とし君
淑子ちゃんが入院してからも、私たちは祖母の家に居続けた。いつでも病院に行けるようにという思いと、祖母の部屋で見つけた手紙が気になったというのが本音だった。
雅哉と悠一さんは留守がちになっていたけど。
たまにとし君が遊びに来てくれていたから、寂しくはなかった。
「きよちゃん、こっち」
川辺でとし君と遊んでいた時のことだ。
向こう岸に渡っていったとし君を追いかけて水面から覗く岩を渡っていた私を、怒鳴る声があった。
「稀世、なにしてんだ!」
「え……」
それは雅哉の声だった。
振り向いた瞬間、私の足元の岩が消える。
いや、ここに岩なんて初めからなかった。
「きゃああ!」
「稀世!」
深みに嵌って叫ぶ私を、雅哉と悠一さんが二人掛かりで引き上げてくれる。
「なんで……」
喘ぐ私を、雅哉が強く抱き締める。
どうして、この川を渡れるなんて思ってしまったんだろう。
「そうだ、とし君は……」
川の反対側に、とし君の姿はなかった。
いや、そもそも。
「とし君って、誰だよ」
雅哉が呆れたように呟く。
夏に祖母の家で遊んでくれた人なんて、雅哉しかいなかったはずなのだ。それが、何故かとし君が遊んでくれていたと思っていた。
私は、一体誰に誘われて、この川に来たというのだろう。
「……稀世ちゃん、大丈夫?」
「うん。私……さっきまで、誰かと……」
悠一さんが、不快そうに顔を歪めた。
「後藤田慶彦?」
「え?」
「稀世ちゃんが言ってるとし君って、もしかして、手紙の差出人なんじゃないか?」
「そんな……」
とし君は、若い男の人だった。
あの手紙が戦時中のものだとしたら、相当なお爺さんになっているはずの人だ。
すると、悠一さんが言い辛そうに呟いた。
「俺には、川の向こうに死者が見えたけど」
雅哉が、納得したように頷いた。
「そっか。悠一に見えたなら、そうなんだろ」
「どういうことなの?」
「悠一って、霊感あるんだよ。本物の、見える人なの」
「そんな……幽霊なんて……」
そこまで言って、私は口を噤んだ。
毎年、とし君と遊んでもらっていた思い出を探ってみても、私の脳裏には何も浮かんでこなかったから。それは、つまり、そんな事実がなかったということなのではないか。
「とりあえず、家に戻ろう」
震える私の肩を、雅哉が支えてくれた。
*
ここのところ留守がちだった二人は、後藤田慶彦のことを調べていたらしい。
「かなり苦労したんだぞ。ばあちゃんの親戚あたりまくって、やっと見つけたんだけど」
後藤田慶彦は、祖母の生家の近くに住んでいた青年だった。祖母の家とも交流が深く、頻繁に遊びに来ていたらしい。
「けど、問題があってな。後藤田が日本を出立した頃、まだばあちゃんは生まれていなかった」
「え?」
「おばあさんのお姉さんが、後藤田と恋仲だったらしいよ」
祖母の姉。その人は後藤田と結婚を約束していた。夫となる男が出立してからも、手紙のやりとりは続いていたらしいが、ある夏に彼女は空襲で亡くなってしまった。
奇しくも同じ日に生まれた祖母に、両親はその姉と同じ名前をつけた。生まれ変わりだと信じて。
「それが、手紙がここに届いた理由……」
「それだけなら、こんなに遅く届いた理由にはならないんだけどね」
悠一さんが、困ったように笑った。
「後藤田が日本に戻って来た頃に、お婆さんの家……ややこしいな、庵野家は家を焼かれて、街を移ってしまっていたんだ。後藤田は清美さんが亡くなったことも知らないまま、その後に別の女性と結婚している」
「すごい、そこまで調べたんですか?」
「うん。サークルのメンバー総動員してね」
確か、二人は心霊サークルに所属しているんだったな、と私はぼんやりと思い出す。
「明日、後藤田の孫に会いに行く予定なんだけど。稀世ちゃんも一緒に行く?」
「つーか、来い。一人にしてちゃ、またとし君に連れて行きかけるかもしんねぇし」
優しく問いかける悠一さんと、ぶっきらぼうな雅哉に、私は頷き返した。
一人になるのは怖い。
また呼ばれてしまったら、私は。
取り返せなくなりそうだから。