第一話 約束
瞳を閉じれば、今でもあいつが俺の名を呼ぶ声がする。
気のせいなのか
気のせいではないのか。
瞳を開ければ、もうあいつの姿はどこにもないのにな――と、俺は自嘲気味に笑った。
けど、まぁ。どこかで俺のことを見ていてくれるのなら、ずっと見ていてほしい。見ていてくれたら、俺はなんでもできる気がした。
もしかしたら、これこそ気のせいなのかもしれないが。
そしてまた、今度はソラに向かって笑みを零した。
*
レンガ造りの小さな家が密集する、セピア色のミレルバ地区。
「おーい!」
その中の一つに声をかけると、小窓から俺と同い年くらいの少女が顔を出した。
「ガイア!」
嬉しそうに、綺麗な梔子色の長髪を持つメルが頬を緩ませるとついつい俺まで嬉しくなってしまう。
「待っててね!」
だが、そう言ってさっさと引っ込んでしまうのだから俺は仕方なくメルを待った。
「お待たせ!」
白いワンピースを着たメルは、いかにも女の子って感じがして何故か緊張する。
「おい、白い服じゃすぐ汚れちまうだろ」
けれど、口は心と正反対のことを言うのだから
「ご、ごめんね」
俺はいつもメルを謝らせていた。
「……ん、まぁいい。許す」
「あ、ありがとう」
なのにメルは、心の底からの笑みを浮かべる。そんなところに、俺は苛立ちと安らぎという対極の感情を抱いていた。
「ねぇ、今日はどこに行くの?」
「ッ?! あ、わりぃ。なんつった?」
上の空だった俺は、メルの言葉を聞き逃して勝手に悔やむ。
「うん。『今日はどこに行くの』って」
それでもメルは、怒りもせずにいっつも同じ言葉を繰り返した。
「あ、あぁ! 今日な! 今日はそのぉ……」
「そのぉ?」
「……決めてない」
ぱちぱちとメルは薔薇色の目をまばたかせて、そしてまた、怒りもせずに笑みを浮かべる。
「じゃあ、のんびり散歩でもしようか!」
メルと二人っきりならば、何事も笑い話にできた。俺は、そんな関係が好きだった。
「ねぇ、お母さんからパンを貰ったの! 後で二人でわけて食べようよ!」
「ほんとか! それいいな!」
二人で歩きながら、ミレルバ地区のほとんどを占める軍の駐屯地へと〝偶然〟迷い込み。知り合いの軍人に見つかって笑いながら走って逃げると、ソラはいつの間にか茜色に染まっていた。
「今日も楽しかったな〜!」
うん、とメルが頷く。
「特にあれ! マーティンさんが井戸に落っこちそうになったところ!」
だが、マーティンさんには悪いけれどとつけ足すところがまたメルの優しさなのだろう。
「だよな! けどよ、あんなの酔ってんのが悪いに決まってるだろ!」
「でもでも、それだけ大変なお仕事なんだよ」
何年も「Mars」を撃退できない無能集団の一員にさえ、本気で労る優しさがメルにはある。そんな俺に欠けた感情は、時々心配になるくらいメルを犠牲にする時がある。
「じゃ、またな」
「うん。ばいばい」
俺は今日も、メルの家の前でメルと別れた。明日も、明後日も、多分こんな日々が続いていく。
「EARTH」の中にずっといるのは窮屈だ。
いつか、メルと一緒にソラを見たい。
けれど多分、そう思うのは俺のワガママだった。
次の日も、メルの元に行く為にケアロボットのゼノヴィアに声をかける。東洋の島国から輸出された女型のゼノヴィアは、東洋人特有の黒い瞳で俺を見つめて
「私も行く」
何故か、今日はそう言った。
「ガイア。今日は一人では行かせない」
「な、なんでだよ」
「ご主人様からのご命令。昨日、軍から苦情が入ったって」
絶対に離れないとでも言いたげに、ゼノヴィアは俺を睨みつける。
「わ、わかったって」
俺はゼノヴィアから視線を逸らし、扉を開けた。ゼノヴィアは、ご丁寧にピッタリと俺の斜め後ろを陣取っていた。
「ちけぇよ」
「近くない」
今日のゼノヴィアは機嫌が悪い。俺はこれ以上ゼノヴィアの機嫌を損ねまいと心に誓い、家を出た。
*
風が私の頬を撫でる。ソラを見上げた私は、窓の側から離れようとはしなかった。
ガイア、今日も来てくれるかな。なんて、「またね」って言ってくれたガイアに失礼かもしれない。
「……まだかな」
そう呟いて、二階からレンガで舗装された道を見下ろした。
「あっ!」
「おーい!」
「ガイア!」
まだ遠くにいる彼の姿を確認すると同時に、私は外へと駆け出していく。
「お待たせ!」
バンッと開けた扉の向こうにいたのは、茶褐色の髪のガイアではなく――
「っえ?」
――黒い髪をした、東洋人の女性だった。
「ゼノヴィア! 先に行くんじゃねぇよ!」
慌てて後からガイアが駆け寄る。
「ゼノヴィア……さん?」
こくりと女性――ゼノヴィアさんは頷く。むすっとしていて一見愛想が悪そうに見えたが
「あ、ガイアの話によく出てくるケアロボットの!」
そう言えば、ほんの少しだけ頬を緩ませた。
「ごめんな、今日はゼノヴィアも一緒でいいか?」
「もちろんだよ!」
むしろ毎日遊びたいくらいとつけ足すと、今度は何故かガイアがむすっとする。
「……行くぞ」
そう言って深緋色の瞳を細めた彼はどしどしと先を歩くが、行き先は誰も知らなかった。
「ガイア、どこ行くの」
「さぁな」
ゼノヴィアさんはガイアの側から離れる気配を見せない。
この地区の領主の息子。そんな彼につき従うケアロボットのゼノヴィアさん。近い――と言えば近いし、近くない――と言えば近くない、そんな微妙な距離をずっと保っている。
なんで、こんなにモヤモヤするんだろ。
胸の辺りを触り、私はこてんと首を傾げた。
「ガイア、この方向は……」
「ガイアー!」
刹那、ゼノヴィアさんの言葉を遮ったのは深緋色の髪をした男の子だった。
「ん? ロトじゃねぇか」
ロトと呼ばれた男の子は、ガイアに向かって笑顔で手を振る。
「久しぶり、ガイア。ゼノヴィア。その子は?」
そして彼は、私の方を向いてアメジスト色の瞳に私を映した。
「こいつは俺の……友達だ、友達」
友達。その直前の妙な間が引っかかる。どうしてだろう。
「そうなんだ、はじめまして」
「は、はじめまして! メルです!」
互いに頭を垂れ、また妙な間が生まれる。そんな私たちを、ガイアとゼノヴィアさんが不思議そうな顔で見ていた。
あの出逢いの日から、数ヵ月が過ぎた。
ゼノヴィアと貴族の息子だと言うロトとも一緒に遊ぶようになってから、ガイアと私の待ち合わせは私の家の前ではなくなって。今では――
「ガイア! ゼノヴィア! ロト!」
――とある大きな木の下になっていた。
私は笑い、三人に手を振る。ミレルバ地区ではかなりの有名人だと言う三人は、それぞれ別の反応を示した。
「ごめんね、遅くなって!」
「そんなことねぇって」
領主の息子、ガイアが真っ先に駆け寄ってくれることが何よりも嬉しい。視線を移すと、この地区唯一のロボットであるゼノヴィアが少しだけ口を尖らせていた。
不思議に思いつつも、四人揃ってミレルバ地区を歩く。いつもと何も変わらない風の匂いに、私は少しだけ虚しくなった。
「今日はどこに行くの?」
そんな感情を掻き消すように、先頭を歩いているリーダーのガイアに呼びかける。機嫌のいいガイアは待ってましたと言わんばかりにぐるんと振り返り
「駐屯地ギリギリまでだ!」
と、無邪気に言った。
「駐屯地?」
「今日、ミレルバに《Aries小隊》が帰ってくる予定なんだって。予定通りだったら会えるかもって、ガイアが」
私の耳元で、ぼそっとこの地区唯一の貴族の息子であるロトが答える。ゼノヴィアは少し呆れ気味に「ガイア」と呼ぶが、ガイアはまったく聞く耳を持たなかった。
第一航空団《Aries小隊》――それは、小さな子供だったら誰もが憧れる「Mars」を殲滅する為だけに結成されたパイロット集団だ。基本的には宇宙で暮らし、宇宙で戦って時々帰ってくる。会える機会なんて滅多にない、「EARTH」のヒーロー的な存在なのだ。
「ほら、早くしねぇと会える機会がなくなっちまう!」
急かすガイアに私たちは顔を見合わせ、誰からともなくくすっと微笑む。それを見ていたガイアは「な、なんだよ」と顔を赤らめるが、私は「ううん」と首を横に振った。
そうやってガイアの言う駐屯地の柵ギリギリまで行くと、予想以上に人で賑わっていた。ゼノヴィア以外の幼い私たちはなんとかして顔を出そうと奮闘し、小さな木箱にようやく乗り上げる。刹那、茜色の空に黒い点の塊が姿を現した。それと共に、ブワッと風が吹きつけて私たちの体を強く撫でる。
「――あ」
〝匂った〟。
一言で言えばそれに尽きる。いつもと同じ風ではない、新鮮な、ソラの匂いだ。
「……すげぇよな」
「……うん。すごい」
瞳を輝かせ、頬を赤めるガイアは私に笑いかける。
「お前もそう思うか?」
「思う!」
虚しさを埋めるように、風がまた強く吹く。
「あ、あのさ!」
「ん?」
眩しい機体に目を細めながら、ガイアの声に私は耳を傾けた。
「お、大きくなったら……その、一緒にソラの世界に行かないかっ?!」
滑走路を滑る巨大な機体を見るよりも先に、私は思わずガイアを見て。耳を少し赤くして、私の方を向くガイアと目が合った。
「あ、いや、お前さえ良ければだけど!」
と、慌ててつけ足すガイアがなんだかおかしくてついつい笑みを零す。
「うん、約束ね!」
守れない約束なんて、この世には存在しない。私は純粋にそう思っている。私の返答に安堵したガイアは嬉しそうに笑って、「あぁ!」と私が差し出した小指を絡めた。
ガイアたちと別れた後、私は自分の家に帰っていた。料理を作るお母さんの背中を眺めながら、ただぼーっとするだけの時間。
悪くはない、小さな幸せの一つを噛み締めて。それを一瞬にして壊したのは、地響きのような大きくて低い爆音だった。
「ッ?!」
刹那、屋根に何かが当たった音がする。窓を見れば、決して小さいとは言えない石が四方八方から飛んできていた。
わけがわからず恐怖する私の手を引くお母さんは、何か叫んでいる。
〝いつか「Mars」に「EARTH」が侵略される日〟なんて、人類の中で一体何人が考えただろうか。
ガイア――ただ、少なくとも彼だけは、こんな日がいつか来るって考えていたような気がした。
手を引かれるがまま足を動かして、気づけば私はミレルバ駐屯地にずっと存在していた「宇宙船ジェレミエル」に乗っていた。
お母さんが震える手で私を抱き締めている。お父さんは、まだミレルバ地区にいるだろうか。だけど、私が今一番気になっていたのはガイアの安否だった。
小さな家の、小さな幸せだけで満足していた私の手を引いて外へと出してくれたガイアの安否だった。
私に大きな町と大きな幸せを教えてくれたガイアは、今どこにいるのだろう。
ざわざわとした心はそう簡単には収まらなかった。ぐっと唇を噛んで、私はお母さんをただただ抱き締め返していた。
「ジェレミエル」は、ミレルバ地区とその周辺の地区の全住人を収容して定員をオーバーしてしまうくらいの広さだった。
形は立体的な円型で、天井となる部分からソラが見える。中心部を空洞にし、無数のフロアに別れて居住区も確保されている。それだけでなく樹木も植えられており、最下層には湖が見える。舗装された道も、広場も、訓練生を育てる為の施設もある、充実した宇宙船。
私はそんな「ジェレミエル」を見回して、不意にお父さんを思い出した。結局、あの日以来お父さんの姿を見たことはない。
ガイアとゼノヴィアとロトだけが、あの日よりも前からのつき合いで。お母さんは、「良かったね」と力なく微笑んでいた。元から知り合いが少なかったお母さんは、あの日以来私だけが生き甲斐となってしまったようだった。
「ガイア……」
あの日以来ちょっと背が伸びたような気がするガイアは、振り返って返事をする。
「ジェレミエル」に乗って待望のソラへと逃げた私たちは、あの日以来宇宙船の中で暮らさなければならなくなった。
宇宙船の中では身分なんて関係なくて、領主の息子のガイアも、ケアロボットのゼノヴィアも、貴族の息子のロトもみんな農具を持って人工の田畑を耕している。季節ももう関係なくなって、みんな、恐ろしいくらい口数が少なくなっていた。
「……来年、十三歳になったら《Aries小隊》の訓練生に志願するんだよね?」
「……あぁ、そうだな」
やっぱり。
「Mars」が怖いかと聞かれれば、私は首を傾げるだろう。あの日お母さんの咄嗟の判断で、「Mars」を見ずに済んだのだから。
「別に無理しなくていいんだぞ」
「えっ?」
ガイアはちらりと私を見て、そして何故か視線を逸らした。
「だから、あの日の約束」
鼻を擦り、ガイアは静かに言葉を続ける。
「怖いなら約束なんて守らなくてもいいから」
「なんで、そんなこと言うの?」
「なんでって」
「怖くないよ、私……!」
守れない約束なんて、この世には存在しない。
「一緒に行くから……」
そう言うと、あの日以来あまり笑わなくなっていたガイアが少しだけ笑みを零した。