【第四話】 幼なじみ
夜陰が辺りをすっかり覆い尽くした頃、クリフの乗った列車はカーライルの駅に到着した。
帰宅したクリフを待っていたのは、蒼白顔の母親だった。
部屋のカーテンを開けるのも忘れて放心していたのだろうか。薄暗い居間で、母のマリアンナは両手を膝の上で握りしめてじっとソファに座っていた。
「ああ、よかった……! もう帰って来ないかと思ったわ! どうしてこんなに心配させるの! ああ、神様感謝します」
クリフの体を掻き抱いて、マリアンナは突然糸が切れたようにむせび泣き始めた。ほとんど声を荒らげることのない、穏やかな気性の母からは想像できない取り乱し様であった。
戦役罷免者達が方々でリンチに遭っていることは周知の事実だ。マリアンナはそのことを案じ、日夜口癖のようにクリフに言っていた。
そのこともあって、アルメインに行くことをマリアンナはひどく反対していたのだ。今朝は彼女が起きる前に家を出てきた。おそらくベッドがもぬけの殻なのに気付いて
からずっと、クリフの安危を心配して恐怖と戦っていたに違いない。針で刺されたように、チクリとクリフの胸は痛んだ。
だがそれよりも、今は一刻も早くエレインのところへ行きたかった。
ひとしきり謝ってとりあえず母親を落ち着かせると、「すぐ戻るから」と言ってクリフはリーフの入った麻袋を手にエレインの家へ向かった。
「あら、クリフじゃないの。どうしたの、こんな夜に」
ドアを開けたのはエレインだった。純度の高いエメラルドのような瞳が大きくなったのを見て、クリフの気持ちは高揚した。
陽射しの降りたような金の髪をおろして、白い夜着の上に深い森を思わせるダークグリーンのショールを羽織った彼女は、おとぎ話の妖精のように見えた。
「ごめんよ、こんな遅くに。君に渡したいものがあって……もう寝るところかい?」
「ああ、いいえ。本を読もうと思って速く着替えてしまったの。どうぞ、入って」
そう言って一歩退いたエレインに軽く一礼し、クリフは家の中へ入った。
「部屋に行ってて。お茶を淹れていくわ」
踵を返そうとしたエレインの、豊かなはちみつ色の髪がふわりとなびいた。花のような優しい香りがクリフの鼻を掠めた。
「ああ、だったらこれを」
手に持っていた麻袋をエレインに差し出す。「珍しいリーフが手に入ったから、君にあげようと思ったんだ。好きだろうと思って。『パティオスの紅茶』っていうんだって」
「パティオス?」
白く細い手で受け取ると、エレインは袋を顔の前に持ち上げた。そして長いまつげを伏せた。
「いい香りね。不思議な感じよ、なんとなく懐かしいような。じゃあさっそく、このお茶を淹れるわね」
小さく弱い微笑みを見せると、エレインは台所へ入っていった。
祈るような気持ちでその後ろ姿を見送り、クリフは2階への階段を上がった。
2階の一番奥、南向きの角部屋がエレインの部屋だ。ドアを開けた途端、さっきエレインから漂ってきたのと同じ花の芳香がした。中央の小さなテーブルの上に、大輪の白い百合が生けてある花瓶がある。眩しいほどの純白の見事な百合だ。おそらく香りはそのせいだろう。
ほのかな炎が宿る暖炉のおかげで、部屋の中は快適な暖かさになっていた。
窓辺に宿るろうそくの灯や天井に吊るされたランプの光が、部屋を覆うはずの夜闇を照らし、和らげている。人々はこれを「祈りの灯」と呼ぶ。どこの街でも、家々が眠りにつくまでこうして窓辺に明かりを灯すのが今や風習となっていた。
変化を探すように、クリフは部屋の中を見回した。
暖炉の上に並んだ、エレインお気に入りのアンティークドールの位置や本棚に並ぶ本の数。少しでも以前と相違がないか、確かめてしまう。訊くのは怖い。だからこんな方法でしか、エレインの変化を知ることが出来ないのだ――
「お待たせ」
白磁のティーポットとカップの載ったプレートを持ってエレインが入って来た。「どうしたの、座って? 今淹れるわね」
チェストの上にプレートを下ろすと、エレインはお茶の準備を始めた。
「――ありがとう。ごめんな、夜にお茶なんて変だよな。でもエレイン、紅茶が好きだろ? だからすぐ味見して欲しかったんだ」
ティーカップにメノウ色の液体を注ぐ白い手を眺めながら、クリフは気遣う素振りを装いながら言った。
「いいのよ。ほら、夜って気が滅入るじゃない? 昼間より特に、いろいろ考えちゃって……。だから誰かが訪ねて来てくれたほうがいいわ」
クリフのほうに顔を向けて、快くエレインは横に振って見せた。その時クリフは気付いた。エレインの薬指にはまっていたはずの、銀の指輪がないことに。
「さあどうぞ」
いつ外したのだろう。
湯気の立つカップを受け取りながら、クリフは思いをめぐらす。透明な樹液のような液体から立ち昇る優しく少し甘い香りが、鼻をくすぐった。
エレインもカップを手にベッドの端に腰掛けた。
「……そういえばクリフ、今日アルメインまで行ったって本当?」
口元にティーカップを持ち上げかけて、唐突にエレインが訊いてきた。
「え?……ああ、うん本当だよ」
「どうしてそんな遠くまで? 何をしに行ったの?」
「うん……友達に会いに。病気で……ずっと寝込んでるんだ」
「建築学校の友達?」
「うん……そう」
探るようなエレインのグリーンの瞳から逃げるように、クリフはカップの中に視線を落とした。
「おばさま、酷く心配してたってママが。約束していたお茶の時間に来ないから見に行ったら、真っ暗な部屋で泣いていたって。だめじゃないの、黙って行くなんて。せめて知らせていってあげるべきだったわ」
少し憤慨したようにエレインが眉尻をあげた。そしてカップのお茶を一口飲んだ。
「何があるか……わからないのよ、今は。今日だって――」
言いかけて、エレインは俯いた。ティーカップから立ち昇る湯気が、エレインの美しい面立ちを幻想的に縁取る。
「今日? 何かあったの?」
尋ねながらクリフもお茶を一口飲んだ。香りと似たほのかな甘さが喉を潤して通っていく。紅茶の味などわかりはしないが、なんとなく普段の茶葉とは違うような気がした。
エレインが薔薇色の唇からかすかな溜め息を零した。
「……五番街でね、ちょっとした騒ぎがあったのよ。アヴァロンが、家に石を投げたり中傷のビラを撒いたりして」
「五番街ってハロルドの家のほうじゃないか。大丈夫かな」
「怪我人はいないって聞いたわ。でも……怖いわね。今日は図書館に行きたかったのだけれど、ママに止められたわ」
もう一口紅茶を飲んで、エレインは残念そうに目を伏せた。
もとは反政府組織として蜂起したアヴァロンの行為は、徐々にテロ的な要素を含む暴動に発展している。組織の構成員の多くは国防軍に加わらずに下野した者たちで、富国強兵にばかり大金をつぎ込む政府に対抗して「国の自律」を唱えたのが始まりだった。だが今では、軍や政府と関わりの深い上流階級も彼らの標的になっていた。正義を掲げていたはずの心は、虚しい現実に飲み込まれてしまったのだろうか。
だがいくら暴挙を繰り返しても、事態は一向に暗転したまま。街は焼かれ、規制は厳しくなり苦しみが圧し掛かる。
――本当は、もう抵抗する理由などいらないのだ。
ただ、変えられない現実に対する怒りを、どこかにぶちまけたいだけなのだろう。
「どうして」エレインが呟いた。
「人を傷つけたり出来るのかしら。それじゃあ戦争と同じなのに。何が正しいのか、もう皆わからなくなってるのね」
窓辺に灯る小さな灯火に、エレインは遠い目を向けた。
「あの人たちにとっては、私たちは罪人なのね……」
揺らぐ炎は大きくなったり小さくなったりしながら、穏やかな光の波紋を窓辺に広げている。
クリフは黙って、よく見知った幼なじみの魅力的な横顔を見つめていた。
エレインの言いたいことはわかる。
戦争の影響で貧富の差は顕著に表れている。日々の暮らしが満足にいっていない庶民階級からすれば、クリフたち上流階級は明らかに敵であるのだ。
何が罪かは人々が決めるもの。争いの火種の燻っていない場所など、ありはしないのかもしれない。
「だから軽率な行動はしないでちょうだい、クリフ。ね、お願いよ?」
エレインの切実な瞳に、クリフは頷いて見せた。
「ああ、わかったよ」
「あなたがいなくなったら……私はどうしたらいいかわからないわ。だってあなたがいてくれなかったら、私今頃生きていなかったかもしれない」
「エレイン……」
「本当よ。あなたがいてくれて本当によかったって、そう思うの。私が落ち込んでいるとあなたはすぐ駆けつけてくれた、昔から。私が応えなくても、根気強く。この家に戻って来た時もそうだったわね。何も聞かず、お茶に誘ってくれたり散歩に連れ出してくれたり。だから私、元気になってこれたのよ。クリフには人を先導する強引さはないけど、隣りで歩調を合わせてくれるその優しさが私は好きよ」
――それは、僕にとって君は大切な人だからだ。ただの幼なじみなんかじゃなく、一人の女性として――
いつもは冷え切った胸に、熱いものがじんわり広がっていくのをクリフは感じた。
灰色にどんよりくすんだ気持ちが色を帯びて鮮やかに甦るのは、今やエレインの存在だけだった。
「当たり前だよ……幼なじみなんだから」
言いたいことは、本当はもっと別のことだった。だがまだその時期ではないと、クリフはそれを飲み込んだ。
「君が元気になってくれれば、それが僕はうれしいんだから」
「ありがとう、クリフ。――おいしいわね、このお茶。とても落ち着くわ」
紅茶の香りを吸い込むエレインの頬は、ほのかに薔薇色に染まっていた。
心が揺れた。クリフの中で言えずにいる思いが少しずつ、膨らんでいる。だがまだそれを告げることは出来ない。エレインが本当に癒されるまで。それまで待つべきだと、クリフは思っていた。
ハロルドに今日のことを言ったら、本当に行ったのかと呆れ果てるだろう。
だが結果がよければ……それでいいのだ。腰抜けと言われようと、それでもいいのだ。
「毎日飲むといいよ」
さりげなく言って、クリフはカップの中身を一気に飲み干した。
――勇気も一緒にくれないか。
そう願いながら。