残された秘文
どこまでも続く暗い廊下に、狭いただ一本の道。手を引かれ、ただただ足を動かす。サイドには、くすんだ壁肌が去れば現れを繰り返し、孤独を嗤ってくる。
「ねぇ……ねぇ!……ねぇってばっ!」
悲痛に叫ぶと、目先を行く何かがこちらを向いた。長い白髪とその耳元で揺れる赤いイヤリングがひるがえり、淡く鋭い光を放つ。
「何処へ……行く……の?」
するとその口が微笑んだ。
「――」
「えっ、何を言っているの?聞こえないよ」
もう一度、それが口を動かす。
「――てね?」
「何? もう一度――ハッ!」
尋ね返した次の瞬間、目前で紅色の小さな粒が飛び散った。それが辺り一面を点々と濡らす。
「――!」
目前で何かが崩れ落ちた。そしてそれが濃い影と鮮やかな紅に押しつぶされる。
「ウソ……イヤだよ? ……そんな……そんなっ」
俺はあまりの出来事に奇声を上げた。
「うがぁぁぁぁぁ!!」
――――
俺は恐怖で飛び起きた。そして反動的に、顔の上にあった何かを投げ飛ばす。
「な、何をしてんのっ!」
顔を上げると、そこには目を丸くしてこちらを見ている健太がいた。
「飛び上がって起きたかと思えば、貴重な本を投げるなんて……」
健太が腰を下ろし、朱色で分厚い本を拾い上げる。どうやらそれが、俺が投げた物だったらしい。
「ここ……は?」
「どこって……忘れたの?」
俺は周囲を見渡した。見ると、俺の左右には巨大な本棚たちがそびえ立っていた。棚には本と言う本が無造作に埋め尽くされていて、今にも飛び出してきそうだ。部屋は三畳半ほどの広さで、奥には琥珀色に照るデスクがあり、黒革の背もたれに健太が座っていた。机上には、また本が重ね置かれていて、他のスペースには地球儀やら金砂の砂時計やらと言った、書斎を思わせる物が幾つか置かれていた。
「秘密の部屋か……」
俺は体を起こし、立ち上がった。
「悪夢を見たんだ」
「フウン。じゃ、きっとこいつのせいだよ」
健太が先程俺が投げた本を渡してきた。
「狂獣図鑑。中にはホラー並みに怖いのもいるからね。昼寝をするか、ホラーを楽しむか、どちらかにするべきだね」
「……ああ。そうするよ」
俺は本を棚に戻すと、健太に尋ねた。
「で、麗はまだ戻ってこないの?」
「んー。来ないね、どうしたんだろ。まさかトイレでうたた寝?」
「と、トイレで?」
俺は裏返った声を上げた。実は俺達、麗がトイレから帰ってくるのを待っていたのだ。地図は三人みんなで一緒に見るの、だから先に見たら承知しないからねっ、と麗に先に釘を打たれている。
「おっせえなー。待つ側が暇で寝るって、どんだけ待たせるんだよ」
俺がブーブー文句を言うと、タイミング良く麗が現れた。手には何やら、飲み物を乗せたお盆を持っている。
「お待たせ~!」
「遅いぞ~! 何して――あっ」
俺は説教の口を閉じた。麗の影からヒョコっと、ある女の子が顔を覗かせてきたからだ。
「美奈も入っていい? お兄ちゃん」
「うん。いいよ、美奈」
「ほんと!」
「良かったね、ビナちゃん」
「うん!」
美奈が眩しい笑顔を見せる。美奈は健太の妹だ。年は11。美奈は、健太とは三つ違いだが、兄を良く慕い今まで喧嘩をほとんどしたことがないと聞く。ちなみに美奈の髪と目は黒い。それは今は亡き、彼女たちの母がアジアの人だったからだ。しかし、ツンと上がった鼻や色素の薄い肌は、ウルフ族の血を強く感じる。
麗がお盆を持ったまま梯子を降りて来、お茶を渡してきた。
「はい、これ」
「あ、ありがとう。というか麗って、変に器用だよな……」
「変ってなにが?」
「……」
「うん、器用だよ、麗ちゃん! 美奈もほしいなー、そのバランス感覚」
「でしょでしょ?」
麗は美奈のお世辞に上機嫌に答えた。すると健太がその様子を軽く笑い、それから顔を改めて言った。
「麗も来たことだし、そろそろ地図を見ようか」
「待ってました!」
健太のもとにみんなが集まる。健太はこげ茶の厚手な本を棚から取り出し、机上に広げた。表紙には何やら題と思われる異国語の文字が並んでいる。
「ここの本たちは、僕たちの祖先が残してくれた物なんだ。全部ウルフ族の言語で書かれている」
健太はそう言うと、本をペラペラめくりだし、あるページで止めた。
「これが地図だよ」
覗き込むと、そこにはカラフルな世界地図が書かれていた。麗が色に反応する。
「白黒じゃないんだ!新鮮って感じ」
「ああ。見やすいよ、健太」
「この本は、イラストが基本色付きなんだ」
「へぇ」
俺はさらに観察を続けた。画面上方には、俺たちが今いるセントラル大陸がピンクで縁取られている。大陸には、中央下にアゼル帝国、北上方にロバジア帝国がある。他にも南や西に幾つかの大陸が書かれているが、その中でもセントラル大陸が最も広く島々に恵まれているようだ。俺は次のページに目を通した。
「アゼル帝国全体の地図か……」
「うん。他にもアゼル城を中心としたもっと詳しい図がある。ほら」
健太が数ページめくり、見せてきた。
「細かくて便利だなー。これなら地上で使える」
「うん。でもそれも、ジャングルになっていなければの話に限られるんだけどね」
「それ言ったら何も始まらないでしょ!」
麗が突っ込んだ。俺は、図上のアゼル城を指さし、それから北西へ指をすべらせた。
「アゼル城から北西には、アゼル山脈が、地下で言うならアングランドがある。んで、この西には……」
「……空白の地があるね」
俺は空白の地に指を突っ込んだ。ページを浮かせると、丸い穴から指がニョキッと現れる。
「ここだけ切り取られているんだな」
「うん、そうなんだよね」
「範囲は……500メートル四方ってとこか」
「うん。あと、こちらも見てほしいんだ」
健太が本の後ろの方を広げ、見せてきた。ページには文字がぎっしり詰め込まれている。
「あ、俺、共通語しか読み書きできないんだよね。だから見せられても困る」
「あっ、そうだった、ゴメン。えっ……と、ここには地理的なことが書かれているんだ。アゼル山脈の標高は2000メートル級だ、とかね」
「フウン……」
「でも、まず見てほしいのは右のページのところなんだよ。ほら、よく見て」
俺達は本に顔を近づけた。麗がいち早く声を出す。
「あっ、ない。ないよ、ページが!」
「次のページが破られているんだな。破られた跡がある」
俺は破られた断片を軽くなぞった。
「そう、切り取られているんだ。空白の地と同じようにね」
「内容は?」
俺が聞くと、健太がなぜかニヤリとしてきた。
「墨が使われなくて良かったよ。右のページはないけど、左のページはまんま残っていたから、初めの方の部分が残されてたんだ」
「秘文の初めが……残ってるってことか?」
「そうだよユウト! 空白の地についての説明が少し残されているんだ!」
俺は驚きのあまりに口をあんぐりと開けた。こんなことは初めてだ。
「な、なんて書いてある?」
俺は、胸を弾ませながら尋ねた。興奮で唇を舐める。
「それは――」
健太が本を持ち上げ、音読をした。
「『つい最近の話である。アゼル城の西北西にある遺跡が、旧記に多々挙げられる幻のサースティー遺跡であることが判明した。この遺跡は旧記によると、人に大いなる力を与――』実はこれしか書かれていないんだ」
健太が顔を曇らせる。本当に数行しか残されていないようだ。
「幻のサースティー遺跡……? 大いなる力……? 今まで聞いたことがない話だな……信ぴょう性が少し薄くないか」
「そんな、話は真実だよ! 絶対! 僕らの先祖が自ら、自分たちの子孫を騙すと?」
俺は黙りこくった。健太の言うとおりだ。しかし……不安が頭の中で駆け巡る。行ってもただ単の遺跡だったとしたら? いや、もうないのかも? 遺跡が嘘っぱちで、それが分かったから地図や歴史から消されたのでは? なら俺たちが今まで払った犠牲は無駄だったことになる。それはあまりにも虚しすぎる! 俺はあえてその思惑を意識から追いやることにした。今から心配してもどうしようもないことだからだ。
「けど、空白の地が遺跡であったことでも知れて良かったよ。行ってみる価値はとりあえずあるよな?」
「うん。それに、そこに何もなかったとしてもマイナスにはならないさっ。主な目的は冒険をすることでしょ?」
「ああ、そうだった。けど、その大いなる力とやらを手にさえすれば、狂獣も敵じゃなくなるってことだよな! 俺はその可能性に一つ、賭けてみるとするよ」
「うん。僕も賭けるよ」
「私もっ!」
俺たちに続いて麗が手を挙げて言う。
「それに今のところ、空白の地は各地に6つもあるんでしょ? 可能性は十分あるよー」
それはそれで確かだ。今までの地図から、空白の地が少なくとも6つはあるということを確認している。
「場合によっては一つずつ潰すとするか……」
俺は背伸びをした。地上での旅は気長に進めるしかなさそうだ。けど、やっぱり。
「ああー、どうか一発で決まってくれー!」
俺の掠れた声が地下に響く。
「ダメですよ、ユウトさん?この部屋のことは、パパに秘密なんですから」
美奈が口に人差し指をおき、シー、と静かにしてポーズをとる。
「忘れてた、ゴメン、ゴメン」
俺達は用件が済んだので、この部屋から出ることにした。俺は梯子を伝い上へ行くと、四角い出口から顔を覗かせた。眼界では、健太の簡素な学習部屋が広がっている。
「よいしょっと」
俺は段を登り切ると、後ろを振り向いた。見ると、健太たちが巨大な額縁から体を乗り出しているところだった。
「大そうな仕組みだよな。額縁が地下に繋がっているなんて」
「そうだよね。でもそれは何らかの理由で本を守るべき必要があったということ。空白の地と何か関係があるのかもしれない」
「ああ。その謎が解けると良いんだけどなー」
「そうだねー、でも気軽に行こうよ」
「うー、それもそうだな。地上では精一杯楽しもうぜ!」
「うん」
ゴゴゴ――額縁から轟音が出、地下への入り口が閉まり始めた。森林の風景画が、本来あるべき所、額縁の中へ引き降ろされる。絵画が上に上下することで入り口が生まれるのだ。そしてそのスイッチは建太のベットの下にある。このスイッチをたまたま押してしまったことをきっかけに、俺たちの夢は始まったんだ。俺は絵の中の乳白色の城を見つめた。
「会えるかな、アゼル城に。城下町はどうなっているんだろう?」
麗が俺の隣に立つ。
「ね。あと、アゼル山脈はどんな姿なのかな。私たちはそこに住んでるのに、その形も色も匂いも知らない。おかしな話だよね、まったく」
「うん。……けどさ……」
「ん?」
「……知らないからこそ、価値があるんじゃないかな。俺は今を、楽しみのための制約って考えたいんだ。その方が今を楽しめれる」
「……そうだね、私も今を大切に生きるよ」
麗がパッと太陽のような笑顔を見せて言った。
――――
「ただいまー」
仕事帰りの婦人は薄く開いた緑の戸を片足で開けた。内側にカールした栗色の髪が婦人の顔に張り付く。婦人は乱暴に毛を払うと、手にある袋をドサッと廊下へ降ろした。
「おかえりー」
学校に通い始め、まだ一年しか経たない小さな男の子が婦人を迎える。
「今日ね、粘土で作ったんだ!はい!」
子供が異形にこねまわした粘土を渡してくる。
「これは?」
「狂獣! 口が大きくて、大きな牙があるの。とっても怖いんだよ」
「シュン……それは誰から聞いたの?」
「ユウ兄だよ?」
「……ハァ。いい、シュン? そんな怖いこともう言わないで?狂獣は面白おかしくしていいものじゃないの。人を何とも思わないケダモノの話はもうしないで。分かった?」
「……うん」
婦人は額を軽く抑えた。ユウトのことが気掛りなのだ。
「お母さん?」
シュンが心配そうに顔を覗き込む。
「ありがと、シュンちゃん。お母さん、頑張るから」
婦人は子供の頭をなでた。
「くすぐったいよ~」
シュンが恥ずかしそうに走り去る。婦人はそれを微笑んで見ていたが、子供がいなくなると糸が切れたかのように、よろよろと壁へ凭れ掛かった。ポツリと呟く。
「ああ、どうすればいいの? クレア、私には無理よ。ユウは、あなたに似て頑固で、ヘンな意地があって――それで、竹のような一本筋の性格をしているの。私なんかじゃ、あの子を止められない……」
婦人は答えを待つかのように、天井を仰いだ。しかしそこにあるのは、空虚な宙だけだった。
今回は長かったのですが、やっと一話の「僕の秘密の部屋に招待する」が果たされました!
次話は、地上に出ることを計画している「五人」が集合します!