第五十話:母を訪ねて㉒/空と水の境界で、あなたの名前を呼ぶ
『魔王九九九式──“最果てを夢観る眼”』
那由多にも似た虚数虚空の果てで聴こえた誰かの声と共に、名もなきスライムの少女は目を覚ます。
「此処は────何処?」
彼女が目覚めたのは夕暮れの空の下──どこまでも続く夕色の空と、どこまでも続く鏡のように空を写して夕日に染まる水の境界。
「どうして……わたしは……死んだ筈じゃ……??」
そう言って彼女は足元の赤く染まる水面に映る自分の姿を見つめる。
長い水色の透き通る髪、齢十にも満たない幼い少女の未成熟な身体、魔性に連なる者の証たる金色の瞳。
「あの子の……身体……!」
見覚えのある身体だった。一糸纏わぬ姿とは言え、その姿は紛れも無くヤーノと呼ばれた少女の──名もなきスライムの少女が喰らい、己のが身体として使っていた人間の少女のものに間違いなかった。
「…………どうして……だって、わたし……!!」
狼狽える少女──彼女は、愛を求めて母たちを攫い、ギルドから派遣されたふたりの冒険者の少女と戦い、最期にこの身体の持ち主を守って討ち取られて死んだ筈。
「なのに……わたしは……!」
「わたしが呼んだんだよ……スライムさん」
迷える少女を救うように聴こえる声──彼女が聴いた、羨ましいと思った、守りたいと想った、愛しき同居人の声が聴こえる。
「あぁ……ヤーノ……無事だったのね!!」
顔を上げれば、視線の先に彼女は立っていた。長い水色の透き通る髪、齢十にも満たない幼い少女の未成熟な身体、美しく輝く“薔薇英石”の瞳。
間違いなく、其処に居たのは──名もなき彼女が愛した少女。
その姿を見るや否や、名もなき彼女は赤く染まる水面を蹴って彼女へと駆けていく。
「身体は大丈夫!? あの黒髪の女に酷いことされていない!?」
「平気だよ……スライムさんが守ってくれたから……」
力強く彼女を抱きしめる。生前には決して出来なかった抱擁を、名もなきスライムの少女は無意識の内にしていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……っ! わたしのせいで……あなたを、こんなにも傷付けてしまったわ……っ!!」
ボロボロと、涙が溢れる。後悔と慚愧の念がとめどなく湧き上がる。
「羨ましかったの──あなたの記憶が! 欲しかったの──あなたの喜びが! わたしも……愛されたかったの──あなたのお母さんに……!!」
だから──母を攫ってでも、愛されたかった。そうすれば、一緒に居るヤーノも愛されて幸せだと信じて。
けれど、結果は残酷だった。
母親たちは名もなきスライムを拒絶し、彼女は“邪悪な怪物”として──ギルドの冒険者によって断罪された。
「こんなつもりじゃなかったの……! わたしは……ただ……!!」
ただ──愛されたかった。孤独に生きるのが辛くて、切なくて、哀しくて、寂しくて。お母さんと笑い合うヤーノの姿が羨ましくて、妬ましくて、とっても素敵で、何より──暖かくて。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!!」
「いいの……もう、終わったから……もう謝らなくて……良いの……」
ヤーノの胸に顔を埋めて泣きじゃくる少女の頭を、幼い少女の柔らかな手が優しく愛撫する。
「………………ぁ」
「もう良いの……わたし、怒ってないよ……」
初めて触れる少女の肌、密着する肌と肌の感触、彼女の記憶にあった──お母さんの肌の温もりと同じ、暖かな“愛”の感触。
「あぁ……暖かいわ、暖かいわ、とっても……暖かいわ……!」
名もなき彼女が欲したもの、母親だけが与えてくれると思っていたもの、手を血で染めてでも手に入れたいと思ったもの──それがこんなすぐ側に。
漸く、彼女は理解する──、
「あぁ……これが“愛”なのね……!」
────その暖かさこそが、自分が求め続けた“愛”なのだと。
「あぁ……あぁ──あぁ、あぁああああああ……!!」
後悔の涙は、歓喜の涙へと──冷たい水のような涙が、熱を帯びて熱く変わっていく。嬉しさに身体が震え、鼓動が速くなっていく。
「愛してくれた……ずっと……ずっと──この暖かさが欲しかった……っ!!」
彼女はずっと“愛”とは母が子に与えるものばかりだと思っていた。でも、それは違う。
母が子を愛するように──男が女を愛しても、子が父を愛しても、少女が少女を愛しても、少年が少年を愛しても──確かにそこに“愛”はある。
それに、名もなき少女は漸く気付いた──もはや手遅れだったとしても、彼女は“愛”を知って逝く事ができる。
「ありがとう……わたしを愛してくれて……。わたし……とっても幸せだわ……!」
それがとても嬉しくて、ありがたくて、幸せで──だからこそ、心苦しくて、哀しくて、申し訳なくて。
「スライムさん……身体が……」
「もう……逝かなきゃ……。いっぱい悪いことをしたもの……罪は償わなきゃいけないわ……」
空と水の境界──果てなく続く水平線の彼方に、夕日は少しずつ沈んでいく。別れの時を報せるように。
少しずつ消えていく名もなきスライムの身体が──ふたりの今生の別れを意味する。
「…………ごめんね…………わたしが、お母さんに会いたいって……わがまま言ったから……」
「いいえ……いいえ、違うわ。あなたは何も悪く無いわ……あなたの想いに付け込んだわたしが悪いの……」
別れが惜しい、だからこそ悔いが無いようにと──互いの罪を懺悔する。愛しきあなたが、安心して帰れるように、安心して逝けるように。
「でも……!」
「なら……そうね、一つだけ──わたしのわがままを聴いてくださる?」
消える自分が『渇愛のヤーノ』として、犯した“罪”の十字架は背負って持って逝く。なら、帰るべきあなたには“許し”が必要だと──消えていく少女は最期に願う。
「わたしに──名前をくださるかしら? 産まれた赤ちゃんにお母さんが名前を付けるように──素敵な名前をわたしにくださるかしら……?」
「あ…………っ!」
消え逝くスライムの少女に名前は無い。ただ──『ヤーノ』と言う少女を喰らい、その名を騙っていただけにすぎない。
だから──彼女は名前が欲しかった。有象無象の“魔物”として消えるのでは無く──確かに生きて、誰かに愛された少女して消える為に。
それだけが──消え逝く少女への“赦し”となりて。
「あなたの……名前……」
予想外の言葉にヤーノは言葉を詰まらせる。名もなき少女に名前を付ける──母親になったわけでも、姉になったわけでも無いのに。
それでも、時間は待ってはくれない。少しずつ消えゆく少女の身体──両の手先は既に消え、足は光の粒子になって、抱きしめた肌から熱が引いていく。
もうすぐ消えてしまう──だから、ヤーノは覚悟を決める。内に秘めた想いを奮わせて──、
「────シンティア。あなたの名前は──シンティアよ」
────空と水の境界で、あなたの名前を呼ぶ。
「シンティア……それが──わたしの名前……!」
「うん……わたしが──いつかお母さんになった時に、産まれてきた子に付けようと思っていた名前だよ……!」
それが──スライムの少女の、シンティアがこの世に生を刻んだ瞬間、ヤーノと言う少女から生まれた少女。
「素敵……えぇ、とっても素敵だわ……。シンティア……シンティア……あぁ、わたしはシンティアって言うのね……」
消えゆく意識の中で、掠れゆく声を振り絞って、シンティアは自分の名前を何度も呟く。忘れないように、記憶に、心に、魂に──刻み込むように。
やがて、別れの時が訪れる。夕日は水平線の彼方に隠れて、空には満天の星がところ狭しと輝いて、水面には星々が反射して写っている。
もう──シンティアの身体は下半身も完全に消え、胸の所まで消え掛かっていた。あと数分もしない内に、完全に消えてしまうだろう。
だから──最期に別れの言葉を。
「わたし──もう一度、あなたに……シンティアに会うわ……! もう一度、絶対に……!!」
「…………無理よ、わたしは悪者だもの……許されないわ」
「ううん、会えるよ。えーっと……たしか……あっ、思い出した──『墓場から揺り籠へ』……!!」
贈られた言葉は彼の魔王が生まれ変わる為に囁いた言葉──転生の為の『紋章術式』。
その言葉を贈られた瞬間──白い紋章が刻まれた“環”がヤーノとシンティアの身体を包み、消え逝くシンティアの身体が白い光に包まれていく。
「これ……?」
「シンティアを此処に連れて来てくれたあの声の人が教えてくれた“おまじない”──あなたが生まれ変わったら、家族になれるって……魔法の言葉……だって……!!」
シンティアを抱きしめるヤーノの腕に力が籠もり、声は震える、ぽたぽたと──シンティアの頬に少女の涙が零れていく。
「生まれ変わったら……家族に……?」
「うん……そうだよ……。わたしね……あなたの──シンティアの……お母さんになるわ……!!」
「………………えっ…………?」
もう一度会えると、わたしがあなたの“お母さん”になると──幼い少女を涙を流しながら伝える。
「わたしの……お母さんに……?」
「うん……! もしかしたら、約束出来ないかもしれないけど……わたし、いっぱいお勉強して、いっぱい良いことして、素敵な人と結婚して──いつか、シンティアのお母さんになるの……!!」
別れを惜しみ、ヤーノの声は震える。それでも、少女の表情には──消え逝く少女への“祝福”と母としての“愛情”があった。
「あの人のおまじないがあったら……シンティアを……わたしの子どもとして、産んであげられるって……言ってたの……だから……!」
あぁ──なんてわたしは愛されているのだろう。あんなに酷いことをしたのに、あんなに悪いことをしたのに、わたしを抱いてくれているヤーノは──こんなわたしを愛してくれて、お母さんにもなってくれるなんて……。
シンティアの心に広がるのは暖かな感情。死してもなお、途切れず、失われず、紡ぎ続けられる──母の愛。
「だから……わたしのこと……お母さんって言ってくれますか……?」
「嬉しいわ……嬉しいわ……あぁ、なんて嬉しいのかしら……! 罪を償ったら……もう一度、逢いに行くわ──お母さん……!!」
愛は確かに紡がれ──人間の少女と魔物の少女は“母と子”となる。
その愛を最期まで肌で感じながら──スライムの少女、渇愛の少女は光となりて満天の星が輝く空へと消えていく。
彼女の名は──シンティア。愛を求めて、愛に狂い、愛を得て人間へと至った少女。
「またね……シンティア……。次に逢う時は──素敵なお母さんになってるからね……」
一つの出合い、一つの別れ──それを通じて、少女は一つ大人になる。もう一度、お母さんに会わせると約束したスライムの少女を信じ続け、彼女の蛮行に心を痛め、それでも救おうとした少女の小さな冒険譚。
顔を見上げれば彼女の居る満天の星空、瞳を閉じれば浮かぶ金色の瞳の──未来の“我が子”の姿。
再会を願い、慈しみの愛を誓った少女は“薔薇英石”に輝く左眼と、金色に輝く我が子と同じ右眼と共に──いつかの未来を夢観る。
次回で第三節も終了……だと思います。
想定した内容通りに筆が進めばですが(´・ω・`)
では次回もよろしくお願いします(・∀・)ノシ