雪中の親子
「母ちゃん、腹減った。」
「気のせいだ。」
「腹減ったよお。」
「言ったってしょうがないだろ。外は吹雪で食い物探しなんかできたもんじゃないんだ。」
そう息子に言い放つのはミケ。彼女はメスのキタキツネ。
そして先ほどからしきりに空腹を訴えているのは息子のザク。
彼女らは今洞穴の中で吹雪が止むのを待っている。
「だから食い物を貯めといた方がいいって言ったのに。」
「貯めるったって肉は無理だろ。あんたもあたしもリスじゃないんだ。木の実ばっかじゃ生きていけない。」
「でも木の実だって食えるんだから貯めときゃよかっただろ。」
「ぐー。」
「寝るな!」
ザクはミケの元へと飛んで行って口先でミケの眉間を一突きする。
「何すんだい!痛いだろ!」
「母ちゃんが説教の途中で寝るからだ。」
「何で息子に説教されなきゃならんのさ。そりゃ寝たくもなるさ。」
「いや、説教してるのが誰であろうと寝るのはダメだろ。」
「うるさいね。あたしゃ不都合なことがあったら寝てやり過ごす。寝過ごすのさ。」
「寝過ごすは意味変わってるだろ。」
ミケはザクが生まれるずっと前からこの山で生きている。吹雪の一つや二つ何の問題なく超えてきたからこそのこの余裕だ。
「うん?…どうやら止んだみたいだね。」
ミケは頭頂部に突き出た三角の両耳を立てて外の方へと向ける。キタキツネは聴力が優れているためこうするだけでも外の様子がある程度分かる。
「やった!じゃあもう外に出ていいよな!」
ミケの言葉に耳ざとく反応してザクは洞穴の出口へ嬉々として飛んでいく。
「待ちな!もう日が沈んでる。今から出たところで食い物は見つからないよ。」
「え~。」
不満げな声を上げながらもザクは出口付近で停止する。彼自身、ミケの山に関する知識は確かなものだと分かっているから逆らいはしない。
それでも未練を捨てきれないのか、出口付近で座り込んで外へと視線だけを飛ばす。
「ほら。そんなとこいないで中に入ってきな。吹雪の後は」
彼女はそこで言葉を切り、再び耳を立てて外の音に集中する。ある嫌な音を聞いたような気がしたからだ。
聞いたことのある音だった。できれば聞きたくない音でもあった。
気のせいであってくれという願望は裏切られ、予想は的中してしまった。そのことに悪態をつく間もなくミケはすぐさま洞穴の出口にいる息子の元へ駆け、その体を口に咥えて洞穴の奥に駆け戻る。突然のことにザクは言葉も発せない。
数秒後、轟音と共に洞穴の中は闇に閉ざされる。
「え、何これ!?何もみえねえ!」
「落ち着きな。じきに目が慣れる。」
「さっきの音は!?月が落ちたの?」
「くっ…あはは!月だって?」
ミケは息子の言葉に思わず吹き出してしまう。
「なるほど、雪崩を知らない子は今の状況をそう捉えるのか。」
「何でそんなに笑ってんだよ!でっけえ音がして月の光が消えたんだぞ!」
「いや悪い悪い。まあ丁度いい機会だし教えとこうか。今のが雪崩だ。」
ミケは息子と向かい合うように足を折って腰を下ろす。
「巻き込まれたときは今みたいに洞穴見つけて逃げ込むか、あんたくらい軽かったら木の上に逃げるかしてやり過ごせばいい。」
「そっか分かった。で、俺らはこれからどうするの?閉じ込められたけど。」
「雪をどけて外に這い出す。でも無暗やたらに掘ってもしょうがない。日が昇るまで待つんだ。そしたらある程度の見通しがたつからね。それまではどうしようもないから、寝る。」
「寝過ごすの?」
「そうそう。」
言ってミケは目を閉じ眠りに就き、それからすぐにザクも眠りに就いた。
翌朝
「母ちゃん!母ちゃん!」
「んん…?」
ミケは息子の元気な呼びかけによって目を覚ます。
「日が出た!日が出た!」
「ああ分かった分かった。寝起きなんだからそんなでかい声で鳴きなさんな。」
のそりとミケは身を起こし洞穴の出口の方へ向かう。
「なるほどね…。」
小鳥が通り抜けられる程度の隙間から差し込む一筋の光、恐らくは朝日、を見てミケは呟く。
「ちょっとまずいね。」
「え?何が?」
ミケは自身の眼前に広がる雪の壁をカリカリと引っ掻く。
「昨日の雪崩で下の方に積もってた雪・・・雪ってよりかはもはや氷だけど、それも一緒に流されてきたんだ。硬いから中々割れないし、下手に割ると支えを失くして崩れちまう。」
「え?じゃあ出られないの?」
「ああ、あたしはすぐには無理だ。ゆっくり様子を見ながら削るしかない。けど、あんたは出られる。」
ミケは上にわずかに出来た隙間、小鳥が通り抜けられる程度の隙間に目をやって言う。
「だってあんたは飛べるだろ?昨日だって、パタパターって来てあたしの顔突いてきたじゃないか。」
「いや、結果的に外に出られるなら俺が先行かなくても待ってればいいだろ?」
「駄目だ。いたって何もできやしないだろ。別にあたしのことは気にしなくていい。ただの気まぐれで拾っただけだ。ずっと一緒に居ようだなんて思ってなかったから。」
ある日、狩りを終えて腹を満たしたミケが森の中で見つけたのは倒木と荒らされた雀の巣。それを見た時、ミケはさして何を思うでもなかった。実際森ではよくある光景だ。しかしその日ミケが見つけたものはそうではなかった。巣の中にまだ一羽ひなが残っていた。それがザクだ。
「母ちゃんがそうでも育ててもらった恩がある。俺は行かない。」
「言葉を選んだ方が良かったかねえ。気まぐれじゃなくて、正しくは非常食にしようっていう魂胆があってのことさ。」
事実、彼女がザクを自分の巣穴に持ち帰ろうと決めたのはそういう理由からだ。今は空腹ではないから後で殺して食べようと、そう考えた。
「連れて返ったはいいがあんたは想像以上にうるさくてね。黙らせるのに口の中に虫やらなんやらを突っ込んでたらいつの間にかでかくなってたってだけの話さ。」
「それが本当だとしたら何で食わないで逃がすんだよ!?」
「今あんたを食ったところでここから出られなきゃ意味ないんだ。わざわざ骨の多い鳥を食って体力使うくらいなら逃がしてやった方がいいかと思ってね。」
ザクはもう質問も反論もやめた。無駄だと悟ったからだ。
「じゃあ行くよ。行っていいんだろ。」
「ああ、どこへでも行きな。帰ってくんじゃないよ。」
ザクは羽ばたき外へと出る。ミケはそれを音で確認し、目の前に広がる雪の壁と対峙する。
「ちょっと怒らせ過ぎたかねえ…。ま、じゃあ始めるか。」
ミケは独り、雪の壁に爪を立てる。
彼女にとってザクは非常食。これは本当のことだった。
自分の獲物だから誰にも食べさせたくない。そしていつの間にか彼女は「誰にも」に自分のことも含めるようになっていた。そのことに気付いた時にはもう彼女にとってザクは大切な息子だった。
なるべく長く一緒に居てやろうと思った。しかしずっとは無理だということも分かっていた。
「いい機会じゃないか。最近食う量が増えてあの子の分の食い物探すのがおっくうになってきてたんだ。そろそろ自立してくれないと。」
彼女は話し続ける。誰が聞いてるわけでも、誰が説明を求めているわけでもないのに。
かなりの時間が経過し、彼女はついに手を止める。
「分かってはいたけど、さすがに今回ばかりは駄目かねえ…。」
その時点で削り取られた雪は量こそあれ、壁に穿たれたのはまだ穴とはよべない窪みだった。
「もう疲れた。もう、寝るか…。」
彼女は頭を伏せ、そのまま目を閉じる。彼女は自らの運命を受けいれたようだ。
しかし刹那、
「寝るな!」
声と共に眉間に痛みが走る。
目を開いたミケの目の前にはザクがいた。幻でない証拠に確かな音と匂いを伴って。
「あんた何してんだい。…帰ってくるんじゃないって言っただろ。」
「そんなことより喜べ母ちゃん!もうすぐ出られるぞ!」
「?あんた一体何を…。」
怪訝な顔をするミケと対照的にザクは得意げな顔だ。
「助っ人を呼んできた。」
「助っ人?まさか雀のかい?」
「いやいやそんなわけないだろ。俺みたいなのが何羽集まってきたところでどうなるわけでもないってのは俺でも分かるよ。」
だから彼は
「だから俺が連れてきたのは狐だ。みんな腹減ってたみたいで低めに飛んだらみんな素直に着いて来てくれたぜ。」
「何だって!?」
ミケは外の音に集中する。すると確かに複数の足音と雪を掻き分ける音が聞こえる。四、五匹はいる。
「自分がどれだけ馬鹿な事しでかしたか分かってんだろうね。みんなお前を食おうとしてるんだよ!」
「分かってるって。大丈夫。出口が空いたらすぐに出ていく。外にさえ出れたらもう誰にも捕まらねえよ。」
確かに洞穴の中より外の方が飛べるザクの方に部がある。しかしそのためにはわざわざなだれ込んでくる狐達に近づいていく必要がある。そんな危険を冒すことをミケが許すわけがなかった。
「駄目だ。外には出さない。あたしの後ろにいな。狐を追い払ってやるから外に出たいならそのあと出ればいい。」
「駄目なのは母ちゃんだ。一匹じゃないんだぞ相手は。」
ザクにとっての最悪の事態はなだれ込んできた狐達がミケを襲うこと。腹をすかせた狐達は狩りの妨げになるミケを排除しようとするに決まっている。そんなことをザクが許すわけがなかった。
唐突に上から一塊の雪が落下する。穴が開いた。光が差し込むとともに狐達がなだれ込んで来る。
十分に話し合う時間も無いままにザクは動いた。先頭の狐めがけて羽ばたく。先頭の狐は経験の浅い若い狐だったようだ。完全に意表を突かれて体勢を崩す。それに足を取られて後続の狐達がもたついている間隙を縫ってザクは空へと羽ばたく。
そして狐達の手も、ミケの声も届かない彼方へと飛び去って行った。
ザクが出て行ってから今日で四日になる。最初の三日間はあの洞穴を拠点にしていたが、いつまで経ってもうちの子は帰ってこない。多分どっかであたしと居るよりも居心地のいい場所を見つけたんだろう。
「さて、もう三日も待ったんだ。あの子は帰ってこないし、もう移動するか。」
そう独り言を言ってあたしは森へと歩を進める。向こうの方がきっと食い物には困らないはずだ。少なくともたまたま雨宿りに立ち寄った洞穴なんかよりはずっといい。
森へ着くと早速あたしの耳は雪の下に潜んでる鼠の音を捉える。
久しぶりのごちそうだ。あたしは全神経を鼠に集中して狙いを定め、雪に頭から突っ込む。もう何百回と繰り返した動きだ。しくじる道理もなく獲物にありつく。
途中、ふと目にしたミミズに気を取られて一瞬取り逃がしそうになったことは忘れることにする。全く、ザクのせいで自分が食わないものにまで気が散るようになっちまった。
「うん。うまかった。…さて、じゃあ行くか。」
もうこれからは自分の心配だけをして生きていけばいいんだ。気楽でいいじゃないか。とりあえずこれまで住処にしてた巣穴にでも戻るとしよう。
「母ちゃん。」
ふとザクの声が脳裏に響く。
いかんいかん。これだとあたしがあの子を恋しがってるみたいじゃないか。あの子があたしを恋しがるのはまだしも、あたしがあの子をってのはいかんだろ。きついこと言って追い出しただけ一層情けないってもんだ。
「母ちゃん。」
うるさいうるさ…いや、違った。
これは今あたしの耳に響いてる声だ。その証拠に頭に重みと温もりが宿る。
「重いよ。頭の上に降り立つとは一体どんなしつけられ方したんだい。」
「しつけたのは母ちゃんだろ。」
「そういやそうだったかねえ。…で、今まで何してたんだい?」
「何って、母ちゃんこそ何してたんだよ。俺はあの狐達から華麗に逃げ切ってその次の日にあの洞穴に戻ったのに。」
「あたしはあれからずっと洞穴にいたさ。…ということは入れ違いになってたのか。」
なんて間が悪いんだ。まあしょうがないか。あたしの子だしね。
それにしても拾った時は意味のない鳴き声しか出さなかった小鳥が今ではあたしに説教までするようになるとは。
ザクが言葉を話し始めてからあたしは時折考えることがあった。この子がもし「なんで俺を拾ったの?」って聞いてきたらなんて答えようかと。
「なあ母ちゃん。」
「うん?」
しかし色々考えるものの最後はいつも同じ結論に落ち着く。
「ありがとな。俺のこと拾ってくれて。」
「気にしなさんな。いいってことよ。」
うちの子はそんなこと絶対聞かない。という結論に。
「腹減ってないかい?」
「うん。さっきそこで虫食ってきたからな。もう立派に自分の餌は自分で採れるよ。」
「そうかい。」
だったらもう少しだけ、一緒に居てやるとしようか。
久し振りの短編です。
今まで書いてきた短編はどれも暗い終わり方ばかりだったので今回は心機一転してハッピーエンド(少なくともバッドエンドではない)にしてみました。いかがだったでしょうか。
個人的に狐も雀も好きです。狐が狩りの時頭から雪に突っ込む映像はかわいいですね。