雪山に露出狂女出現!
あれは確か九年前のことです。
その頃わたしは花はないけど女子大生で、標高三百メートルの高原でスキー場の住み込みアルバイトをしていました。
素朴で平和なところでした。
そこでまさかあんな変態女に出会うとは……!
他のバイトさんたちは恋をするのにもってこいの閉塞環境でホテルに籠もっていましたが、わたしが親に買って貰ったばかりのAWDのSUVを乗り回すのにも、そこはもってこいの環境でした。
アルバイトを終えて、夜になるとハートマークをまき散らすホテルに背を向けて、雪道を調子に乗って走り回っていました。
若かったので怖いもの知らずでしたね。雪や雪道の怖さもまだ知りませんでした。ええ、舐めてました。
夏なら何か出て来そうで「怖いなー、怖いなー」とビビったことでしょう。でも冬に幽霊なんて出て来るわけがないと高を括っていたんでしょうね。幽霊でも出そうな夜の林の中の道を、平気で一人で走り回っていました。
ヘッドライトが前方にこんもり山のようになっている雪を照らし出しましたので、車を止めました。
どうしたらそうなるのでしょう? 道の真ん中に小さな雪山が出来ていたんです。こんな人里離れた林の中に子供なんているわけがない。冬眠し忘れたキツネがいたずらで作ったとしか思えないものでした。
わたしはそれを見て楽しくなりました。
「このクルマの真の力を見せるチャンス!」
正直、一瞬はどうしようか考えたのですが、すぐに意を決しました。
わたしの愛車、スバルフォレスターAWDならば、こんな小山ぐらい簡単に越えられると思ったのです。
神からチート能力を授かったばかりの転生者が自身の力を試すチャンスを得たような高揚感がわたしを襲いました。
「X-MODE、オン!」
無敵のパワーとトルクを総てのホイールに均等に伝えるモードをオンにするボタンを、上っ調子になりながら押しました。
約10メートルの助走をつけ、こんもりと子供の背丈ぐらいの高さに盛り上がった雪の小山へ、アクセルをゆっくりと踏み増しながら、突進して行きました。
『ウオオオオオ!』
雄叫びとともに、車は小山を乗り越えはじめました。
「フハハハハハ! 女だからって舐めるなよ!」
わたしの脳内麻薬物質がドピュドピュと出る音が聞こえそうでした。
「我が愛車は無敵! スタックなどするわけなし!」
スタックしました。
車輪が空転して、エンジン音だけが甲高く夜空に唸りをあげました。
底面が雪に乗り上げているようです。
わたしはサーッと血の気が引き、大人しくなりました。
どうしよう、どうしよう……。
こんなところに人家なんてあるわけがない……。
ロードサービスを呼ぶにも、これ今どこにいるって伝えたらいいかわからない。
雪が縦に降っていました。
風が穏やかなぶん、夜空から落ちる大粒の雪が、まるでわたしを閉じ込めようとしている檻のように、わたしを取り囲みました。
何も出来ず、ため息ばかりつき続けていると、それに気づきました。
右目の端に、何やらうっすらと光を感じたのです。
窓の外を見ると、雪の檻の向こうに人影がありました。
目を疑いました。林の中に、素っ裸の女の人が立っていたのです。
ヘッドライトが当たっているわけでもなく、月明かりも雪に遮られているのに、その人の周りは薄明るく光っていました。
その人はわたしのほうをまっすぐに見て、白い顔に笑いを浮かべていました。どういう意味なのか読み取れない、露出狂特有の笑いだとわたしは感じました。理解したくない類いの笑いだと思いました。
真っ赤な口紅を塗った口が大きく歪み、黄ばんだ歯が雪の向こうにはっきりと見えました。
『なぜこんなところに露出狂の人が……?』
長い黒髪を揺らしもせずに、全裸の胸も下も隠しもせずに、ただ笑いながら立っているお風呂上がりの豪快なおばちゃんみたいにも見えるその人としばらく見つめ合い、わたしははっとしました。
「すいません!」
わたしは急いで車のドアを開けました。
「スタックしちゃったんです! 助けてもらえませんか?」
女の人はまるで何も喋れないみたいに、ただ笑っていた口を閉じ、不審なものを見る猫のように首をすぼめました。
あ。もしかしてこの人、雪女? という思考がわたしの頭をかすめましたが、雪女って白い着物を着ているはずですよね? だからただの露出狂の女の人だと判断して、ホラーなものだなんて思うことなく、その人に近づきました。
「寒くないですか、その格好?」
フレンドリーな笑顔を見せてあげました。
「わたしの車をケツから押してくれませんか? すみませんけど。あなたにとっても運動になって、あったかくなると思いますから」
その人の体つきが折れそうなほどに細ければ、わたしもそんなお願いはしなかったかもしれません。幸いにというか、とてもその人は逞しく、熊ぐらいなら相撲をとってなんとか勝てそうなほどに見えました。そのわりには顔色がやたらと不自然に白く、不健康そうではありましたが……。
うろたえたような顔をしながらも、わたしの手招きを追うように、ついて来てくれたので、青い車のリヤバンパーを指し、「ここをお相撲さんのように押してみてもらえませんか? すみませんけど」とお願いしました。
女の人は真面目な顔になって、頬になんだか汗を垂らしながら、真っ赤な目をぎろりと真剣にさせて、こくこくとうなずいてくれました。
わたしは運転席に再び乗り込み、ゆっくりとアクセルを踏み込みました。
大型トラックにデフロックあり、フォレスターにX-MODEあり。スタックなんかに負けない! 後ろから押してくれる頼もしい露出狂さんもいる! 天国からひいばあちゃんもきっと見守ってくれてる!
さまざまなものに勇気づけられ、わたしは信じました。きっと、この人里離れた、雪に閉ざされた世界から、わたしはあのあったかいホテルの部屋に帰れる! と……
タイヤが地面をグリップしました。
いくらアクセルを踏んでも空回りするばかりだったのが、雪を噛み、車体が前へとゆっくり動きはじめました。
「やったあ!」
小山を下りきるとすぐに車を止め、振り返りました。
露出狂さんを助手席に乗せて、お礼に送ってあげようと思ったのです。
ですが、そこには雪が静かに降っているだけでした。
少し風が強くなりはじめ、それは右に左に吹き荒れたようになると、空気に穴でも空くように、ぴたりと雪が止みました。
後から考えて、ようやくそのことに思い至りました。
あんな人里離れたところに、あんな厳寒の中を全裸でいたあの人が、人間であるわけがないと。
それからアルバイト期間中に何度かその道を通りました。
あの雪の小山をそのままにしておいてはわたしと同じ目に遭うドライバーさんが出るかもしれないと、スコップを持って行き、小山を崩しておきました。
それよりもあの人(?)にもう一度会って、お礼を言い、写真に収め、ネットで世界に向けて紹介してあげたかったのですが、それ以後もう二度と会うことは叶いませんでした。
ネットで教えてもらったところによると、そういう存在に対して優しくしてはいけない、無視しなければ、あるいはちゃんと怖がってあげなければいけないそうです。
でも、あの露出狂さんはわたしを助けてくれました。
無理やり助けてもらったとも言えますが、あの、小山を脱出するためにアクセルを踏んだ時、X-MODEの頼もしさ、天国からのひいばあちゃんの微笑みに加えて、あの人が後ろから車を押してくれる力強さを確かに感じたんです。
人間なんているはずのないところに、あの露出狂さんがいてくれた。
だからこそ、わたしは助かったのです。
再び会うことは出来ませんでしたが、その道を通るたび、わたしはあの場所にワンカップ大関を置いておくようになりました。
次に行ってみるたび、置いておいたワンカップ大関がなくなっていました。
雪の降る林の中に全裸の女の人を見たというところまではほぼ実話です。(フォレスターを所有していたことはありません)