プロローグ⑤:魔王は最期、人の夢を観る
──竜の咆哮はやがて聴こえなくなり、勇者と魔王の戦いは終わりを告げた。
魔王城を覆っていた巨大な白い魔法陣も、魔王カティスが呼び出した朱い空もいつしか消えてなくなっており、いつもの穏やかな夜と二つの月の柔らかな明かりだけが玉座の間を包み込んでいた。
結果は明白──自らを史上最強の存在だと疑わなかった勇者ウロナは、魔王カティスに完膚なき敗北を喫して死亡した。
「流石です、我が主。今宵もまた、我が主に新たな武勇が刻まれましたね」
決着を見届けたレトワイスは称賛の言葉を贈りながら、玉座の傍ら──魔王カティスの側へと立った。
「それでは我が主……あの小娘たちの処分は如何様に致しましょうか?」
レトワイスのまるで今からゴミを片付けるかのような淡々とした進言に、魔王カティスは静かに視線を眼前へと向ける。そこには、すっかり戦意を喪失して床に力無くへたりこんでいる三人の少女たちの姿があった。
騎士リタは、床に突っ伏して、何も語らず、何も見ようとはしなかった。キィーラは、虚ろな瞳で、虚ろな表情で、天井に大きく空いた穴をポカンと見つめている。賢者ホロアは、怯えた表情で、絶望に身を震わせながら、魔王カティスを見つめていた。
「最早、彼女たちに我が主へと挑む気力はありません。敗者に裁定を下すのは勝者の努め……我が主の取り決めに私は従います」
そう──彼女たちは既に敗北している。
一番強かった、彼女たちとは天と地ほどに実力が離れている勇者ウロナが魔王カティスに手も足もでなかった時点で、それ以下の強さでしかない三人が魔王カティスに対抗できる可能性など万が一にも存在しない。
後は、魔王カティスに殺されるのを待つだけ。そんな逃れられない絶望が彼女たちの精神を支配していた。
「お……お願い……します。どうか……どうか……この娘たちだけは見逃していただけませんか?」
そんな絶望の中で──魔王カティスと目が合った賢者ホロアは、震える声でそう嘆願した。震える身体を奮わせて、膝をつき、頭と両手を床に擦りつけて──平伏の姿勢を、服従の意を示しながら、賢者ホロアは魔王カティスに慈悲を乞う。
「この二人はまだうら若い乙女……どうか……どうか二人に慈悲をお掛けください。殺すのは……どうか私だけにして下さい!」
それは、無様な『命乞い』ではなく、まだ若い騎士リタとキィーラを庇い立てする、賢者ホロアの決死の『戦い』だった。
身体はガクガクと震えている、声は恐怖で掠れている──死にたくない、そんな気持ちを必死に押し殺して賢者ホロアは自らの命を差し出している。
先程までの『儂』だの『〜なのじゃ』など散々に偉ぶっていた態度はすっかり消え失せ、懸命に導く者としての責を果たそうとしている。
そんな賢者ホロアの献身を感じ取った魔王カティスは、ゆっくりと平伏する彼女に近付いて行く。
「いいだろう、慈悲をくれてやる。但し……条件がある」
眼前に立った魔王カティスの威圧感に、賢者ホロアは最早喋ることも出来ずにただただ怯えながら魔王カティスを仰いでいる。
その条件がどんなものであれ飲まざるをえない──賢者ホロアは傅き、魔王カティスの裁定の時を待つばかりだった。
「王都に戻り、国王にこう伝えろ。……貴様たちが17年間手塩にかけて育ててきた勇者ウロナ=キリアリアは、魔王カティスに一切敵うことなく敗北した。次にこのような事をすれば、魔王カティスは貴様たちの王国の悉くを滅ぼす──と」
それはつまり──魔王カティスによる王国への『警告』。
また、魔王カティスを倒そうなどと夢見た時は容赦なく国を滅ぼす、そう伝えろという条件だった。
それなら受け入れられる──自分の命と引き換えにその条件を飲むのなら安いものだ。
賢者ホロアは魔王カティスの与えた寛大な慈悲に安堵し、自らの命を諦める決心をつけた。
「──貴様たち三人で伝えるがいい」
その思いがけない言葉に賢者ホロアは耳を疑った。
「私も……ですか?」
「二度は言わん。さあ、仲間を連れて疾く失せるがいい」
それ以上、魔王カティスは何も語らなかった。
賢者ホロアは魔王カティスにもう一度だけ、頭を垂れてその慈悲の心に感謝の意を示すと、力無くよろよろとよろめきながら騎士リタとキィーラを連れ立った。
「……………………」
騎士リタは虚ろで焦点の合わない瞳で魔王カティスを一瞬だけ視界に捉えると、涙を流しながら彼に背を向けて歩き出した。
その涙が──愛していた男を殺された『悔しさ』なのか、愛していた男に見限られた『悔しさ』なのか、魔王カティスには気掛かりだったが言及することはなかった。
「キィーラ……立てるか? 一緒に帰ろう……儂らの家に……」
「……………………」
キィーラも賢者ホロアに手を握られて力無く玉座の間の扉へと歩いていく。
騎士リタと同じく、絶望に打ちひしがれたような虚ろな表情をしていた。
唯一、騎士リタと違った点は──開かれた玉座の間の扉をくぐり、扉が閉じていくその間際に魔王カティスに視線を向けたこと。
「……………………あんたたちなんて、大っ嫌い…………!!」
そう──憎しみと怒りを込めて、吐き捨てて言ったこと。
そんなキィーラの怨嗟の視線を遮断するように──バタン、と大きな音を立てて玉座の間の扉は堅く閉ざされ、そのまま三人の少女たちの姿は魔王カティスの視界から消えていなくなった。
「よろしかったのですか? 彼女たちを帰してしまっても?」
大きくため息をつきながら玉座に腰掛けた魔王カティスに、レトワイスは問い掛ける。
「ああ……元々、あの三人娘を殺す気はなかったからな。それに必要だろ……私の武勇を伝える“語り部”は」
魔王カティスは不敵な笑みを浮かべながらそう答える。あの三人にはこの戦いの結末を王国へと持ち帰らせた。
それが魔王カティスの言い分だったが、それだけが全てではない。
「それに……あんな見事な土下座をされたら、慈悲を掛けない訳にもいかんだろう?」
「まあ、なんてお人が悪いのでしょう我が主は」
「あの三人は勇者キリアリアに振り回された被害者みたいなものだからな。それなのにあののじゃロリエルフは己が身を差し出してまで他の二人を守ろうとしたのだ。その『覚悟』を汲んでやっただけだ」
魔王カティスは語る。賢者ホロアの献身的な姿に心を打たれたから──それだけではない、その姿に確固たる“意志”を感じたからである。
あのまま彼女たちを殺すのは、それこそ“魔王”の名が廃るというもの。
だからこそ、慈悲の心を持っていたからこそ、魔王カティスは勇者ウロナに激しい憤りを感じていた。
「それにしても……シウナウスの奴、倒された時に何の小細工をしたかと思えば、まさかあんなつまらない奴を送りつけてくるとはな」
「あの勇者様のことですか?」
「ああそうだ。勇者キリアリア──今思い返してもイラッとする。あいつマジ最悪だったな」
「ですね。まるで我が主の様でした」
「……マジ? そんなに俺って最悪?」
「あの戦いで何度、勇者様達に嘲笑った顔していたと思っているのでしょうか我が主は?」
「……すみません、反省します」
「まあ、それはそれとして、勇者様の素行の悪さは私も内心思っていました。我が主、結局あの勇者様は一体何者だったのですか?」
「内心って……お前も結構あけすけな態度だったと思うんだが……まあいい。勇者キリアリア──女神シウナウスが最後の力で生み出した力の残滓が奴だ。魔王カティスへの報復……それだけを目的としてな」
魔王カティスは、天井に空いた穴から空に消えていった勇者ウロナを憐れみながらそう語る。
「あの女神も分かっていただろうに、自分の力の残滓で生み出した存在がこの私に勝てないことぐらい」
「その通りですね。では女神シウナウスは何故そのようなことを……?」
「簡単さ、あの女神は負けず嫌いだったからな。どうしても私に一矢報いたかったのだろう。自らの威光に泥を塗ったこの私にな」
「……それは我が主が天界を壊滅させたから、ということでしょうか?」
レトワイスに疑問に魔王カティスは静かに顔を縦に振る。
魔王カティスは天界に戦いを挑み、天上の神々を討ち倒した。
勇者ウロナの出現は、魔王カティスに倒された女神の復讐だった。
それを聞いてレトワイスは、戦いの最後に勇者ウロナがとった行動に漸く合点がいく。
「では……あの勇者様の最後の行動は……!」
「そう思い至るようにされていたのだ。私に勝てないのなら、女神にとってあの勇者に存在価値なんて無いからな」
レトワイスもそれを聞いて勇者ウロナに対して幾ばくかの憐れみを感じ、主と同じく天井に空いた穴に視線を向ける。
魔導人形である自分以上に──女神の操り人形だった勇者ウロナへの憐れみを噛み締めて。
「だから……最後に自棄になってあのようなことを」
「ああ、その通りだ。私に勝てないのなら、最初から自分の存在なんて無かったことにしたかったのだろう」
「生かして帰すことは出来なかったのでしょうか?」
「出来たさ……ただ、生かしても禄なことにはならなかったさ。何故なら──」
「……未来が観えたから……ですか……? あの勇者様が良からぬことをする未来が……」
「ああそうだ……魔王九九九式──『天を見通す星の瞳』。私が観測したあらゆる未来において──勇者キリアリアは必ず三人を殺害している」
「何故そのようなことを……?」
「自分が無様な負け犬だなんて思われるのが癪だったんだろう。それに、奴は生きて帰った場合──自分に『負け犬』のレッテルを貼った王国すら滅ぼしていた」
「……だから……殺す必要があったのですか?」
「ああ……可哀想だがな。そうしなければ──勇者キリアリアは狂気に呑まれて人の道を踏み外していただろう。善戦虚しく魔王に敗北して戦死した勇者、その方がまだ格好はつくというものだ」
魔王カティスは語る。勇者ウロナには初めから破滅の道しか無かったと。だからこそ、死を以て女神の呪縛から解放するしかなかったと。
「まあ……当然の話しながら、私が“負ける”という可能性は無かったからな」
「……あー、一応お伺いします。我が主、それは何故ですか?」
「私も負けず嫌いだからさ。それこそ、あの勇者や女神以上に──な」
そう言って得意気に笑みを浮かべると、魔王カティスは大きく息を吐いて玉座に深く腰をかけ直す。
「だがこれで……漸く私の仕事は終わった。勇者との戦いも済んだし……これで心置き無く死ぬことができる」
魔王カティスは満足げにそう言うと、清々しい笑顔をレトワイスに向ける。
「本当に……逝かれてしまうのですか……我が主……?」
「そう寂しそうな顔をするな……我が可愛い人形よ。これは予てから決めていたことではないか?」
そう魔王カティスは諭すようにレトワイスの頬を優しく撫でる。
それでも彼女は寂しそうに、悲しそうな顔をしながら、自分の冷たい頬に触れた老いた主の手をそっと握った。
「本来、我が主は不老不死の身。なのにわざわざ自分から死を選ぶだなんて……!」
「だからだ。いい加減──『魔王』にも飽き飽きしていたんでね。ここらで『次の人生』に行きたいのだよ……分かってくれるか、我が愛しの魔導人形よ?」
「我が主が居なくなったら、私はこれから誰を誂えば良いのですか?」
「……知らんわ、んなこと」
いつしか天井に空いた穴から射し込んだ月明かりが、玉座で死に逝こうとしている老いた魔王を優しく照らし出している。
レトワイスは主の取り決めを静かに受け入れる。それが、永久の別れと知りながら。
「…………魔王九九九式──『墓場から揺り籠へ』」
「……転生術式……!! 我が主……」
魔王カティスは自らに人生最期の術を掛ける。
『墓場から揺り籠へ』と呼ばれたそれは光の粒子となって魔王カティスを包み込んでいく。
「この術式があれば、私は確実に転生できる。尤も──転生先で『魔王』なんてしたくはないからな……魔王カティスとしての“記憶”と“能力”はここに置いていくがな」
「ただの──『人間』になるのですね……我が主」
「ああ……その通り。ただの人間になって……何の変哲もない……第二の人生を送るとするよ……」
「……実際は?」
「生きて行く上で苦労しない程度の“能力”は引き継いで逝きまーす」
「うわー、セコいですね」
「………………それぐらい許して?」
などと冗談を交わしていたふたりだったが、魔王カティスの手から徐々に熱がなくなっていくのをレトワイスは感じていた。
魔導人形であるレトワイスに涙を流す機能は無い。けれど、もし涙を流せたのなら──彼女はきっと泣いていただろう。…………多分。
「委細は……任せる……。私は……儂は……もう寝るぞ……レトワイス…………世話に……なったな…………」
「あらー、思い出したかのように爺キャラに戻りましたね、我が主」
「いま良い雰囲気出そうとしてるから、そういうこと言うのやめて?」
「……失礼しました。コホン……では、改めまして………私こそ……お仕えできて光栄でした。私をお創り戴いたこと……深く感謝してます」
「(うわー、やりづら)そう……か……それは……良かった。では……『死』を……選んで……やると……するかのぅ……」
そう言って魔王カティスはゆっくりと瞳を閉じた。疲れて眠るように、明日を待ち望みながらゆっくりと──ゆっくりと──。
「おやすみなさい、我が主。貴方様の観る夢が……素敵な夢でありますように……」
月明かりは陰り、魔王カティスを照らしていた光は消えて、暗くなった玉座に一体の人形と──静かに眠りについた魔王の姿があった。
「……あっ、我が主…………せめて天井と窓は直していただけますか?」
「…………………………はい、すぐに直します……」
こうして、(天井に空いた穴と割れた窓ガラスを直してから)魔王カティスの人生は幕を降ろした。
魔界を統べ、人類を恐怖に陥れ、天上の神々を打ち破り、伝説の勇者すら倒してみせた──史上最強の魔王。
暫しの眠りの後に、かの魔王は第二の生を受けて転生する。
この物語は──そこから始まる。