【最終話】 明日のために
「切符を拝見できるかな?」
聞き覚えのある声に、クリフは目深に被っていたキャスケットの先を押し上げた。
「お休みのところ申し訳ないね。ああ、君か。また一人旅かね?」
にこやかに白い手袋の手を差し出してきたのはあの時の車掌だった。軽く会釈をしてクリフは切符を手渡した。
「おや、またアルメインに行くのか。おばあさんの具合はどうだね?」
返された切符を、クリフは上着のポケットに押し込んだ。
「……ええ、峠は越しました」
「そうか、それはよかったな」間に合わせのクリフの答えに、車掌は満足そうに頷いた。
「誰かを大切にするのはとてもいいことだ。その気持ちが奇跡を呼ぶ事だってある。しっかり看病してあげなさい」
――奇跡、ね。
車掌が別の車両に行ってしまうと、クリフは一度大きく伸びをし窓枠に頬杖をついた。車内ではやっと暖房が動き始めたようだったが、コートを脱げるような暖かさになるのはまだほど遠い。
ガラスに息が吹きかかるたびにその部分が白く染まる。その向うには、数日前に見たのと同じ風景。線路沿いに張り巡らされた有刺鉄線の向うには、延々なる広野が続いている。
闇を払拭して白んだ空には、温かそうな金色と薄紫の雲気が伸びている。おそらく今日もいい天気になるのだろう。
眠れない夜を幾夜か過ごし、それに飽き飽きしてクリフは再びアルメイン行きの早朝列車に乗り込んだ。出かけることは誰にも言わなかった。戻ったらまた母に叱られるだろう。けれどもう、じっとしているのは限界だった。憂鬱ばかりを誘う街から少しでもいいから出て違う空気に触れたかった。
色あせた草原はほんのりと夜明け色に染まり始めている。その向うに見える工廠の煙突からは、もう煙はあがっていない。窓を開けてももう煙のにおいはしないだろう。次の春、広がるのは焼け野ではなく、きっと緑萌える海原であろう。
そうして何もかもが再生していく。
壊れたものは作り直され、物質的な平和が訪れるのはそう遠い未来ではないはずだ。
だがそれでも戻らないものもある。
失ったら、もう二度と戻らないものも確かにある。
「紹介するわ、クリフ。彼はジェレミー、陸軍の少尉なの」
腕を引いて連れてきた紺色の軍服の青年を、エレインはそう紹介した。こんにちは、と差し出された手をクリフも同じ言葉を繰り返して握った。
煩いパレードの音が遠のいたように、鼓動が両耳の奥で響いていた。
「あのね、クリフ」
少しはにかみながら、エレインは何かを確認するようにジェレミーを見た。ジェレミーが答えのかわりに頷く。
体温が引いていくような気がしていた。まるで体中の血液が心臓に集まってしまったかのように、左胸だけが熱い。
やめてくれ。
それ以上何も言わないで。
そう叫びたい思いで、クリフは次の言葉を紡ぎ出したエレインの唇を見ていた。
「私、この人と結婚しようと思うの」
ラッパの音が一際大きく鳴り響いた。周りの喧騒が戻ってくる。仮装した子供たちが鼓笛隊の間で踊り出す。
「彼はね、前の夫……ジョッシュの友人なの。夫が死んだと聞いた時、ジェレミーは出征前でね。随分と励ましてもらったわ。戦地に赴いてからも何度も手紙をくれて……」
いきさつを説明するエレインの声が騒がしさの中に紛れていく。
「……なの。私、あなたに一番最初に紹介したかったのよ、クリフ。喜んでくれる?」
エレインの美しい声が、非情な言葉をクリフに告げる。それは確かに突き刺さるように胸に響いた。
現実とはこんなにも残酷なものなのか。まるで目を開いたまま夢を見ているような感覚だった。待っても待っても、悪夢は消えない。目の前で起きていることは、夢と思いたい避けようのない現実なのだ。
「……もちろんだよ、エレイン」
体の奥から鎖で引き摺り出すように、クリフは明るい声で言った。
「もちろんさ、エレイン。おめでとう」
二度と笑えなくなりそうなくらいの笑顔で。おめでとう、それを何度も繰り返した。、自分を切り刻むように、痛ぶるように。全神経が切断されて、何も出来なくなっても考えられなくなっても構わないと思った。ただひたすら必死で平気な振りを続けた。そうする以外に何も思いつかなかった。
「ありがとうクリフ。これからも私の一番の親友でいてね」
幸せそうに二人が微笑む。
それを見て、クリフも笑っていた。
アルメインの駅は、依然と変わらず忙しく動いていた。
人々は皆忙しそうに、足早に改札を抜けていく。人波に遅れをとらないようにクリフも改札を抜けた。
ホールではいたるところで修復作業が行われていた。裸の天井には新しくステンドグラスがはめ込まれようとしていた。完成すればきっと、ホール中に七色の光が降り注ぐのだろう。
駅を徘徊していたみなしご達の姿は消えていた。ホールの柱中に張り紙が貼られていてそこにはこうあった。
“ 平和の家 への募金を ”
平和の家、とは各地にある孤児院のことだ。子供たちはそこへ引き取られていったのだろう。張り紙の下には鳥の巣箱のような木の箱が設置されている。小さく開いた窪みの中にクリフは持っていた小銭を全部落とし、ホールを出た。
相変わらずパブには誰も客はいなかった。
だがまるでクリフの訪れを待っていたかのように、温まった店内で若い店主はカウンターの中に立っていた。
「いらっしゃい。どうぞ」
まるで昔からの知り合いを迎え入れるように、店主はクリフをカウンターに促した。
カウンターの奥の棚には、やはり酒ではなくきれいに磨かれたティーカップが並んでいた。以前と違うのは、カウンターの上にぽこぽこと湯気をたたせているコーヒーサイフォンがあることだ。
「……ここは、喫茶店なんですか?」
確かめるべくクリフは訊いた。
「ええ。でももとは故郷を離れた同胞たちを励ますために父が開いた酒場でした。でも戦時中に父も父の友人たちもほとんどが亡くなってしまった。僕がこうして譲り受けましたが、儲けのために始めた店ではなかったので、もう必要ないかと。それで趣味程度にこうして喫茶店を。――さて、それより何かお飲みになりますか?」
人懐こそうな青年の笑顔に、つられてクリフは表情を緩めた。
「じゃあ、お茶を一杯ください」
喉が渇いているわけではなかった。むしろ何も口にしたくはなかったくらいだった。だがここに来たのはどうしても確かめたいことがあったからだった。
「どうぞ」
俯いていたクリフの前に、ティーカップが置かれた。温かい湯気とともに、花のような甘い香りが顔を掠めた。エレインに持っていったあのお茶と同じ香りがした。クリフは青年を見上げた。
「これは?」
「あの時、あなたに差上げたのと同じ紅茶ですよ。さあ熱いうちにどうぞ」
クリフはカップを持ち上げ香りを吸い込んだ。
「……いい香りだ」
エレインのように控えめだけど華やかな。記憶に残る、香り。
「魔法使い(パティオス)の紅茶……」
呟き、香りに誘われるまま一口飲んだ。熱い液体が喉を通り抜けた瞬間かすかな花の香りが鼻を抜けていった。
「……このお茶に本当に特別な効果があるんですか?」
ずっと疑問がうずまいていた。今となってもそれがよくわからない。
「絶対ということは言えません。それは時によります。効くかもしれないし、効かないかもしれない。僕は以前そう言ったはずです」
「でもエレインは笑った……」
ソーサーに力なくカップを下ろす。歪んだ自分の顔が紅茶に映る。
「確かに、笑ったんだ」
そしていなくなった。最上の笑顔を残して。それは紅茶の力だったのか――それとも。「僕は……戦争に行きたくなかった」
もう何もかもさらけ出してしまいたい衝動に任せてクリフは言葉を吐き出し始めた。溜め込んでいた思いが爆発しそうだった。
「人を殺すなんて出来ないと思ったし、死んでしまったらエレインの傍にいられなくなる。だから嬉しかったんです、兵役を罷免されたこと。でも……彼女を失うなら、行けばよかった。誰を殺したってどうってことなかった」
ああ、エレインどうしてだ?
君と結婚できるなら、喜んで行っただろう。君という報酬があるのなら、何百人だって殺しただろう。
店主の青年は緩慢に首を横に振った。
「むやみに血を流そうとするものではありません。本当の平和ややすらぎは、犠牲の上に成り立つものではないと僕は思います。それにもう戦争は終わったのですよ」
「……そうです。だから僕は卑怯なんです。何もかも終わってからしかこんな風に思えない。何もせずに生き延びて今更後悔することしか」
鼻の奥がつんとするのをこらえて、クリフはカップから目を逸らした。
「……僕も戦争には行きませんでした。空襲にあった頃、大やけどをしましてね。役立たずと思われたのでしょう」
そう言って青年は着ていたシャツの袖を少しまくってみせた。大きな赤紫色の染みのような跡をクリフは見た。その痛々しさにクリフが目を瞠ると、肩をすくめて青年は袖をおろした。
「でも……あなたにはこの紅茶がある。困った人を助けられるじゃありませんか。僕には、何もない」
クリフは両手で顔を押さえ込むように覆った。
「どうすればいいのかわからない。せっかく、エレインを立ち直らせたと思ったのに。エレインの笑顔を取り戻したって、彼女への思いが伝わらなきゃいつまでたってもこのままだ。もし本当にこの紅茶に特別な力があるっていうなら……記憶を消してしまいたい」
もう一度何もかも捨ててやり直せたら。強がり、偽り、そんなことばかりを繰り返して何一つ真実を伝えることは出来なかった。エレインにも、自分自身にさえ。
「もう一杯いかがですか? 落ち着きますよ」
穏やかな声音とともに、カップへ飴色の液体が注ぎ込まれる音がする。限りなく優しい芳香がクリフを包み込む。両手を顔から浮かせて、クリフはもう一度問う。
「このお茶にはいったい何が入っているというんですか? どうして人を癒す効果が?」
青年は先程紅茶をついだ白いカップを左手にとり、
「じゃあ、おまじないをしましょうか」
そう言って、右手をカップの上にかざした。
「おまじない?」
「そう。さあ、こうして」
言われるがまま、クリフは自分のカップの上に同じように手をかざした。青年はかざした右手に口を近づけて、囁くように言った。
「リェクドラシル」
「リェ……?」
初めて聞く言葉の羅列に、クリフは首を傾げる。「なんです? それは」
リェクドラシル、と青年は、聞き慣れないが流暢な発音で繰り返した。
「父はこうして患者にこの茶を飲ませていたんです。父の考えたおまじないなんですけどね」
「それが……パティオスの秘密?」
「まあ、そんなところです」
「それは――どんな意味なんですか?」
その時、表の方が急に騒がしくなった。人々の声と、拍手のような音。そして大きく伸びるラッパの音。
「パレードが始まりましたね」
青年につられて、クリフも戸口のほうを見た。どこの街でもお祭り騒ぎを望む気持ちはかわらないのだろう。きっと3年間の憂さが晴らされるまで、この非日常は続くのだ。
そこに身を置いて狂ったように夢中になれたらどんなにいいだろう。夜が明けても更けても辛いことは思い出せなくなるくらいに。だがそんな時がくるのはいつになるのか。
「あの」
一刻も早く抜け道を見付けたい焦りに、クリフは青年に答えをせかす。
「それで?」
「まあ、ゆっくり話しましょう。まだ時間はたっぷりある。さあ温かいうちに召し上がってください」
青年はゆったりとした物腰を崩さず、カップを口元に持ち上げる。それがクリフの苛立ちを煽る。
「そんな余裕はないんです! 今の僕には……。なんでもいいから出口を見つけたいんだ……! いったい何杯飲めば楽になるというんですか!?」
紅茶のカップがひっくり返りそうな勢いでクリフはカウンターに両手の拳を叩きつけた。
情けなかった。
こんな風に感情に負けている自分が。頭の中はエレインのことでいっぱいだった。
「……焦ってはいけませんよ。“ 大丈夫、自分を信じて ”」
青年の穏やかな声音が降りてくる。顔を上げられなかった。
「そういう意味なんです、この言葉は。最後には己の力で病に打ち勝つようにと。それが父は一番大切なことだと言っていました」
――それは何かに頼ることではなく。
はっとしてクリフは頭を垂れたまま、目を開いた。
「この紅茶はね」
青年は続けた。パレードの音が近付いてくる。太鼓やシンバルもまざり、すべての音が共鳴し始める。
「何も特別なものは入っていないんですよ」
クリフは顔を上げた。青年の、どこか物寂しげな笑顔がそこにあった。
「ただの、紅茶なんです。十分な薬や治療が出来ない状況で、父は少しでも人々に希望を与えたかったのでしょう」
「……うそを」
大きく息を吸おうとして喉がひきつった。
「うそをついていたんですか?」
青年は嘆息した。
「私はうそは言っていません」
「でも」
「効くのか効かないのか断定は出来ないと言ったはずです。ただの紅茶でも否定も肯定も僕には出来ないのです。信じている人がいる限り。でも皆、目先のことにとらわれて大事なことを見落としてしまう。奇跡ばかりを頼りにして」
「じゃあ……」
クリフは閉口した。言葉を見失ったのだ。穴のあいたような虚しさが一気に押し寄せた。けれど同時に、やっと認められた気がしていた。ぴたりとその箱に合う蓋が見つかった時のように、鍵穴に合う鍵を探し当てた時のように、辻褄が合った気がしていた。心のどこかで思っていたけれど、口に出せずにいたことを。
エレインの心を救ったのは、僕じゃない。
幸せそうなエレインの花嫁姿が脳裏を過ぎる。だがその隣りにいるのは自分じゃない。それはいつもずっと、描くたびにそうだった。
「はは……は」
張り詰めていたものがすべて切れてなくなったように、クリフの体から力が抜けた。笑いが込み上げた。
本当はわかっていたのだ。
受身でしかいたくなかった自分の愚かさに。それでも報われるなんて思っていた浅はかさに。
「……さっき臆病だと言いましたね、何もせずに生き延びたことを。でもあなたは今痛みを感じているでしょう。……それでいいんですよ。そうしてつまづきながら、大切なことは見つかっていくんですから。今日の弱い自分を忘れないで。そして明日になったらまた、目を覚ますことを忘れないでください。皆そうしてもがきながら答えを見つけていくんです、強くなるために」
もっとちゃんとエレインと向き合えばよかった。
傍にいたいと、一緒に歩いて行きたいと。そう伝えればよかったのだ。例え叶わなかったとしても、もっと素直にこの悲痛な気持ちを受け入れることが出来ただろう。
痛みに耐えるようにクリフは固く拳を握り締めた。
外から零れてくる軽快な音楽が、店内を満たしていく。外を走る子供たちの明るい声が過ぎていく。
戦いは終わったのだ。多くの場所に痛みや傷跡を残して。
だがすべてが終わったわけではない。それでも皆立ち上がる。希望という芽吹きを守るために。
大切な人のために。明日のために。
「私たちも行ってみましょうか」
間もなく表を通りますよ、と店主が言った。押し殺そうとしていたものがせき止められなくなって、俯いたままクリフは引き結んでいた震える唇を解放した。
涙が一粒、紅茶の中に零れ落ちた。
最後まで読んでくださった方、どうもありがとうございます。これは今から数年前に書いたもので、掘り起こしてきました。この結末は私的にはハッピーエンドです。自分の心と向き合えた時、強さは一つ増えるからです。楽しい話ではなかったと思いますが、何か感じ取っていただけたなら…うれしいです☆