桃と電気と墜落の夜 5
「驚いたわねぇ」
「うん。驚いた」
俺は部屋の端にある風呂に一人浸かっていた。ウエイトレスの女の子は俺の脱いだ服をたたんでいる。彼女は今は喫茶店の制服でなく白いTシャツにデニム生地のホットパンツを履いていた。
「私、ここで喫茶店のお客さんに会ったの初めてよ」
「へぇ。こんな近い場所なのにね」
「そうね。意外にもこれが初めて。ね、一応だけど喫茶店には内緒にしておいてね。バレたらめんどくさそうだから」
「言わないよ。そんなこと」
「良かった」
ウエイトレスの女の子はたたみ終えた服をカゴに入れてローションやバイブが置かれていた棚の上に置いた。
「ねぇ、私も入っていい?」
「どうぞ」
「ありがとう」
そう言うとウエイターの女の子はするすると服を脱ぎ出した。ピンク色の下着があらわになる。そしてすぐにそれも脱ぎ捨てて、つるりとした乳房があらわになった。あっという間のことで俺は興奮する暇もなかった。
小ぶりながらも形のいい乳房だった。彼女も湯船に入り、二人並んで浴槽に座る形になった。
「ふぅ。気持ちいい」
「うん」
「私はミミっていうの。よろしくね」
「あ、よろしく」
「あなた確か観光でこの街に来たのよね? いつまでいるの?」
「うーん、全然考えてない」
「そっか。と言うかそもそもさ、こんな何もない街に何しに来たのよ? 私だったらこんなとこに旅行なんて絶対に行かないわ」
「あぁ、うん。別にどこだってよかったんだ。適当に深夜バスに乗って、気がついたらこの街に着いてた。そもそも旅行する気ですらなかったんだよ。ロータリーを歩いててなんとなく目についたから乗っただけなんだ」
「それであんなコンビニ帰りみたいな格好してたんだ」
そう言ってミミは笑った。
「うん、そう」
「でもなんでそんなことしたの? そんなのってちょっと普通じゃないわよ」
「そうだね」
「何か嫌なことでもあったの?」
「うん、それはまぁ。そうだなぁ」
「あ、もしかして失恋とか?」
他人の口から実際に聞くと更に実感が湧いてきた。自分自身に名前を付けられたような感じだった。
「うん。そうだよ」
嘘をついても仕方がないので素直に認めた。
「フラれちゃったの?」
「うん。ま、失恋だからね。フラれるよね」
「そっか。ねぇ、悪いんだけど私そういうのって気になっちゃうタチなの。詳しく聞いてもいい?」
「別にいいよ」
俺はみっこちゃんとのことを順を追って話した。昔は付き合っていたこと、別れたこと、その後の中途半端な関係、そして突然の別れ。自分でも驚くくらいその全てを覚えていた。みっこちゃんの言う通り、写真なんて本当に要らなかったのかもしれない。
ミミは時折頷きながら俺の話を真剣に聞いていた。全部話し終えたら少し疲れた。それに少しだけ後悔した。
「なんだか情けないな、こんな話」
「そんなことないよ。話してくれてありがとう。でも、話したら少しすっきりした?」
「うん。ぬそう言われてみれば少しすっきりしたような気がする」
「良かった」
「うん」
「好きだったのね。本当に」
「うん。それは確かだよ。好きだった。だけど……」
「だけど?」
「だけど、もういいんだ。もう大丈夫」
ミミは頷いて少し笑った。
「そっか。そう思えたんならこんな田舎街まで来た甲斐があったね。あなた、まだ若いんだからさ。また次の出会いがあるわよ。えーっと、今何歳なの?」
「もうすぐ二十二歳。ミミは?」
「私は十九。なんだ、私の方が歳下だったのね。何だか生意気なこと言っちゃったね」
「十九だったんだ」
「そ、高校出たはいいけど不況でまともな就職口なんてなくてさ、進学するお金もなくて、おまけにまだ小さい弟がいるのにお母さんも身体が弱くてあまり働けなくてね。あ、お父さんは元々いないの。だから私がこうして朝晩と身を粉にして働いてるというわけ」
重たい話なのに、ミミが話すと全然そういう印象を持たせなかった。
「偉いね」
「別に。ただ、やらなきゃいけないことをとりあえずやってるだけよ」
「でもそういうのってたまに嫌にならない?」
「うーん、どうだろ。疲れて帰ってすぐ寝ちゃうことはよくあるけど、嫌にか……うーん。それはないかなぁ。私馬鹿だしさ。うん、それはないわ」
「強いんだね。ミミは」
「別に強くないわ。私だって高校生の頃、男の子にフラれたりしていっぱい泣いたりしたのよ。今の暮らしは大変だけど、それなりに楽しいからね。弟は可愛いし、お母さんがたくさんご飯食べてくれたら嬉しいし。今はそれで十分よ」
「そっか」
「そうよ。生きてりゃ楽しいことあるわよ。だから失恋のことなんて早く忘れなさい」
「うん、大丈夫。もう忘れた」
「それならよろしい」
風呂のお湯はあたたかかった。
優しく俺を包み込んでいた。それにしても変な話だ。名前も知らない街で、知り合ったばかりの女の子と浴槽に並んで失恋したことを話すなんて。
「さて、さて」
そう言ってミミは浴槽から出た。
「時間、だいぶ使っちゃったよ。今日、暇だからちょっとくらいの延長はバレなさそうだけど、あんまりオーバーすると追加料金になっちゃうよ。ここ、いわゆるソープだからさ、別にエッチしてもいいのよ。ぐずぐずしてたら時間が来ちゃうわ。そろそろ始めましょ」
「いや、いいよ」
「なんで? 高いお金払ってるのにもったいない。その気で来たんじゃないの?」
「うーん、そりゃまぁそうなんだけど」
「あ、私あんまりタイプじゃなかった?」
「そんなことないよ」
「じゃ、なんでよ」
「いいんだ、もう。その代わりさ、もっと話をしようよ。時間がくるまでの間、ミミのこともっと聞かせてよ。それに俺の話ももっと聞いてほしいし」
「何それ、変なやつ」
「変かな?」
「変よ。絶対変」
そう言ってミミは笑って俺の手をとった。大きなマットを広げてその上で二人、裸で抱き合った。で、一度だけキスした。一度だけ。
「あ、そういえば港には行った?」
「うん。行ったよ」
「良かったでしょ。私、あの港好きなの。小さい頃からずっと見てきた港なんだ」
「良かったよ。俺もあの港、なんとなく好きになった」
「良かった」
後はずっと抱き合ったままいろいろな話をした。ミミの行っていた高校の話、喫茶店のアルバイトの話、俺の大学の話、麻雀の話。ミミは楽しそうに笑ったし、俺も楽しかった。時間が来るまでずっとそうしていた。
次の日は一日、またあの港でベンチに座って海を見ていた。
昨日と変わらず、海は穏やかだった。波はゆっくりと揺れ、遠くの水平線がぼんやりしていた。
俺の海も今ではだいぶ落ち着いているのではないかな。イメージの中で少しずつ淡い太陽の光が水平線の向こうに近づいてきている感覚があった。
昼頃に大きな船が港に停泊した。人が集まり何かを積んだり降ろしたりしていた。俺はそれをコンビニで買ってきたハンバーガーを食べながら見つめていた。人々の生活を見つめていた。
港は相変わらずカップルが多かった。入れ替わり立ち替わり楽しそうな声で何かを話しては去って行く。そしてカップルがいなくなった直後の一瞬の静けさはいつもどこか寂し気だった。それはもはや死に近い寂しさだった。波の音だけが変わらずにずっと俺の側にいた。
もしかしたらミミも昔、恋人とここに来ていたのかもしれない。おそらくそうだろう。たくさんのカップルと同じようにここで桃色の話をしたのだろう。そして、それらはもう全て波間に消えてしまった。俺とみっこちゃんの声が都会の夜の空に消えていったのと同じ様に。
財布の中身からして、今夜にはここを発たなければならない。
直前に麻雀で勝ったお金も、今や帰りのバス代程度しか残っていなかった。
夕方になり遠くに見える灯台に明かりが灯った頃、俺は港を後にした。おそらくここに来ることはもう二度とないだろう。
駅前までたどり着く頃には辺りはすでに真っ暗だった。もしかしたらと思い喫茶店の中を覗いてみたがミミの姿はなかった。ミミは今頃、まだ幼い弟のためにあたたかい夕飯でも作っているのであろうか、それともあの性風俗店で誰かと愛のないセックスをしているのであろうか。どちらにしてもそれは汚すことのできないミミの生活だった。
深夜バスに乗る前の腹ごしらえに、と思い喫茶店に入り昨日の朝に食べたのと同じオムライスを食べた。意外と好きなタイプの味だったのだ。
オムライスを食べ終わった後、昨日と同じように窓の外を眺めた。昨日と同じようにあまり人通りがなかった。あと数時間で俺はこの街を発つのだ。今度はちゃんとチケットも持っている。
深夜バスは時間通りロータリーに現れた。席に着くと柄にもなく少し寂しかった。たった二日間だったが悪くない街だった。俺は心の中でミミにさよならを言った。動き出したバスの中でシートを倒して窓の外を眺める。行きと同じようにオレンジ色のライトが消えては点いた。
この高速道路の先に現実が待っている。俺の生活が待っている。
コートの襟を正してゆっくり目を瞑る。眠りは呆気ないくらいすぐに訪れた。
次に目を覚ました時、俺はいつもの街に帰ってきていた。
家に帰ったら夕方だった。
俺は深夜バスで帰ってきたその足で原付をとばして大学へ行ったのだ。
身体はぼろぼろだったが俺は眠らずにちゃんと授業を聞いた。なぜだか分からないがそうしないわけにはいかなかったのだ。上下スウェットの上にロングコートという奇抜なファッションも、大学内ではあまり浮かなかった。もっと奇抜な奴らがキャンパス内にはたくさんいた。
午後の授業でシムラに会った。授業に出ていなかった間のノートをコピーさせてほしいと頼むと、快くノートを貸してくれた。この後、一杯飲みに行かないか? と誘われたが断った。さすがに俺も疲れた。
マンションの部屋に入ったら中は真っ暗だった。またカエデさんはいなかった。
「どこ行ってんだよー」
と、声に出してみたら静かな部屋に俺の声が響き、それで一人であることが更に強調されて寂しかった。
とりあえず着替えようと思い、二日間替えていなかったスウェットと下着を脱いでシャワーを浴びる。ずっと溜め込んでいた汚い汗が流れ落ちていくのを感じた。頭を洗うのも二日ぶりだ。俺は念入りに全身を綺麗に洗った。さっぱりした身体を新しい服で包んでバスルームから出ると、カエデさんが帰ってきていた。
カエデさんは真っ黒な服を着ていた。ジャケットもスカートも全て真っ黒。だから金髪の明るさがいつも以上に強調されていた。そんな格好をしているのを初めて見た。
「おかえり」
たった二、三日ぶりなのにカエデさんと会うのをとても久しぶりに感じた。
「ただいま」
カエデさんは少し疲れたように鞄をソファの上に置いた。鞄も服と同じ、真っ黒だった。
「どうしたのその服?」
「喪服。今、お葬式から帰ってきたとこ」
「誰か亡くなったの?」
「アオバのお葬式。死んだのよ、あいつ」
俺は驚いた。あの人が死んだ?
カエデさんの表情からは感情が読み取れなかった。悲しんでいるでも喜んでいるでもない。そんな表情だった。
「うそだろ?」
「本当だよ」
「だって。なんで、そんな急に」
「交通事故だって。道に飛び出した小さな子供を助けて、たまたま通った市営バスに轢かれて死んだらしい」
「まさか」
「大した事故じゃなかったみたいだけどね。どうも当たりどころが悪かったみたい。本当、まさかだよ」
「そっか……」
うまく声がかけられなかった。こんな時、なんと言えばいいのだろう?
「ねぇ」
「うん?」
「遊園地行こうよ。今から」
俺はカエデさんの言っている意味が分からなかった。
「なんで?」
「いいから行こう」
「なんでこんな時に?」
「なんでも」
「でももう間に合わないよ。こんな時間だし」
時計を見ると、七時少し前だった。
「海辺にある遊園地ならまだ間に合う。ねぇ、行こう。お願い」
「……分かったよ」
俺は少し考えた末に答えた。こうなるとカエデさんは絶対に引かない。それにカエデさんの真剣な眼を見るとノーとは言えなかった。俺は再びロングコートを羽織り、カエデさんは喪服のままで家を出た。
海辺の遊園地までは電車で四十分くらいかかる。乗り継ぎを調べると、確かにぎりぎり閉園時間までには間に合う。
行き道ではお互い何も話さなかった。
聞きたいことはたくさんあった。でも何も聞かない方がいいのではないかと思った。だから向かいの席越しに見える窓の外をじっと見て電車に揺られていた。
海辺の遊園地に着いた時にはもうすでに閉園時間の十五分前だった。入り口は今から帰る人達でごった返していた。カエデさんは俺の手を引いてそんな人々の間をすり抜けて迷わずチケット売り場へ急いだ。
「大人二枚ください」
「あの、当園は本日、もうあと十五分で閉園になるのですが……」
チケット売り場のお姉さんは少し戸惑った様子だった。それはそうだろう。普通こんな時間から当日券を買う人なんてまずいない。
「構わないです。大人、二枚ください」
「かしこまりました」
カエデさんの鬼気迫る表情を見てお姉さんは素早く手続きを始めた。
そこで俺は初めて自分の財布の中にお金がないことを思い出した。帰りのバス代で持ち金をほとんど使い切ってしまったのだ。
「あのさ、カエデさん」
と、焦って声をかけたが、カエデさんはそれには気づかずに自分の財布から二人分のチケット代を出してさっさと払ってしまった。
「さ、行くよ」
「あぁ、うん」
礼を言う間も無くカエデさんはチケットを受け取って園内に入っていく。俺もそれに続いた。
遊園地は空いていた。人の流れは明らかに入り口に向かっており、俺達と逆行。おそらく今ならどの乗り物も待ち時間なしで乗ることができるだろう。もう閉まっている乗り物もあった。
俺は以前にもこの遊園地に来たことがある。それなりに人気があり、並ばなければ乗り物にも乗れない。いつも混んでいたので、こんなに空いているところを見るのは初めてだった。
「さすがに閉園十五分前だと空いてるね」
前を歩くカエデさんに声をかけてみたがそれに対する返事は何も返ってこなかった。カエデさんは何かを探しているようだった。辺りをきょろきょろと見回している。
「ねぇ、何探してるの?」
すると振り返って急に空を指さした。
「あれに乗りたい」
カエデさんの指が示す方を見ると建物の間からジェットコースターのレールが見えた。確かこの遊園地の一番の目玉のジェットコースターだ。
「あれに乗りたいの?」
「そう」
俺は園内地図を広げてカエデさんの言うジェットコースターの乗り場を探した。
「あぁ。あっちみたいだよ」
「よし。急ごう」
そう言うとカエデさんは俺の手を取って走り出した。
「ちょっと、ちょっと」
俺は少し慌てた。こんなに真剣なカエデさんを見るのは初めてだった。
ジェットコースターの乗り場までたどり着くと、そこにはもう誰もいなかった。いつもは長蛇の列を作っているのに。嫌な予感がしてぽつんと残ったアトラクションの係のお姉さんに声をかける。
「あの、これ、まだやってますか?」
「あ、すいません。今日はもう終わっちゃったんですよ」
よく見るとお姉さんはチェーンを持っていた。ちょうどアトラクションを閉めるところだったのだろう。
「そこをなんとか。もう一回だけ」
カエデさんが頭を下げてお願いした。
「でも……」
「あの。お願いします」
俺も続く。係のお姉さんは少し困った顔で時計を見た。そして奥の部屋に入っていき上司らしき男の人と話をして、しばらくして戻ってきた。
「分かりました。あと一回だけですよ。これ、特別ですからね。今日だけですからね」
「わぁ」
カエデさんは助かった、という感じだった。
「ありがとうございます」
とりあえず安心した。
俺たちは足早にジェットコースターに乗り込んだ。もちろん俺たちの他には誰もいない。だから二人、一番前の席に座った。身体をシートに固定すると、ほどなくして列車がゆっくりと動き出す。
「ねぇ、これに乗りたかったの?」
横に座るカエデさんに声をかけた。
「そう。スカっとするから」
「あぁ、確かにスカっとしそう」
「悲しい時はいつもこれに乗るの」
「やっぱり悲しかったんだ?」
列車は徐々に上昇を始める。レールの向こうには星空が見えた。今日の空には都会とは思えないくらいの星が見えた。ジェットコースターのレールは星空への発射台みたいだった。
「思ってたよりね」
「そっか」
「あんな死に方はずるいよ」
「うん」
「チンピラと喧嘩してバットで殴られて死ぬとか、悪いクスリの飲み過ぎでのたうちまわって死ぬとか、アオバにはそんな死に方が似合ってた」
声が曇っていた。でもカエデさんは泣いてはいなかった。真っ黒な服が夜と同化していた。
今日はお酒の匂いがしなかった。カエデさん自身の匂いがした。
「あいつさ、本当どうしようもないやつだった。でも最後の最後に良いことした。アオバに助けられた子供のお母さん、泣いて私に謝ってた。これ以上ないってくらい頭下げてお礼言ってた。アオバのことで誰かから叱られることは今まで何回もあったけど、お礼言われるなんてこと、初めてだった。最後の最後にさ。まるであいつが良い奴だったみたいに。そんなのってずるいよ」
「うん」
「でね、そんなこと考えると、たまらなく悲しくなった。全然良いやつなんかじゃなかったし、むしろ最低だったけど、また会いたいって思っちゃったの。不思議よね。もう全部終わってたはずなのに」
「そうかぁ」
「だからさ、スカっとしたかったの。忘れるとかじゃないけどさ、スカっと。ね、私って今未亡人なのよ」
「ま、そうだね」
「未亡人てなんかエッチよね」
「そうかなぁ」
「そうよ」
上昇はまだ続いていた。レールの先が近づいてくると、緊張感が高まってくる。意識しなくともその先に待つ墜落の気配を感じた。
「二、三日いなかったけど、どこ行ってたの?」
「うん? さぁー、どこだろ」
「あ、ごまかした。さてはまたあの女だな」
「そんな色っぽいもんじゃないよ。それにこの前言ってた女の子とは、もう終わったんだ」
「えっ、なんで?」
カエデさんは少し驚いた様子だった。
「フラれたんだよ。きっぱりと」
「そうなんだ……」
「うん」
「落ち込んでる?」
「ううん、大丈夫。あのさ。俺、若いんだからさ。またすぐに次の出会いがあるよ」
俺はミミの言葉を借りた。
「そっか。じゃ、あんたも未亡人だ」
「未亡人?」
「そ、恋の未亡人。恋は死んだ。けど、あんたはまだ生きてる」
「未亡人って普通、女の人だろ」
「いいのよ、この際。私も未亡人、あんたも未亡人」
カエデさんがそう言った時、俺たちはレールの先を超えた。
一瞬だけ身体がふわっと宙に浮き、転がるように一気に落ちていった。声を出す暇さえなかった。みるみる墜落していく。
周りを流れていく景色を見ると、きらきらした光が街を包んでいた。走り抜ける間、俺はちゃんとそれらを見つけた。あれは家々の、あるいはオフィスか何かの灯り達なのだろう。それぞれの生活の灯火。美しすぎて声を失ってしまった。
列車は猛スピードでカーブを曲がる。そしてまた空へ向かって駆け上がっていった。ぎしぎしとレールが軋む。
風が耳元を通り過ぎる音がした。秋の空気を切り裂いていく。冷たい風。でも不思議と寒くはなかった。レールを上がり切ったところで海が見えた。どこかであの港と繋がっているのであろう海。その先にはミミがいる。いなくなったヤマダだって、多分いる。また落ちていく。
カエデさんが隣でなにか叫んでいた。でも風の音がうるさくてよく聞こえない。
「なに? 全然聞こえない!」
俺はカエデさんに向かって大きな声を出した。
「すごいねぇ」
「うーん」
「明日からまた頑張ろぉ」
「そうだねぇ」
「ねぇー、ねぇー」
「何?」
「生きるって気持ちがいいね」
「うん」
それで、また一つカーブを曲がる。俺は、俺達はずっと、ずっとこうして走り続けるのだろうか。そんなことを考えた。カエデさんの言う通り、生きるって気持ちがいい。
何度も上がってはまた落ちて、俺とカエデさんは光の中を駆け抜ける。気がついたらレールも列車も消えていた。それはとても素晴らしいことだった。
冷たくなった俺の手を、同じくらい冷たくなったカエデさんの手がぎゅっと握った。辺りはぴかぴかの電気達。この世界にいる喜び。夜はいつか、また明ける。氷のような朝が俺達を待っている。




