと――彼を、怖いと思った。

 影に潜む赤い双眸そうぼうに覗き込まれ、少女は咄嗟に下を向く。

(この人、誰……? さっきの人と全然違う)

「大丈夫?」

 目の前から発せられた言葉で現実に引き戻された少女は、深々お辞儀をした。

「あ……あああ……あ、ありがとうございます!!」

 不思議な感覚だった。

 言葉を発しようとしている間に、感謝なんてどうやってすればいいんだっけ、と疑問が生じる。どうにか伝わればと必死に感謝の気持ちを述べた。

 しかしやっぱり違うと首を振ってから、謝罪する。

「すみま――……申し訳ございません。わ、わたしのような軟弱な種族を御救いくださって……もう二度も……」

 顔など見られない。

 助けてくれた相手に対して怯えているなど悟られてはならない。

 そう思惟しいしつつ、頭を地面に付けた。

「――やめてよ。言ったでしょ? ボクがなんとかするって。だから、もう怖がらなくていいんだ。そんなに頭を下げてたらおでこが怪我しちゃうよ?」

 とても今さっきヘーデルやハックリードを相手にした者とは思えない柔和にゅうわな口調だった。

 これ以上頭を下げては失礼にあたる。

(大丈夫。今迄だってできてた、笑うんだ。笑え、笑って気付かれるな)

 そう自分に言い聞かせながら恐る恐る顔を上げた。

 少女は唖然する。

 本当にさっきまでの事が嘘だったかのように、鬼のような少年はどこにもいなかった。

 そこにいるのは少女を心配した明朗めいろうな少年のみ。しかも、こんなに安らぐ笑顔があるのか、と感心してしまうほど落ち着く表情がくる。

 思わず言葉を忘れ、ほつほつと喋ろうとするが、何を言っていいのかを分からずに瞑想した。

「あ、えっと、あの……その、ですね……ああ……」

「大丈夫」

「え?」

「もう大丈夫。ボクが、助けに来たから」

 図星を突かれた。

 一度も言葉にはしなかった「助けて欲しい」という気持ちが、何故か伝わっていたことに深く感激した。

(誰にも伝わらないと思ってた……。伝わったとしても、それをしてくれる人がいるだなんて、思っても裏切られるだけだとついさっきだって思ってた。なのに……――)

「一緒に行こう」

「で、でも……わた、わたしには……」

(――そんな資格はない。だってわたしは、獣人族で人族じゃない。この国では人並は許されず、物としか扱われない。それが当たり前だ、だからわたしは奴隷なんだ) 

「自分は奴隷だから――」と言うと、少女はまた図星を突かれたようにハッとするので、やっぱりと思い「とか、自分は獣人だから、とかそんなことは今は考えなくていいよ。ボクがキミを救う」

 少女からは「でも……」と視線を地面で泳がせながら自信無い言葉が呟かれ、ネロは少女の頬を優しく触れながら自分と顔を合わせるようにした。

「任せてよ。どんな相手が来ても、どんな障壁でも、ボクがなんとかしてみせる。さっきみたいにね! だから、もう一度言うよ。ボクがキミを救う。ボクがキミのヒーローになる!」

「……どうして、ですか。わたしはあなた様となんの関係もないのに……」

 きょとんとしながら不思議と疑問が出てきた。

 ネロは微笑み、当たり前のことのように即答する。

「人が人を助けるのに理由なんてないよ。もし理由が必要なら、ボクがキミを助けたいって、それだけだよ」

 太陽のような笑顔を振りまく少年に、少女は胸を打たれた。

 自然と涙が目から溢れる。

「あ、す、すみませ――手に涙が!」

 少女がネロの手を避けようとすると、ネロは逆にその手を掴んだ。

「そんなに畏まらなくていいよ。これからボクとキミは友達だから、ネロでいいよ」

「ネロ……様」

 ネロは首を振る。

「敬称も必要ない。涙も気にしなくていい。泣いていいんだ。だってキミはボクたちと何も変わらない、同じ人間じゃないか」

 ――言葉の一つ一つに、こんなに胸を打たれるのはなぜだろう。

 疑問に思うと同時に胸の痛みがいつの間にか晴れ渡っていることに気付いた。

「わたしは何を差し出せばいいですか。ネロ様の為なら、わたしどんなことでもしたいです」

「じゃあ、ボクと友達になってよ」

「っ――……はい、喜んで!」

 少女は初めて、無理をしているのではない、屈託のない笑みを浮かべた。



 ◇◇◇



 数刻後のラッシュラッシュ子爵邸――。



 ヘーデルは全身に包帯を巻き、ベットの上で横になっていた。

 照明が仄暗く照らす中、おそらく奴隷だろう布地の薄い服を着た妖艶な女性二人をはべらせている。

 二人共、獣人族で耳と尻尾がある。

 一人は、紺色の猫に近い猫人種ワーキャット。もう一人は、白い兎に近い兎人種バニー

 胸と尻に張りがあり、故意的でなくともヘーデルを喜ばせてしまう体つきをしている。

 ヘーデルは、二人が恥ずかしがる様子を眼福といった様子で撫でまわすように見ていた。

 包帯を巻く要因になったのは昼間の事件。

 そのせいで腹の居所が悪くなり、色目を欲して現在に至る。

(あの童子めェ……。地面に吸い込まれたと思えば、いつの間にか空中から落下し、全身打撲や骨を折うことになってしまった。おかげで数カ月ベットから動くことができないなど……。ラッシュラッシュ家の老いぼれ共はともかく、他の貴族に示しがつかんではないか……!!)

 今は歩けないほどだが、報復する為にはそんなことは関係ない。

 ヘーデルは遺憾いかんに拳をベットに打ち付ける。

 すると、腕に走る痛みで全身が震え、声をあげた。

「くぅ……あのガキぃ……。よもやこの私にあのような仕打ちを……許せん!!」

 昼間のことを思い出すと怒りを我慢できなくなると思ったヘーデルは、強張った口調で「おい!」と奴隷を呼びつける。

 その罵声とも言える呼び掛けに、二人はビクンと肩を震わせた。

「胸を揉ませろ! 尻もだ! ぐへへ……チビで何にも使えない子供奴隷よりも、私には貴様らがいる。何にも困らんわ!」

 苦渋に顔を歪めながら奴隷二人はおずおずと足を進める。すると、「早くしろ!」と恫喝どうかつが生じる。

 二人は即座に歩み寄り、ベットの傍で立ち控える。

 のっそりと起き上がるヘーデルの顔が脂下やにさがった。

 煩わしいとでも言うように僅かしかない布をどかしながら猫耳娘の曲線を歪める。

 徐々に鼻の下を伸ばしながら満足気な笑みを浮かべるヘーデルを他所に、娘は余裕がないように下唇を噛み締める。そこには僅かばかりの抵抗があった。

 その熱っぽく抗う表情は、ヘーデルを喜ばせるものであり、彼は次にもう一人の兎娘の尻を揉む。

 彼女たちは獣人族であり、通常ヘーデルよりも強い潜在能力を保有している。しかし、彼女たちは各々の腹にある禍々しい紋様や、首輪が証明するように奴隷だ。

 もしこれが無ければ、即座にヘーデルの頭を蹴り飛ばしているところだろう。だが、主人であるこの男には逆らうことができず、反撃することも許されない。

 そんな苦悶くもんに歪める表情が、ヘーデルを喜ばせるとは気付きもしない。

(あの童子め、いつかあのふてぶてしい顔をタコ殴りにしてやる。それまで、私は目の前の甘味に甘えさせてもらおう……!)

 そんな折、屋敷中が揺れる。

 大きな爆発音のようなものと共に証明が倒れ、ヘーデルの体を痺れさせるほどの地響きが生じた。

 奴隷二人は立っていることができず、その場にへたり込んでしまう。

「な、なんだなんだ!? 何が起こったというのだ!?」

 ヘーデルもベットに倒れてしまい、暗がりで騒ぎ立てた。

 ――屋敷を走る何者かがいる。

 そう思ったのは、何もここに居る者たちだけではない。

 足音は勿論、今の爆発が偶発的に起こるとは思えない。

 屋敷中のあらゆる人間がそう思って警戒した。

 動き出した者はごく数名のみだった。

 それはヘーデルに仕え、ある程度の金銭を貰っている者たち――彼の護衛を担う屋敷の戦闘員と言えるだろう。

 それ以外――料理人やメイド、書記官に財務官といった者たち――については、自分の身を守ることに精一杯で、地震が起きたと思い、机の下や高いところに物がない壁端へと避難している。

 護衛といっても、武装をしている者はごく一部。屋敷の入口を警護する門番だけだ。

 物音がするのは裏口の方で、後手に回っているだろうことは容易に見当がつく。

 だが、内部にいる者は武装した門番よりも腕は確かだ。そう簡単に中には入れないだろう、と思惟しいを巡らせる。

 それでもこのまま黙って待っているのは危険に思え、

「おい、扉を押さえろ! ここに何人なんぴとも入れるな!!」

 困惑した二人は、扉とヘーデルの顔を見比べる。

 主人からの命令と言えど、咄嗟に動くことができないのは、この命令が正式な命令(・・・・・)ではないからだ。

 正式な命令には魔力が伴われる。主人が奴隷を強制的に使役する時、自身の魔力を声に乗せるのだ。

「いいから早く!!」

 二人の腹に在る奴隷紋が禍々しい赤い光りを放つ。

 魔力が干渉し、二人は強制的に使役される。

 二人は虚空を見つめるようなとろんとした目になると、人が変わったように走り出し、扉に突進した。扉に背を向け、がっちり固める構えをとる。

「よしよし……それでいい。後は外の奴らが侵入者たちを葬れば万事解決だ!」

 息を切らせて少しの安心感を得ている内に屋敷の物音が止んでいる事に気付く。

「お、おお……もしや奴ら敵を追いやったな。はっはっは! どこの誰か知らないが、我が家に手を出そうなどと馬鹿げたものを!

 しかし――一体どこの誰が…………まさか、王派閥の者か?」

 突如部屋の窓がけたたましい音を立てて割れる。

 ヘーデルはおびえた悲鳴をあげながら床へと落ち、その衝撃に全身へ痛みが伝播して嗚咽を漏らす。

 奴隷二人が正気に戻った。

 風が入り込み、カーテンがばさばさと靡く。

 割れた窓の奥で、月光を背に黒いコートがきわに降り立った。

 その佇まいは、まるで時間が遅く感じてしまうほどである。

 奴隷たちは、茫然ぼうぜんとその者が自分たちの方を見るのを待った。

 何かをしようと思ってではない。

 ――もしかしたら助けてくれるかもしれない。

 弱者は、自分が怯えていた相手が脅かされそうになる時、決まってそんな希望を抱いてしまうのかもしれない。

 実際、彼――闇に塗れた侵入者は、主人であるヘーデルを圧倒している。ただ単に入って来たというだけだというのに、だ。

 顔に黒い顔無しの仮面を付け、全身黒いコートで人相も知れないが――関係無い。また、ヘーデルが虚を突かれたことは考慮していない。

 やや希望に思考が寄っているとは気付いていた。とはいえ、こんな千載一遇の機会チャンスに、そんな無駄なことに思考を回していられるほど余裕を持ち合わせてはいない。

 自分たちのみじめな姿を見れば、少しは情を持ってはくれないかと淡い期待に寄り添った。

 そして――それは唐突にやってくる。

 侵入者はあわあわとたじろぐヘーデルから奴隷たちへと視線を動かした。

 猫娘は、咄嗟に涙ぐみながら心の中で嘆願する。それに遅れながら兎娘も続いた。

「な、ななな……なんだお前は!」

 二人の願いの所作を遮るように、ヘーデルが怒鳴る。

 しかし、彼は質問に応じない。

 哀れむように彼を見下ろしたかと思うと、数歩前に出て脅迫する。

「貴様に今後一切の自由はない。悪事は全て我々の手の中だ」

「なっ……ど、どういうことだ! 貴様、一体何者だ!? どこの手の者だ!!」

「いずれその身に宿る不運が底まで連れていくだろう。精々怯えて心を改めるんだな」

 言いたい事を言い終えると、背を向けた侵入者は窓際にへたり込む二人へと歩み寄った。

「だ、だから、何を言っているんだ!? おい、聞いているのか!?」

 体中痛みに支配されてヘーデルは動けない。

 ゆえに、扉の外の誰かを呼びつけるしかないのだが、何度大声を出しても静かな屋敷が最悪の想像を駆り立てさせる。

「誰か! 誰かいないのか! 私の部屋に侵入者が来ておるぞ、誰かこいつを速く追い出せ! 殺せ! さっさと私の目の前から追い出せ!!」

 侵入者の背でかしましい声が挙がる中、奴隷二人は怯えながらも一定の距離を保ちつつ、されど救いを求めて侵入者の下に移動する。

 侵入者は、足を止めた。

 二人は驚いた。

 まさか本当に足を止めてくれるとは思ってもいなかったのだ。

 扉への道なら開けている。通り過ぎようと思えば無視できるというのに、だ。

 猫娘は、迎合げいごうしかけて思い直し、若干の警戒心を取り戻す。

(もしかしたら一瞬で首を跳ねられるかもしれない)

 完全に信用するには情報が不足過ぎるし、むしろ怪しさの方が大きい。

 それに気付くには些か遅かったが、それはそれで悪くないと逡巡しゅんじゅんする。

(アレにこれ以上身体や命を弄ばれるよりは、どこの誰とも知らない相手このひとに殺された方がマシだ)

 侵入者は狭く掘られた仮面の穴から一瞥ずつ二人を覗き込んだ後、小さく呟いた。

「一緒に来るか、助けてやるぞ」

 か細く侵入者の声の割には少し頼りない印象があったが、期待以上の科白に歓喜がまさった。

 猫娘は「はい」と言いかけて自重し、兎娘と目を合わせる。

 兎耳娘は「大丈夫」とばかりにゆっくりと頷く。

 これまで彼女の能力に助けられたことは一度や二度ではなく、一番信用できる答えだった。

 安心したのも束の間、またもやあの声が二人を支配する。

「奴隷共よ、そのクズを殺せェ!!!」

 脳に直接響く声が、身体の支配を奪う。

 瞬時に意識を乗っ取られると、自分の意志とは関係なく身体が動いた。


 獣人がゆえの俊敏さで拳が侵入者の仮面に突きつけられる。

 仮面の男は紙一重で体を仰け反らせて躱すが、兎娘に足を払われる。

「くっ……!」

 即座に体を反転させ、床に手をつくと窓際まで後退する。

「ふはははは! バカな奴だ。それが私の奴隷だと知らずに近づいたか! その腹の紋様が私の物だという証だというのに!!」

 下卑げびた笑い声をあげながら、ベットを支えに立ち上がるヘーデル。

 奴隷二人は戦闘態勢になりながら囲むようにしてじりじりと侵入者に近づいていく。

「思い知れ侵入者めが! 私を脅したこと、我が屋敷に来たこを後悔させてやるぅ!!」

「聞こえてくる……こんなことしたくないって言ってる。泣いている――貴様にこんなことをさせられたくないと言っている!!」

「はは! 耳でもおかしくなったじゃないのあかァ!? 奴隷たちは何も言ってはいないぞ! 追い詰められて余裕を失ったようだが、そんな命乞いでは私は止められないぞッ!!」

「薄汚れた貴様の耳には聞こえない。安心しろ――私に二言は無い!!」

「――やれィ!!」

 獣人の素早い移動は目を見張るものがあった。

 二人は同時に動いたが、やや猫娘の方が速いだろう。強靭な脚力で兎娘よりも速く彼の下へと襲い掛かる。

 直撃のちょっとした時間のずれだった。

 侵入者はやや身を引いて猫娘を躱すと、一撃だけ首筋に手刀を入れ、地面に叩き倒す。

 その後、続けてやってくる兎娘は手のみを避け、肩を押し出し、丸出しになった腹に手の腹を当て、気絶させた。

 二度壁や床でバタバタと大きな音が立ったが、再びシンと静かな部屋が戻る。

 ヘーデルは絶句した。

「……ごめん……後で手当てするから」

 侵入者は二人に向かって静かに謝罪する。

 時を計っていたかのように部屋の扉が開いた。

 同じく黒い仮面をした坊主頭の男が入って来た。

 図体が大きく、黒いコートの男よりも威圧感があるように思え、ヘーデルは縮こまるしかなかった。

 男は何もしていないが、ヘーデルは怯えて壁際に後退る。

「手伝おうか?」

「……頼む」



 ◇◇◇



 十数分走って逃げてきた一行。

 それはどこか怪しく、可笑おかしな一行に見えるだろう。

 黒いコートに身を包んだ怪しげな者を先頭に、図体の大きな男、中背の者、明らかに子供の女の子だろう矮躯な者の四人。

 先頭の二人は長くぷらんと曲がった風呂敷を担いでおり、闇の中を駆るには怪しすぎる。

 しかし、何故か逃げる最中追って来たりすれ違う者はいなかった。

 林へと入って漸く一息つくことができ、担いでいた荷を木に立てかけるようにして置く。

 後方を走っていた二人は後をつけている者がいないか息を整えながら確認する。

 目視だが、もし魔法などを使われていれば防ぎようがない。その術を知らず、対抗魔法も持っていない。

 だが魔法を使われていれば、流石に彼――ネロが気付くだろうと後方にいたセシルは思った。

 ネロはどうやってか魔法を感知することができるようで、また使用者のいる方向まで分かる。そのネロが何も言わないということは、魔法の類は行使されていないのだろう。

 屋敷の方からも街の方からも人影は見つからず、セシルとトーマがオーケーのサインを出す。

 すると、それぞれ仮面などの武装を脱ぎ始めた。

 先頭にいたネロは、黒いコートを脱いで「ふぅ……」と疲れ溜息を吐く。

「お疲れ様だネロ」

 センカイからも労いの言葉があり、相槌を打つ。

 今回の潜入はかなり大きく事を運んだ。しかし、立地やあまり内部に人がいなかったおかげかそれほど噂が広まるのは早くないと予想できる。

 この噂を背負うのも、この国で一番噂に事欠かない【闇夜の魔人】だ。

 悪い事をした人に対し、法以外の方法で天罰を下す裁きの執行人という悪評は静かに広まっているらしい。

 その噂をネロはあまりよく思っていないが、ラーディストリート・イレギュラーズがこれほど上手く立ち回れるのもそんな虚像きょぞうがあるおかげでもある。

(本当はボクだけで全部収められればいいんだけど、それは禁止って言われちゃってるからなあ……)

「ネロが貴族に介入した聞いた時は驚いたが、ひとまず今回の強硬策が無事に済んでよかった。ネロの顔が知られている以上、俺たちの下に来るのは時間の問題だったからな。あいつの悪事の証拠は持ってこれたし、これをまたあの情報屋に渡せば万事解決だ。そっちも……顔は見られていないだろうな?」

「大丈夫だよ」

「ねえ……それ、何?」

 胡乱な目でセシルが見てくる。

 彼女が指を差した先には木に立てかけられた布の塊2つが置いてある。

 そのぐったり具合はまるで大人のようで、セシルは嫌な予感がした。

 ここに来るまで気になってはいたが、逃げている最中に指摘したところで後回しにされるだろうし、役に立つ何かを盗んできたんだろうと思うことにしていた。

 トーマも「俺も気になってた」とセシルに並ぶ。

 ネロは苦笑し、センカイは石のような無表情となる。

「えっと……助けて欲しいって言われて(口では言われてないけど)……」

 セシルは目を見開くと、布を開いて中身を露わとした。

 猫耳の娘と兎耳の娘がそこにいた。

 二人共ぐったりと気絶しているようだ。

 セシルは呆れて額に手を当てて首を横に振る。

「あなたは獣人愛好家なわけ? どうしてこうもケモミミ美少女を連れてくるの!?」

「あ、えっと……あはは……わかんない」

 笑いながら断言するネロ。

 セシルはそれ以上何も言えなかった。口をあんぐりして固まる。

「おい、こんなにどうするつもりなんだよ。こいつらもどうせ奴隷紋を付けているんだろ? 奴隷紋をつけていたら、その間はずっと奴隷は奴隷。主人であるあのデブ野郎のしもべだ。隠すこともできねえぞ。

 やっぱり殺してきた方がいいんじゃねえのか? そいつらの為ってんなら、まだ多人数が生きるための人柱っていう大義名分もできる」

「ダメだよ。それだけは、ダメだ。やっぱり一方的な人殺しはやっちゃいけないんだ!」

 ネロの言い分はトーマには綺麗事に映る。それができない世の中であるとトーマは知っていた。ゆえに、説教めいて早口になった。

「一方的じゃなきゃいいのか? だったらあのデブに斧でも持ってもらえばいいのか? そんなんで俺たち弱者が生きていけるとでも思ってんのか!」

「綺麗事だってことは分かってる。それでも、なんとかしなきゃ誰かが不幸になるなら、その不幸を分かってあげられるボクが助けたいって思うんだ! だって、その子が不幸だって分かるのはボクだけなんじゃないかって!」

 するとネロは、悲しそうに表情を曇らせていく。

「……声が聞こえるんだ。助けてって……。泣いてるんだ、怖くて震えてて、もしかしたら死ぬんじゃないかって冷たい感情が伝わってくるんだ。そんなの放っておけるわけないじゃないか!」

「だから、二度とそうならないようにあいつを殺せって言ってんだ!」

「違うんだよトーマ……。怖がってるのはこの子たちだけじゃない。あの人だって、怖がっているんだ」

 たぶんわかってくれないだろう――そう思いながらも、ネロは静かに訴え続けた。

 トーマは怪訝に反駁はんばくするが、自分たちの家を危険に晒したくないという本音から来るもので、それ以外は二の次である。

「表じゃ強がって声を荒げたりしているけれど、胸の内で殺されやしないかって不安でしょうがないんだ。最後にはそれが決壊して、敵愾心てきがいしんもなくなった。そんな可哀想な人を恨みも無いのに殺せないよ」

「恨みが無いって……お前、あの獣人を助けようとしたのに、恨みが全く無いって言うのか!?」

「――無いよ」

 偶にネロの目が怖いと思う時があった。

 いつも愚直で好奇心旺盛の心穏やかなネロだが、クロというわけではないのに、ふと冷たい眼差しになる時がある。

 その目からは殺気とも違う――名状しがたい恐ろしさが発せられるのだ。

 クロは仲間に対して殺気を向けることはなく、怖いと思うことはあっても他人事に近い。

 しかしネロのは、クロのそれと比べるとやはり異質で、今にも心の臓を握りつぶされてしまいそうな――気付けば慄然りつぜんしてしまっている。

 トーマは茫然と立ち尽くしてしまった。

「た、大変だ……皆ぁ……」

 弱弱しい声が聞こえ、皆の注目が声の主へと集中する。

 体中が傷だらけのスタインが木を支えになんとか立っていた。

「どうしたスタイン!?」

 センカイとトーマが駆け寄ると、小さく口を開いた。

「敵がやってきて、皆やられてしまったんだ……。まだ教会に……たぶん貴族の仕返しだと思う……。俺はなんとか逃がして貰えたけど、他の皆は……」

 ネロは目を見開くと、すぐさま駆けだした。

 トーマがネロの名前を呼んだ時にはすぐに加速し、豆粒のように遠くへ行ってしまっていた。

「くっ……俺たちも早く追うぞ!」

 そう言って振り返ると、センカイとセシルがうつ伏せに倒れていた。

 瞬く間にトーマの中に戦慄が走った。

「お、おい……どうした!?」

「敵がいるんだよ――」

「なんだと!?」

 スタインの言葉に吃驚きっきょうする。

 周囲を見渡してもそれらしい相手がいない。

 潜伏系のスキルか魔法で身を隠していることを想像するが、それにしても静かだった。相手はかなりのやり手だろう。

 一人でどうにかできる自信のないトーマは、スタインを隠すようにして木を背にする。

「スタイン、合図したら逃げるんだ……」

「――嫌だね」

「なに言ってんだ、いいからお前は――」

 振り返ると、そこにいるはずのスタインが消えていた。

 即座に周囲を確認するが、やはりそれといった者はいない。

 と思ったが、いつからそこにいたのだろうか――闇の中に小さな子供が立っていた。

「だ、誰だお前――」

 暫時、林の中でばたりと音が鳴る。



 ◇◇◇



 敵の仕返しは予め想定していた。しかし、居場所がバレるには早すぎる。

 バレる前に敵地にて先手を打つ作戦で、まだ数刻しか経っていない今だからこその好機だと思った。

 出逢いは貴族街だった。恰好から平民以下の身分と思われても仕方が無いが、王都の平民層がどれほどいるか。その中から絞り上げるのにたったの数時間――どう考えても短すぎる。

(つけられていれば気付かないはずがない。魔法の類も感じなかった。スキルなら――もしかしたら気付かないかもしれないけれど、そんなことをする暇があるなら、あの人がやられる前にボクに襲い掛かって来たはずだ)

 どうにもきな臭く、足並みに淀みが現れそうなのをぐっとこらえ、考えるのを後回しにして教会までの道を疾走する。

 普通、敵がいるかもしれない教会に近づけば、少し離れて様子を見るものだが、ネロには余裕がなく、一目散に教会裏の母屋に入った。

 がらんと開いていた厨房ちゅうぼうから入り、誰もいないことを確認してからリビングへと移動する。

「レヴェナ! シロ!」

 思わず悪い想像が頭の中に描かれる。

 母屋の中はどこも暗かった。

 月光で窓際は少しの明るさはあるが、その他はネロでなければ然程見えないだろう暗さだ。

 ネロは目もいい。夜や暗い場所でも昼間と変わらない程度には見える。

 しかし、これといって異常は見当たらない。

 荒された様子も無ければ、戦闘痕も無く、血痕も無い。

(……教会の方か?)

 一通り見て回り、教会へと向かう。



 教会には長椅子が16台左右対称に並べられており、ガラス窓から射す神聖な光りを浴びている。

 セオムティラ教会が祀る神を模った七色のガラス窓を月光が通り、教会内には荘厳な雰囲気を醸し出されていた。

 ――光と闇の間に人影があった。

 レヴェナだった。

 ネロはすぐさま駆け寄る。

「レヴェナ!!」

 どうやら気絶させられているらしい。息があり、外傷はそれほど見られない。 

(良かった……。でも、ここまで綺麗にやられたところを見ると、相手は初めから気絶させることが目的だった可能性が高い)

 奥にはボーラスやヤマル、エータクにシロが並べられている。鼓動のテンポからしても同じ状態だろう。

 一時、安心してから何故(・・)が過る。

 もし貴族の仕返しなら――あのヘーデルなら、殺しを命じていても不思議はなかった。

 当人であるネロを放って帰るということがあったとして、子供たちを皆気絶させるだけに留めたのは、ここに来た者たちが子供相手だからと配慮してのことだろうか。

 もしそうなら、手紙か何かを貰っているはずだが――

(やっぱり他の誰の気配も無い。言伝でも貰っているのだろうか……。

 でも、その人たちが帰れば怯えたあの人が待っている。これ以上、こちらに時間を割くことはないだろう。警戒するに越したことはないけれど、それもセシルの情報で破綻することになるまでだ)

 ネロは、ふと顔を上げる。

 皆が無事であることを確認して安堵したが、今はもう一人。

(――獣人あのこがいない!)

 出し抜けにカランカランと音が鳴る。

 気配など無かった。今迄、殺気どころか人の気配など目の前の子供たちのみだ。

 それが今しがた、突如として背後に現れる。

 今の小物が転げたような音は、自分がいることを知らしめるためのもの。

 ネロは警戒しつつゆっくりと振り返った。

 害することが目的なら、音を立てる前に襲ってきただろう。つまり、少なくとも単に襲うことが目的ではない。

 教会の祭壇を背もたれにして獣人の少女が倒れていた。

 彼女もおそらく気絶させられているだけだろう。鼓動も聞こえ、落ち着いている。


 ネロの脳裏に何故か森の景色が過った。

 そこには少女がいて、肌は色黒。丁寧口調だがどこか威圧的で、でも仲が良かった気がする。

 そう……まるで彼女のような――

 祭壇の上に腰掛ける生意気そうな少女がいた。

 祭壇というのは、神への供え物や祭具を置く意味がある神聖な場所だ。

 にも関わらず、彼女は尻を置き、自分の膝に肘を置いて頬杖をついている。不敵な笑みを携えて。

「よお……ネロ?」

 その子を一目見て、スタインと混同した。

 身なりは軽装で、やや胸の膨らみがあるところを見ると女性である。肌が白いスタインと比べて色黒。髪の色も藍色のスタインに対し、銀髪。

 しかし顔つきやサイズ感、彼のトレードマークであるチョーカーがかなり似ている。生き別れの親族というなら、ここにいる理由も含めて納得ができる。

 だが、人族のスタインに対して、この少女は見るからにダークエルフだ。

「一応、名前を聞いておこうかな?」

 顰蹙ひんしゅくしながらも冷静に訊ねた。

「意外と落ち着いてるんだな。クロはまだしも、お前は慌てるもんだと思ってたよ」

(クロを知っている!?)

「どっちで名乗ればお前は驚くんだろうな」と揶揄いながら頭を搔き、面倒そうに「まあ、どっちでもいいか」とまた不敵な笑みに変わった。

「俺は――いや、ウチは、インドラ・フォン・ラ・スターマイン。ダークエルフで、お前たちからすれば――スタインだ」

(これが、スタイン!?)

「あ、言っておくけど、そいつらをやったのもウチだよ。邪魔な奴がいると何かと面倒だからね」

「ど、どうして……」

「理由があるとするなら、ウチがダークエルフで、お前が魔人族だからだよ」

 目の色が変わったのは明らかだった。

 先程まではまだスタインと話しているような雰囲気が僅かばかり残っていたが、それが完全に消え、冷酷な眼差しが突き刺さってくる。

「お前を殺すためにどれだけの時間をろうしたことか。考えるだけでイライラするね……」

 顔を強張らせると、インドラは祭壇から降り、腰から短剣を抜く。

 短剣が獣人の首に掛けられた。

「なっ……何をしているんだ!? ボクが……ボクが魔人族だったら、なんだっていうんだ……!!」

「ダークエルフはかつて魔人族に一方的に蹂躙され、酷い恨みを持っているのさ――って、簡単に言ってるけど、それはウチに実感がないからなんだよねー。ウチがやられたわけじゃないし、恨みがあるっていうなら、それを延々語ってくる里のバカ真面目たちにさ。

 だけど、ウチもその里の人間で、やる事はやるってこと――。悪いけど、仕事に対しては真面目なんだよねウチ。だから、お前を殺すんだよネロ」

 スタインは――いや、インドラは、今迄いわゆる潜伏というものをしていたのだ。

 魔人族の疑いがあるネロは魔族帰りで、魔人と同じ特徴を持つ。ゆえに、他者にとってネロは魔人であり、忌むべき存在である。

 だが、この場所に限っては、魔人でも受け入れてもらえるものと思い込んでいた。

 たった一人――彼だけはそうではなかった。

 魔人族は、全種族中最強の種族と謳われており、その力は単体で一国を落とすことも可能であるという。

 他種族が魔人族に危害を与えようとすれば、当然のようにやりかえされて終わる。その力を知るダークエルフからすれば、慎重になって当然だ。

 インドラは、この場所でネロの弱点や殺す方法を探していた。その身を偽り、微塵も暗殺しようとしているとは悟らせず、静かに裏の役目を果たそうとしていたのだ。

 想像ができないことだ。

 しかしだ――それに他の者を巻き込もうとするのは、ネロにとって容認できない事である。

「その子は何の罪もないだろ」

「罪? この国じゃウチもお前も、こいつも……生きているだけで罪になる。こいつも寝ている間に殺された方が気が楽ってもんだろ」

「キミはボクを殺したいんだろ! だったら、その子は関係無いじゃないか!」

「……ウチは、ずっと変に思ってたんだよ。お前のそういう偽善的なところがさ。

 こんな奴、無理矢理介入しなければどこの誰とも知らない被害者だったじゃないか。そんな奴まで助けて、救った気になって満足しようとしているお前は頭がどうかしているよ」

 静かに吐き捨てているが、これは彼女の怒りだろう。

 先程のダークエルフのなんたらよりは、こっちの方が動機に向いていると思えるほど言葉に力が乗っている。

 危険な雰囲気を出しておきながら、インドラはどこか真剣でないようだった。

 飄々(ひょうひょう)としているというか、殺そうとしている相手に対して隙だらけのように振舞っている節がある。

 警戒していないように見せて、ネロが動くのを待っているのかもしれない。

 しかし、人質を取られている以上ネロから動くことはできない。

(怒らせるのは逆効果だ。できれば外に追い出して、皆に危害が及ばないようにして――)

「まずはウチを外に出して、こいつらに被害が出ないようにしたい――ってか?」

 ネロは目を丸めた。

「図星か。まあ、ウチが人質を取っている時点でそんな妄想をしているだけ、まあまあ頭は回っているとは思うけどな。でも、まずはこっちだろ?」

 そう言って、インドラは刃先で獣少女の頬を突く。

 ネロの顔色が曇る。

(そうだ……スタインを引き剥がす術がないと成立しない。分かってはいるけど……)

 「方法なら簡単だ」とインドラが零してネロは反射的に顔を上げた。

「――クロを出せ」

 それはネロも一瞬考えていたことだった。

「お前じゃ役不足だって分かってんだろ。さっさとクロに変われば、ウチが刺し殺す前にこいつを救出することができるかもしれないぞ」

 だが、それは彼が最も望む展開なのではないかと思えてならない。

 でなければ、とっくに一刺しはしているところだ。

 スタインはネロ=クロだと知っており、出てくる間を疑っているように見える。

「スタイン、人の命は他人が奪っていいものじゃないんだ」

「綺麗事を言うなよ――お前もその手で何人も殺してきたくせに!!」

「……」

「クロがやっただなんて言い訳しねェよなァ!? お前の、その手が、人を殺してんだぞ! そんな奴が、人の生き死にとやかく言ってんじゃねェッ!!」

 ネロは言い返せなかった。

 インドラの言うことは正しい。自分の意志ではないにしろ、相手が悪人であったにしろ、クロを止めずに命を奪うことを止めていない時点で責任がある。

 誰かを守るため。生きるため。どうしようもない時、クロが他者の命を奪うことを無言で了承する。

 そして、奪っているのはネロの体で、その手も同じだ。

「――さっさと変われ。こいつを殺すぞ?」

(確かにクロに変われば解決するのかもしれない。だけど、そしたらスタインはどうなる? クロのことだ、絶対に怪我を負わせてしまう。最悪、殺してしまうかもしれない。そんなのダメだ!)

 逡巡しゅんじゅんしていると、業を煮やした彼――クロが、思考の中に現れる。

(なら、あの獣人のガキを見殺しにするのか?)

(そんな事しない!)

(てめェが自分で解決するってんなら傍観してやるよ。だが、選択ってのは、あるようで無いもんなんだぜ)

「早く選べ――ネロ!!」

(傷付けたくないって考えちゃ悪いの? 他人に死んで欲しくないって思うことの何が悪いんだよ! 普通にただ皆と一緒に笑って平和な毎日を過ごしたいって思っちゃいけないの!? それじゃあまるで一人で生きていくのが当たり前みたいじゃないか。そんなのおかしいよ! だってボクたちはこれまで一緒に、支え合って毎日を楽しく過ごしてきたじゃないか――違うのかよスタイン!!)

 インドラの目から光が消え、冷ややかな空気が教会中を支配する。

「はっ……ウチがスタインだから、殺さないとでも思ったのか? あめーよ……その腐った脳みそは、クロの方がまだマシだっただろうぜ!」

 短剣が振り上げられ、獣人を鉄の刃が睨む。

 ネロは咄嗟に駆け出そうとするが、インドラは見透かすようにしてこちらを窺っている。

 ネロでは絶対に間に合わない距離と時間。

 差し迫って再びクロを出すしかない、と煮え切らない決心を歪めようとするが、ふとした感覚に襲われて足を止める。

 次の瞬間、振り下ろされた短剣は途中で弾かれた。

 刹那せつなの内に感じたのは魔力であり、それは魔法が行使されたことを意味する。

 インドラがクロを牽制してのものとも思ったが、何度もこれに似た魔力を受けてきたネロにとっては馴染みがあり、インドラのものではないと確信に至った。

 インドラがこちらを振り返るが、やはりクロになっていないと分かって舌打ちする。

 今の現象は魔法もしくはスキルによるもので、その類の才能のないネロが使えるはずは無い。

「魔法が使えたのか……?」

 訝しがられるが、次の現象によって答えが出る。

 獣人が自ら空中を浮遊してネロの下まで運ばれた。

「やっぱりこうなったわね。あの時の約束を覚えているかしら? あなたが責任を取るって言ったのよ、クロ」

 静かな教会に生じる足音。インドラとネロのものでないとすれば、それはまた別の第三者によるものだ。

 教会の裏口の方に映る闇より出てきたのは、眼鏡を外したセシルだった。

「セシル!? そんなバカな……ウチが完全に気絶させたはずだ……!」

 セシルは、狼狽ろうばいするインドラを嘲笑うかのような笑みを浮かべた。

「無事だったんだね、セシル!」

「ええ」

「くっ……これじゃあ予定が少しずれる……。ズレは修正しなければならない」

 呟き様にインドラは動き出す。

 緩急の鋭さに動き出したのがまるでわからなかった。

 セシルは咄嗟に距離を取ろうと後退ったが、その時にはもうインドラは目の前まで迫っていた。

 インドラがセシルに手を掛けようとした――次の瞬間、

 パァン――とインドラの手が弾かれる。

 セシルとインドラの間に割って入るネロが、彼の手を押しのけた。

 暫時ネロとインドラの目が合う。

 舌打ちするインドラに対し、ネロは黒い闇に浮かぶ赤い月のような眼で睥睨へいげいしていた。

 ネロはまだ変わっていない。

 片目が魔人のようになっただけでは、ネロの意識は溺れず、クロは表に出ない。

 絶えず観察してきたインドラはそのことを熟知していたが、あの目に睨まれて自然と体が委縮し、気付いた時には距離を取るべく体は後ろへ跳んでいた。

(ウチが畏れを抱いた……だって?)

「――”第1段階(ファースト・ステージ)”」

「は……はっ、セシルを守るためでも、お前はクロにはならねえってのかよ! なあ、ネロ!!」

 インドラは強がりに吐き捨てるが、体勢を直しながらネロは寂寞せきばくした溜息を吐く。

「わかってくれないのかもしれないけれど、これがボクだ。キミと戦いたくはない」

「くっそ我侭で、強情で、現実を理解していない偽善的思考だぜネロ! それじゃあただお前がそうなって欲しくないって拒絶しているだけじゃねえか! そんなんじゃ何もかも変わらない……!!」

「そんなのやってみなくちゃ判らないよ。だからボクは、前に出した足を引っ込めない!! キミの相手はボクだスタイン!!」

 ネロが駆けだす。

 先に構えていたインドラはこれを受け止める構えだ。

(もっと姿勢を落とせ!)

 掴みかかるネロに対し、ネロは途中で更に姿勢を低くして突進する。

 「しまった」と零すインドラをネロは懐深くから押し込んだ。

 ネロは細い四肢からは感じられない力でインドラを持ちあげ、素早く運んでいく。

「この……っ!!」

 インドラは上からネロの背中に拳を振るうが、まるでビクともしない。

 それなら、と短剣で脇腹を突き刺す。

 滲み出る血はじんわりを服の色を侵食し、ぽたぽたと刃を伝って零れ落ちる。

 だが、ネロはまるで気付いていないかのように走り続けた。

 インドラは更に刃の柄の先端を叩き、より深く短剣を刺す。

「ぐっ……!!?」

 ようやく効いてきたのか、ネロは足をもたつかせ、インドラを放りながら転げ回った。

 嗚咽おえつを漏らす二人。

 月がスポットライトを当てる庭は無風で、二人のぶつかり合いを静観するかのようだった。

 ネロは痛がる素振りも見せず、脇腹に刺さった剣を抜き取って捨てる。

 それを見たインドラは、やっぱりな、という顔で笑った。

「バケモノめ……」

「それには同意するよ。ボクはバケモノなのかもしれない……。けれど、ボクは誰も傷付けるつもりはない。キミのことも傷付けたくないんだ」

「お前の意志なんて関係ねーんだよ。お前が魔族帰りだから、ウチはお前を殺すんだ。抵抗するなら戦闘になる、それだけのことだろ!」

「ボクは死なない。キミに殺しなんてさせたくないから」

「……なにバカ言ってんだよ。ウチの手は既に汚れてる。これが初めての仕事じゃないからな! 殺しなんてさせたくない!? お笑いなら他所でやれよ、こんな場所で生まれたら奪うか殺すか――じゃなけりゃあ奪われるか殺されるかしかないだろうが!!

 今迄どれだけの人に脅かされようとしてきた? 今迄どれだけの人を殺してきた? この世の中、殺しなんて何もウチなんかの暗殺部隊じゃなくてもやってる日常茶飯事に潜む影同然じゃないか!!」

「それでも人は人を殺しちゃいけないんだ。人が頑張って生きようとしているのに、それを踏みにじったらボクたちはどうして生まれたのか分からなくなるじゃないか!

 命は一つしかない。人生でやりたいことはたくさんある。だから大切なんだ! その大切なものをボクは一緒に守ってあげたい!!」

「それが綺麗事だって言ってんだよネロ!!」

 地面を蹴り出し、インドラは距離を詰める。

 無風に抵抗の無いフォルム。インドラの脚は想像よりも遥かに素早く、疾走する姿は残像である。

 背後に気配を感じた時には既に遅く、ネロは肩に乗っかられ、腕に首を絞められた。

 後方に体重を動かすことで、ネロは立っていられず倒れてしまう。

 このままでは窒息させられると思い至り、必死に腕をどかそうともがくが、小さな体でもダークエルフ。岩のように重く振り払えない。

「ほら、さっさと出てこないとネロがウチに殺されるぞ! お前とネロの命は等価、ネロが死ねばクロも死ぬ。時間は無いぞクロ!!」

 ネロは頑固で滅多に意志を曲げることはなく、おそらく何をやってもクロにはならないだろうと考え、インドラは脅迫相手をクロに変えた。

 入れ替わりの意志がネロに無ければクロは表に出ることはできない。

 しかし、それはネロの意識があったら――という注釈が付く。

 ネロを気絶させてしまえば、その憂いが無くなると考えた。

 それをネロも気付いている。

 ゆえに足や体をできる限りバタバタさせて抵抗した。

 インドラはこの手の硬め技に慣れており、隙という隙を見せない。おそらくかなりの修練を積んだのだろうと意識の波打ち際に悟った。

 どんどん意識が遠のいていく感覚に襲われ、インドラは笑みを浮かべた。

「さあ、さっさと失せて奴を出せェッ!!」

 その時、教会の表の方からセシルが走って来た。

 ネロが成す術なく落ちる姿にネロの名を呼び駆け寄ろうとする。

「ネロ!!」

「もう遅い、ネロは消えた!」

 インドラがネロを放して立ち上がると、ぐったりと力無い体が地面に仰向けに倒される。

「……初めから……ネロを狙っていたのね」

「ウチの正体に気付いていたみたいだが、流石のセシルでもウチの狙いが魔人クロだとは気付かなったようだな。だがもう遅い。クロが出れば、後はもうこっちのものだ!!」

 インドラは高笑いをあげるが、ネロの体はその後まったく動く様子が無い。

 直ぐにクロがその体を操るものと思っていたインドラは、訝しみながら近づく。

 しかし、手が届く距離になっても動き出さない。

「まさか!」

 セシルは最悪の想像に駆られたが、「いや、それはない」とインドラが言い切った。

「心臓の鼓動は徐々に落ち着いていくけれど、絶えず聞こえている。空気が肺に入るようになったことで、徐々に緊張が解かれているのは分かるが――クロが出て来るんじゃないのか?」

「さあ……でも、これであなたの目的は遠ざかったということで間違いなさそうね」

「チィ……」

 インドラは顔を強張らせる。すると、ネロに動きがありたたらを踏んだ。

 体を起き上がらせ、咳き込む。

 インドラは警戒して構えた。

(これは……どっちだ……?)

 背後で攻撃態勢に入る少女を前に、息を整える少年は「ふぅ」と息を吐くと何気ない表情を振り返らせる。

 クロになったか――という期待に対しての答えを、鮮やかに裏切った。

 それどころか、ネロの瞳はいつもの白目と穏やかな茶色い瞳へと戻っている。

「……どういうことだ。ネロ、お前は気絶させたはずだぞ!」

 怪訝に訊ねられるも、ネロは従容しゅうようとしていた。

「クロは出さないよ。決めたんだ――キミの相手はボクだって。これは意地でも曲げない、ボクの信念なんだ!」

「お前……死にたいのか!? こっちはお前を殺してしまってもいいんだぞ!!」

「スタインは優しいよね」

「はあ? ウチはお前を殺しに――」

「皆は、気絶だけに留めた。暗殺部隊の一員なら、殺した方が楽だって分かっているはずなのに。

 スタインは、本当は誰も殺したくないんだ。だけど、クロのことはそっちの事情もあって見過ごす訳にはいかないから……」

「楽観的な思考には頭が上がらないな。そんな妄想が本当に当たっているとでも思っているのか!? 生きていた方が、お前を脅しやすいと思っただけだ、勘違いも甚だしい!!」

「それでもいいよ。キミがどう考えていたとしても、この事実が勘違いじゃないっていつか証明してみせる。そしてそれはきっと遠くない」

嗚呼ああ……もう、うるさいなァ!!!」

 右目を隠すと、再びネロの右目は黒く染め上がり赤い光りを帯びる。

 インドラは地面に落ちた短剣を拾い上げてそのままネロへと駆けていく。

「ごちゃごちゃ言ってないで、クロを出せって言ってんだよ!!」

「キミはボクが止める。ボクがキミを助ける!!」

 正面に突っこんでくるインドラ。

 ネロは反応できない。

 インドラは背後に回ると、足払いしようとして――

 ネロは体を反転させながら跳躍し、これを避ける。

「っ!!?」

(さっきは全然対応できなかったのに、今度は避けた!?)

 しかし、ネロは避けるだけで攻勢には出なかった。

 すると、インドラは険相けんそうな顔つきとなって踏み出し、短剣を逆手さかてにして拳を振るう。

 ネロは後退りながら紙一重で躱した。

 時より見える範囲で拳を払い除けるも、全てに対応できるわけではなく、切り傷を幾つかつけられる。

 だが、インドラは決定打をことごとくいなされていることに気付いていた。

(なんだ……こいつは、ネロのはずだろ……!!)

「お前に、身の丈以上の力があるはずがない!!」

 一瞬、大きく踏み込んだインドラは側頭部へ目掛けて足を上げる。

 ネロはこれを完璧に防いだ。

「っ……なんで!!?」

「誰が助けてなんて言ったんだよ!! 誰も、お前に、助けを求めてるわけじゃない。勝手に見透かしたフリしてしゃしゃり出てくるんじゃねーよネロ!!」

 逆足の踵を押し付けるようにしてネロの腕を蹴り、距離を取る。

 インドラは、そのまま弧を描くようにして移動しながら短剣に魔力を込めた。

 魔力を帯びた短剣は刀身が紫色に光ると、刃が伸び片手剣と同等の長さとなる。

「ウチは、自分のためにお前を殺すんだ!!」

「それはいい訳だ!!」

 剣を振るうインドラの動きは鈍かった。

 単調な剣戟けんげきを躱すのは難しくなかった。ネロはこれらを全て避けきる。

 その後隙を見てインドラの腕を掴み、体を反転させて背中に抱え込むようにすると、自身の体を丸めながら放り投げた。

 インドラはすぐさま立ち上がって追撃に備えるが、やはりネロは攻勢に出ず、殺気すら感じない。

 ただあの魔人めいた右目が暗くインドラを見つめているだけだ。

「理解されなくたっていい。ボクのしたいことだ、他人を巻き込まずにできれば誰も傷付かなくて済む。

 最初は、僕もそう思ってた。だけど、それじゃダメなんだって気付いた。ボクだけでどうにかできるなんておごりだったんだ。そんな時、皆がボクを支えてくれた。スタイン、キミもボクを助けてくれた。嬉しかった。独りじゃないってことがこんなにも嬉しいなんて思いもしなかった」

「その相手に裏切られて、さぞご立腹だろうな」

 ネロは首を横に振った。

「違うよスタイン。今度は、ボクがキミを独りにさせたくないって思ったんだ。

 ボクが守りたいのはキミだけじゃない。キミのいる居場所もボクは守りたい」

「っ……う、うるさい…………」

 インドラは俯いた。

 聞きたくない言葉から目を背けるようにすると、当てもないように目が泳ぐ。

「居場所なんて……ウチの居場所なんてどこにもない。ウチは、暗殺者だから――」



 ◇



 ウチは異端児だった。

 悪く言えば問題児。良く言えば麒麟児。

 他人ひとよりもできる。それがなんでもあった。

 木を登れと言われればものの数秒で上り方をマスターし、他を寄せ付けない素早さは群を抜いていた。

 狩りをして来いと言われれば、他より十倍近い数の獣を狩った。

 魔法を始めて使った時は、的だけじゃなく山に穴を空け、里一番の魔力量があるとお墨付きを貰った。

 それが疎まれる要因の一つだったんだろうな。なんでもできる奴はできない奴に軽蔑視されて、孤立させられる。

(別にいいさ。ウチには有り余る才能と自由がある。他人に羨ましがられるのは、ウチが凄い証明だ。

 よし、もっと多くの者がウチを見上げるよう思い知らせてやろう……!)

 ウチは好奇心が旺盛で、何かできるともっとできると証明したくてなんでもやった。

 狩りをする時、ウチは身を潜ませて確実に得物を狩る手法と取っていた。

 それを里の奴ら相手にやってやった。

 すぐ近くに忍び寄り、後ろから足を掛けて転ばせる。

 ただの脅かしだ。そんな大層なものじゃないし、気付く奴は気付くだろうと思っていた。

 だけど誰もウチが近くにいるだなんて気づかなくて、ものの見事に全員を引っかけてやった。

(全員カスだ。こんな隠密行動も見破られないで、危機感が足らなすぎる。聡明なダークエルフ族が呆れるよ)

 里には暗殺部隊―― 【ジーク】があって、当時エリートとか呼ばれていい気になっていた奴も、教官とか呼ばれていたいけ好かないババアも、腰を抜かせてやった。

 そしたら目を付けられて、 【ジーク】の英才教育を受けさせられるハメになった。

 ウチには親がいない。

 どこぞで野垂れ死んだじゃないかって言われたけど、 【ジーク】なんてもんがある里だ。処刑や懲罰、拷問だって辞さない殺伐とした場所なら、そういう事もありうると思っている。

  【ジーク】には基本的に親の推薦で入れられるものだけど、ウチはそうじゃない。半ば強制的というか、ウチぐらいの才能をそこらで無駄に使われたくない、といった頭の固い上位者の思惑が感じられた。

  【ジーク】では魔法も教えてくれるし、学ぶことはたくさんあって退屈はしなかった。森で一人で練習するよりは幾分か実用的だっただろう。

 だけど、疲れるとやっぱり面倒になるもので、そういう時にはよく抜け出した。

 友達や家族がいれば、飯を出してくれたり構ってくれたかもしれない。

 独りになるのは好きでも嫌いでもない。

 どこに居たって反応は決まっている。皆、ウチを見ると煙たがるか、怒る。

(皆ウチを課題評価し過ぎなんだよ。少しあんたらより優れてるからってバケモンみたいに見やがって……。こんなの外の世界じゃ普通だ、普通)

 生意気に振舞っているせいもあったんだろうけど、それは自由の無い、身動きの取れない里への当てつけでもあったから、仕方が無かった。

 初めて仕事で、ウチは人を殺した。

 特になにも思わなかった。森では食すためによく狩りをするし、それと何も違いはない。

 ああ――やっぱりウチはこっち側の人間なんだ、って思った。

 ウチは天才的だった。声真似は子供に限らず大人のような口調と雰囲気も持たせられ、時間制限はあるけれど、人相を幻覚魔法で偽れば一度もバレたことはない。

 次第にウチは里一番の暗殺者となり、【逸脱者グレー】と呼ばれるようになった。

 その名前が定着し、仕事に飽きてきた頃――頭の固い集団――元老院に呼び出され、あの指令を受けた。

 元老院に一人だけで呼び出されたのは初めてだ。

 皆、何百年も生きているダークエルフの中でもかなりの年長者たちだが、ダークエルフは見た目はさほど衰えることはない。普段布で顔を覆ってはいるが、皴のない綺麗な姿らしい。

「ここから然程遠くない、人族が棲みついているラトゥーリエ王国に魔人族がいるとの噂がある。もし真実ならば、我々の手で必ずや滅ぼさなくてはならない」

「魔人族は我がダークエルフ族を踏みにじった悪しき種族。我々の怨念を思い知らせなくてはならない」

「嗚呼……今思い出しても腹立たしい。奴等は我々を自分達が楽しむ為の玩具にしか思っていなかったのだろう」

「あの日の屈辱くつじょく、恨みを忘れたことなどただの一時としてありはしない。必ずや天誅てんちゅうを下さなくてはならんのだ!」

 数人が声を荒げるにつれて熱量が上がったのを感じた。

 ウチはその時生まれていなかった。だから、恨みとか言われても押し付けでしかない。

 聞くに堪えかねたのか、ウチと同じく当時生まれていなかった者が、自分も恨みがある――とか言いやがる阿呆がたんまりいる。けれど、それは洗脳なのか勘違いなのか、ウチにはどうやっても理解ができない。

(早く話終わらせろよ……。とどのつまり、その魔人を殺すために動けってことだろ。いちいち話広げて長くすんなよクソ共が!)

 下を向いてあちらこちらからの愚痴を延々を聞かされて暫く、仕切り役らしい他部族との交渉にも出ることがあるというまつりごとを任せられている女が、ようやく話を終わらせる兆しを見せた。

「ついては、魔人の居所の調査を秘密裏に行って欲しい。我々にとってこれは最重要任務と心得よ。けっして、魔人にダークエルフだとは気付かぬようにするのだ」

(だから、ウチにはそれだけ言えばよかっただろ……。愚痴ならあんたらだけでやってろよ、ウチの時間を無駄にしやがって!)

「分かっていると思うが、例え拷問されることがあっても、何の目的で近づいたのかなど我々やこの場所のことも含めて話してはならん。ゆめゆめ忘れるでないぞ」

(はっ、分かってるよ……。

 どうせあんたらは、ウチの顔も本当の名前も知らない老害だ。道具は道具としか見ていないんだろうさ)

 別に何かを期待しているわけじゃない。

 ウチの名前を憶えている奴なんているかどうかも分からないくらいだ。それがたぶん、当たり前ってことなんだろう。

 内心イラついていた。

 …………ウチは――ただの道具だから。



 ◇



「ウチは、暗殺者だから、そんなもの必要ないんだよ!!」

「自分の本心に嘘をつかないでよ。ボクは、知ってるよ。キミが本当に欲しがっているのは、ボクの命なんかじゃなくて、寄り添ってくれる誰かなんだ。じゃなきゃあんなに楽しそうにできるわけないじゃないか!」

 インドラ――スタインは、本当に楽しそうに笑って皆と接していた。

 それが全て嘘や偽りで塗り固められていたとは到底信じることができない。

 朝、肉を分け与えて幸せそうにしていた表情も、川で騒いでバカをやっていた時も全部、ネロの目にスタインは充実感を感じているように見えてならなかったからだ。

 胸の内にそうあって欲しいという気持ちが無いとは言えない。

 だが、戸惑い目の前から心離れるインドラの姿を見る度にネロの想像は確信へと変わっていく。

「もう一度ちゃんとボクたちを見てよスタイン!!」

「今更……もう遅いんだよ……。お前があの時、ウチを変えてくれてさえいれば――」

(……何を言っているんだウチは? あの時? どの時だ? 今日、変な名前のデブの屋敷に襲撃する前か? それとも、ウチが教会に来てシスターに幻覚魔法を掛けた時か? いや、違う。

 靄のように時たま夢の中に現れる唯一ウチを驚かせられる人族の子供。やさぐれたウチに手を差し伸べて笑ったあの時の子供なら――)

 インドラは昔あった記憶を思い出した。

 その記憶の中で、その少年は名乗っていた。

『ボクはネロ。ここら辺の領地を治めているロスティル家の者だよ』

(ネロ……ロスティル……ネロ・ディア・ロスティル! っ……お前、だったのか?)

 インドラの様子が変わった。

 ネロをまじまじと見始めたかと思うと、呆然と固まってしまった。

 なんのことか分からないネロは首を傾げた。

 その時、どこからか透き通るような爽やかな声が聞こえた。

「いやあ――取り込み中だったのか。これはすまない。私は待つのが嫌いなようで、ついつい様子見とばかりに来てしまったよ」

 背にマントのついた白装束を纏った男。

 フードをしっかりと被り、顔にはのっぺりした仮面をつけて人相がわからない。

 ただ、声色からして男であると判別できる。

 無論、魔法や魔道具によって声を変えている可能性はなくもないので、絶対ではない。

 それでもこんな場所、タイミングに現れたというだけで警戒するに値する怪しげな相手というのは確かだ。

 ネロはもうそう長く魔人の力を維持することはできなくなっていた。一度強制的に解かれ、インドラの相手をするのに神経を注いだのが大きな要因である。

 歯を噛み締めて威嚇を露わにする。それは白ずくめの男に対してだけではない。奥から聞こえる数多くの足音に対しても、だ。

(五感には自信があったんだけど……思ったよりも疲労しているんだな。こんなに近くに来るまで全然気づかなかった……)

 森の中から姿を露わす魔物の軍隊。

 動く人間の骨――スケルトン。ずんぐりむっくりとした緑の鬼――ゴブリン。狼の顔をした二足歩行の獣――コボルト。この三種の魔物がこぞって人垣を成していた。

 以前、王都を襲った低級の魔物の軍を思い出したが、それと同等の数が押し寄せている。

(ざっと一万はいるかも……。やだね……ここには冒険者も兵隊もいないっていうのに……)

「さて、改めて謝罪した方がいいのかな? インドラ――だったっけ?」

 インドラは顔を顰める。

「いや、その必要はない。だからお前は一度、その軍をと共に定位置まで戻れ」

「いやいや、そりゃあ無理でしょう。ここにいるのは万の軍だ。しかも魔物で、そう簡単に言うことを聞いちゃくれない。それに、もう手の内を見せたも同然だ。その子が――魔人、なんだろう?」

 すべてを見透かしているかのような口調にインドラは腹を立てて拳を固く握った。

「もう一つ付け加えるけれど……。今はもう、こっちもそう簡単な立場じゃないんだ。まったく、私と二人だけで事を済ませるつもりだと思っていたのに。まあ、定期報告でもしていたんだろうけれど、面倒な事に巻き込んでくれたものだと、こっちが叱りたいくらいだね」

 周辺を包み込む異様な空気と威圧感が更なる警戒心を求める。

 無風だったはずが、いつの間にか不穏な風が吹いていた。

 ざわざわとした森のざわめきに紛れるように、その者たちは周囲を囲む。

 月光を浴びて白く輝く銀色の髪、影に潜むような色黒の肌を携えたダークエルフ。

 彼ら、彼女らは、等しくとある種族を恨んでいる。

 自らの嗜虐心を満たすべく横暴と我欲に任せて蹂躙された悲しい種族は、例えそれが生粋の魔人でなくとも――魔族帰りであっても――沸々と胸の内から湧き上がる憎悪はこれを裁くべく立ち上がる。

 自らの存在を主張するかのように、ネロの背後に位置する女性ダークエルフが闇に身を隠すための黒いローブを脱ぎ捨てた。

 振り返ると、凛とした美しい女性が立っていた。

 ダークエルフを見るのはこれで二度目。インドラに対して思ったのはスタインに酷似しているというだけだったが、彼女に対しては思わず心の中で「綺麗だ」と感嘆するほどだった。

 しかし、軽装の間から見える肌は痣や切り傷が一つ二つではない。それでも彼女が綺麗だということは紛れもない事実である。

 彼女はその凛とした瞳でネロを見ると、途端に厳然げんぜんたる面持ちへと変貌する。

「私は、ヴィル・クルシュ・ダーバス・レ・ベグリアだ」

 彼女の名乗りに、インドラは目を見開いて(本名だ……)と驚く。

 彼女が本名を名乗るということは、それは相手を殺すことを前提とする時のみだ。今迄、その名を聞いて生き延びた相手はいない。

「貴様がネロ・ディア・ロスティル――魔人の子か?」

「……はい」

 幾許いくばくかの躊躇いはあれど、おそらく否定したところで意味はない。偽ったところで白ずくめの男に真実を語られることになり、より怒りを買ってしまう。自ら敬意を欠くのはネロの思うところではなく、慎重に答えた。

 しかし、やはりと言うべきか。

 美麗な女性はゴミを見るようなネロを睥睨する。

 思わず気圧けおされると、周囲に配置された黒ローブに身を包んだダークエルフの内の六人が、なにやら呪文を唱え始めた。

 それは何を言っているのかは分からない。言葉が二重に聞こえるも、それは魔法詠唱の呪文とは乖離かいりしているようだった。

 その呪文の成果はすぐにネロの周辺に、ダークエルフの足元をなぞるように魔法陣が描かれ淡い光を放つ。

「あの……これは?」

 ネロはヴィルに訊ねるが、彼女は既に光の外に移動していた。

(しまった!)

 そう思った時には既に遅く、避難しようと疾駆するが、円の縁には光の柱が壁のようになっており、ぶつかって出ることができない。

 両拳をついてみるも、びくともしなかった。

「なんのつもりですか!」

「魔人は害悪だ。これは貴様を殺すための檻だよ」

 綺麗な顔には似つかわしくない殺気の籠った表情は憎悪に塗れていた。

 おそらく初めから逃れることはできなかっただろうが、ネロは素直に答えたことを後悔する。

(あれはボクが魔人かどうか確かめて、攻撃対象か値踏みするための質問だったのか……!)

「さあ、その矮小な身体を地にせるがいい! やれぃ――我がダークエルフ族の怨念を見せつけろ!

 ――”魔を封じる聖光(グランド・セイガイア)”!!!」

 断続的に周囲のダークエルフによって言い放たれるその魔法めいた詠唱に呼応するように、地面に描かれた魔法陣が眩い光を放ち、視界全部を覆った。

(まずい――)



 ◇



 ◇



 ◇



 暫くして光が止むと、視界が元に戻る。

 未だ檻らしい淡い光りは残っているものの、身体には特に異常は感じられなかった。

 五感にも影響はなさそうである。風の音も、木の匂いも感じられ、しっかりと絶句したヴィルの顔も見えている。

 いったい何をされたのかと不思議に思ったが、おそらく鼻で笑う彼女――インドラは分かっているのだろう。

「バカだなああんたら」

「なに!?」

「よく見てみろよ。これのどこが魔人だって?」

(こんなアホがウチよりも上の立場だというのがありえない。相変わらず失望させてくれる)

「”魔を封じる聖光(グランド・セイガイア)”は、魔人を含め魔族に対し、破格の効果を持つとされている。弱体化のみならず、体を蝕むような苦痛と嘔吐感を与え、立っていることさえ不可能となる。弱い相手なら、消滅させることもできるという――まあ、ダークエルフなら誰でも知っていることだ」

「その通りだ。アレが魔人であるならば、異常が無いのはおかしいだろう!!」

 ヴィルは異様なほどの狼狽えぶりだった。

 それが伝播したのか、周囲のダークエルフたちも困惑しているようで、互いに顔を合わせて顔色を曇らせた。

 集団の長であるヴィルの狼狽が、それを情調させていた。

 ――もしかして技が効かないほど強い魔人なのでは……?

 不安が次々と表れる。

 すると、インドラは呆れるように大きく溜息を吐いた。

「ネロは魔人であってそうじゃないのさ。魔人なのはクロ――ネロのもう一つの人格だけで、ネロ自身はただの人族ヒューマンの子供だ。魔人ではないネロにその手の魔術は効かねえんだよ」

 ダークエルフたちは「そういうことか」と安堵する。

 ヴィルも再び冷静になり、先程までの狼狽ぶりが嘘のようにまたきりっとした表情に戻っていた。

「せっかくウチが魔人のクロを引っ張り出そうとしていたのに、邪魔されちまったからな……。あいつは頑固だ、もうクロは出てこない。ここは一旦仕切り直した方が良い――」

「何を言っている? 魔人はそこにいるのだろう。別の人格だろうと、奴が魔人であることに変わりはない。今のあの姿が人族というなら、これほどの好機はないではないか。

 それに――どうせ出て来るさ。死に目に遭えば絶対にな。

 全員、戦闘準備だ! これより、魔族帰りの人族を駆逐する。家に帰りたいという者はいないと思うが、今ここで種族の恨みを晴らそうぞ!!」

 各々「応!」と答えて黒いローブを脱ぎ捨てた。

 強靭な肉体を露わとした女性、男性問わない戦士たちは剣や短剣、ショーテルなどを装備する。

「おい、何を勝手に!」 

「これより、この任はグレーよりこの私、ハウザーが請け負う。

 文句があるならば、元老院にでも申し立てるんだな」

 そう言って、ヴィルは背中から片手剣を抜いた。

 そのままネロへ向かって歩き出そうとするが、インドラが腕を掴む。

「何のつもりだ?」

「これはウチの仕事だ。勝手にしゃしゃり出てきて、全部台無しにしたくせにそれはないだろ……!」

 ヴィルはインドラの上位者であり、彼女の言葉にインドラは逆らうことはできない。

 しかし、体が勝手に動いていた――。

(何やってんだウチは? 止める理由なんてないだろ。ウチらダークエルフにとって、魔人は処刑対象で恨むべき相手だ。殺さなくちゃいけないことも分かってる……! だけど、これでいいのか――?)

「貴様は馬鹿か?」

 ヴィルは素っ気ない態度で振り払うと、左右のダークエルフに顎を前後させて指示を送り、自ら檻と呼ばれた光の中に足を踏み入れた。

 魔法陣は、外からは簡単に入れる。

 だが、一度入れば術者が解除、または気絶しなければ出ることはできない。ゆえに、術者は内部には入らない。敵にやられれば外へ出す要因となるからだ。

 ヴィルと共に陣の中へ入ったのは五人。全員がネロよりも背が高く、筋肉隆々の鍛え上げられた体つきをしている。

「やれやれ……まったくもって無駄足だ。私の出番が皆無じゃないか。これだから古巣は嫌いなんだよ」

 白ずくめの男は嘆息し、森へときびすを返し始めた。

(オレがやろうか、ネロ?)

(ダメだよ……もしクロになったらさっきの光でスタインが言ってたような効果が発動してしまう)

(だが、どうやってこれを切り抜ける? てめェにそんな力はないだろ)

(やらなきゃならないなら、やるだけさ!)

 暗殺集団が持つには似つかわしくない大きな剣を携えたヴィルは、他のダークエルフたちよりも素早く移動する。

「<加速減速プラマイゼロ>」

 一足飛びしただけだというのにも関わらず、瞬間移動でもしたかのようにネロの前に現れた。

 虚を突かれる形となったネロは身動き一つ取れなかった。

 大剣が横水平に刃の線を作る。

(しまった……!!)

 刹那、二人の間に割って入る者がいた――。

 鉄と鉄がぶつかり合う甲高い音が響き、暗い闇に火花が散る。

 ネロの前に出たインドラが、短剣でヴィルの攻撃を防いでいた。

 大剣に比べればすぐに折れてしまいそうなほど短く薄い短剣を、震える両手で必死に持つインドラ。

「な、なにをしている貴様!! 我らが使命を忘れたか!」

「うっせえ……うっせえうっせえ! うっせえェェェエエエ!!」

 インドラは剣を押し返し、強制的にヴィルを後退こうたいさせる。

 ダークエルフたち全員が呆気にとられ、インドラに注目が集まる。

 押しのけられた反動で膝を折っていたヴィルが、体を起こし剣を振り捌くと、各々現実に引き戻される。

 更には、インドラをどかそうといつでも前に出れると身構える。

「気でも狂ったか……問題児め!」

「うるせえ! こいつの相手はウチなんだよ。勝手やって邪魔したのはそっちだろ!!」

 ヴィルを含めダークエルフは肩を落とす。

「なにを言っているんだ貴様は……。これは子供のお遊びじゃないと言っただろ! この際、誰がやろうが関係ない。必要なのは結果だ愚か者め!!」

「違うね! ウチが求めるのはダークエルフとしての成果じゃない。ウチとしての成果――それだけだ! もし褒賞を得られるとして、誰が一番貰える思う? それは魔人をやった奴に決まってるだろ!!」

「利己的な考えとしか言いようがないな。そんな事で私の剣を防いだというのか!!!」

「スタイン......」

「勘違いするなよ、頭お花畑の主人公野郎......! ウチは、納得できない戦いが嫌なだけだ!」

「――うん!」

 ネロは嬉しそうに笑う。

「喜んでんじゃねえ! ぶっ飛ばすぞ!!」

「ぶっ飛ばすは――私のセリフだッ!!」

 インドラが後ろを振り向いた刹那、ヴィルが頭上から一刀両断の勢いで大剣を振り下ろす。

 インドラは顔を綻ばせると、短剣で受け流した。

 短い金属音の合間ににやけ笑うインドラと、驚愕に表情を固めるヴィルの目がかち合う。

「上位者だかなんだか知らねーが、漸くそのイキり散らかしたバカ面をタコ殴りにできるって訳だ!! 腕が鳴るってもんだぜ!!」

 短剣で刺突するインドラ。

 それを防ぐので精一杯のヴィル。

 両者には明らかにスピードの差があった。

加速減速プラマイゼロは、一定時間自身に飛躍的な速度上昇のバフを掛けられるけど、それももう終わった。終われば効果切れに付随して一定時間速度減少状態にさせる。バカスキル使いやがって、このバァカッ!!」

 インドラは更に速度を上げ、短剣での攻撃を囮に腹部に蹴りを入れる。

「な、何をやっている!? 早くグレーを止めるぞ!!」

「そ、そうだな......」

「......了解」

 傍観していたダークエルフの中で状況を飲み込む者が現れ、インドラを襲おうとする。

 しかし、その前にネロが出た。

「魔人!!」

「スタインの邪魔はさせない」

「バカな......奴は貴様を狙う一人だぞ」

「そんなの関係ない! スタインはボクの――友達だ!!」

 やや距離があり、戦闘中で感覚が狭まる中でもインドラの耳にそれが届く。

(ああ......クソ、やべえ......。なんでだよ、ちくしょう。なんでこんな......敵なのに。仲間なんか表でやってるだけのごっこ遊びだったじゃねえか。

 なのになんで……こんなにウチは喜んじまってんだよバカ野郎!!!)

 雀躍じゃくやくするようにインドラの動きに弾みを帯びる。

 すると、唐突にインドラの動きが静止する。

 まるで魔法に掛けられたかのようだが、誰もそれらしい詠唱や素振りを見せていない。

 唖然するインドラの目下で、ヴィルが嘲笑を浮かべていた。

 ヴィルの右の眼が魔力を纏うかのように色付き、妖しく光っていた。

「ウチに何をした......!」

「貴様は私が何故ジークの大隊長まで昇ることができたか知らないだろう。普段は隠しているからな......。

 ――これだよ。この魔眼が、私を強者にする。何も持たない貴様は私の下で這いずり回る虫と同じなるということだ!!」

 大剣の刃が月明かりを反射し、無防備なインドラを睨む。

 力んでも、魔法を発動させようとしても、何も起こらなかった。

(ちくしょう......裏切りの末路は、コレかよ......)

「死ねェェエエエエエ!!!」

 刃が振り下ろされ、インドラは瞼を閉じる。

 次の瞬間――空気と大地を揺るがし、この場にいる全員に旋律をほとばしらせる圧を放つ存在が出現する。

 ヴィルはその圧に刃を止めた。

 瞬く間に、ヴィルの視界からインドラの姿が消えていた。

 ヴィルは「どこへ行った」と言わんばかりに辺りを見渡し、そして見つける。

 周囲から次々と何かが倒れる音がした。

 ヴィル以外のダークエルフの戦闘員が皆、気を絶って倒れていくのだ。

 しかしヴィルは、それを気に止める余裕が無いほどに目下に現れた存在に刮目する。

 黒装束を纏い、影の中に現れる謎の人影はヴィルに背中を向けていた。

 腕にはインドラが抱えられ、マントは悠然と靡く。

 インドラは下ろされると、彼の顔を覗きながら茫然と一歩二歩後退った。

 それがネロであると認識したのは、彼がおもむろに振り返った時だった。

 異様で禍々しくもある存在感が、まるで別人のように思わせる。

(いや――こいつは、別人だ)

 ヴィルがそう断定したのは、彼の面持ちが真摯などではなく、余裕と蔑みを携えていたからだ。

 戦々恐々ながら肉薄にくはくしようか逡巡するヴィルを鼻で笑う彼は、一瞬で目前に迫る。

「なっ!?」

 歩いた様子はおろか、動きだす所作さえ見えず、驚いたヴィルは咄嗟に後方へ跳び下がる。

「魔人を殺すだとかぬかしてたそうじゃねえか? なあ――ダークエルフの女?

 俺がてめェの言う魔人だったら――どうするってんだ?」

 ネロのもう一つの人格であるクロは、圧倒的力の差を見せつけ、逃げるなら良し。向かってくるなら応戦すると決めた。

 そうネロと契約した上での、脅迫だった。

 ヴィルは一度、剣でまみえようかと勘当して剣を構える。が、クロから放たれる強烈なプレッシャーに思い留まる。

(む、無理だ......力の差があり過ぎる。やはり魔人というのは嘘ではなかったか!)

 何か手を探すように視線が右へ左へ移動する。

(私がグレーとやっている間に他は皆やられてしまったようだ。ならば――)

「我が同士たちよ、魔人が出たぞ! 予定通り聖光セイガイアを放て!!」

 結界の外にいるダークエルフたちは再び魔術を行使すべく地面に描かれる魔法陣に干渉する。

 両手を掲げ、苦しそうに魔力を押し流しては魔法陣に吸われていくのが可視化されている。

 通常、魔素などの粒子は目に見えることは無いが、これほど大きな魔術や魔法では一度に流出する魔素が濃くなり可視化される。ゆえに、ダークエルフの足あたりから心臓を通り手から送られる魔力が水の流れのように見える。

「ふっ、先程まではまだ人間の面が邪魔をして効果が無かったが、今や魔人そのもの。貴様もこれで終わりだァア!!!」

「クロ、ネロに戻れ! 今ならまだ――」

「戻らねえよ」

「......え?」

「まあ見てろ――エム」

「っ......!」

 インドラは耳を疑い、目を見開く。

「”魔を封じる聖光(グランド・セイガイア)”」

 ダークエルフより放たれる魔法陣の眩い光は即時視界を白く染めあげる。

「ネロ!!」



 ◇



 ◇



 ◇



 インドラはその場に崩れ、ヴィルは高笑いを上げる。

「ざまあみろ魔人がァ!! これが我々ダークエルフを脅かした貴様ら種族に対する罰だと思いしれィ!!!」

 光が収まっていくのと同時に結界が壊れる。

 パリンと音を立て、地面の魔法陣も最初から無かったかのように消え去った。

 結解の外にいたダークエルフたちも魔力切れを起こして倒れていく。

「――そんなものか。てめェらの言う怨念ってやつは?」

「な、なに!?」

 光の収束によって露となるシルエットは魔術発動前と変わらない姿でそこにいた。

 黒い影の中に不敵な笑みが現れる。

「てめェの――魔人に対する切り札ってやつは、こんな芸一つしかねえのか?」

 ヴィルは激しく動揺した。目眩を催すかのようにたじろぎ、地面に尻をついて項垂れる。

「そんなバカな......魔人に対する絶対的魔術のはず......。これが、そんな......こんなことあるはずがない......!」首を横に振ったかと思えば、激高しながら「一体なにをした!!?」

「何もしてねえよ。単にてめェらが勝手に勘違いしてただけだろ。オレが魔人だってな」

「違うというのか!? だったら貴様はなんだって言うんだ!!?」

「オレは超魔人! 魔人より進化した新たな形だ。その辺の雑魚共と一緒にすんな」

「ちょ、超......魔人......だと......。そんなもの......そんなものォ!!!」

 ヴィルは再び剣を握りしめ、クロへ向かって掛けていく。

 狂人と化したヴィルは冷静さに欠けていたが、クロをたたっ斬るという一心で全ての力を一撃に込めようとする。

「”封動眼ふうどうがん”!! っ――消えろ魔人!!!」

 右の魔眼を開眼させ、クロの動きを封じる。

 並外れた跳躍で一気に降下し、頭上からクロの頭に斬りかかった。

(貴様は動けん! このまま私に斬り殺されろ!!!)

 ヴィルがニヤリと口角を上げた次の瞬間、クロの手は俊敏に動き、大剣を掴んだ。

「なに!!?」

 全体重を乗せた一撃にも関わらず、クロの手にさえ血を生じさせることはできない。

 クロは更にヴィルの首を掴んだ。

「どこの誰にやられたかは知らねーけど? 何もしてねえのに恨まれるのは気分が悪い。てめェの......てめェらの動機は簡潔に言ってクソだ。なんのメリットもなければ、私利私欲でしかない。

 だが、俺はそれを悪いとは思わねェ。理由がなんであれ、できることだ――魔人だろうかなんだろうが人を殺すってのはどこにだって生じる当たり前の事象。とやかく言うつもりはねえよ。

 けどなあ......てめェらは相手を間違えた。このオレを殺そうなんざ、神にだってできやしねェ。無駄な努力ご苦労様だなあ......!!」

 クロは剣を強引に奪い取って投げ捨てる。

「さあて――オレがネロとは違ってお人好しじゃねェのはどうせ知ってんだろ。どうやって死にたいか言ってみろ。もし望むなら――てめェが殺すか、エム?」

「……お前は本当にネロとは違うのか……?」

「ああ、ネロなら頭の中でピーピー鳴いてやがるさ。だが、エム、てめェを含め今回はやり過ぎたぜ。どうせ、終わればあいつらも殺すつもりだっただろうからな」

「この......!!」

 ヴィルは苦しみ悶えながらも脚でクロを蹴ろうとした。

 しかし、クロはこの脚を掴むと、ヴィルを地面に叩きつける。

 嗚咽を漏らすヴィルは全身が麻痺し、力のない人形と化した。

「てめェがやらねえならオレがやってやるよ。まずはこのバカな頭を半分にしてやる。この躾のなっていない脚は要らねえな。下手な腕も失くしていいだろ」

 そう言いながら、クロはけたけたと笑い自身の腕を黒い魔力で覆う。

 尖った槍のように鋭い腕は嘲笑うかのように焦点を次々と指し示した。

 ヴィルは涙を流し、悔しそうに唇を噛み締めた。

「じゃあ――今度はこっちの相手をして貰おうかな」

 森の方から白装束の男が出てきた。

 背後にはゴブリン、スケルトン、コボルトという三種の魔物をぞろぞろと引き連れ、まるで一つの軍隊だ。

「ん?」

(変な面被りやがって……ネロの真似か? 胡散臭い奴だとは思っていたが、やっぱ何か仕掛けてきやがるか)

 出し抜けに男は地面に両手をつく。

 地面に先程より広く地面に魔法陣が展開される。

 魔術――先程の魔を封じる聖光(グランド・セイガイア)もそうだが、これもその類。

 魔法は個人によって使用できる種類に限りがあり、属性の得手不得手や威力などは個人の魔法力に依存するものだ。しかし魔術においては、そういった依存性は皆無になる。

 無論、技術的な面はあるにはあるが、経験を積めばそういった要素は解消できる。言わば、魔力があれば誰でも行使できてしまうものなのだ。

 ゆえに先人は、この魔術といった枠組みの手段に対してあまり後世に残さないよう文献は秘匿要項になっていることが多い。

 とはいえ、ダークエルフほどの長寿ともなれば、秘匿要項が整備される以前に知り得た魔術を未だに行使できるという者はいるだろう。

 この白装束の男が展開する魔法陣は、一般的なものとは乖離している。

 これほど大きな魔法陣ともなると、普通なら失敗に終わってしまうだろうが、現在いまのところその気配はない。

 それどころか、魔術名を叫び発動を宣言する始末である――。

「踊り混じれ――”異物混合顕現(グロキシニア)”」

 突如魔法陣の中にいるクロ、ヴィル、インドラの体に鎖が巻きついた。

 かと思えば、地面より湧き出る髑髏が鎖と共に手足に纏わりつく。

「な、なんのつもりだヴィクター!!」

 ヴィルが叫ぶ。

 しかし、仮面で顔を覆う彼からは表情が読み取れない。

 インドラが悔し気に歯を噛み締めながら「ヴィクター……」と恨めしそうに零す。

「悪いねお三方。まあ、初めから私は私のやり方を貫くつもりだったから、こうなることも予想しておいて欲しかったけどね」

「まさか――また裏切るつもりか……! 我が里の人間のくせに、自らの使命を忘れるとはなんたることか!!」

「あ゛――なら、改めて言おうか。私の雇い主はキミでも――」男はヴィルを指差して「キミでもない」次にインドラを指さす。

 ヴィルは何かに気付いてハッとした。

「漸く気付いたみたいだね。そう――私を雇ったのは元老院に他ならない」

「里が我々を見捨てたとでも言うのか!!?」

「そこの解釈はご勝手にどうぞ? 私は何をしてでも今回の魔人を葬れと言われているだけ。そこの余裕ぶっている凶悪をさ」

「話は済んだか?」

「まあね」

「なら、言っておく。この大きさの魔術はてめェ程度の実力じゃ発動することはできねェぞ」

「へえ? 子供だけどやっぱりそこは魔人なんだ、魔術の心得もあるなんて万能じゃないか。

 確かにこのレベルの魔術を発動させるのは一人じゃ無理だ。でも、今は一人じゃないだろ? そこに三人いる」

 仮面の奥でニヤリと笑みを浮かべたのが分かる。

(そういうことか)

 ネックはひとまず魔力総量だ。ダークエルフの魔力量は底が知れているが、複数人集まればその限りではない。だからこそ、先程の魔術も複数人で発動させていた。

 しかし複数人というのは、発動者が複数人という話。クロたちは魔力だけを供給する言わば魔力タンク。魔術の発動に必要な緻密な魔力制御や組み込みを一人で行うというのなら、それはもはや天才だ。

「奴ならばやれるぞ」

 クロの懸念はヴィルの一言で確信に変わる。

 鎖を引き千切ろうとしたが、これがどうしてびくともしない。

(――獄界ごっかいの代物か)

「奴はヴィクター・ラーバリオ・バ・フリル。里一番の術者だった者の弟子にあたり、ある時自身の師を殺して里を出た男だ。

 里に居た頃、奴は密かに禁忌の魔術に手を出していたそうだが、今となればもはやその知見も計り知れまい」

「無駄だよ。それに――もう遅い。

 魔力はキミたちから、贄はこいつらだ! さあ――ここに、まだ見ぬ生命の誕生を祝おう!! 魔術発動だ!!!」

 男の後ろに控える魔物たちが吸い寄せられるようにして魔法陣の中に飛んでくる。

 すると――いつの間にかクロたちの頭上にできていた黒い球体に魔力と魔物たちが溶け合いながら吸われていった。

「な、なにをしようとしてんだ……。おい、白仮面!!」

「あはははは! キミのそういう反骨心には頭が上がらないよ。でも、私の実験材料になれて嬉しいだろ!」

「くっ……ちくしょう……!!」

 インドラの顔が青ざめていく。

 魔力は生活エネルギーと同義だ。それが無加減に吐出されれば、気力が失われ、枯渇すれば最悪死ぬこともある。

 クロは舌打ちする。

(他人を守るとか、くっそめんどくせェ……!)

「――”第3段階(サード・ステージ)”」

 突如、魔法陣内部が黒く染め上がった。

 男は「おお!」と感嘆の息を漏らす。

 一拍の間を置いて、隕石が降って来たかのような地響きが生じる。

 周囲の木々をなぎ倒すようなそれは、男をよろめかせ、地面に尻をつかせた。

 瞬時に漆黒が塵と化し、地響きを生じさせた正体をあばく。

 体長は優に10メートルは超える巨体。ナメクジのような胴に太い二本の手が生え、トカゲのような脚とネズミのような尻尾を持った異形が現れる。

「おお……おお……おお!! これが、私が生み出した魔人の魔力によってできた新たな生命か!!」

「ちげーよ」

 興奮しながら立ち上がるヴィクターにクロが反駁する。

「な……一体何が違うというのだ!!?」

「こいつは新たな生命なんかじゃねェ。元々存在する魔物だ」

「なに!? そ、そんなはずは……私の行使した魔術は神の御業を模倣するもののはず」

「まあ、この世界にはもう一体もいないだろうが――かつて確かにこの地にも足を踏み入れたことのあるブニラレジレッグっつー魔物だ。オレの魔力を食って多少膨れてはいるが、大型とほとんど大差ない大きさ(レベル)だな」

「は……はは……そうやって私の気を削ぐつもりなのか。まあいい。

 それより、そんなに余裕を持っていていいのかな? 魔力の削がれたキミに、こいつを倒せるというのかい!?」

「ああ、簡単だ。ブニラレジレッグ程度なら――何体相手だろうとぶっ倒せる。

 第1の術――”獄界の破砕剣(メザイアス)”」

 おもむろに広げた掌の先に禍々しい時空の亀裂が現れる。

 ビシビシと音と空間を揺すって開かれるそこより漆黒の剣が出てきた。

 そこにあるだけでおどろおどろしい魔力と威圧感を帯びるその剣は一瞬にして周囲を静かにさせる。

 風も大地も敵として認識されているブニラレジレッグでさえも微動だにしない。

 次の瞬間、漆黒の剣は誰の手にも触れずに空中を疾駆する。

 瞬く間にブニラレジレッグに到達、通過すると、胴に大きな穴を穿ち一瞬にして体を破砕した。

「な……何が……?」

「だから言ってんだろ。てめェらの言う魔人なんざここにはいねえよ。そんなザコより、俺のが数倍つェんだ。これで満足したかよ」

 その場にへたり込むヴィクター。

 ヴィルは空を仰いで瞼を閉ざし、憂鬱に天命を待っていた。

「何してんだ、さっさと家に帰れ。もうオレやここには手を出すなよ」

「…………な、何を言っているんだ?」

「もう気は済んだろ。オレもてめェらに用は無いからな、さっさと撤収しろ。あ、あいつ――エムは貰うぞ。アレはうちのペットだからな」

「は、はあ!? いつウチがペットになったんだよ!?」

 強がって大声をあげているが、体はふらつき今にも倒れそうである。

「うるせえ、騙してた罰だ。暫くは精々働くんだな、ネロ以上に」

「っ……お前、本気で言ってんのかよ」

「なにが?」

「正直、お前ならウチを殺すと思ってた」

「そうだな……だがオレでも、あいつらの前でそれはできねえ」

 クロが視線を向けた先に子供たちがいた。

 インドラは顔色を曇らせる。

 子供たちはインドラに駆け寄った。

「大丈夫かスタイン!? ネロと一緒に戦ったって聞いたぜ?」

「無茶するな」

「な……お前たちどうして……」

「全部セシルから聞いたよ。これまでずっと隠してて辛かったよね。ごめんね、察してあげられたらこんなことにならなかったかもしれないのに」

「へん、スタインのくせに生意気なんだよ」

「そう言う割にボーラスさんは一目散に駆けつけてただ」

「心配してたでやんす」

「う、うるせえな! そういうことは言わなくていいんだよ!」

 インドラの胸の内にすっと皆の声が入っていく。

 もう既に慣れ親しみ、日常と化していた子供たちの声は暗殺者としてのインドラの矜持を歪めるのに値するものだった。

 インドラは後退って皆の手を振り払う。

「ウチはお前たちを騙してたんだぞ! 人族じゃない、ダークエルフなんだ! 嘘吐きで、利欲的で、自分の事以外どうだっていいと思ってる! お前たちのことも利用してたし、ウチの中ではずっとあいつを殺す為に…………!」

 涙が込み上げ、声を詰まらせる。

 自分の言っていることが言いたくないことであるにも関わらず、嫌われなければという責任感と恐怖が早口にさせていた。

 インドラは涙を拭おうとするも、次から次へと湧き出て来て止めようがなかった。

「――だからなんだよ」

 ボーラスがぶっきらぼうに答える。

「俺だって嘘吐きだぜ。りよく……はわからねーけど、自分勝手だ。何度も皆に迷惑を掛けたし、最初の頃はネロを虐めようとしてた。俺とお前になんか違いがあるのかよ」

「は?」

「スタインは最年少だしな。迷惑とか、そんなの気にしなくていいんだ。そこらを最年長のセンカイに任せておけばいいんだぜ」

「そこは自分にしときなさい。締まらないわね」

「いやあ、まあ、俺ってば面倒臭がりだし……」

「俺は任せて貰って構わない。元々スタインとは仲がいい」

「そ、そういうことじゃなくて!」

 慌てて話しをしようとした途端、レヴェナが彼女を抱きしめた。

 レヴェナも泣いていた。すすり泣く声が耳元から聞こえるのに言い淀む。

「大丈夫だよスタイン。ここはあなたのお家なんだから」

 レヴェナのセリフに皆は同意して頷き、笑いかけた。

「ネロは初めからてめェをこっちに引き寄せる算段だったのさ。手段とかは全然考えちゃいなかったが、オレもなんでかどうも――それを拒絶するより、そっちの方がいいんじゃねえかって思えちまってな。

 だから、オレがお前を脅かすなんてことありえねえんだよ。どうせてめェは暗殺なんて不向きだったのさ。こいつらを殺すんじゃなく、気絶で留めた時点でな。それより『肉よこせ』って言ってる方がオレはらしい(・・・)と思うぜ」

「う、ウチは食いしん坊じゃない。

 ……ウチのこと、覚えていたんだな。流石は魔人だ。あんな情けないウチを見られて頭が上がらねーよ」

「しっかり生きろ。迷惑掛けたと思ってんなら畑でも耕せばいい。もしまだダークエルフの血がオレを殺したいなんて思ってんなら――」

 インドラは首を横に振る。

「……じゃあな」

 クロは顔を綻ばせてインドラの頭をポンと叩いた。

 優しい手つきに少女の胸が「トクン」と波打つ。

「――クロ!」

 葛藤してからそう呼んだ時、彼の双眸は白目に戻っていた。

 それはクロからネロに戻ったことを意味する。案の定、彼は小首を傾げた。

「クロに何か用だった?」

「……あ、いや……なんでもない」

 顔を赤らめた少女は、レヴェナの腕の中に顔をしまい込んだ。

(お前ら……本当バカだ。本当にバカで、飽きない奴ら。

 …………ありがとう)



 ◇◇◇



 ダークエルフたちは夜の内に姿を消していた。

 しかし、彼らの憎悪が止むことはないだろう。またいつか、ネロたちの下へ新たな刺客を送り込んでくるかもしれない。

 そんな不安はネロの中にはない。

 今、彼は別の問題に思考を向けていた――。



 日が昇る早朝。旅装束となったネロは、先日助けた奴隷だった獣人たちを連れて旅に出ようとしていた。

 彼女たちの首にはもう奴隷の首輪は無く、腹部の奴隷紋もない。

 見送りに出てきたのはレヴェナやセシル、トーマの三人だけだ。

 他の者たちは、まだ眠っている。シロに知られずに出掛けたかったので、出るのを早朝としたのだった。

「本当に行くのか?」

「うん、来週には帰れるようにするってクロが言ってた。そんなに心配しなくていいよ」

「お前たちのことだから、心配要らねーとは思うけどな。その子たちを国外逃亡させるんだろ、ちょっとは不安になっても仕方ないと思うぜ」

 そう言ってトーマは後ろの二人を指差す。

 ネロは首を傾げ、トーマは「お前なあ」とがっくりした。

 すると、セシルが前に出てきた。

「あの太った貴族は罰を受けて、こっちのことを考えられる余裕が無いくらいになっているはずだから心配しなくていいわよ。きっと王派閥に狙われていると勘違いしたでしょうし、財産のほとんども失ったでしょうから」

「あ、えと……うん」

(そういえば、いたなあ……ヘーデルさん、だっけ。あの後の出来事が衝撃的過ぎて忘れてた)

「ちゃんと道中食べられる食料を持ったでしょうね?」

「うん、そこは大丈夫だよ」

「あと着替えは? 川を渡るようになるかもしれないし、魔物に襲われて土塗れになるかもしれない。用心に越したことはないわ。あなたは大丈夫かもしれないけれど、念の為渡しておいたポーションはあるでしょうね? あれは自作のものだから効力は市販の物より劣るかもしれないけれど、命を繋がないと、あなたがいつでも助けられるわけじゃないんだから。あとハンカチは持った? 歯ブラシは? 靴はもう一足あってもいいんじゃないかしら。道中水浴びすることもあるかもしれないし、布でも代用できるかもしれないけれど、なにか拭ける物を用意した方が――」

 早口で捲し立てるセシルに、ネロは遮るようにして漸く話に割って入る。

「あ、えっとセシル……だ、大丈夫だよ」

「……そ、そう……。あ、あととりあえず定期的にテレパス送るからいつでも答えられるようにあたしのことを考えておきなさいね」

「え? あ、うん……?」

(セシルのこと?)

「でも、本当にいいのか? 後でシロに怒られるぞー」

「やっぱりそうかな? でも、今でも先行き分からないし、危ない目には遭わせられないから。後で平謝りするよ」

「そうか。まっ、俺のことを巻き込んでくれるなよ」

 茶化すように笑うトーマを他所に、レヴェナがおずおずと出てくる。

 苦笑いすると、一言――

「いってらっしゃい、ネロ」

「うん、皆のことお願いねレヴェナ」

「う、うん!」

 無理矢理笑みを浮かべる気遣いにネロは気付かない。

 「じゃあ」と言ってレヴェナたちに背を向けると、先でこちらを眺めていた獣人たちの下へと歩いていく。

 一歩ずつ距離が開いていく最中をレヴェナを不安にさせているとも知らずに。

 刹那、背後から声を掛けられる。

「ネロ!」

 振り返ると、レヴェナが切実な表情で睨んでいた。

「う、うぅぅ……浮気したら、許さないからー!」

 顔を羞恥に染めたレヴェナは、拳を握りながら言い放つ。

 ネロは口をへの字にしてからほくそ笑むと、「うん!」と元気よく手を振って返した。

「じゃあ――行ってくる!」

 ラトゥーリエ王国では獣人を含め亜人を差別している。

 彼等には人権が無く、見つかれば最悪即刻死刑ということもあり得る。

 そんな中、奴隷に身をやつした獣人たちを見かねたネロは、クロの提案に乗って助けた獣人たちを国外逃亡させることにした。

 目指すは亜人を区別しない隣国である――カイセディア公国。

 四人は、そこへ向けて足を進めるのだった。

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