夢
4月23日。
月曜日の7時限目の数学の授業。
高校2年生の倉井 迷哩は今日も惰眠に勤しんでいた。
「……い。…………おい! 聞いてんのか迷哩‼」
「ふぁい?! 聞っ聞いてますた」
「そうかそうか。それは何よりだ。じゃーこの問題解いてみろ」
「ええっとですね……-3……?「聞いてなかったな?」
「……聞いてませんでした」
「ったく、次寝てたら数学の評価1にしてやるからな」
「えっ、ちょっとそれは……」
抗議は先生の耳に届かない。
「じゃあ次までにこの課題をやっておくように! 号令!」
何だろう。
今の夢。
目の前に立っていたのは、ちょうど自分と同じくらいの背丈の男の子だった。
僕はその子を見下ろして、何か忠告してた。
"いつか君が他人の『運命』を変える時がやって来る。その時に、『仮面』が見える君は先ほどのどちらを選ぶか、よく考えることだ。その為にも、私の話は必ず役に立つはずだ。君には、君の目から見た『世界』でなく、本当の『世界の姿』を知っておいてほしい"
……馬鹿らしい。
僕は"運命"とか言うスピリチュアルな物は信じない。
それよりも、今の僕には学校の成績の方が問題だ。
ついに数学最低成績に王手がかかってしまった。
しょうがない。
帰る前に課題やっとくか。
「お帰りー。遅かったわね。ご飯先に食べちゃったからちゃちゃっと食べちゃってくれる?」
「ただいま母さん。学校の課題やってたから遅くなって。分かったよ、じゃあお風呂の前に食べちゃうね」
少し柔らかくなった天ぷらを口に放り込みながらも、やはり夢のことが気になった。
運命。
何度考えても自分には縁のない言葉だ。
でも一つ引っかかることがある。
"君には恐らく『仮面』が見えているのだろう?"
仮面。
人が外面を装う時に現れる偽りの顔。
僕には、人の仮面が視えている。
例えば、今の母さんは「母親の仮面」を被っている。
勿論いつもじゃない。
「妻の仮面」
「女性としての仮面」
それどころか。
「ネット上の仮面」
と、数えればきりが無いほど"目で"視える。
「自分自身の本来の顔」を見せることはほとんど無い。
母親だけでない。
父親は勿論、弟、友達、担任、通りがかりの人まで全て視える。
人は皆、「何気ない日常」を、演じている。
夢の中で僕――正確には僕の視点だった人物――が言っていたペルソナというのは多分これだろう。
あれは――僕なのか?
ふと馬鹿馬鹿しい考えが思い浮かぶ。
「ねぇ母さん。予知夢、って見た事ある?」
有り得ないような考えだが、もしそうならそれはそれで面白い。
「予知夢……? 無いわねぇ。どうしたの? 急に。朝に天ぷらの夢でも見た?」
思わず吹き出しそうになった。
予知できるのだとしたら、天ぷらよりはもうちょいマシな物を予知したい。
……夢の事は話すべきだろうか。
「母さんは運命って信じてる?」
ふとそんな疑問が零れた。
「あらあら。いっつもそんなこと頭から否定する迷理がそんなこと言うの珍しいわね。何々? 好きな子でも出来た?」
突如として面倒な展開になる。
母親というのはそういう生き物なのかも知れない。
「そんなんじゃないよ。ご馳走さま。お風呂入っちゃうね」
最後の鶏天を口に入れ、席を立った。
……このことは母さんに話すことじゃないな。
当分頭の中から夢のことは離れそうになかった。
次の日。
「やば……課題忘れた……」
隣で絶望的な顔をしながら呟く男は、小川 結斗。
僕の中学からの友達だ。
「写させてくれ……初めてお前に数学のことで頼み事したな」
結斗は数学の成績は学年トップクラスだから数学のことで頼られることはまず無い。
「頼めるような成績じゃなくて悪かったね。はい、これ。間違ってても一切責任取んないからね」
「ありがたやぁ。この恩は3日間は忘れない」
「犬でも一度受けた恩義は3年忘れないって言うのに。まあいいや。ジュース1本ね」
僕たちの間では"頼み事"をする度に缶ジュース1本を奢り、相殺もアリというルールだったのだが大抵毎日お互いに頼み事をしているから実際に奢ったことや奢られたことはほぼ無い。
「おう。………………っし、写し終わった。サンキュー」
「どうも。ちゃんと何個かは別の答えにしたよね?」
「あ……やっべ。少し書き直そ」
「肝心な所が抜けてるんだよなあ。それじゃ写したってバレバレじゃん」
「肝心な所が抜けてて悪かったね」
同じ返しすんなぁと思うが、そこがやっぱり結斗なんだと思う。
「課題回収するぞー」
一応バレないように裏工作はしたもののやはり不安だ。
「よし……今回は誰も忘れていないようだな………………むぅ、迷哩! 後で職員室来い!」
体が一瞬固まる。
「は、はい。……ねぇ、本当に解答僕のと少し変えた?」
「……多分」
ヒソヒソ話しているとまた怒声が飛んでくる。
「おいそこの2人何喋くってんだ特に迷哩! ただでさえ危ういんだから授業聞け!」
「は~い……」
……何言われんだろ……怖っ。
そして授業後。
職員室にて。
「お前……」
「……はい」
「このままだと今の志望校行けんぞ? お前の志望校思いっ切り理系だろう。数学このままの成績だったら本気でまずいからそこはちゃんと考えとけよ」
「……分かりました。善処します」
「それから――」
何?何?
これで終わりじゃないの?
「これ」
渡されたのは1枚の封筒だった。
「何かは俺も知らんが、学校では開けない方が良いそうだ。できれば家族にも見られないように、と」
「……え、これ何ですか?」
「何度も言うが俺は知らん。家に帰って確かめろ。さあ、教室戻れ!」
「……はい」
えええ……本当何なのコレ。
「おーい迷哩! 何の話だった? やっぱバレたか?」
突然の結斗の出現。
「……いや、進路がこのままじゃ危ういって話だけしたよ」
「良かった~。バレたら絶対俺もお目玉食らうからな。焦ったわ」
「本っっ当他人事だね。原因作ったの自分のくせに」
「ただいま」
「あらお帰り。今日は課題は無かったの?」
「今日は無かったよ。ありがたいことにね。夕飯なに?」
「今日は肉じゃが。何か他に食べたい物とかある?」
「十分だよ。じゃあ手洗ったら頂くね」
今日もまた1日が終わる。
何の変哲もない1日。
何も無い日常。
「……いつまで、続くのかな」
ふとそんな言葉が浮かんで、すぐに消えた。
その問いの答えは、もちろん返っては来ない。
夕食後、部屋に戻って鞄から封筒を取り出した。
何が書いてあるのかは分からない。
だから、開けるのが少し怖い。
でも、開けるしかない。
恐る恐る、封筒の封を切った。