桃と電気と墜落の夜 1
初めて色になる
付き合っていた頃、みっこちゃんはよく「この場所にいつでも戻ってこさせて」というフレーズの歌を歌っていた。
それはコンビニまでの散歩道だったり、セックスの後のベッドの中だったり。思いつくまま、本当、いろいろな場所で。
あの歌。いい歌だったなぁ。それは覚えている。タイトルも、誰の歌だったのかも覚えていないけど。それは覚えている。
あれからもうだいぶ経つけど、未だにこのフレーズはなぜか俺の記憶に強く残っていた。
それは多分、この歌が俺の気持ちを表していたから。それも的確な言葉で。みっこちゃんがこの歌を歌う度、俺は暖かい気持ちになった。真夜中に毛布に包まれて眠るみたいに。暖かかった。
「この場所にいつでも戻ってこさせて」
本当にその通りだ。
あの頃も今も、それ以外に望むものなんて何もない気がする。
深夜、住宅街の中にある小さな公園でむさぼるようにキスをした。
むさぼるように、なんて言うとすごくイヤらしい。エッチだ、とかではなくイヤらしい。そこには何の色気もなかった。イヤらしい。
みっこちゃんのやわらかいくちびるの感触が確かにあった。それは相変わらず、豊潤な果実のような。ピンク色の桃のような。そんな感じだった。
さらさらで長い黒髮からいい匂いがする。俺はその全ての「感じ」を大事にすくい上げて、飲み干したい気持ちになった。そして同時にそんな自分を俯瞰して見て、どうしようもねぇなぁ、俺。なんて思った。つくづく思った。
でもやめられなかった。次いつ会えるのか分からなかったが、それまでの充電をしているような感じ。むさぼるように。イヤらしく。
抱きしめた腕にみっこちゃんのブラジャーの輪郭をはっきりと感じた。自分の下半身が熱くなってる。でもそれだけ。まるでふきこぼれることのできないポットみたいに気持ちだけが中でぐつぐつと沸騰していた。
「ね」
腕の中でみっこちゃんが小さくつぶやく。そしてゆっくり身体を離していった。
「うん?」
「私、もうそろそろ帰らないと」
「あぁ」
みっこちゃんの頭の左斜め上にまん丸な公園の時計がぼんやり光っていた。時間が見える。
「もうそんな時間か」
現実に戻ったら、秋の虫達の鳴声がやけにはっきり耳についた。公園には虫達を除くと俺たち以外誰もいない。色とりどりの遊具が夜の闇にひんやりと冷たく光っていた。ぴかぴか。
みっこちゃんはゆっくりと俺の腕の中から出ていった。少し気まずそうな感じだった。黒目がちな瞳で俺の目を見る。
「ごめんね」
「ううん、いいよ。仕方ない。明日もまた朝早いの?」
「うん、明日も早いんだ。また五時起き」
みっこちゃんは何だか少し疲れているように見えた。多分、本当に毎日忙しいのだろう。そんな顔はあまり見たくなかった。俺と一緒にいる時はできるだけ楽しくしてやりたかったから。男ならみんな、そんなふうに考えるんじゃなかろうか。
「仕事、相変わらず大変そうだね」
「うん。ちょっと今はね。繁忙期だからね」
繁忙期。あまり聞きなれない言葉だった。
「今はって、もうずっと。いつも大変そうだよ」
「うーん。確かにそうかもね。仕事ってそんなもんだよ」
そう言ってちょっと笑ってくれた。嬉しかった。
二人、慣れた足取りでみっこちゃんの家の方へ並んで歩いていく。等間隔で並んだ街灯の灯りは薄暗く、何だか追われてるみたいだった。街灯の灯りが俺達を追う。十秒に一回照らす。照らされた間だけ俺達の逢瀬が明るみに出る。誰も知らないはずの逢瀬が。恥ずかしい。俺は闇から出るのが怖かった。灯りなんて全部消えちまえばいいんだ。
詳しくは知らないが、みっこちゃんは高校を出てからずっと何かの工場で働いていた。職場は家からかなり離れているため、出勤に時間がかかり、毎日朝が早い。
それにこれも詳しくは知らないが、親の関係で借金があるらしく、それ以外にも掛け持ちでアルバイトをしているみたいだった。
歳は俺の方が一つ上なのに、呑気な大学生の俺とは違い、いろいろと苦労をしていた。大人だった。
たどり着いたみっこちゃんの家の中から明かりが漏れていた。たぶん、両親がまだ起きているのだろう。別にそれでもおかしくない時間だ。みっこちゃんの両親には昔、何回か会ったことがある。どうにも好きになれないよく分からない奴等だった。
「じゃあ、またね」
みっこちゃんが手を振る。
「あのさ」
家のドアに手を掛けた背中に声をかけると、みっこちゃんがこちらを向く。
「次いつ会える?」
みっこちゃんは少し迷った様子で、
「ごめん、休みの予定がまだはっきり分かんなくて。予定が分かったらまた連絡する」
「そっか」
「うん」
「分かった」
「ごめんね」
「ううん、いいよ」
彼女の部屋に明かりが灯るのを見届けて、俺は道端に停めていたぼろぼろの原付のエンジンをかけた。
溜息を一つついてみると煙草の煙みたいな白が闇に浮かんだ。細道を抜け、ノロノロと国道に出ると行き交う車のヘッドライトがやたらと眩しい。俺はそんな光をかきわけて走る。でっかい車達はノロノロの俺を怪訝そうに避けていった。
みっこちゃんのくちびるの感触が忘れられなかった。
次に俺と会うまでにみっこちゃんとみっこちゃんの彼氏は何回くらいくちづけを交わすのだろう。その男は何回くらいあのくちびるに指で触れるのだろう。そして何回くらいセックスするのだろう。
苛立ちからかハンドルを握る手に力が入る。ノロノロにスピードがどんどん加わっていった。風みたいだった。
空気は冷たく、季節は秋だった。
カエデさんのマンションに帰ると、覚悟はしていたが思った通り酒くさかった。リビングのドアを開けると自然と顔をしかめてしまう。くそう。
「おかえり、若人よ」
カエデさんはリビングでプラスチックの安っぽい透明のコップで赤ワインを飲んでいた。テレビには場違いな夜のニュース番組。ニュースキャスターの声はBGMのようだった。
金髪のショートヘアの間からのぞくカエデさんの顔は少し赤かった。お酒を飲まなければ色白なのに一度お酒を飲むとすぐに赤くなってしまうのだ。
「おかえりじゃないよ。すげぇ酒くさい。どんだけ飲んだんだよ? 窓開けるよ」
カエデさんの向こう側にある大きな窓を開け放す。ベランダから冷たい空気がすぅーっと部屋の中に流れ込んできた。それを受けてカーテンがぱぁっとなびく。
「ちょっとー、寒い。閉めてよ」
カエデさんがスウェットの丸首を鼻のあたりまで上げて言った。とろとろの目が俺を睨んでる。
「だめ、酒くさすぎ。飲みすぎだよ。もうほとんど入ってないじゃないか」
俺は床に転がっていたほとんど空の赤ワインのビンを拾った。
「うるさいなぁ。あんたは私のお母さんかぁ? ほら、あんたも飲みなさいよ。若人」
カエデさんがテーブルの上に倒れて置いてあった適当なコップを俺に差し出す。ミッキーマウスのプリントが剥げ剥げになったコップだった。
「遠慮しときます。俺、明日もまた朝からバイトだから」
「面白くなーい。あんた、ほんとに真面目すぎ。そういうのダサいよ。うん、ダサい」
「真面目のどこが悪い」
もう数ヶ月大学にも行っていない俺のどこが真面目なのだろうか、とも思ったが何も言わなかった。
「もういいよ。部屋で一人で飲むから」
そう言ってカエデさんは俺の手から残りの赤ワインを奪ってさっさと自分の部屋に入っていった。一人になった俺は溜息を一つ。カエデさんに差し出されたミッキーマウスのコップに水道水を注ぎ飲み、とりあえずシャワーを浴びることにした。
バスルームのドアを開けると中にはカエデさんの下着が干してあった。
白にピンクにうすい水色。あんな派手な髪色をしているのにカエデさんは意外と清純な色の下着を好む。
そしてカエデさんは俺に対して全然気を使わない。年頃の男がこんなものを見て何も感じないと思っているのだろうか。まったく、少し考えれば分かることだろ。
ノズルをひねって頭からシャワーを浴びる。そうすると少し気が楽になった。悪い想像がだんだん消え、みっこちゃんの感触だけが再び浮き上がってきた。
シャワーが温かい。少し熱いくらいだ。遠い昔に抱きしめたみっこちゃんの裸の身体みたいだった。
「この場所にいつでも戻ってこさせて」
何年か前にみっこちゃんとセックスした時のことを思い出した。それがもう何年も前のことだという事実は俺を少し悲しくさせたが、欲望は先ほどの続きを求めて見事に膨らんだ。
情けない。でも我慢ができなかった。いてもたってもいられなくなり、欲望を動かす。
世界が一気にドロドロとした。ぐっと感情が身体の中心に集まる。
視界の端くれでカエデさんの下着がぶら下がっていた。でもそれを身に付けているのはみっこちゃんだった。俺はそれを心の中で乱暴に剥ぎ取る。
一瞬の快楽の後、すぐに限界が来た。俺はそれをみっこちゃんの裸の乳房にぶちまけた。シャワーが流れてる。目の前にはどろどろになった排水口。肩で息をする。ダサいよ、本当に。自分で、一人言ってみる。
シャワーはやはり少し熱く、温度を下げてみる。でも気持ちは、シャワーのように熱すぎるから冷水でちょうどいい温度にわることもできず、ずっと熱いままだった。
排水口を掃除してバスルームから出るとカエデさんがリビングに倒れていた。さすがにちょっと驚いた。
「カエデさん!」
声をかけて揺さぶると、カエデさんはゆっくりと起き上がり目を擦った。
「大丈夫」
「うそ、全然大丈夫じゃない。だから飲みすぎだって」
ふにゃふにゃのカエデさんに肩を貸して部屋まで連れていった。
一瞬、いわゆるキュウセイアルコールチュウドクというやつじゃないか? と思ったが、ベッドに寝かしたらすぐにきれいな寝息をたてて眠ってしまったので、おそらく大丈夫なのだろうと判断した。そもそも俺はそれの症状をよく知らない。
初めて会ったときもこんなふうにべろべろだったカエデさんを介抱した。蒸し暑い夏の夜だった。よく覚えている。
その日は確か何かの飲み会で、俺は最終電車に乗って家に帰っていた。最寄り駅は終点なので決まって全員が電車から降りる。その日の最終電車も俺みたいな飲み会帰りの大学生や終電帰りのサラリーマンでけっこう人が多かった。みんないろいろ事情があるのだろう。電車を降りてゾンビみたいに改札へ歩いて行く。
俺もほろ酔いで歩いていた。その時、回送になる車両の中にちらっと人影が見えた。気になって中をのぞきこむと金髪の女の人が床に倒れていた。
「大丈夫ですか?」
少し怖かったが、流石に俺だってこの状況を見過ごせない。
「あー、大丈夫、大丈夫。いつものことだから」
そう言ってカエデさんはふらふらと電車を降りて、降りたところでまたぺたんとホームに座り込んでしまった。
「全然大丈夫じゃないですよ、ほら掴まってください」
そう言って掴んだカエデさんの腕は思っていたよりずっと細かった。
「ありがとう」
「送っていきますよ。そんな状態じゃ歩けないし」
「わ、ありがとう。それじゃお言葉に甘えてそうさせてもらおうかな」
カエデさんの身体は見かけよりもずっと軽かった。お酒の匂いが凄かったことをよく覚えている。夏の夜の匂いは一瞬でカエデさんのお酒の匂いになった。
カエデさんの住むマンションは駅から徒歩数分のところにあった。
俺は「あがって」と言われて、言われるままに家にあがった。玄関にはカエデさんの小さな靴にまぎれて男物の大きな靴がいくつかあったことにはすぐ気づいた。
「水でも飲んだ方がいいんじゃないですか?」
「うん、そうするわ。ね、冷蔵庫の中にペットボトルの水があるから取ってくれない?」
カエデさんはしんどそうにリビングの椅子に腰掛けて言った。
冷蔵庫を開けると、缶ビールがいくつかと半分くらい減ったマヨネーズとわさびのチューブが入っているだけだった。他にはなにもなかった。
「水なんてないですよ」
「あー。じゃ水道水でいいわ」
俺は溜息をついて水道水をコップに注いでわたした。
「飲み過ぎですよ」
「私、飲まずにはいられない病気なの」
カエデさんは水を飲みながら言った。
「アルコールイゾンショウってやつ?」
「知らないけど、たぶんそんな感じだと思う」
「そうなんだ」
「座りなよ。何もお構いはできないけどね。ビールなら好きに飲んでいいよ」
「いらないです」
すすめられて椅子に座ったがなんだか落ち着かなかった。築年数もまだ新しそうで、綺麗に片付いた部屋だったが、空気が薄く、不思議な感じのする部屋だった。正直、帰りたかった。
「あなた、大学生?」
「そうです」
「ふーん、そうかぁ。まだ若そうだもんね」
カエデさんはうつろな目をしていて、少し眠そうだった。どう見てもまともに話のできる感じじゃない。俺はまた溜息をつく。
「そんなに酔っ払って。彼氏はどうしたんですか? 一緒に住んでるんでしょ?」
「彼氏じゃなくて旦那さん」
「結婚してるの?」
ちょっと驚いた。
「うん、ぎりぎりだけど」
「え、どういう意味?」
「離婚チョーテー中」
「あ、そうなんだ」
なんと言えばいいのか分からなかった。大学生には聞きなれない言葉だ。離婚調停なんて、そんな人初めて会った。バツが悪くなったのでもう帰ろうと思った。
「じゃ、俺はそろそろ帰りますよ。あまり飲みすぎないよう、気をつけてくださいね」
「待って」
立ち上がった俺のTシャツの裾をカエデさんが掴んだ。
「なに?」
「泊まっていきなよ」
「なんで?」
「いいから」
カエデさんは旦那さんの部屋に俺を案内した。リビングから一転してお世辞にもきれいとは言い難い部屋。わけの分からない外国人歌手のポスターやらレコードでいっぱいだった。いわゆるロックンロールという奴なんだろうか。少し煙草臭い。俺は床に置いてあったエレキギターにつまづいた。
「ここ、好きに使っていいから」
「いやいや、わけ分かんない」
「送ってくれたお礼。いいのよ。どうせこの部屋の主は二度と帰って来ないし」
「だからって」
「いいの、いいの。一人でいてもつまんないし。ゆっくりしてって」
そう言ってカエデさんはさっさと部屋を出て行った。
次の朝、俺が起きた時にはもうカエデさんは起きていた。二日酔いのくせにトーストを焼いて、ベーコンエッグとオニオンスープを作ってくれた。昨夜の冷蔵庫事情から考えると、おそらく朝からわざわざ材料を買いに出掛けてくれたのだろう。美味かった。
結局、俺はその日からずっとカエデさんのマンションで暮らしている。
夏休みが終わっても大学には行かなかった。
行ってもけっきょく寝てたり、違うことを考えてたりするのであればいっそ行かない方がましだと思ったのだ。悪くない考えだった。
そういう奴は他にもいたし、自分がその部類に入っても別におかしくはないと思った。
授業料を払ってくれている親には悪いが、無駄な時間を過ごすくらいならバイトでもしてお金をもらった方がまだ気持ちが楽だった。
そういうわけで俺は飲食店のバイトに精を出していた。
昼間はレストランで夜は居酒屋という都合のいい飲食店。朝の仕込みから考えると、その気になれば一日中働ける。時給もそれなりに良かった。
店長は頭の禿げあがったデブのおっさんだった。シフトの選り好みをしない俺のことを気に入っていた。
「急で悪いんだけど明日入れる? 夜だけでいいから」
「いいですよ。特に予定ないんで」
こういった具合で一日一日なんとなくな日々が、シフトがカレンダーを埋めていく。
気がつけば俺はもうすぐ二十二歳。そろそろ自分自身のことを真剣に考えてもいい歳だった。
夏休みが終わると一気に客足が落ちた。
閉店前の締め作業を終え、バックヤードへ戻ると少し先にあがっていた後輩のヤマダがいた。にまにまと煙草を吸っていやがる。
ヤマダは俺の一つか二つ下の後輩で、近隣の大学に通う学生だった。身体付きが良く、浅黒い肌が男らしい奴だった。茶色の髪に安っぽいパーマを当てていた。モテるのかモテないのか判断がつきにくい奴だった。
「お疲れ」
「うーす、お疲れ様です」
「思ってたより早く終われたよ」
俺もバックヤードの椅子、ヤマダの隣に腰を下ろす。飲食店のださいユニフォーム。二人並ぶとばかみたいだった。
「最近平日はけっこう暇ですよね。締め作業が早く片付いて助かりますよ。いつもこんな感じだったらいいのにねぇ」
「そうだね」
こんな低調な客足が続いたら店の存続自体が危ないのではないか、と思ったが何も言わなかった。そんなこと俺達には関係ない。ちょっと疲れて俯いていると、ヤマダが顔を覗き込んできた。
「ね、それより今夜これからどうっすか?」
そう言って牌を倒すジェスチャーをする。麻雀のことだ。
「いいよ。行こうか」
「そうこなくっちゃ」
ヤマダと仲良くなってから俺は麻雀にどっぷりとハマってしまった。
バイトで稼いだ金もほとんど麻雀に使った。勝ったり負けたり、でも結果的にはけっこう負けていた。
卓を囲めば分かる。本当に麻雀が上手い人は目つきが違った。見ているものも、その距離感も、違った。牌に触れる指先が違った。醸し出す空気が違った。麻雀に賭ける思いが違った。
俺とは全然違う。だけど俺はそいつらと戦う。もちろん真面にやったら勝てる見込みはなかったし、たまにまぐれで勝てたとしてもそれはただのまぐれで、いわゆる時の運であった。
ヤマダもそこそこ上手かった。符計算もできるし盲牌だってできた。俺はできなかったけど、それでも俺は麻雀にのめり込んだ。わけも分からず。最低限の役だけ覚えて。
勝ったら嬉しかったし、麻雀をしているときは何も考えずにいられたから楽だった。
深夜の雀荘。また今夜も対局がはじまる。
ウィンウィンと機械音がする自動卓。その上は宇宙だった。真っ黒で混沌とした宇宙、世界。そこに自分の配牌があらわれる。なるべく真剣な目つきで要らない牌を選び、捨てる。すると他の面子が厳しい目でそれをにらむ。ここまで来たらもうヤマダだって敵だ。
一手一手積み上げていく。だんだん牌が整っていくと気持ちが大きくなる。でも牌が整いつつあるのは俺だけじゃない。
誰かがリーチをかける。その発声だけで俺は縮こまった。でも手元の自分の牌を見るとここで引くのが惜しくなる。
あと一歩、もう一歩なのだ。惜しくなる。本当に。どうしても勝ちたくなる。
「リーチ」
俺は牌を横向きにして捨てた。自分だって分かってる。無理なリーチだ。
「おっ、追っかけリーチですかぁ。いくなぁ」
ヤマダが楽しそうに言う。何でお前はいつもそんなに楽しそうなんだよ。
害のない流行りの歌が室内に流れている。多分、有線というやつだろう。でも誰もそんなものは聴いていなかった。俺だって聴いていなかった。背中を嫌な汗が伝う。
俺はどこへ行くのだろう? 今夜もわけもわからず戦う。理由なんて何一つないのに。順番に牌がきられていく。ぐるぐる順目が回る。感情が回る。
「ロン」
朝の空気が冷たく肌を刺した。いつの間にか夏は跡形もなく消えていたことに気づく。これじゃまるで冬じゃないか。
「牛丼でも食ってきます?」
と、ヤマダ。
「そうしよか」
オールナイトで遊んだ後の嫌な感じが服の中にいた。早く帰ってシャワーを浴びたい。でも奇跡的なくらい腹も減っていた。天秤にかけると僅かに食欲に軍配があがった。たぶんヤマダも同じような状態だろう。
出勤前のサラリーマンにまぎれていきつけの牛丼屋に入った。
メニューにはいろいろな牛丼があるのだが、俺の注文は一番安い牛丼並に決まっている。
「今日はどうでした? やや勝ちですか?」
ヤマダは二人分のお冷を注いで楽しそうにしている。
「いや、残念ながらやや負け。ヤマダは?」
「僕は勝ち。まぁ、まぁ、勝たせてもらいました」
「あー、そう」
あたたかく、安っぽい牛丼並が運ばれてくる。
「今、大学四回生でしたっけ?」
「三回生。ヤマダはニ回生?」
「そうです。三回生ってことはもう就職活動ですよね。どんな業界に行くとか、いろいろ考え出してるんですか?」
「全然考えてないよ。それどころか最近大学にも行ってないから四年で卒業できるかどうかもあやしい」
俺は牛丼を頬張りながら話す。
「それってまずくないですか」
「まずい……と思う。いや、まずいよね。普通に」
「なんで学校行かないんですか?」
ヤマダが不思議そうな顔をしていた。そんな顔をされるなんて思ってもみなかった。
「なんとなくだよ」
「なんとなくですか」
「そう」
原付の停めてあるコンビニまで二人で歩いた。朝日がまぶしくて目がしぱしぱする。
「ヤマダはさぁー、なんで麻雀ばっかりやってんの?」
「なんでってそんなの楽しいからに決まってるじゃないですか」
「そりゃそうだけどさ。プロになりたいとか、そういうのじゃないんだろ?」
「プロになろうなんて思ってないですよ。俺、普通の仕事に就きたいですし」
「それならなんで俺たちこんなに麻雀ばっかしてるんだろうな。どんなにやってもどこにも繋がらないのに」
「なんすか急に」
「だって俺、符計算もできないんだぜ。なんかあまりにもかっこ悪いよなぁって思って」
「じゃ覚えましょうよ。符計算」
「めんどくさい」
そんなことを話しながらヤマダとバイバイした。
マンションの下でカエデさんに会った。
「またマージャン?」
「うん」
カエデさんはユニクロのパーカーにアディダスのリュックというスタイルだった。金髪に朝日が反射してまぶしい。
「カエデさんは?」
「今からバイト」
「あぁ、そうなんだ」
カエデさんはたまに思い出したように日雇いのバイトを入れる。
「行ってくる」
「うん、頑張って」
カエデさんを見送って部屋までたどり着くと俺は力尽きてシャワーも浴びずにベットに倒れこんだ。カエデさんの旦那さんのベットに。
ポケットから携帯を取り出して何となくみっこちゃんにメールを送ってみる。
『おはよう。仕事はおちついた?』
どこにも繋がらない日々だった。




