赤く燃える暁よ
橋が崩れ落ちると、兵たちは侵入者を追うことができずに立ち往生していた。小太りな士官がイラついて喚く。
「ええい! よくもノコノコと逃げやったわい! おい、お前!」
「ハッ」
士官に指差され、若い隊員がパッと敬礼をした。
「ちょっと下って、犯罪者が屍になっているかを確かめに行け! 数十メートル先で、水路の格子にあれが引っかかっているのが見えるはずだ。あ奴にはさそりの入れ墨があった。あの入れ墨には見覚えがある。凶悪な盗人で、警察を何年も悩ましてきた奴だ。もし、あ奴が生きていたりしたら――」
「――ククッ。殺す前に、拷問をお忘れず……」
突然、しゃがれた声が士官の話を中断させた。奥から腰の曲がった小さな人影が現れる。そしてその人影はゆっくりと近づいてきて、ツンと鼻を刺す消毒のにおいを辺りに漂わせた。若い隊員があまりの異臭に咳込む。
「お、お前は!」
「もう知っておるだろう、ワシのことは。ここ周囲の研究所を取り仕切る解剖専門の学者だよ」
「……飢えた解剖博士……か。貴様、何しに来た?」
士官は博士のあだ名を呟くと、忌まわしいものを見るかのように眉をひそめた。面倒臭そうに、手を振って早々と要件を促す。博士は、その反応に半ば呆れながらもその細い唇を上下に動かした。
「彼はあの裏組織とたいへん関わり深い。そこは拷問して情報を吐かせるに限るだろう」
「フン、なぜ貴様が我らに口出す? 貴様には関係のないことだ」
「うむ、確かにワシは無関係だが、それはお前さんがただ単に口出されるのが嫌なだけであろう」
「なんだと?」
「いやいや、そう怒らさんな。ちょっと、深い訳があってのう。実は……とても重要な研究のサンプルに、強靭な肉体の持ち主を探していてなー。これは国家機密の話なのだが……」
博士が何かを隠すような言い草で囁く。
「譲ってもらえんかの? もちろん、彼を拷問して十分使った後の話なんだがー……」
「……うむ」
士官は国家機密という言葉に翻弄された。それにより、さらに上の地位に就いたかのような思いに走ったのだ。同時に、拷問という赤黒いものを浮かばせる。
「いいだろう。それは……とても愉快な話だ。奴の悲痛な叫びを見たいものよ。おい、二等兵!」
「ハイ!」
「奴を優しく連れてこい。運ぶ際には細心の注意を払って、丁寧に扱え。いいか、これでもし死んだらお前のせいだ。代わりのサンプルなるのが嫌だったら、奴が死ぬ前に持ってくるんだな!」
「……ハッ」
二等兵はそう士官に脅されると、顔を死人のように真っ青にしながら駆けて行った。生気を感じさせない解剖博士といい勝負といったところか。
「生き地獄。それはまさに犯罪者に一番効く治療薬だな」
「そうですな。ぜひ、私の研究所で彼の治療をしてから、拷問をしてほしいのですが?」
「いいだろう。許可する」
士官が、いい気になって笑いだす。しかし、一方で博士はそれを冷めた目で見ていた。腹の奥底で傲慢な士官を罵倒する。博士は士官の態度に大変憤慨した。というのも、彼の立場は士官より非常に上なのだ。それなのに、頼む物腰で話せねばならないなんて。
「だが――」
博士は知っていた。国家機密の存在を知った軍人は、後で必ず暗殺されることを。士官の虚しい最期を想像して、おぞましい笑みを浮かばせる。今日もまた、新たな細かい皺ができたことを彼自身が知るよしはないだろう。
――――――――
俺たちは口数こそは少ないが、確かな足取りで進んで行った。洞窟に初めて足を踏み込んだ時からは、もう四時間近く経つ。
「ねえ」
麗が俺の腕を肘でつついてきた。
「腕の痛みはどうなったの?」
「あ、ああ。あれね。別にもう問題ないんだけど、それより今は矢傷のほうが痛いかな。なるべく腕は動かさないようにしているんだけど」
多少まだ痛む傷に気遣いながら答える。
「そっか。止血をしないとね」
「うん。けど、今はいいよ。そんな深くもなかったし……」
俺はそれから健太に尋ねた。
「包帯とか、持っているんだよね? 手当はしてくれる?」
「うん。父さんの見様見真似でしかないけど、止血ぐらいならできると思うよ」
「おお。親父さんが医者でマジ、良かった」
俺はホッとして言った。実は、健太の父親はここらで珍しい医者なのだ。実際、俺は今まで何度も診てもらっているし、小さいときに病気をしたときは健太の家にしばらく世話になった。まぁ、それがきっかけで健太と仲良くなった訳だが、俺自身はその時をよくあまり覚えていない。気づけば、健太といつも遊んでいて、そこに麗が加わっていたって感じだ。
「タクッ。いつになったら出れるんだよぉ」
亮介が短い髪を掻きむしる。
「うーん。でも、川があれほど広くなったんだもの。近いのは確か」
オリビアがそう言って、亮介の相手になった。会話が続く。
「でもよ? もし、大岩の地が迷路みたいなものだったら、俺たち出れなくね?」
「迷路って……どこまでメルヘンな世界でいじめられる訳なの……」
「んじゃ、出て行ったら即、狂獣に襲われるとかよ?」
「いきなりシュール……。でも、ありえないとは言えないものね。気を付けないと」
そう言うとオリビアは気を引き締めた表情になった。そう。まだ危険は過ぎ去ったわけではないのだ。俺も、目力を込めて眠気を追いやる。
「ねぇねぇ!」
いきなり麗が短いポニーテイルをピョンピョンさせながら、話し掛けてきた。
「ねぇ、変わってきてない?」
「えっ? あ、ああ、オリビアがよく喋るようになったよね」
「ううん。そうじゃなくて、道」
「道?」
「平らなだし、縦に長くて廊下みたい。気づかなかった?」
俺はそう言われて初めて、その変化に気がついた。確かに洞窟とは違う、人の手が加わったものを感じる。
「本当だ。疲れていて、何も見ていなかったよ」
「でしょ?」
麗がそう言って笑った。小さなエクボが頬にできる。
「ハー。外までもう、ちょっとだけなんだよねー。信じれない」
「うん。でも、この日をずっと待っていたんだ……今までありがとうな。俺たちのためにバイトまでしてくれて」
「ううん。バイトはもともとする予定だったし。気にしないで」
麗が手を振って答える。
「いや、俺は本当に感謝しているよ……これからも、よろしくな」
「うん……なんか、改まりすぎてユウらしくないよー。もっと弾けなきゃ。私はねー、地上に出たら思いっきり叫ぶんだぁ。なんたって、ご近所さんはもういないんだから!」
「ハハッ。そりゃいいな。俺も周りを気にしないで、屁ができる」
「うわっ! 遂にユウが親父化?」
麗がそう言って、わざとらしく鼻を手で抑えた。顔はにやにやしている。
「冗談だって、冗談」
俺はそう言って笑った。麗も笑いだす。下品なことでも麗なら笑ってくれるのだ。そんな軽い麗だから、俺は今まで一緒に遊べたのだろう。麗以外の女の子とはあまり関わったことがない。オリビアだって、本当に最近だ。けど、それも麗を通して知り合っただけだしな。それにしても麗がなぜ俺たちとばかりつるむのか不思議だ。女子といても別に嫌われることはないと思うけど……。
「おお! ユウト、階段だぜ!」
突然、亮介がそう言って大きな声をあげた。手をブンブン振っている。
「階段?」
どうやら話に夢中になりすぎていたようだ。目の前の、土の階段に気が付かなかった。
「階段があるってことは、いよいよ、大岩の地に突入するんだよな」
「おう」
俺は上を見上げた。天井は空の色を反射させているのか青く沈んでいる。
「よし、行こう」
俺たちは、狭い階段を一列になって上った。一歩踏み出す度に、乾いた細かい塵が下に落ちて行く。幾らか目に塵が入ったりしたけど、そこは何とか堪えて上へ上がった。
「スゲー!」
上に立った俺は、思わず感嘆の声をあげた。目の前の光景は、今までに見たどんなものより異様で力強いものだった。一言で表現するとしたら、巨石が重なりあって、人間用の大きな鳥籠を作っている、とでも言えばよいのだろうか。上から左右に掛けて巨石が積まれ、細い道を覆っている。
「なんか崖の隣に巨石を置いて、崖と岩の間に道を作った感じだよね。上は別の岩で覆っていてさ」
健太が冷静に現状を述べる。
「けど、これは単純に作れるような物じゃないな。ざっと見で、高さは50メートル弱ある。四、五メートルの巨石をこんなに積み上げるなんて、人間ができたとは思えないぜ」
「うーん。崖の上から岩がずれ落ちたって考えるのが妥当そうだね。それにしても、すごいよ。これ」
健太が丸みを帯びた巨石を触る。
「石と石の間に大きな隙間がボコボコあって、何かから身を隠すには最適だね。避難所にする理由がわかるよ」
「そうだな」
俺は目が回るほどに辺りを見回した。天井の岩の隙間からは、深い藍色の空が見える。
「でも、ここはまだ完璧な外じゃないんだよね」
「おう、そうだった。先に進もう」
俺たちはまた歩き出した。様々な形状の岩が次々に横で過ぎ去っていく。俺たちは、面白い岩を見つける度に冗談を言いあった。疲れも忘れて、笑って歩く。そして――
「あれ、出口じゃない!」
オリビアが前を指さし、外の光にグリーンの目を輝かせた。前方には三角の穴があり、そこから外の世界が見える。
「出口! やった! やった!」
亮介が目をウルウルさせて喜ぶ。思わず、俺も涙が出てきそうになった。急いで目尻を抑える。
「やったな、俺たち。さぁ、誰から行く?」
「やだな、ユウト。全員に決まっているだろう。行こう、上の世界に!」
「おう!」
俺たちは出口へ走った。お互い笑いあって、肩を叩く。俺は幼い時に戻ったようだった。未知なことで溢れていて、すべてを信頼していたあの時に。
「いっせいのせ!」
俺たちは息を合わせて地上に踏み込んだ。柔らかい土の上に立つ。
「!!!」
俺はありとあらゆる刺激に、胸がいっぱいになった。鼻の中で転がる草木の匂い。深く青く沈んだ空に赤く燃える地平線。優しく体を包み込む暖かい風。俺にとってすべてが真新しい経験だった。
「……コワイ」
俺は黄色い喜びと同時に、地下住民ならではの恐怖を覚えた。いつも当たり前に見ていた壁は、もうここにはない。世界はどんなに見回しても、限りなく向こうへ広がっていた。あれほど願っていたことなのに自分がとても小さく感じて、まるで宙に浮いているかのように感じる。
「俺ら、何も知らなかったんだな。小さな世界に満足していて……」
「うぅん。うぅん。もっだいないよぉぉ」
麗がそう言って、おいおい泣いてくる。
「叫ぶんじゃなかったのか?」
「ムリィィ。ぞんなのぉぉ」
俺は麗の背中を擦った。ひくひく背中が震えている。
「……見せてあげたかった」
「ん?」
麗が泣き止む。
「この空、黒さそりさんに見せてあげたかった。なんか、ずるいよ。一番頑張ってくれたのに、死んじゃうなんて……」
「そうだな……でもさ、俺は、あの人も同じ空を見たんだと思うよ」
「?」
「きっと、同じ感動をして貰いたかったんだよ……ほら、そう思えば、楽になるだろ?」
「……うん」
俺はそれから優しく麗を撫でた。地平線からは、真っ赤な太陽が生まれようとしている。まるで、俺たちを祝福するかのように。
――六月 十日。地下脱出を見事遂げ、地上に出ることに成功した。地上での冒険が幕を上げる――
いよいよ、長かった地下生活が終わりました。
これからが地上での冒険の幕上げです。第一章、完結!




