彼女と僕
僕が彼女を見るのは高校への通学のとき。僕が毎朝通る道で、彼女はいつも絵を描いている。僕はそれを見ながらすぐ横を自転車で通り抜ける。ただそれだけ。それ以上でも、以下でもなく、僕は彼女が一体何の絵を描いているのかさえ知らない。ただ毎朝見かけるというだけだ。
僕の生活の中に彼女が現れるようになったのはいつからだったろうか。一週間前か、一ヶ月前か、それとも一年前からか。よく覚えていない。だがそんなことは大した問題ではない。大切なのは、今彼女が毎朝あの場所で絵を描いている、ということだ。
だがそれはあくまで僕の側の話であって、彼女にとってはどうでもいいことだろう。彼女は僕の存在を認識すらしていないはずだ。彼女にとって大切なのは、自分がなんのためにこの絵を描いているのか、ということだと思う。
気になるのなら思い切って声をかけてみればいいのだ。彼女の後ろで自転車を止めて降り、近寄っていって聞いてみればいい。「毎朝なんの絵を描いているのですか?」と。きっと彼女はすぐに答えてくれるだろう。あるいは邪魔されるのが嫌で聞こえないふりをするかもしれない。だが僕は考えるだけで、実行に移そうと思ったことはなかった。
だがある日、僕はどうしても彼女に話しかけてみたくなった。特に彼女に対して好意を抱いたりしたわけではない、と思う。世間ではこういった感情を「好き」と表現するのかもしれないが、実際僕にはよくわからなかった。ただなんとなく、もし彼女が絵を描き終わってもあの場所に来なくなったとき、「彼女は一体何を描いていたんだろう?」と悩んだりするのは嫌だと考えたのだ。
そんなわけで僕はいつもの場所に出ると、彼女の後ろに自転車を止め、カバンはカゴに入れたままで彼女に近寄り、イヤフォンをはずすと、この何日間か僕の頭の中に渦巻いていた疑問を彼女に向かって投げかけた。
「一体毎朝何を描いているのですか?」
返答はなかった。僕はしばらく黙って待っていた。彼女の横に置かれたラジオからは、Chicagoの『Saturday in the park』が流れている。その歌の二番のサビが過ぎたとき、彼女は口を開いた。「初対面の人にいきなり質問?せめて挨拶くらいはしたらどう?」
彼女は振り向きもしない。僕は少し考え、彼女の望んでいるであろう言葉を口から出す。
「失礼しました。おはようございます、お嬢さん。今日も良い天気ですね。ご機嫌はいかがですか?」
大仰な仕草で、なんとかその恥ずかしいセリフを言い切った僕は再び返答を待った。
「おはよう、お若い紳士さん。なかなかいい気分よ」
彼女は振り向いて笑顔を作った。声は想像していたものと大分違ったが、笑顔は僕の頭の中のイメージどおりだ。
「それはよかった。隣に座っても?」
「どうぞ」彼女はうなずく。僕は彼女の隣に腰を下ろし、吹き抜けていく風をしばらくの間肌で感じていた。心地よさに身を浸すしながら本題に入る。
「一体何をかいているのですか?」
と尋ねた僕に対して、彼女は黙ってカンバスを僕のほうに向けた。そこには三十メートルほど前方にある大きなクスノキと、その周りで戯れる子供たちが描かれていた。
「この木はともかく、子供なんて一人もいないじゃないですか」
僕はいぶかしんで聞く。すると彼女は、
「ただ目の前にある物を写すのだけが絵ではないわ。自分の心の中の風景をカンバスに表現するのも、立派な絵よ」と言う。
「なるほど」
僕は納得して再び前を向く。僕らの周りには他に人はなく、百メートル四方くらいの草原が広がっている。僕らは特に会話もせず、彼女は一身に筆を動かし、僕は風に身を任せていた。目の前の風景とは異なる風景を描いている彼女と、学ラン姿の僕。さぞかし奇妙な取り合わせにみえただろう。
「あなたはなんで絵を描くんですか?」
僕は尋ねる。
「さあね。気ままに描き続けているだけだから。理由なんかないわ」
と彼女は言う。僕は会話を続ける。
「気ままに、ですか。なんだか自由でたのしそうですね」
彼女はカンバスから視線を外さずに、
「口で言うほど楽なもんじゃない。自由気ままに描く代わりに、描くのをやめることは許されない。立ち止まることも許されないのよ」
「…ごめんなさい、よくわかりません。つまりどういうことなんですか?」
「今はわからないでもいいよ。君はまだ若い」彼女は言って、それきり僕らは黙った。
どのくらい経った時だろうか。
「君、学校は?時間やばいんじゃないの」と彼女が僕の方を向いて聞く。
「まあ学校はありますが…たまにはこういうのも良いんじゃないでしょうか。せっかく良い天気ですし」
彼女は黙って微笑み、再びカンバスに視線を戻した。
次の日の朝、いつもの場所を僕が通ると、彼女の姿はなかった。自転車を止めてあたりを見回す。見えるのは駅に向かう途中のサラリーマンや学生だけだ。昨日で絵は完成してしまったのだろうか。ということは僕と彼女を結び付けていた唯一の存在がなくなったということだ。
立ち止まることは許されない、と言っていた彼女の顔を思い出す。僕にはそれがどういう意味なのかわからない。いつかまた彼女に会うことができたら、答えを聞けるのだろうか。
僕は再び自転車に乗り、昨日図書館で借りた「Saturday in the park」を聞きながら、駅に向かう人々の流れの中に混じっていった。