桃と電気と墜落の夜 4
『あなたと会ってること、彼に気づかれちゃったみたい。だからもう会えない。いつも勝手で本当にごめん』
秋と冬の間の夜。突然みっこちゃんからメールが来た。
いきなりそんなこと言われても。話がよく分からなかった。もう会えないって、終わりってことなのか。もう二度と。これから先ずっと。
みっこちゃんに電話を掛けてみる。でもコール音が単調に続くだけで誰も出なかった。もしかしたら彼氏と一緒にいるのかもしれない、と思い何回目かのコールで電話を切った。
電話をかけるだけでこんなに気を使うなんて、まるで不倫みたいだ。まぁ、みっこちゃんにとってはこれは浮気なのだから似たようなものなのかもしれないが。
でも身勝手かもしれないが俺にとってこれは愛だった。どういう結果になるにせよ、今はみっこちゃんの声を聞きたかった。
俺は携帯を捨てベッドに横になった。
アオバの部屋は相変わらずけばけばしく、どう頑張っても気持ちを落ち着けることなんてできなかった。永遠のようにどんよりした、重苦しい時間だった。
目を瞑ってみたが、眠りが迎えに来る気配も皆無だった。それでも仕方なく目を瞑る。
瞼の裏、現れたイメージは夜の海だった。真っ黒い波がごうごうと揺れていた。俺は一人、その岸に立っている。
海には一寸の光もなかった。波は高く、飲み込まれれば、まず戻れはしないだろう。
たまらなく不安だった。海は、闇は俺の心の中まで入り込んできて、中から俺を駄目にした。気分が悪い。自分という存在がここまで弱いなんて考えたこともなかった。
波の音に紛れて虫の羽音が聞こえてきた。
ぶぅんぶぅんと嫌な音をさせてまとわりつく。それが嫌で必死で振り払ったが、消えなかった。虫自体の実体は見えないのに、羽音だけが妙にまとわりつく。俺はベッドから飛び起きた。
目を開くと、それは羽音でなく携帯の着信のバイブ音だったことに気づく。部屋の端に落ちている携帯の画面が明るく、みっこちゃんの名前が表示されていた。手に取る。
「もしもし」
遠くからみっこちゃんの弱々しい声が聞こえた。
「もしもし」
俺も返す。向こうからしたら俺の声も弱々しく聞こえているかもしれない。
「あの……メール読んだ?」
「読んだよ」
「ごめんね」
「うん」
それでしばらく二人とも黙ってしまった。話したいけど話したくない。悲しい沈黙だった。耐えきれなくなり切り出したのは俺だった。
「どういうことなの?」
「たまに二人で会ってること、彼にばれたみたい。それで彼、凄く怒って。携帯を見られたのか何なのか分からないけど、彼、あなたの名前まで知ってた」
俺は黙っていた。
「もう二度と会うなって彼が言うの」
「うん」
「ごめんね」
「何で謝るのさ」
「突然だし。いつも迷惑ばかりかけてるから」
「じゃ彼氏と会うのをやめれば?」
「ごめん」
「だから……何で謝るんだよ」
その言葉はおそらく世界で一番俺を傷付ける言葉だった。ナイフみたいに俺の心に突き刺さった。みっこちゃんはまた黙ってしまう。
「さようなら。今までありがとう」
意外にも別れの言葉は自分から自然と出た。穏やかないな声だった。それくらいこの恋がもう駄目なことは痛いくらい分かっていた。
「ありがとう。忘れないよ」
みっこちゃんが一言。おそらくこれが俺の聞くみっこちゃんの最後の言葉になるのだろう。それも分かっていた。でも、何もこたえなかった。そのまま電話を切る。
たったそれだけ。たったそれだけの会話で俺とみっこちゃんの全てが終わった。今度こそ本当に。
再び俺は一人だった。今度は夜の海でなく、アオバの部屋で。いつまでも続くなんて思っていなかった。でも、こんなに急に終わるとも思っていなかった。
明日は、そして明後日は何をしようか。真っ暗にした部屋の天井を見て考えたが、何も浮かんでこなかった。その黒さはさっきまで見ていた海の黒とよく似ていた。一人だった。
朝、目を覚ましてリビングに行ったが誰もいない。
ソファには朝日が差し込み、清楚なカーテンの模様が左右に揺れていた。
カエデさんの不在は更に俺を暗くさせた。別に慰めてほしかったわけではない。でも俺だってこんな朝くらいは誰かといたい。カエデさんがいて、暖かい朝食を用意してくれていたら幾分かは心が軽くなったであろう。
昨夜はほとんど眠れなかった。瞼はだるかったが、不思議と眠気はなかった。
テレビをつけるとどのチャンネルも朝の情報番組がやっていた。
誰かと誰かが結婚する。離婚する。誰かに薬物使用の疑いがかかっているが、本人は否定しており、事務所は法的措置を検討している。プロ野球選手の来年の年俸が決まった。移籍も決まった。韓国のアイドルが来日した。それによって空港に多くのファンが訪れて混乱になった。新しいブランドショップが来週渋谷にオープンする。大晦日の紅白歌合戦のラインナップが決定した。若手勢が増え、大御所が減った。
害のないニュースが今日も平和な国を包んでいた。俺はソファに座ってそれを眺めた。見たのではなく、眺めた。
気がついた頃にはもう昼で、テレビでは聞いたこともない名前の番組が始まっていた。どこかで見たことのある司会のやつの名前を思い出そうとしていると、腹が減った。
上下グレーのスウェットの上に例のロングコートを羽織って近所のスーパーまでとぼとぼ歩く。昼時の奥様方に紛れて惣菜コーナーを歩き、目についた惣菜を適当に買って帰った。
家に帰って食卓に買ってきたものを並べると、カキフライ百四円、ナスの天ぷら七十六円、枝豆八十五円、缶コーヒー八十円。
不思議なラインナップだった。いったい何でこんなものを買って来たのだろう? 缶コーヒー以外は全部冷蔵庫にしまった。
ソファに座って缶コーヒーを飲んでみたが、落ち着かなくなって原付で出掛けた。近所のツタヤに入って棚の間をぐるぐると回った。見たい映画も聴きたい音楽もなかったが、色とりどりのラベルやパッケージを見ていると少し気が紛れた。
でもそれにも飽きて結局いつもの雀荘へ行く。
ヤマダがいなくなってしばらく経つが、店長は未だに俺の顔を見ると「ヤマダ君はどうしてるのかな?」と聞いてくる。俺はいつも「知らないです」としか言えない。すると店長は少し寂しそうな顔をする。俺だってあいつがいなくなって寂しい。帰ってきてほしい。
気持ちが沈んでいる分クレバーになれたからか、それとも好調子が引き続き続いているのか、麻雀はまた面白いように勝てた。
とにかくツモがいいのだ。思った通りの牌が思った通りのタイミングで入る。こうなるともう負けるはずがない。
そのまま何時間か無心で打った。いくらでも勝てそうな気がしたがあまり寝ていないこともあり、バテてきて切り上げることにした。
「いやぁ、ずいぶん勝ったね」
店長は自分のことのように喜んで俺の料金券を一枚ずつ数えていた。
「たまたまですよ」
本当にたまたまなのだ。
「いや、いや、最近ずっと勝ってるし、これは何かあるよ。きっと。いっそさ、プロ雀士の試験でも受けてみたら?」
「プロ雀士?」
「そう。麻雀やってお金もらうの。悪くないだろ?」
「うーん、うん。まぁ、悪くないかも」
「受けてみなよ。符計算は勉強しなきゃいけないけどね」
そう言って店長は笑う。だからとりあえず俺も笑っておいた。プロ雀士か。考えたこともなかったな。多分これからも深く考えることはないだろう。
外に出るともう暗かった。不意にこの前、ここでみっこちゃんと電話をしていた時のことを思い出した。電話で急に呼ばれて原付をとばして会いに行ったな。ほんの少し前の話だ。
でも、みっこちゃんはもういない。
いや、別にこの世界からいなくなってしまった訳ではないのだが、少なくとも俺が生きる範囲の中にはもういない。みっこちゃんはまた違う世界でこれからも元気に暮らしていく。それは俺にとってはとてつもなく残酷な事実だった。それならせめて跡形もなく消えてなくなってくれた方がまだ楽だった。いや、それ。残酷だ。何もかもが残酷だった。
その時、初めて俺は自分が失恋したのだと実感した。
だからって別に道行く猫を蹴ったり、車道の真ん中で大声で泣きじゃくって交通の妨げになったりする訳ではない。周りから見れば俺はただの人間だ。ただの若人。だか中では黒い渦潮がとめどなく渦巻いている。放出するでもなく渦巻いている。黒い海。心はどろどろに汚れていた。誰も気づかないだろうけど。
俺は原付に乗って再び走り出す。厚手のロングコートを着ている分この前より暖かかった。カエデさんと選んだコート。今はカエデさんの顔も見たくなかった。
夜の国道をみっこちゃんの家の方へ走る。いつものような高揚感はなく、不思議な気持ちだった。不気味なくらい平坦だった。
クジラのようなモノレールが頭上を通っていった。小魚の俺の上を。全力で走っているつもりだったが、モノレールの方が速かった。ゆっくりと俺を引き離していく。それがまた焦れったかった。
道がやけに空いている。この道の先には今も変わらずみっこちゃんがいるのだ。いつもの家で暮らしているのだ。俺は原付をとばす。
でも結局俺はみっこちゃんの家へは行かなかった。
行かなかったと言うより行けなかったという方が正しい。敗北感からか、平坦だった気持ちが少し揺れていた。
温かい缶コーヒーを買って名前も知らない公園のベンチに座ってみる。スーツ姿のサラリーマンが何人も俺の前を通り過ぎていった。皆背筋を伸ばし、重そうな鞄を持っていた。ぱりっとしたスーツを着たサラリーマンは皆、凄く大人に見えた。
俺は、大人っぽいコートを着ていても子供だった。圧倒的に子供だった。黒のロングコートが泣いてる。夜に泣いてる。
上下スウェットの上にロングコートを羽織っただけの格好。はたから見たら俺、何に見えるのかな。そんなことを考えるともう何もかもが嫌になった。
公園の向こうには大きなJRの駅と大きなバスのロータリーが見える。明るくてあたたかそうだった。俺はふらふらと灯りの方へ歩いて行く。旅行客や酔っ払いがたくさんいた。
ロータリーにはたくさんのバスが停まっていた。俺はその中で目についたバスに乗り込んだ。何故だろうか、迷いは少しもなかった。空いている席に座るとバスはすぐに出た。
どこに行くのか、これから何時間乗るのかもまったく分からなかった。でも狭っ苦しいシートに収まると、なぜか安心感を覚えた。ビールの一本くらい買ってくれば良かったなと思った。が、もう遅い。バスは無頓着に進んでいく。
しばらく行くと高速道路に乗りバスがスピードを上げる。俺の住む街がだんだんと後ろに離れて行くのを背中に感じた。手を伸ばせば届きそうな場所にあったみっこちゃんの世界も、今はもう見えない。
なぜかヤマダのことを思い出した。あの街から出ていく時、ヤマダはどんなことを考えたのだろう。たまらなく心細かったのではないだろうか。ちょっと分かる気がした。あいつ、大丈夫なのかな? よく知らないが消費者金融というのは怖ろしいところらしい。漫画で読んだことがある。ヤマダ、無事でいてくれ。
オレンジ色のライトがきれぎれにカーテンの隙間から見える。
いつの間にか携帯の電池も切れていた。昨夜、充電するのを忘れていたのだ。シートを倒し、俺はゆっくりと目を閉じた。
朝日がカーテンの隙間から俺を照らしている。
目が覚めた時、バスはまだ走っていた。窓の外は相変わらずの高速道路で、少しだけ霧がかっていた。
スウェットの中が少し汗ばんでいる。しかしもちろん着替えなんて持っていない。それどころか俺は財布しか持っていなかった。
しばらくするとバスは高速道路を降り一般道へ出た。見たこともない田舎街があった。知らない街の知らない生活。なんだかそれを愛しく感じた。朝から何人かの人が歩道を歩いている。
バスはゆっくり知らないロータリーに入った。
俺が出発したロータリーと比べると小さなロータリーだった。活気はなく、いかにも田舎街という感じだった。
バスを降りる時に初めて俺は乗車券を持っていないことに気づく。
恐る恐る事情を説明すると運転手は無愛想に該当する運賃を告げた。俺は非礼を詫びて昨日の麻雀の勝ち分から運賃を支払った。運転手は特別興味もなさそうにそれを受け取った。彼は、ひどく疲れているようだった。一刻も早く眠りたいようだった。
バスを降りると思っていた以上に身体が痛い。何時間くらい乗っていたのだろう? と思い携帯を見たが、電池が切れていたのだった。
無性に腹が減った。思えば昨日の朝から缶コーヒー二本しか口にしていない。腹が減るはずだ。
目についた喫茶店に入る。モーニングセットでは足りなさそうだったので、オムライスを頼んだ。出てきたオムライスは思っていたより大きかったが、腹が減っていたので難なく食べられた。予想外に美味かった。
グラスの水を飲んで窓の外を眺めてみる。あまり人は通らなかった。
オムライスのお皿を下げにきてくれたウエイトレスの女の子に近隣の観光スポットを聞いた。髪を二つくくりにした俺と同い年くらいの女の子だった。
「この辺ねぇ……」
少し訛りのある話し方だった。
「あまり無いですか?」
「正直ねぇ……ほんとただの田舎街だから」
「そうですか」
俺は少しがっかりした。
「あ、でも、強いて言うならここの前の道をまっすぐ行ったところに港があるわ。少し歩くけどね。そこはちょっとした観光スポットになってるわよ」
「港……」
「そ、港」
「ありがとう。行ってみます」
「観光で来たの?」
「うん。まぁ、一応。多分」
「全然そうは見えないね」
なんせ上下スウェットの上にロングコートだ。気持ちは分かる。どう見てもちょっと近くのコンビニまで、という格好だ。
喫茶店を出て前の道を言われた通りにまっすぐ歩いていく。しかし歩けども歩けども港は見えて来なかった。確かに少し歩くとは言っていたがここまで遠いとは。潰れた銀杏の匂いが鼻についた。
歩き出して三十分後、ようやくきらきら揺れるものが地平に見え隠れした。海だ。
港自体は絵に描いたようなオーソドックスな港だった。船を括り付けるのであろうフック、切りだった波打ち際、その向こうに船が数船停泊している。港にはなぜか等間隔でベンチが設置してあり、いくつかのベンチでは恋人たちが寄り添いあっていた。
これはもしかして観光スポットではなくデートスポットではないか? とも思ったが、こんなに歩いたのだ。とりあえずベンチに腰掛ける。周りを見渡しても一人で来ているのは俺だけだった。
海は穏やかだった。
昼の太陽の光を浴びてプリズムのようだった。眩いばかりに俺の目を差した。遠くの方をたまにゆっくりと貨物船が通る。
目の前に広がるのは昨夜心の中で見た海とは真逆の、明るく希望に満ち溢れた海だった。昨日見たあれはおそらく俺の海だ。真っ黒になってしまった俺の海だ。でもかつては、多分俺の海もこんなふうに穏やかで眩しい海だったのだろう。まだ若かった頃。何もかも上手くいっていた頃。
みっこちゃんと付き合っていた頃が懐かしく思えた。誰の目も気にせず、いつでも電話をかけ合い、クリスマスには小さなプレゼントを交換し、時にはベッドの中で互いを求めて触り合い、疲れたらそのまま眠ってしまえるような関係。
その全てが懐かしかった。そしてそれは全て消えてしまった。カエデさんの吹いていたシャボン玉みたいに。だから尚更美しかった。
「この場所にいつでも戻ってこさせて」
俺はタイトルもコードも忘れてしまった曲を自然と口ずさんでいた。
不思議と涙は出なかった。だって、もう全部終わったのだ。綺麗に全部。
来た道を、駅まで戻ったらもう夜だった。駅前は昼と同様、あまり栄えている感じはなかった。俺の街にもある牛丼屋で腹を満たして再び外をぶらぶら歩いていると、一件のさびれた性風俗店を見つけた。
看板を見ると、特別な趣味趣向を凝らした店ではなくいたってオーソドックスな感じの性風俗だった。俺はこの手の店には入ったことがなかったのだが、どうせならと思い入ってみることにした。
店内に入ると、何かのセンサーに引っかかったのか、安っぽいアラームが俺に反応してピコピコと鳴った。
「いらっしゃいませ」
明らかに胡散臭そうな男の店員が出て来た。無駄にタキシードなんか着ている。蝶ネクタイは赤。
「ご予約はされていますでしょうか?」
「いや、してません。してないと駄目ですか?」
いまいちシステムが分かっていなかった。
「いえ、大丈夫ですよ。すぐに案内できます。こちらにどうぞ」
通された待合室は小さな部屋で、少年ジャンプがたくさん置いてあった。煙草のヤニで壁が黄色くなっている。吸いがらには山。少年ジャンプを手に取ろうと腕を伸ばしたら、胡散臭そうな店員が戻ってきた。資料に沿って簡単な禁止事項を説明して、義務的に俺の爪の長さをチェックした。
「あの、指名とかは無いんですか?」
俺はイメージで話をした。こういう店では必ず女の子を指名をするものだと思っていたのだ。
「あー、ちょっと今ね、女の子が一人しかいなくって。でも大丈夫ですよ。可愛いですから、彼女。安心してください」
「あ、そうですか」
そういうこともあるのか、と思った。別に特別誰かを指名したいと思っていたわけではなかったので大きな問題はない。
「じゃ、どうぞ」
案内されるがままに待合室を出て、廊下を行くと、四つのドアがあった。胡散臭そうな店員がその中の一つを開けて俺を中に入れた。
「少々お待ちください」
そう言うと店員は姿を消した。
一人になり周りを見回してみる。部屋の中に風呂があり、その隣に大きなビニールのマットが立てかけてあった。全体的にじめじめした感じのする部屋だった。好きにはなれない感じ。アオバの部屋と同レベルだ。
部屋の隅の棚にローションやバイブがいくつか置かれていた。こういうの、エロ動画で見たことがあるな。俺自身はこういう道具を女の子に使ったことがなかった。楽しいんだろうか、こういうの。なんて思い棚の中を物色していたら、後ろでドアが開く音がした。
「こんばんは」
可愛らしい声に振り向く。
「あ」
「あら、あなた」
駅前の喫茶店のウエイトレスの女の子だった。




