【第二話】 車窓から
中・上流階級の家では、戦役罷免者は珍しいことではない。何かと政府や軍にとって都合のいいものを持っている家柄の長男は、「家督を継ぐ義務」を理由に兵役を免れた。
クリフも例外ではなかった。父は軍政府の要人と所縁のある建築士で、母は資産家の一人娘。今は状況は多少変わったが、生活は優雅なものだった。徴兵礼状は、当然のようにクリフを避けて通りすぎていった。
クリフの父は少しばかり名の通った建築士で、高級官吏や金持ちの贅をつくした庭園や館の設計などをしていた。戦況が悪化していくと、そういった仕事が取れなくなったため別の依頼を受けるようになった。自分の設計した公園を壊し、そこに武器庫や軍務工場を建てた。「風景を左右する重要なもの」と言っていた空は、父の建てや工場の煙突の煙でどんどん濁っていった。とにかく生活のために、父は進んで自分の造ったものを壊した。
車窓から見える空は朝もやを払いのけ、まぶしい朝日を呼び起こそうとしていた。
有刺鉄線の張りめぐらされた原っぱの向うに、白い煙が何本かゆらゆらと、朝焼けの空に向かって立ち昇っている。あの辺りも父が建てた工廠がある場所だ。
父の跡を継ぐという名目でクリフは去年建築学校に入学した。
けれど別に父のような建築士になりたいとは思っていなかった。
『わたしは好きよ、クリフの描く絵』
――その景色が視界から消えようとしていた時、エレインの声が頭の中に甦った。
『でもつまらないだろう、設計図なんて。精巧だけど、直線的で味気がない感じがする。僕はもっと優しい線が好きなんだ』
『そうね、あなたは画家向きだわ、クリフ。だって課題に追われている時のあなたって、難しい顔でため息しかつかないんだもの。知ってた? タンポポやアザミを見つけてスケッチしている時と大違い』
眉間にしわを寄せる真似をして見せて、エレインはからかうように笑った。
――エレインの砂糖菓子のように甘い笑顔がクリフは好きだった。彼女の微笑みを見ると、辛いことがあっても忘れられた。これほど美しい表情は他にないと思うくらい、エレインの微笑みは魅力的だった。だが彼女は、今では滅多に笑わなくなった。まるで歌い方を忘れたカナリアのように。
クリフとエレインは幼なじみだ。
もともと父親同士が友人であったため、兄妹のように育った。何をするにもいつも一緒だった。それが当たり前だと思っていた。二年前、エレインが結婚するまでは――。
予想していなかったことが起きた時の衝撃は恐ろしいものだ。驚きよりも嫉妬が渦巻いていた。
相手は二十五才の陸軍の将校だった。
――政略結婚。
周囲ではそう囁かれていた。エレインの父親サマラ氏は紡績工場を幾つか営んでいたが、相次ぐ内乱と戦争の影響で経営は混迷していた。サマラ氏の古い友人であるバリー家は首都ペンバリーきっての名士。その次男坊が娘を気に入ったと聞けば放っておく手はない。娘の後ろ盾を得てサマラ氏は多額の援助を手にした。おかげで経営は再び軌道に乗り始めたのだった。
エレインは犠牲者だ――利益のために売られたようなものだ。
サマラ氏に対して、クリフは怒りを覚えた。そして悲しみにくれて嫁いでいった彼女が、将校に大切にされ幸せな生活を送っていると知った時には、殺意すら抱きそうになった。
だがエレインは今、カーライルの彼女の生家にいる。
三ヶ月前、夫の戦死の報せを受けて、戻ってきたのだ。
それを知ってクリフは喜んだ。エレインもそうであると思っていた。
だが戻ってきたエレインは以前とはまったく別人のようだった。
戦争は彼女から笑顔を奪った。豊かに肩の周りを覆うはちみつ色の髪も、晴れた空のように清らかに澄んだ青い瞳も、戦火の灰を被ってしまったかのようにくすんでしまった。朝霧に濡れる鮮やかなピンクのバラのようだった頬も唇も血の気を失い、まるで抜け殻のようだった。
夫の死が彼女に残した傷は、思いのほか大きかったのだ。
やがて列車は隣町の駅に到着した。
同じ車両に身なりのいい婦人と、小さな男の子が乗って来た。こんな朝早くに出かける人もいるのか――好奇の目で追っていると、彼らはクリフの斜め前になる座席に座った。男の子が窓辺に寄ってはしゃぎ出す。母親らしい婦人がそれをたしなめた。
列車は再び走り出す。
穏やかな黎明だった。
風景の中では、もう戦争の影は消えかかっている。争いは終焉に向かっているようだった。毎日毎日、どこかの街の空に敵軍のビラが撒かれた。それを拾ったものは罰せられた。
クリフとエレインの友人たちの多くも戦争に行った。その行方が知れない者もいる。
彼らは皆誇らしげに旅立っていった。帰れるとも知れぬ戦場へ、手を振りながら。
クリフはいまだにわからないでいた。戦って死ぬことが名誉だという彼らの言葉が。
『そうかしら』
思い切ってそのことをエレインに告げた時、彼女は柳眉をわずかにひそめた。
『戦争を称賛するわけではないけれど、わたしは戦いに行く人を愚かだとは思わないわ』
少し怒ったようなその口調に、クリフもむっとして返した。
『――でも結局殺し合いだ、単なる。自ら死に行くなんて間違ってる。それじゃあ平和になったって、意味がないじゃないか』
『皆自分のために行くんじゃないわ。大切な人たちが平和に暮らせるように、立ち向かって行くのよ。あなたには守りたいものはないの? クリフ。理由はそれだけで十分なんじゃないかしら。もし今徴兵礼状がきたら、きっとわたしだって喜んでいくわ』
エレインは意気揚揚として言い放った。そしてはっとしたように俯きがちになった。
“あなたはどうしてまだここにいるの? “
そう言ってしまった後のように――。
「いやだ、いやだ!」
先ほど乗車してきた男の子が急にわめき出した。婦人の服をの袖を引っ張って、激しく何かをせがんでいる。
「おやめなさい、みっともない。もう少し我慢できないの」
婦人が声を尖らせる。だが男の子は思い切り首を横に振った。
「いやだ、今がいいよう! 今ほしいよう――」
「少しくらい我慢しなさい。いつも言っているでしょう――いい子にしてないと、兵隊さんに連れて行かれるわよ」
「大丈夫だもん。僕は戦争にはいかなくていいんだってパパが言ってたよ。パパは偉い人だから、頼んでくれるんだって」
婦人が慌てて男の子の口を塞いだ。クリフは窓の外に顔を向けたまま、聞いていない振りをした。
――戦いの意味はどこにあるのだろう。
街を焼き、命を奪い、荒んだ地にどんな楽園を創るというのか。
エレインの言うように、兵士たちは家族や恋人のために戦い死んでゆくのだろう。
だが富国強兵を目指す権力者たちにとって、彼らはただの駒だ。「平和」という大義名分を与え、悠々と上から眺めているのだ。あたかもオペラを観るように。
ささやかな願いは黒い煙にまかれて、はかなく消えていく。結局生き残るのは、純粋に平和を望む者たちではないのだ。
クリフのように戦争に借り出されずに済んだ青年は多くいた。
大半は迫害を怖れて家の中へ閉じこもっていたが、会えば以前と同じように笑いあったりふざけあったりして過ごした。食料が配給制度になっても、退屈すれば親の金にあかせて酒や煙草も手に入れることが出来た。
だがそれは、何かが違うような気がしていた。
『友達がたくさん行ってしまったというのに、どうしてそんな無神経なことを思いつくのかしら』
エレインはそれを軽蔑すると嘆いた。だからクリフは神妙な顔を作って言ったのだった。
『そうだね。本当なら僕らも徴兵される立場なんだ。申し訳ないと思わなくてはいけないな』
――本心ではなかった。偽善的発言だった。
戦争になんて行きたくない、それが本音だったのだ。
心の底では、自分が一番大事だった。
しばらく駄々をこねていた男の子も、婦人が仕方ないというように飴玉を口に入れてやると大人しくなった。口の中で飴玉を転がしながら、男の子は辺りをきょろきょろと見回していた。そしてそれに飽きると、飴玉を口にいれたまま、母親の膝を枕にして眠ってしまった。
クリフも窓辺に肩を預け、思いを巡らせた。
* * *
「なあ、明日の夜、隣町のクラブに顔を出してみないか」
ハロルドとベイカーがクリフの家にやって来たのは、一昨日の夜のことだった。
「こんな時にか? 慎めよ」
酒が飲みたいんだと言い出したハロルドを、ベイカーが睨みつけた。
二人とは昔から仲がよかったわけではなかった。運良く取り残された者同士、必然的に仲良くなったというところだ。ハロルドの父親は銀行家で、ベイカーは医者の一人息子。ベイカーは軍に志願したが、徴兵検査で落ちた。生まれつき左足が悪いことが理由だった。
「なんだよ、臆病だな。クリフ、お前は行くだろ?」
ハロルドに振られ、クリフは視線を揺らした。
「――いや、僕は……いいよ」
ハロルドはけっと吐き捨て、無遠慮にクリフのベッドに仰向けに倒れこんだ。
「なんだよ、お前もかよクリフ! どうせリンチに遭うのが怖いんだろ」
「そういうわけじゃなくて・・・ただ僕らの立場って微妙じゃないか」
戦役罷免者を卑怯者と捉える者は多い。近頃そういう立場の者が暴行される事件が多いと聞く。
「やっぱり怖いんじゃないか。どうせもう戦争は終わるんだ。今頃気にしても仕方ないだろ」
頭の下で手を組んで、ハロルドが高慢な口調で言った。
「だからって軽率な行動はよくないよ」
冷静にベイカーが口を挟む。クリフがそれに頷くと、ハロルドが起き上がってにやりと口角を上げた。
「麗しのエレインに嫌われちまうもんな、クリフ」
「……」
「どうして告白しないんだ?絶好のチャンスじゃないか」
「どうしてって……エレインは傷ついてるんだぞ。そんな時に無神経じゃないか」
「だからこそだろ。ばかだなあ! 傷心の彼女をお前が癒すんだよ」
「だけど、どうしていいか……」
「はあ……。お前はほんと腰抜けだな。そんなんじゃ戦争に行っても真っ先に地雷を踏むぞ。――そうだ、じゃあ一ついいことを教えてやるよ。俺も人づてに聞いたから、真偽はわからないけどな……」
ハロルドの言葉を鵜呑みにしたわけではない。ただ本当ならばありがたい、くらいにしか今は思ってはいなかった。
――矛盾してるな……。
クリフは思った。
だって、隣町へ行くのも怖れていたのだから――
窓から見える景色は単一だった。何もない色あせた草原が延々と続く。
どこにも以前のように黒い煙は燻っていない。遠くに霞む山々は、穏やかな白いもやに包まれていた。
風景の中からは、戦争の影は消えかかっていた。
騒がしさにクリフは目を覚ました。
外を見るといつのまにか、流れていた景色は止まっている。列車はどこかの駅に入ったようだった。大きな駅だ。アルメインに着いてしまったのではないかと危惧したが、懐の懐中時計はまだ九時前だった。何か駅名がわかるものはないかと窓の外を探していると、隣りの車両と連結するドアが開いて深緑の制服を着た憲兵が二人やって来た。
反射的にクリフは座席で身をかがめた。車両はいつの間にか半分ほど乗客で埋まっていたが、空気が変わったのがはっきりとわかった。
――そうか、ここは警察局のあるガルランドか。
憲兵の後から、リボンや羽のついた華やかな帽子を被った女性が二人入って来る。二人の憲兵は女性それぞれの手を恭しく取ると、ドア付近の席に向かい合わせで座らせた。そして自分たちはそれを取り囲むように通路に立ったまま、なにやら楽しそうに談笑し始めた。
――どうやら取り締まりにきたのではないようだ。
だが緊張感は車内に張り付いたままだった。
憲兵に対して、あるのは不信感と嫌悪感だけだ。アンチ戦争・ウォー忌避を唱える人々を容赦なく警棒で殴りつけ、踏みつける。召集令状がきた息子をかくまった母親を刑務所へ放り込み、家に火をつける。
そんな蛮行をクリフも目にしたことがある。
正しいことを決めるのは、いつも押さえつける人間だ。その制服の下は、同じ人間ではないのか――
不快感を招く光景から、クリフは目を背けた。
――眠ってしまおう。
出発の汽笛と笑い声が重なって響く。
夢を見ている時が、今は一番やすらぐ時間に思えた。