カカシ養生
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
う……くう……。
よーし、今日の柔軟終わりっと! この手のトレーニングって、一度とぎれちゃうと、ずるずるなまけたくなっちゃうからね。たとえ旅行先でも、時間を見つけて続けるようにしてるんだ。
こーちゃんは、何か毎日している健康法とかないの? そりゃネタ探しと執筆なら余念がないとは思うけど、もっとこう、運動的な意味でさ。
誰がいったか、「動かない動物は、果たして動物というのか?」。
こーちゃんも身体を動かす機会を作らないと、いずれ動物じゃない何かになっちゃうかもね〜。
――ん? それならそれで、興味がある?
ふふん、物書き特有の強がりかい? どんなデメリットがあるかも分からないのに?
もし実際に陥ったら、おめき叫んで天を呪うんじゃないかな? 「なんで俺ばっかり!」ってね。
けれど、身体を動かすことに関しても、ちょっとしたきっかけでやばい事態を引き起こすことがあるらしいんだ。僕のおじさんが昔に体験したことらしいけど、聞いてみないかい?
おじさんが社会人になって、7年が経ったころ。
ぼちぼち三十路に差し掛かり、視力をはじめとする身体の衰えを感じ始めるようになった。
働いている最中はいい。問題は仕事が終わってからと、目覚めの一番だ。
玄関をくぐって、どこかしらに腰をかけると、どっと出てくる疲労感。ふくらはぎの内側に、砂状になった重りがさらさらと降り積もり、じわじわと足中に広がって離れようとしない。これに身を任せてしまうと、たちまち眠気がまぶたを押し下げてくる。
そして横になって起きるとき、ふと身体に力を入れると、どこかしらがつってしまうんだ。足の場合が多かったが、首とか肋骨の間とかで、じっとしていられない痛みが走る。
水分不足が一因という声もある。おじさんは寝る前、起きたときのコップ一杯の水は欠かさなかかったが、それでも効果なし。
――昔みたいに、疲れ知らずの身体になってくれたらなあ。
そう思いながら、今日も鏡の前でひげを剃る。
おじさんは日ごろ、その手の愚痴を同僚にもらしていたらしい。同じような悩みは、多かれ少なかれみんな抱えているようで、色々なアイデアをもらったが、いずれも試したことがあるようなものばかりだったとか。
けれど、中途で入ってきた年配社員のうちのひとりから、少し特殊な健康法を聞くことができたんだ。彼自身もいまだ、無遅刻無欠席を続けている健康体だ。
その日は定時で帰ることができたおじさん。さっそく聞いてみた、健康法を試してみる。
まずは片足一本で立つ。どちらの足でも構わないけど、上げた方の足先は軸足の膝の裏側へ。足の甲でちょうど、膝カックンをするような位置にあてがう。
これだけでも、バランス感覚に疎い人なら軸足がプルプルして、止まらなくなる。おじさんもそうだった。だが足の甲を膝の裏からはがしてはならない。
次に、そのままの姿勢で両手を腰に当て、上体を左右へ傾げる。ラジオ体操でもやる、わき腹の筋肉を鍛える動きだな。
ななめ45度以上傾ぐのが理想的らしいが、自分の限界までやることが肝要だという。おじさんは少し傾けただけで、何度も足同士が離れてしまったらしい。そのたびにやり直して、ぶるぶる震えながらも、どうにか20か30度くらいは曲げられた。
三つ目にこの姿勢を10秒保ちながら、発声を行う。
声は「あー、いー、うー、べー」っていう、お口の体操と一緒だ。あちらは口の筋肉を鍛えることが目的だから、声は出さなくても構わない。でもこの健康法では、あごが痛くなるくらいにしっかり行う。
これが終わったら状態を戻し、反対側へ傾けて同じことをやる。それが終われば、軸足を変えてもうワンセット。軸足を変える時をのぞき、足は件の態勢を保ったままで行う。これがわずかにでも外れたなら、もう一度やり直さないと効果が出ないらしい。
そして最後にして、最大の難関がこいつを睡眠前15〜18分の間で終わらせなければいけないことだ。
この体操が終わったらすぐさま布団に入り、余計なことをせずに寝付かなければ、まず達成は不可能。この時間より早く寝ても遅く寝ても、効果は表れないのだという。
このおかしな養生法を、おじさんは実践した。
睡眠時間の関係で、断念した日は数多く、足の震えをなくして発声まで持ち込むのに、およそ二ヶ月がかかった。だが最後の15〜18分で寝入ることは、なかなかできなかったんだ。
どれくらい時間が経ったか。それを不安に思い、時計を見るだけで目はどうしてもさえてしまう。いや、それらに神経を配るのすら、眠気を遠ざける一因となりえた。
すぐに眠ってはいけない。長く起きていてもいけない。
それに神経をすり減らし続けるおじさんは、本末転倒もいいところ。けれど、あのすっきりした身体を取り戻せるならと、執念で続けたらしいんだ。
それからまた何ヶ月も経った朝。
ぱっと目が覚めたおじさんは、いつも襲ってくる眠気が、さっぱりないことに気がついた。
時刻はいつも起きる時より1時間前。いつもなら抜けきらない眠気と疲れに誘われるまま、二度寝をするところなのに、今日はそれがない。
身体が今すぐにでも起きようと、たぎっている。じっとしているのが辛いくらいで、ぱっと布団から跳び起きた。
気持ちにもだらつきがない。一刻も早く仕事に行かねばと身体を急かし、てきぱきと準備を進めてしまう。
普段なら息を切らす駅の階段の上り下りもスムーズ。ぎゅうぎゅう詰めに苦しむ電車内も、今日は首尾よく待っていたドア付近が空き、余裕がある。点滅する信号に横断勝負を仕掛けたときも、心なしか身体が軽く感じた。
「これは筋肉痛かな」とも思ったが、仕事中も終わった後も、そのような兆候は一切なし。仕事そのものもイレギュラー対応も含めて、誰の手も煩わせずに済んだ。
すべてが自分にとって、都合よく進んでいる。そう感じたおじさんは、ひょっとしてあの健康法が上手く行ったのでは? と思いかけたようだ。
だが、ひとつ問題がある。
食べるご飯が、いずれも精進料理じみた味ばかりなんだ。平日の朝食はパンにウインナー、目玉焼きが定番のおじさんだが、そのいずれもが付け合わせのキャベツのごとき味がする。
たまたまなんかじゃなかった。昼の外食、帰りがけに買ったスーパーのお惣菜。いずれも肉と魚をメインにがっつり食べようとしたのが、かじるたびに様々な野菜の味となって、おじさんの舌を襲った。
板チョコレートからさえも、トマトを思わせる酸っぱさと青臭さが口内に広がるのを感じて、おじさんは「べっ」と吐き出してしまう。
――確かに健康でありたいとは思ったが、食事まで健康感を出せとはいってねえよ。
どうにか水だけは、温度そのままの苦い茶の感覚で済む。
手早く片づけを終えたおじさんは、それから一切飲み食いせず、布団へ潜りこむ。
これまで一日も欠かさずやってきた、あの健康法はやらない。味覚にまで影響が出たのは、あれのせいかも知れなかったからだ。
好きなものを、好きなだけ食べる。苦行重ねの体操より、そっちの方がずっと楽しいとおじさんはこの一日で実感したんだ。
でも、明かりに手を伸ばし、部屋を暗闇にしたところでおじさんは固まってしまう。
部屋は完璧に真っ暗にならなかったんだ。
自分が立っているところの真正面。壁があるはずのその部分が、一面の巨大な目玉と化していたんだから。
おじさんを見つめ、二、三度瞬きをしたその瞳は、やがてまぶたを閉じ切って動かなくなってしまった……。
唐突のチャイムの音とともに、おじさんの周りに光が戻ってくる。
自分は横になって天井を見ていた。右手のカーテンのすき間から入ってくる光は、だいだい色に染まっている。昨日、身体の調子がいいままに片付けたはずの部屋は、いつもの雑然としたものに戻っていた。
再びのチャイム。ビキビキと音を立てる身体を起こし、玄関のドアを開けると会社の同僚がいた。
丸一日、無断欠勤しているから、どうしたものかと様子を見にきたとのこと。
そんなはずはないと言い張るおじさんだったけど、実際に仕事場へ赴いてみると、昨日かたしたはずの仕事の形跡は、影もなかったらしい。
はたからは仕事をフケたようにしか見えないおじさんは、始末書を書かされ、みんなからも仕事を回されて、しばらくはくたくたになりっぱなしだったらしい。
おじさんに健康法を教えてくれたあの社員は、おじさんが出勤するのと入れ違いで、仕事場に姿を見せなくなってしまう。
住んでいるアパートにも向かってみたが、しっかり鍵がかかっていて入ることができない。二週間あまり反応がなく、ついに会社から解雇処分を受けてしまったらしいんだ。
それから三カ月後。件のアパートで社員の遺体が発見された、といううわさをおじさんは耳にする。家賃の滞納を気にした大家さんが中に入ったところ、彼の身体はところどころに、何者かにかじられたような穴が空いていたという。
しかし、血は全く出ておらず、その顔に苦悶も浮かんでいない。そして何ヶ月も放置されていたにも関わらず、彼の身体は先ほどまで生きていたかのように、血色が良かったというんだ。
おじさんはそのときのことを振り返って、こう話してくれたよ。
あの健康法は、暗闇の中で見た目玉の主への服従のサインじゃないかと。
それもしもべとしてじゃない。おそらくは食料として。あいつが食べるにふさわしい状態にするため、俺たちが健康になる、あらゆるお膳立てをしてくれるんだろう。
寝たきりにしたうえで、心のストレスさえ取り去り、絶好のコンディションを作るんだ。