【第三話】 古びたパブ
「……い、おい、君」
揺すり起こされて、クリフははっと目を開けた。自分を覗き込んでいたのは、今朝の車掌だった。
「ずいぶん眠り込んでいたみたいだな。アルメインに着いたぞ。ぼやぼやしてると出発しちまうよ」
座席に沈むようになっていた体勢を起こして、クリフは外を見やった。屋根つきの発着所には、何本ものホームが伸びている。そこにはたくさんの人が行き交っていた。
「初めてか? アルメインは。おれもここで交代なんだ。じゃあ気をつけて。おばあさんによろしくな」
列車を下りたところで車掌とは別れた。人込みを眺めながら、クリフは眠気を引きずる頭を振った。
アルメインの駅は、首都に匹敵するとまではいかないが立派なものだった。改札を抜けた入り口ホールは、まるで美術館のような高い円形の屋根に覆われている。だ二度の空襲で天井はひび割れ、ガラスはほとんど抜け落ち、黒ずんだ梁だけが残っているだけだった。
駅を出て、クリフはかばんの中から小さな紙切れを取り出した。
“リーエン通り38 パティオス ”
ここに求めるものはある。
信憑性はない。ハロルドもどんなものか知らないという。
『アヘンの類かもしれないな』
そんな不吉なことを言っていた。
――やめよう。
それは後で考えればいいことだ。
すれ違った中年の女性を呼び止めリーエン通りの場所を訊くと、クリフは歩き出した。
アルメインの街は潮の香りがした。
さすがに海の玄関口というだけあって、駅前のマーケット通りは活気に満ち溢れていた。ここからは海は見えないが、店頭には見事な魚介類が所狭しと並べられている。街の様子も人々の表情も、カーライルとは大違いだった。
あの街では誰もが自分の身の上ばかりを心配し、ひっそりと家に明かりを灯して生活している。昼も夜も火の消えたような静けさだ。世の中の様子を知ることよりも、財産を守ることが大切なのだ。
賑やかさをうらやましく思いながら、クリフは顔を隠すようにコートの襟を立てて歩いた。
――苦手だ。
誰かの視線を感じるたびに咳払いをしてごまかし、逃げるように路地に入った。
勾配になっている石畳の路地は、潮の湿気でじめじめした冷気に包まれていた。上りきって突き当たった通りがリーエン通りだという。
日はすっかり真上に昇った時間だというのに、気温は朝とさほど変わっていないように思えた。薄雲に覆われた空が、気まぐれに晴れ間をのぞかせる。
息も切れ切れに、クリフは坂道の路地を上りきった。女性に教えられた通り右の方角へ進んでいくと、すぐに目的の場所は見つかった。
「ここだ……・」
軒下にぶらさがる“BAR PATIOUS ”と書かれた、古い木製の看板をクリフは見上げた。
優越感のような達成感に、口元が和らぐ。大きく深呼吸をして、クリフはドアを押し開けた。
店内に人気はなかった。
昼間だというのに薄暗く、天井に下がるいくつかのランプにも火の気はない。物音一つしない店内にクリフは足を踏み入れた。
「すみません」
どこというわけでなく、呼びかけた。
店の中には、脚長テーブルが六つ置き去りにされたように不規則に並んでいるだけで、バーにしてはさびれた雰囲気だ。改装中なのか壁には白い布が掛けられていて、板張りの床の上にはセメントのバケツと、レンガが積み上がっている。
そしてカウンターの中の棚には、なぜか酒類やグラスではなくティーカップがずらりと並べられている。カウンターの中を覗きこむが、酒瓶は一本も見当たらない。
飲酒制限は出ているものの、酒自体が禁じられているわけではない。価格上昇と増税で店をたたむ店主もいるが、営業を続ける店も少なくない。政府の役人や軍人にとっても、一般市民にとっても、戦時下での娯楽は限られているからだ。
そんな場所ではたいてい一日中人が絶えないものだが、この静けさはなんであろう。ここも戦争のあおりで潰れてしまったのだろうか。――だが、それでは困る。
「ごめんください!」
祈るようにクリフは、カウンター奥の木製のドアに向かってもう一度呼びかけた。
すると、
「はい、なんでしょう」
どこからか答えが飛んできた。クリフは辺りを見回した。
「ここです、ここ」
声のする方角を探し当てて見ると、奥の出窓の外で男がクリフに向かって手を振っていた。
若い男だった。
二十代後半くらいであろうか。光の輪の浮かんだ長めの黒髪を、後ろで一本に結っている。クリフににこっと笑いかけて、男は窓を離れた。そして数秒後、カウンターの奥のドアから現れた。
「すみませんね、裏庭の草むしりをしていたんですよ」
土まみれの両手を上げて見せると、男はシンクで手を洗い始めた。
「近頃はお客さんなんてまったく来なくなちゃいましたからね、ちょっと気を抜いてました。何かお飲みになりますか? といっても、今はお酒は置いてないんですけど」
柔らかい響きの声で言って、男が微笑んだ。人好きのしそうな笑顔だな、とクリフは思った。穏やかに細められたその目に見つめられていると、うっかり何でも話してしまいそうになるような気がした。
「あの……ここで薬がもらえると聞いてきたんですが」
すがりつくように、クリフはカウンターに身を寄せた。
「薬? ……ああ、もしかして“魔法使い(パティオス)の紅茶 ”のことでしょうかね」
少し小首を傾げて、それから男は小刻みに頷きながら笑みをこぼした。
「……パティオス? この店の名前、ですか」
「私の故郷トウェイシュの言葉なんです。昔の人たちはまじない師や医者のことを、そう呼ぶんですよ」
「トウェイシュって……北の方の国ですよね」
「ええ、崩壊して今はもうこの国の配下ですが。内乱の最中、私の家族はこの地へ逃げるように移り住んで来たんです。ここは元は父の店でしてね、同輩たちの溜まり場的存在だったんです。“パティオス”という名は父の友人たちがつけたんですよ。国にいる時は、父は小さな村の医者だったもので」
「……それはお茶、なんですか」
「ええ、そうです」
急に落胆して、クリフは床に座り込みそうになった。
「私の故郷のローザ村でしか採れない、珍しいリーフなんです。今お持ちしましょう、掛けてお待ちください」
錆びた音のする水道の蛇口を閉めタオルで手を拭くと、男はドアの向うへ行ってしまった。
――ただの紅茶だなんて、そんな……。
正直少なからず期待していただけに、心外だった。けれど確かに存在はしたのだ。その事実だけでもありがたく思わなければいけないのかもしれない。落胆する心身にクリフがそう励ましをかけようとしていると、男が戻ってきた。そして手に持ってきた小さな麻の袋をクリフの前に置いた。
「これが?」
クリフは袋を手にとって眺めた。麻袋の隙間から、甘酸っぱいような芳香がした。
「ええ、そうです。普通のリーフですけれど。しかしいつの間に噂が広まったのでしょうかねえ。時々あなたのように訪ねて来る人がいるのですよ」
男が苦笑を浮かべる。
「友達に……訊いたんです。それでカーライルから来ました」
「それはまたずいぶんと遠くから・・・戦火は遠ざかりつつあるとはいえ、大変だったでしょう。よほど大切な人なのかな?」
「え?」
「そうでなければこんなところまで来ないでしょう?一見あなたは健全そうだ」
「……あの、お金を」
答えを誤魔化すように、クリフは肩にかけていたカバンから財布を取り出した。全財産を投げ打ってでもいいと、母に内緒で貯金もすべて持ってきた。中身をすべて出そうとすると、男がゆるく首を横に振った。
「私に払うお金があるのでしたら、駅にいるみなし子たちにパンでも買ってあげてください。先月この街の東の村が焼けましてね、家や親を亡くした子供たちがずいぶんといる」
「本当に……いいんですか?」
「……効くかもしれないし、効かないかもしれない。私も断定は出来ません」
「そうなんですか……」
麻袋をもう一度眺めた。見たところはただの紅茶。けれど期待する気持ちは代わらない。今はこれに賭けてみようか――
「ありがとうございます。じゃあ僕はこれで街へ帰ります」
「おや、お茶を一杯飲んでいく余裕もないんですか。よほど大事なんですね」
「……はい。幼なじみなんです」
男に向かってクリフは丁寧に頭を下げた。
「そうですか。ではお気をつけて。あまり空を見上げて歩かないように。まだ何が落ちてくるかわかりませんからね」
冗談なのか本気なのかわからない言葉に見送られて、クリフはカウンターを離れた。
「……リェクドゥラシル」
扉に手をかけて出て行こうとした時、後ろからぽつりと呟きが聞こえた。
「え?」
思わず振り返れば、カウンターの中の男がはっとしたような顔になった。「今、なんて?」
「あ、すみません、引き止めてしまって。僕の村に伝わる幸運のおまじないのようなものです。では、お気をつけて」
あまり気に留めている余裕はなかった。もう一度頭を下げるとクリフは店を出た。
夕暮れのような薄暗い店内から外に出れば、空は雲が切れて晴れ間が覗いていた。足早に坂の路地を下り、クリフは駅へ急いだ。足取りも息遣いも軽快だった。見知らぬ街の空気は、来た時よりも肌に心地のよい感じさえした。
賑わう通りを抜け駅に辿り着くと、すぐに切符売り場へ向かった。
「すみません、カーライル行きの切符を」
はやる気持ちを抑えながら、窓口でクリフは切符を受け取った。そしてホームへ向かおうとした時、どこからか子供の泣き声が響いてきた。
気になって見回してみると、行き交う人込みの中で小さな女の子が大声を上げて泣いている姿が見えた。それだけではない。よく見れば、そこら中に子供たちがうろついている。
下を向いて何かを探している子、柱の側に座り込んでいる子、通行人の後を突いて回っている子。皆薄汚れた身なりで、痩せて茶けた顔をしている。
ここへ着いた時はまったく気付かなかった。周りなんて見ていなかったのだ。
行き交う人々は、皆一様に足早に通り過ぎていく。誰も足を止めも、目を向けようともしない。表情のない顔で前だけ見て。
ひときわ大きく子供が泣き出した。駅の中に悲痛なその叫びが響き渡る。
そこにはどんな思いがあるのだろう。
笑顔を残して戦地に旅立つ若者。
戦争を愚行だと罵る大人たち。
それを痛めつける憲兵。
親を亡くし、餓えと寂しさに苦しむ子供たち。
その小さな手を振り払う人々。
真上には、灰色がかった晴れた空――
切符を受け取り、クリフは改札へと歩き出そうとした。その時、急にコートの裾が引っ張られたのだった。
「おにいちゃん」
声に呼ばれて振り返ると、くすんだ赤毛の5才ほどの少女が、無邪気さの消えたガラス玉のような水色の瞳でクリフを見上げていた。薄汚れた黄色のワンピースから覗く足も腕も、棒きれのように細かった。
とっさに振り払おうとして、クリフはさっきの店主の言葉を思い出した。ポケットに手を突っ込み切符代のお釣りを取り出すと、少女の小さな黒ずんだ手のひらに握らせてやった。それを堅く握りしめると、少女はにこりともせず、お礼も言わず人込みの中に走り去って行った。
気にはしなかった。だが、自分の見ていないところで現実がどうなっているか思い知った気がした。
これが戦争のもたらしたもの。
ただ耐え忍んで生きていく者たちへの、これが報酬だとでもいうのか。
手のひらの中の切符をクリフは握りしめた。そして迷路のような人込みの中を縫うようにして、改札に近付いた時だった。
辺りに突然、重低音が響き渡った。
大気が大きく揺れ、地面に伝播していく。天井の焼け焦げた梁の向うを、黒い大きな影が横切ったのをクリフは見た。人々は一斉にどよめき、叫び、その場に頭を抱えてしゃがみ込む。
クリフも最悪の事態を思い浮かべながら身構えた。そどうにもならないことはわかっていたのだが。
だが爆音は響かなかった。代わりに焼け焦げた骨のような天井の梁の間から、黄色い紙が次々に舞い落ちてきた。一枚、十枚、そして無数に……
悲鳴は安堵の溜め息へ変わった。何事もなかったかのように人々は再び往来を始めた。
やがて駅のホールは黄色に染まっていく。
だが誰一人、敵軍の撒く掲示に関心を示すことはない。降り注ぎ、敷き詰められていく平安への選択肢を、皆躊躇いもなく踏みつけていく。
――拾ってはいけない。
手を伸ばしたい衝動をこらえて、クリフも黄色い絨毯の上を踏み出す。
――あの大人たちと同じ目に遭うのは、嫌だ。
皆同じ思いを抱えている。
だから興味のないふりをして進むのだ。せめて自分自身の平穏を、守るために――
何人かの子供の泣き声が、重なってホールに響いた。
どうにか文字が読めないかと下を向きながら、クリフは改札を通り抜けた。